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昭和50年代・・・ ベンチの隅から、身体半分を隠すように出し、試合展開を観察する姿が有名になり、よく漫画ネタに取り上げられていた古葉 竹識も、76歳 (平成24年時点) となりました。
時代の流れとは実に早いものです。
高校野球の名門、濟々黌高(熊本)出身で、大学時代に、たまたま後輩指導の為、母校を訪れると、これまたたまたま濃人監督(日鉄二瀬野球部監督=当時)と出会い、その後、プロの道を歩むことになったラッキーボーイ。
昭和38年には長嶋茂雄と首位打者争いを展開。 一時は首位打者にたち、このままタイトルかと思われた10月に、大洋=島田源太郎のシュートが顔面直撃する不運。
結果、顎の骨は2つに割れて入院となり、タイトルは2厘差で長嶋茂雄のものに・・・。
デッドボールによってバッティング感覚を失い、選手生命を縮めた選手が多い中、古葉は俊足を活かして盗塁といった機動力プレーヤーとして復活し、以後も活躍しました。
最終晩年は、広島から南海に移り、そのまま引退しています。
古葉の評価を高めたのは、昭和50年に広島監督に就任してからの事。
万年Bクラスの弱小球団だったカープは、この年にリーグ初優勝を達成し、以後、古葉が監督を続けた11年間において、リーグ優勝4回(内、日本一3回)、Bクラスはたったの2回という好成績をあげました。
その後、大洋監督に3年間就任しましたが、今度は3年連続でBクラス・・・。
座右の銘は 「耐えて勝つ」。 監督としての実績が評価され、野球殿堂入りをはたしています。
通算成績 1369安打 44本塁打 334打点 通算打率252
盗塁王2回 ベストナイン1回 オールスターMVP2回 正力賞1回
オールスター出場3回 野球殿堂
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2012年05月14日
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私への為書は削除してあります
「カツカレー」は今や全国的に当たり前な食べ物。 その発案者こそ、千葉茂です。
まあ、発想の理由は単純で、ある練習後に、行きつけのレストランで、「カレーも食いたいがトンカツも食いたいので、一緒に持ってきてくれ」 と注文したところ、意外に旨かったのがきっかけ。
その噂が広まり、今では普通のカレーの定番に。 人生、たまにこのような事があるものですね。
いつも眠そうな顔をしていて、その顔が牛っぽく見えるのに、いざプレーをすると一塁手も見ないで正確なジャンピングプレーを連発することから、ついたあだ名は 「猛牛」 !!このあだ名は後に近鉄パールズの監督に就任した時に、千葉のプレーにあやかろうと球団名を、近鉄バファッローに変更され、長くファンに愛されました。
服は超一流ブランドながら、ダラリとだらしなく着こなす姿を見て、よく正力オーナーから 「巨人軍は服装も紳士たれ!」と注意されていたようです。 でも見た目と違い人望があり、戦後の物不足の時、故郷松山市に巨人軍を招待し、知人を通じて食糧を集め、キャンプをはって巨人軍の危機を救う等、裏の活躍もありました。
好きな球が来るまでファールで粘り、得意のライト打ち・・ ファースト川上の分まで守る、広い守備範囲や強靭なスナップスローは、当時の選手の中でも卓越しており、引退時に、その背番号 「3」 は永久欠番にしようとされた程。
結果は、千葉が近鉄の監督に就任したため御流れとなり、「千葉が許可を出した選手にのみ譲る」 との約束のもと準永久欠番として扱われ、昭和33年に、長嶋茂雄に引き継がれます。
毎年、そこそこの成績をあげながらタイトルには無縁だったことから、「無冠の帝王」 とも呼ばれました。
川上哲治と同期で、「花の13年組」 メンバー。 現時点(平成24年時点)で生きておられるのは川上のみ。
戦争のブランクがなければ、確実に2000本安打を達成できたと思います。
通算成績 1605安打 96本塁打 691打点 通算打率284
ベストナイン7回 オールスター出場5回 1試合6得点 野球殿堂
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