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高飛車で失言も多いが、日本プロ野球においての実績も凄い張本勲。 広角に打ち分ける為、打席の前方部に立ち、ややバットを寝かせ気味に構え、球の軌道に合わせるジャストミート打法は、 「スプレー打法」「広角打法」「扇打法」「神主打法」等、様々な異名で呼ばれました。
どんなに速い球でも、どんなに曲がる変化球でも、球はホームベース上の一角に向かって飛んでくるのですから、打者は球の軌道にバットを合わせれば、ミートされた球は勝手に飛んで行く・・・ 無駄な大振りをしたり、踏み込む為に、余計な足上げをしない張本の打法理論は、日本記録である3085安打(日米合算ではイチローの方が上)というずば抜けた成績なり証明されています。
1978年(昭和53年)、本拠地を横浜に移転させ、「横浜大洋ホエールズ」 として再出発した大洋に、大物メジャー助っ人 フェリックス・ミヤーンが加わります。 (日本ではマルチネス・ミヤーンと紹介された事も)
身長180cm 体重78kg と細身だったミヤーンは、バットを極端に短くもって寝かせ、小首をかしげるような独特のフォームで広角に打ち分ける中距離打者としてメジャーでも活躍。
メジャー実働12年のうち、9年連続でシーズン100安打以上を放ち、1970年=183安打 1973年=185安打 1975年=191安打 と、例年なら最多安打王に輝いてもおかしくない程の安打製造ぶりを発揮。
また守備の達人で、1969年、1972年と、MLBゴールドクラブ賞を受賞。 MLBオールスターにも3回出場。
更に小技も得意で、1974年(昭和49年)には、MLBナショナル・リーグのシーズン最多犠打王。
ブレーブス→メッツの中心選手でしたが、34歳となる1977年は怪我もあり調子が上がらず、打率も248と低迷。 アメリカでは受け入れ(メジャーと同格扱い)されていなかった日本球界に参戦したのは、怪我による選手生命の見極めがあったものと推測します。
事実、来日一年目となる1978年(昭和53年)は、肩の故障が影響して、120試合に出場し、443打数 127安打 2本塁打 打率287 と平凡な成績。 期待のミヤーンだっただけにファンもがっかり。
この年の横浜大洋は、あまりの弱さに 「横浜大洋銀行」 とのあだ名がつけられた程で、一部の球団には気前よく勝ち星を提供するのに、そこと争っている球団には意外と強く、結果的に独走状態を作り出す原因とされる始末。(特に巨人は ”お得意様” と言われ、横浜移転後だけにヘンに勘繰るマスコミまで出現・・)
ミヤーンは翌年も残留しますが、1974年(昭和54年)も怪我により、出場は98試合どまり。
しかし364打数 126安打と安定した打力を発揮した結果、36歳にして打率346で首位打者を獲得。(2位の掛布に1分9厘差) ベストナインにも選出されました。
1980年(昭和55年)も日本球界でプレーしますが、怪我の状態は平行線・・・であり、107試合 332打数 95安打 4本塁打 打率286 と平凡な中距離打者のまま契約終了。
1981年(昭和56年)はメキシカン・リーグでプレーした後、惜しまれながら引退しました。
攻守・好打の優良助っ人ではありましたが、長打力に乏しく、打点を稼げないでは、当時の日本野球ではタブー。 (昭和の日本プロ野球において助っ人とは、あくまで日本人ではどうしようもないパワーを重視していましたので、シーズン30本塁打が打てない者は、助っ人として認められない時代でした)
プエルトリコ出身だけに明るく陽気。 トレードマークは鼻下にフサフサとした口ひげとすきっ歯。
後にポンセが大洋に入団し、姿格好から 「マリオおじさん」 と呼ばれた事から、ミヤーンを知る一部のオールド野球ファンの間では、「元祖・マリオおじさん」 なる異名?があるようです(笑)
(ちなみに・・ ミヤーンが入団した頃は、まだファミコンがなかったのですが・・)
=通算成績=
(メジャー) 1617安打 22本塁打 403打点 67盗塁 打率279
ゴールドグラブ賞2回 MLBオールスター出場3回 ナ・リーグ シーズン最多犠打1回
ナ・リーグ シーズン最多死球1回 シーズン最多試合出場1回
(日本) 348安打 12本塁打 92打点 13盗塁 打率306
首位打者1回 ベストナイン1回
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