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昭和プロレスを語る場合、個人的には力道山時代を前期、BI砲時代を中期、昭和50年以降を後期 と考えています。(もっと小分けして考えれば、力道山時代は草創期・前期・後期に分かれ、BI砲時代も日本プロレス時代と、猪木・馬場が独立した頃の二つに分け、昭和50年以降については、初代タイガーマスクやミラクルパワーコンビの時代となる昭和56年〜で区分した前期・後期分けが正しいと思っています。)
世界を代表する強豪レスラーや未知なる怪物レスラーが度々来日し、隆盛を極めた昭和プロレスにおいて、最強と言える外人コンビは一体誰なのか・・・? 時代によって各自(ファン)違いがあるようですが、ネットや雑誌記事を参考に私が調べた限りでは、ダントツ1位はハンセン&ブロディの超獣ミラクルパワーコンビ。 その他、ブッチャー&シン、ブロディ&スヌーカ、テーズ&ゴッチ、レイス&マーテル ・・ 等。 昭和プロレスファンにとって印象深いのは、大ブームとなった昭和50年代後期のプロレスのようです。
(私としては昭和40年代に活躍した、ブルーザー&クラッシャーは一押しコンビなのですが・・・)
そんな昭和プロレスのBI砲時代〜昭和50年前期にかけ、日本で活躍した兄弟コンビがザ・ファンクス。
ファンクスとして日本に登場したのは1970年(昭和45年)7月、日本プロレス=第二次ゴールデン・シリーズ。
ドリーは2度目の来日かつNWA世界ヘビー級王者でもあった事から、この兄弟タッグは前評判もよく、BI砲のもつインター・タッグにも挑戦。 当時のプロレス本には、「紳士なドリーとヤンチャなテリー」 に関する記事が多数残っています。
1971年(昭和46年)12月7日、札幌中島スポーツセンターにおいて、BI砲を破り、第15代 インター・タッグ王者を奪取。 これがBI砲最後のタイトルマッチだった事もあり、ザ・ファンクスは当時 「最強・外人コンビ」として印象付けられていきます。
馬場が全日本プロレスを設立後、マシオ駒の人脈ルートでドリー・シニアとブッカー契約。 ファンクスは全日本マットの常連となると、若き日のジャンボ鶴田&ジャイアント馬場、ブッチャー&シークと抗争。 更にはマスカラス・ブラザーズ人気も加わり、当時の日本では稀な 「善玉・外人タッグ」 として評判を呼び人気が爆発。
その人気を決定付けたのが、1977年 世界オープンタッグ選手権・決勝戦。 テリーが史上最凶悪コンビ(ブッチャー&シーク)の凶器攻撃で腕を裂傷する中、二人がかりで痛めつけられる兄・ドリーを救出。 血まみれになりながら根性で反撃するシーンを見たファンは大興奮。 兄弟愛にとんだ名タッグだと評判となり、日本中にファンクス人気が大爆発。 ついにはチアガール隊まで登場。
スタン・ハンセン談=「その当時の全日本・新日本の差は、馬場や猪木ではなく、ファンクスがいるかいないかの差であったと思う。ファンクスを味方につけた馬場の方が遥かに優勢であった・・・」
そんな人気者ファンクスですが、1982年以降はハンセンの全日本入りとブロディとのコンビ(ミラクルパワーコンビ)の前に押されるようになり、テリーの膝負傷の悪化もあって、1983年(昭和58年)8月31日、テリー引退試合をもって解散。 この試合は全国ネットに特別中継される程の話題性をもち、プロレスを初めて見た人、長くプロレスから遠ざかっていた人まで巻き込んでの社会現象になりました。
(この試合後、ウッチャンナンチャンやお笑い芸人が、こぞってファンクスの物マネ芸を披露。 知名度が高い為、プロレスを知らない人にもウケまくる人気ぶり・・)
1年数ケ月後・・・ テリーは膝が完治したとの理由で現役に復帰しますが、感激のフィナーレを踏みにじった行為だとしてアンチ・テリーファンが急増。 時代もすでにファンクスではなくなっており、あの爆発的人気を誇ったファンクスは戻ってきませんでした。
昭和プロレスのBI砲〜50年代中期に至るまで、日本プロレスを支えた重鎮コンビでありながら、あまり昭和プロレスファンの間で、「最強コンビ」と位置付けられていない理由は、このあたりにあるのかもしれません。
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2018年03月18日
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