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昭和レトロに思いをよせ・・ 古き良き時代を振り返り・・

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アマゾネス風の大柄な外人女性が水しぶきを立てながらポーズを決め、「ダッダーン!ボヨヨン ボヨヨン ・・」 なるピップフジモトのコマーシャルが流れていたのが1991年。 これはピップの販売した滋養強壮ドリンク ”ダダン” をイメージしたものですが、当時、あまりのインパクトに日本中で大ウケ。 
胸(おっぱい)を振りながら 「ボヨヨン ボヨヨン 」 とふざけるギャルが続出。 ついには流行語大賞にノミネートされるに至りました。 (他にも、「ダッダーン、プルプルプル ・・・ 」 バージョン有り。 振付はポール牧。)

この大柄な外人女性こそが、女子プロレスラーのレジー・ベネット。
ボディ・ビルやパワー・リフティングで数々の優勝をした事から映画 「グラント」 に出演。 マンド・ゲレロと出会いプロレス入り。 アメリカの女子プロレス団体LPWAに所属し、「ビッグ・モー」 を名乗り、体重45kgのシェリル・ルーサーが 「リトル・モー」 と名乗ってコンビ結成。 100kg と 45kg の凸凹コンビとして売れっ子レスラーに成長。そんな彼女に目をつけたのがピップフジモト。 新発売の栄養ドリンクが、アマゾン原産ムイラブアマ配合の為、原始的な衣装と舞台を用意させ、突然水中から飛び出すというアクションを採用。 レジー扮するアマゾネスのインパクトと日本人ウケする 「ボヨヨン」 なる台詞は大当たりします。 (注訳・・当時はおっぱいの事をボインと言っていた)

そうなると、今度はレジーをめぐって日本の女子プロレス団体が奪い合いを開始。
まずはFMWが獲得に成功。 ジーパンに土木用ヘルメット着用のスタイルで入場したり、デスマッチにも参戦したりと活躍。ついには老舗プロレス団体である全日本女子が獲得に動きますが、横からさらっていったのがジャパン女子プロ。 (飛行機はビジネスクラス、ギャラも破格な条件だったとの事)
ところがジャパン女子はその後解散。 たった1度の来日で行き場を失ったレジーは失業の目に遭い、カジノの用心棒やブレッド・レイガンズ道場でコーチをしたりの日々。
全日本女子(松永会長)との和解が成立して、再び日本マットに帰ってきたのが1994年。

全日本女子では、IWA世界女子シングルやオールパシフィック王者に輝く活躍を見せ人気を博しますが、同団体が経営難に陥った事から解雇となり、1997年、アルシオン旗揚げに参加。 しかし不信感等のいざこざもあってフリーに転向。 再び全日本女子やJWP女子のマットで試合を行います。

2000年、日本人ミュージシャンと結婚を機に、翌2001年3月4日 豊田真奈美戦を最後に引退。
しかし・・ この幸せは長続きせずやがて離婚・・・。 アメリカに戻り、引っ越屋で働いたり、ホームセンターで働いたりしながら生計を立てているようです。

レジーにとって、日本は天国なのか、地獄なのか・・・。
もしフジモトのコマーシャルに出演しなければ、日本に来る事無く人生を歩まれたわけで・・・。
1961年1月生まれですから、現在55歳。(H28・3時点) 2006年頃には再婚する話もあったそうなので、幸せになっていると嬉しいのですが・・・。
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伝説の名投手 ” 沢村 栄治 ” の母校として名高い 「京都商業(現・京都学園)」 出身。
1978年(昭和53年)第60回 夏の甲子園大会では控え投手として出場するも、一回戦で県岐阜商の前に敗退。(スコア3−2) 翌年はエースとなりますが、地方予選で敗退し甲子園行きならず。 こんな未完の大器にプロからの声はかからず大阪商業大学に進学します。

大学時代は1年生時から主戦力として活躍。 関西六大学の最多勝利記録(当時)を塗り替える活躍を見せ、ベストナインにも1回選出され、地方に埋もれている逸材として注目をあびる存在に成長。(リーグ24勝8敗)
しかし、大学4年時に体調不良で登板回数が減ったこと等がマイナスとなってか、期待のドラフトでは指名球団が現れず、1983年、ドラフト外で広島カープに入団。

自称=本格派投手 と豪語するように、速球には自信があったみたいですが、当時の広島と言えば ” 投手王国 ” と言われた程の布陣。 中途半端な速球投手では通用しない事を知るや、自身の持ち味を活かしながらプロに通用する手段を模索。 行き着いたのが 「左サイドスローにより、左打者封じを行う」 というもの。

今でこそホールドといったタイトルも生まれ、中継ぎ投手の評価も安定しましたが、当時、自ら中継ぎを希望する者は稀。 (先発完投もしくは、7〜8回からリリーフを仰ぐパターンが主流であり、細かな継投は先発の調子次第という考え方が一般的であった・・・)
一歩間違えれば翌年クビという事も考えられる危険な賭けは大成功。
清川の左打者封じは、ワンポイント・リリーフ(ここぞの場面に打席に立つ左打者の時に登板。その一人を抑えたら降板というリリーフ)として注目されるようになり、今では当たり前の起用方法として定着しています。
1991年、金銭トレードで近鉄バファローズに移籍。1996年には自身最多タイとなる44試合に登板。
反面、この年のイニング数は18.1(打者77名)ですから、試合毎に1〜2名の打者を抑えたら仕事終了という事になります。 

1998年、広島に復帰しますが、わずか9試合(打者13名)に登板したのみ。 オフに引退。

清川の功績は、中継ぎ投手の存在を世間に認めさせた事及び、更新時の査定にも中継ぎの正当なる評価をもちこんだ事。 これはインヘリテッド率という方法で、自分の投球で本塁に返した走者の数を、前の投手が残した走者の数で割るというもの。 

現在のプロ野球は完全なる投手分業制ですが、今に行きつくまでに、どれだけ先輩たちの苦労や努力があったのか・・。 こういった側面を球団や指導者は、若手たちに教えて(伝えて)いくべきだと思います。

 = 通算成績 =
 13勝  10敗  0ホールド  12セーブ  375奪三振  防御率2.94
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= トミー・ロジャーズ =
身長180cm 体重105kg 1961年5月14日生まれ

= ボビー・フルトン =
身長185cm 体重105kg 1961年10月4日生まれ

1984年(昭和59年)に二人はタッグを組み、「ザ・ファンタスティックス」 を名乗ったところ大人気。
当時のアメリカン・プロレスの販売ビデオにも登場。 
紹介では、「今、アメリカ中で一番ホット(熱く)で人気者チームが、ザ・ファンタスティックスだ。 小柄だがコンビネーションよく機敏で上手い。 とにかく彼達の行く先はいつもファンで満員なのだ!」 との事。

では実際の試合を観てみると・・・ 正直、” なんじゃこりゃ〜 ” って感じ。
当時はAWA圏やNWAの南部を主戦場にしていた為、どうしても大型レスラー相手が多く圧倒されてしまいます。
まあ、そこをタッチワークでかわしながら、必殺の ” ファンタスティック・フリップ ” で逆転勝ち・・ がお決まりのパターン。 かつて、力道山がよく使った盛り上げ方 (やられ、耐えながらの逆転勝ちにファン興奮) に似ているような気がしました。

ちなみに、このファンタスティック・フリップとは、どちらか一人がトップ・ロープにあがり、もう一人が下から相手に向けて相棒を投げる事で、人間ロケット砲のようになるという大技?です。
他にも、ファンタスティック・ミサイル・キック という合体型のドロップ・キックもありました。
いかに人気があったのか・・・ 結成して間もなくして、NWA認定アメリカン・タッグ王者になっています。
ただ、派手やかなコスチュームで入場し、こういった技で試合展開をすると、アメリカ人は大興奮しますが、日本人の感覚には合わないような・・・?

1989年7月になって、やっと全日本プロレスにて初来日。(ファンタスティックスとして二人で来日)
以後もポツポツ来日。 徐々に試合運びや持ち前の機動力は評価され、人気も高まっていったチームでもあります。(当初からタッグとしてのコンビネーション等を高く評価する玄人ファンもおり、実に賛否両論・・・)

アメリカでの人気は好調で、幾つものタッグタイトルを獲得。
1980年以降、「ショー的」要素を好むアメリカ人と、真剣勝負を好む日本人の違いも、人気の違いとしてあらわれています。 日本ではハンセン&ブロディ人気でもわかるように、誰もが納得できるだけの実力等が評価基準。 そのあたり、ファンタスティックはちょっと損したような気がします。

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1976年(昭和51年) 夏の甲子園大会 準決勝・第二試合は PL学園 VS 長崎海星 の対決。 
長崎海星の平田は2年生ながらショートのレギュラー。 
PL学園は前日(8月19日)の準々決勝において、強豪の中京(愛知)を 9−3 で圧勝しており、下馬評ではPL学園が有利。 しかし試合はもつれにもつれる好試合となるも、残念ながら3−2で敗戦。 長崎海星旋風として、高校野球史に名を刻みました。
(この大会の覇者は延長11回にサヨナラ優勝を決めた桜美林)

明治大学に進学すると、確実な小技に磨きがかかり、実況者が 「平田のバントは100発100中」 と大絶賛。
長打はないものの的確な打撃(83試合 打率313)及び守備力も評価され、六大学リーグにおいて4度のベストナインに選ばれる大活躍。
1981年(昭和56年)のドラフト会議において、阪神タイガースより2位指名を受け入団します。

入団2年目の1983年、100試合に出場しショートのレギュラーを獲得。
1984年〜1987年にかけて、「4年連続 100安打以上」 「4年連続 ゴールデングラブ賞受賞」 を達成。
また得意の犠打は、1983年〜1987年にかけ、5年連続で二桁犠打をマーク。 この間、長打はないも、5年連続で二桁二塁打を放つ等、阪神の陰の実力者として人気を博しました。

明るいキャラ及び、1985年(昭和60年)の阪神日本一レギュラーという事も、いまだに平田人気の理由。
この年は打撃も好調で、125試合 402打数 105安打 15二塁打 7本塁打 53打点 6盗塁 打率261。 
7番打者ながら犠打数は25とチームに貢献。 クリーンナップ(バース、掛布、岡田)や真弓といった派手さはないものの、平田の存在で、下位打線からでもチャンスを作れる事も、あの時の阪神の強さ。

1994年をもって現役引退。(阪神一筋) 
解説者、野球評論家をしながら、要請に応じて阪神のコーチ等も数々。
2015年は阪神一軍ヘッドコーチ。 2016年〜から阪神一軍チーフ兼 守備・走塁チーフコーチ。 

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