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日本人レスラーの長身と言えば、ジャイアント馬場の209cm。 長身を生かしたダイナミックな攻撃は、昭和のプロレスを大いに盛り上げてくれました。
身体の大きさはプロレス最大の武器とも言われる中、女子プロレスでも、アロイシア(リンゼイ・ヘイワード)は、身長206cm、体重100kgあり、ベンチプレスは150kgという巨人女子レスラー。
ジャパン女子プロレスに参戦した、ピンク・キャデラックは、身長200m 体重140kg もあり、トップ・ロープをまたいで入る姿に観客も唖然・・・。 上半身が太く、バンキッシュな風貌・・・ まさに女版アンドレ。
(実際は195cm 体重125kg らしいですが、ハンセン、ブロディ、ジャンボ鶴田 と変わらない体格だけに、小柄な女子レスラーと並ぶと、もっと大きく見えました。)
1991年(平成3年)8月17日 熊本水前寺体育館大会の第三試合に、福岡晶&穂積詩子 とのハンディ・キャップマッチが行われているように、この頃、ジャパン女子プロレスに来日。
小柄な日本勢では相手にならず、シングルマッチが組めない事から、主に前座の主役として、タッグマッチやハンディキャップ・マッチで出場。
当時の試合が YouTube に残っていました。
= ピンク・キャデラック・大沢ゆかり・尾崎魔弓 VS 穂積詩子・半田美希・キューティ鈴木 =
ピンクが出てくると、もはや試合になりません。3人が足に飛びつき倒そうとしても無理。3人同時のドロップ・キックを食らっても倒れない怪物ぶり。 最後は半田がサイド気味に持ち上げられた後、変形バック・ドロップを受けフォール負け。
= ピンク・キャデラック VS 小屋 百合子(素顔のコマンド・ボリショイ) =
大柄の大女と小学生といったような試合。 身長148cmの小屋では、何を仕掛けても通用せず、ジャイアント・スイングでは右回転の後、左回転を受ける始末。 最後はフライング・ボディ・アタックで潰されフォール負け。
見どころは、ピンクが小屋を軽々と持ち上げリフティングするシーン。 (小屋とて50kgはあります)
= ピンク・キャデラック VS ザ・デメンティア =
体格差があり、終始、ピンクの凄さを魅せただけの試合。 最後はフライング・ボディ・アタックでフォール負け。
どの試合にも共通しているのは、ピンク・キャデラックの手抜き(意図的)です。
ギロチン・ドロップを行う時は、尻もちついてから足を落とす・・ エルボー・ドロップを行う時は、膝から腰をマットに落とした後に、ちょっとだけ肘を当てる・・ 極力倒れている時は追い込むような事はせず、相手の動きに合わせた攻撃をする・・。
こうでもしなければ、簡単に大怪我間違いなし。下手したら殺人すら起こす事は目に見えています。
あくまで実力の半分も出さずに、体格差による凄さのみをアピール・・・ですから、完全な見世物レスラーではありましたが、強さも実力も桁違いでした。
ただ・・ 女子プロレスの場合、こういった巨人レスラーは成功しないように思えます。
男子プロレスにはない、身軽で軽快なファイト。 技の応酬による白熱した試合展開。
どうしても女性だからできるって視点で観る為、意識して手抜きをしなければならない程の実力差では、試合自体がギクシャクして、どことなくシラケムード。 その空気をピンクも読んでか、豪快な技で相手を吹き飛ばしても盛り上がらないと、自ら拍手をして、客を盛り上げようと努力するシーンが、度々見られます・・・。
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伝説の女子プロレスラーサイン集
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1993年(平成5年)9月29日 愛知県体育館において、第22代 全日本ジュニア王者となった遠藤美月。
この全日本ジュニアタイトルは、全日本女子プロレスが認定・管理していたタイトルでしたが、遠藤はジャパン女子プロレス出身で、LLPW所属のレスラー。 本家のタイトルを分家が獲ったような錯覚になったファンも多いかと思いますが、当時は他団体交流戦が行われており、団体持ち出しタイトル王者はよく発生していました。
ここで疑問を感じる 「ジュニア王者」 の称号ですが、男子プロレスにおけるジュニアとは、体重別による階級をあらわしたもの。 概ね90kg〜100kg(全日本プロレスでは105kg)のレスラーが対象。
女子プロレスの場合、階級わけができる程、体重差が見込めない事から、基本的には全タイトル・フリー。
女子における ”ジュニア” の意味は、” 新人王” のようなもの。 全日本女子プロレスでは、ジュニア王座の定義を、「1980年(昭和55年)、20歳未満の若者を対象に設立」 とあります。
これは当時の全日本女子プロレスには、” 25歳・定年制 ” というシステムがあり、25歳を過ぎれば否応なく退団か引退・・・ を迫われる事から、20歳未満を一線基準とした事が推測できますが、時代の流れと共に、設立当時のように15歳(中学卒業)から女子プロレス界に入る若者が少なくなった事から、途中から ” デビュー2年未満 ” を対象としたタイトルに変更。
他団体の遠藤が、この新人王的存在のタイトルを奪取した事からして、いかに有望な新人であったか推測できます。
遠藤美月は、1971年11月9日 山梨県巨摩郡出身。 身長163cm 体重70kg(現在は75kg)
1991年(平成3年)8月4日 ジャパン女子プロレス 後楽園ホール大会において、二上美紀子戦でデビュー。
将来有望のパワーファイターとして注目されますが、ジャパン女子プロレスは末期状態でもあり、1992年には解散し選手会も分裂。 遠藤は、ハーレー斎藤、キャロル美鳥、半田美希、穂積詩子、二上美紀子、レオ北村たちと合流(後に神取忍、風間ルミも合流)し、LLPWに参戦となります。
2002年6月15日 埼玉大会 6人タッグマッチにおいて、青野敬子、天野理恵子とタッグを組み、風間ルミ、イーグル沢井、井上貴子のもつ ” LLPW認定6人タッグ王座 ” に挑戦し、奪取に成功。(第10代)
これがLLPWでの初タイトルとなりますが、遠藤と青野が仲間割れを起こした事により、2002年10月21日 タイトルを返上。 その後、団体体制が、風間から神取に移行した事もあり、同タイトルは封印となりました。
この頃は団体の中堅選手でしたが、徐々に実力を蓄えると、団体のトップクラス的存在に。
他団体との交流戦でも中心的な役割を果たすようになり、2007年には神取忍社長の退任に伴い、社長に就任。 しかし選手活動に専念したい意向から、2009年には社長を辞任しています。
必殺技は、腕ひしぎ十字固めの他、スノーブロー、BMクラッシュ等。
BMクラッシュとは、オクラホマ・スタンピートの形で抱え上げた相手の身体を、肩の上で仰向けにひっくり返し、BTボムの要領で相手をマットに叩き落すという、遠藤のオリジナルムーブ。
男子プロレス以上に、技が多様な女子プロレス界だけに、インパクトのある必殺技はレスラー生命線。
豪快技が得意な遠藤らしい必殺技だと思います。
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1987年(昭和62年)、世の中はバブル景気の真っただ中。
女子プロレスも、クラッシュ・ギャルズの大ブレークにより注目され、全日本女子プロレス事務所には、毎日のように入団希望の通知が、束になって届いたというエピソードがあります。
オーディションではTV中継が行われた程の倍率を乗り越え、1987年にデビューした面々は、山田敏代、豊田真奈美、下田美馬、三田英津子と、後の女子プロ界を引っ張る逸材ばかり。 とりわけ山田敏代は、卓越した運動神経と、168cmという長身から期待が高く、フロントからも、「長与千種の後釜は山田」 という声があった程・・・。
1987年7月27日 埼玉県本庄市民体育館において、市川千秋戦でデビュー。
1988年(昭和63年)7月19日、鈴木美香が返上した全日本ジュニア王座をめぐるトーナメントにおいて、決勝で神谷美織を破り、第14代・全日本ジュニア王者となりますが、怪我により返上。
三田英津子とタッグを組み、タッグ名を ” ドリームオルカ ” と命名。 1989年(平成元年)6月14日、天田麗文&神谷美織を破り、第8代 全日本タッグ王者となりますが、山田の怪我により1990年に返上。
実力は十分ながら、怪我に泣かされるレスラーでもありました。
怪我(頚椎ヘルニア)のもと長期離脱期間をおいて復活。 同期の豊田真奈美とタッグを組み、1992年1月19日、UWA世界女子タッグ・初代王者に君臨。
1992年3月20日、後楽園ホール大会において、アジャコング&バイソン木村(ジャングル・ジャック)を破り、第96代 WWWA世界タッグ王座を奪取。 目まぐるしくタイトルが移動する女子プロにおいて、1994年10月9日に、井上京子&井上貴子(W井上)に奪われるまで、約一年以上も王者として活躍しました。
またタッグ・パートナーである豊田真奈美とはライバル関係にもあり、シングルタイトルを賭け度々激突。
1993年11月28日、北斗晶が返上し、王者空位となっていた ” 白ベルト ” こと、WWWAオールパシフィック王座を賭け、大阪城ホールで豊田と対戦。 見事破り、第25代王者に君臨。 タイトルは翌年3月27日、横浜アリーナ大会において井上京子に奪われますが、その井上を破って王者になった豊田真奈美を、1995年3月26日、横浜アリーナ大会で撃破。 第28代 WWWAオールパシフィック王者として復活。 同年9月24日に、堀田祐美子に奪われるまで、約半年間保持しました。
1997年(平成9年)、GAEA JAPANに移籍。 この団体は、師匠格の長与千種が立ち揚げた団体で、ショー的要素が少ないストリート志向が売り。 当時流行りだったアイドル路線を敷かない方針ゆえ、面白みは欠けるも、真剣勝負は日本人の好むところ。
1999年、正統派からスタイルをかえ、アーミースタイルを経て、レザースタイルにモデルチェンジ。
2001年5月、アジャ・コングやダイナマイト関西と新ユニット ” 雷々拳 ” を結成。(同年10月解散)
2002年以降は、ライバル・豊田真奈美の参戦もあり、時に対立、時にタッグと関係を続け、人気レスラーとして活躍しますが、2004年(平成16年)8月に古傷の頚椎を損傷した事から、同年12月、後楽園ホール大会をもって引退。
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全日本女子プロレス・・。 1968年(昭和43年)6月4日、東京品川公会堂で旗揚げ戦を行い、以後、マッハ文朱 → ビューティ・ペア で人気が爆発。 1980年代に起こったクラッシュ・ギャルズ・フィーバーは社会現象とも呼ばれました。
1990年代に入っても、次々と名レスラーが生まれ、一時期ほどではないにしろ、それなりに安定と人気を保った老舗団体かと思いましたが、クラッシュ時代がバブル景気と重なった事もあり、経営者の松永一族は、プロレス外の副業に執着。 飲食店から株〜不動産まで、幅広く展開。 バブル崩壊後に残った借金は、最終的に35億円とも言われ、2005年4月17日の後楽園ホール大会をもって解散となりました。
実は1997年には、負債から事実上の倒産状態にあったのですが、プロレス以外の収益も回しながら継続。
結果、所属レスラーへの給料遅滞が慢性化。 同年8月の日本武道館大会後、中心選手であったアジャ・コングと井上京子がフリー宣言。 人気の府川唯未も離脱表明。 更に一ケ月後、11選手の退団が決定。
崖っぷち状態となった全日本女子プロレスが、苦肉の策として選んだ道は、「シャ乱Q」のメンバーつんくのプロデュースで、アイドル・ユニットを結成し、ファンを引き付けようとするもの。
ただ・・ 1990年代以降、全日本女子プロレスの主力メンバーは体格良く、実力派と言われる者たち。 過激な団体抗争や因縁じみた狂気の試合が評判となり、そこに実力あるテクニシャンが存在するバランスの良さが売りだっただけに、実力が未知数のアイドル団体と生まれかわって、果たして成功するのか・・・?
アイドル女子レスラー 「キッスの世界」 は、フジテレビ番組 ” 格闘女神ATHENA ” で、つんくプロデュースで歌を出すという企画からスタート。週刊プロレスも、「つんくが女子プロレスが改革を遂げる」 と猛プッシュ。
しかし現実は甘くなく、レッスンにかかわったつんくは、「試合中に大声を出し過ぎて、すでに声が潰れている」 と落胆したとのエピソードがあります。 (その為、音程を変えない作曲に、苦労したとか・・)
初期のメンバーは、H7年組で復活組の納見佳容、H8年組の脇澤美穂、中西百重、高橋奈苗の4人。
2000年3月4日、横浜文化体育館において、デビューシングル ” バクバクkiss ” を披露。 5月24日には、シングルをリリース。 納見佳容に至っては 「 芸能人よりも美人 」 と評判となり人気を博します。
脇澤美穂は千葉県夷隅郡出身。 身長164cm 体重60kg とスリムな体型。
1996年2月、” 平成8年組 ” として全日本女子プロレス入り。 同年7月28日、後楽園ホール大会において、川本八千代を相手にデビュー。
天性の明るさから注目を集め、1997年、次世代のプロレスラー5人が各団体から集まるビデオ ” Ore ” に出演。 (東芝EMIから発売)
1998年には、納見佳容とのコンビ 「 ミホカヨ 」 が大人気。 末期の全日本女子プロレスを盛り上げました。
古典技を使う珍しいレスラーとしても注目。 例えば必殺?のベノムアームとは、昔、フリッツ・フォン・エリックの必殺技であった、” アイアン・クロー ” と同じ。 但し、脇澤美穂の年齢を考えれば、どこまで古典技に拘っていたのか定かでなく、フリッツ・フォン・エリックを知らないで使っていた、オリジナル技との声もあります。
その他、バックブリーカーや、フィッシャーマンズ・バスター等・・・。
前述したように、1997年、中核選手の大量離脱によって回ってきたチャンスを生かし、のちに ” キッスの世界 ” で共演する中西百重&高橋奈苗と度々対決。
伝統ある全日本女子シングル王座、全日本女子タッグ王座(パートナー・納見佳容)にも就いています。
人気絶頂だった2001年12月16日、川崎体育館において、人気コンビであった 「 ミホカヨ 」 が対戦。
これを機に、惜しまれながら引退。(一回目) しばらくはアルバイト生活を送った後、故郷に帰り、表舞台から消えていきます。
ところが・・ 誰もが忘れた頃となる2008年、ワタナベコメディスクール(お笑い芸人養成所)に入学。
お笑い芸人を目指した動機は、当時流行りだった一発芸人、「青木さやか」 に会いたいとの思いとの事。
芸名は ” ミホカヨ ” ・・。 この芸名を名乗るにあたり、納見佳容から許可をとり、同期の吉川崇とのお笑いコンビ 「 吉川★ミホカヨ 」 として、M−1グランプリ予選に出場。 ただ、人気面はさほどでなかった模様。
(2009年〜2010年までの、わずか二年足らず、ワタナベ・エンターテイメントに所属)
2011年6月3日、現役復帰を目指し、高橋奈苗率いる 「フリーダム」 に入団。 同年12月25年に現役復帰を果たします。 ただ・・ 周りは歓迎どころか冷ややか。 10年近くもブランクある復帰や、復帰後も、お笑い芸人を捨てない脇澤に対し、「プロレスを舐めている!」 との声も多々・・・。
女子プロレスファンからもブーイングの嵐。 目シワの多さから ” 老けたオバサンレスラー ” だの ” 過去の栄光を捨てきれない人 ” だの散々。 一時は ” 噛ませ犬 ” 扱いかと言われましたが、フリーダムの王座に就く等、過去のトップレスラーとしての意地も見せています。
2014年12月23日、後楽園ホール大会を最後に二度目の引退。 首の負傷が完治せず・・。
2016年2月には、お笑い界からも引退。 同年3月14日、一般男性と結婚。
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クラッシュ・ギャルズ旋風が巻き起こった1980年代中頃、世の中は女子プロレス最大のブームが到来。
当時の女子プロレス界は、全日本女子プロレスしか存在せず、一点集中の荒稼ぎ状態。 そこに目をつけたのが芸能界。 1986年に設立された ” ジャパン女子プロレス ” は、そのような時代背景を事情としており、強さや技量といったレスリングを追及する団体というよりは、「プロレス版 おニャン子クラグ」 を目的とした芸能色が強い、エンターテイメント団体でありました。 その為、立ち揚げには芸能事務所の 「ボンド企画」 が参画。 おニャン子クラブをプロデュースした秋元康がアドバイザーに就き、新日本プロレスと提携。 山本小鉄をコーチに迎え、ルックスのよい少女のプロレス指導を行わせる徹底ぶり。 1986年8月17日 後楽園ホールでの旗揚げ戦では、ボンド企画所属のアイドルだった本田美奈子や少女隊が駆けつけ、リング上で歌い、アントニオ猪木まで登場するという豪華さで注目を浴びました。
そんなジャパン女子プロレス草創期にあたる、1987年11月に、後楽園ホール大会で、ムーン章子相手にデビューしたのが半田美希。 東京都出身。 身長160cm と小柄ながら、キビキビとした動きとルックスの良さから、徐々に団体の中核選手として存在感を示してきます。
ところが、ジャパン女子プロレスは地方興行に出ると、観客動員面で大苦戦。
この背景にはTV定期放送を確約しないまま船出したツケがあり、見知らぬレスラーが多い団体に客は来ず・・・。 また新人レスラーたちも、世間に知られない以上、注目を浴びる機会を失い意欲ダウン。
当初の目的だった 「プロレス版 おニャン子クラブ」 というコンセプトは結実しないまま、芸能事務所も秋元康も、いつしか撤退・・・。 ジャパン女子プロレスは資金源もバックボーンも失い、1992年に解散。 選手たちは、分裂して設立された、JWPとLLPWに散っていきます。
★当時、ジャパン女子プロ運営に関わったという某芸能関係者の話★
「かつてのビューティ・ペア人気も、1980年代に起こったクラッシュ人気も、共通点だったのは、支持層が女子中学生・女子高校生・女子大学生といった若い女性たちでした。 彼女たちは自分の化身として、アイドルレスラーに思いをはせ、熱狂的に応援を続けたわけです。 人間のもつ潜在能力の一つが、まだ狩猟や採掘をして暮らしていた時の本能であり、男女問わず、その本能の中には優越感、劣等感の他、暴力性が含まれており、当時の社会背景(1980年代は ” 積み木くずし時代 ” と呼ばれる程、若者たちが荒れた時代でもありました)と女子プロレスはマッチングしたのだと思います。 世の中が豊かになった1980年代、おニャン子クラブが大ヒットした理由の一つに、探せば自分のクラスにいるような女の子たちが集まったという斬新さがありました。 これまでのアイドルは雲の上の存在でしたが、企画当初のメンバー以外は ” アイドルを探せ ” という身近さを売りに集めた事が、当時の男子中学生や男子高校生に馬鹿ウケしたわけです。 ジャパン女子プロレスは、空き家となっていた男性ファンを得る事で会場の客を埋めるという戦略でした。 染まっていない原石を自分のものとして成長過程を見つめ、楽しむ事がアイドル応援の醍醐味ですからね。 ところがTV露出がない団体では、男性ファンの支持を得る事ができなかった・・・。 どこでもいるような女の子が、おニャン子クラブに入ってブレークするのは、TVや雑誌といった宣伝により露出するからです。 世の中の男子を甘く見過ぎていたわけです。」
1991年10月、半田美希、穂積詩子、北村真美(レオ北村)たちが、経営陣を批判して退団したことで、経営不振が再燃。 更に主力選手だった風間ルミの海外遠征を首脳陣が拒否した事で、神取忍が猛反発。 団体解散となった後、半田は仲間と共に、LLPWに参加となります。
LLPWの売りは他団体との交流戦。 1992年、全日本女子プロレスとの交流戦ではアジャ・コングと対戦。
「半田を甘く見ないでください!」とタンカをきって対戦しますが、体格差や技量の差は確然。 一方的に攻められ、7分少々で終了。
★本人談★
「キックをもらった時、” オエッ ” って感じで・・。 受ける技一発一発が全てきいちゃって。 顔面に入った一発の後は、記憶がなくなってしまいました。 上には上がいるものだと・・ よい勉強になりました・・」
特攻服姿のスケ番レスラー=紅夜叉、ジュリアナをモチーフにした穂積詩子、コスプレレスラーのキャロル美鳥、更には美人で人気の大向美智子といった面々とは別に、格闘技歴の下地をもつ風間ルミや神取忍といった実力者もそろったLLPWの中にあり、中堅として活躍。 ジャーマン・スープレックスや、フィッシャーマン・スープレックスを得意とし、ルックス&実力者として人気レスラーに成長。
引退前の1995年、正規軍に反旗を翻すというアングルでヒールに転向。 この転向について、当時のファンは疑問が残るらしく、一説では売り込みのアングル、一説では本気、更には男がらみだとか、妊娠していた節まで浮上・・。
引退後は、結婚→離婚して、会社員となり二児の母として奮戦中との事。
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