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1994年(平成6年)、全日本女子プロレス入り。
身長165cmの長身から繰り広げる技の切れは早くから注目され、将来のエース候補として早々にタイトルマッチが組まれる好待遇。 そんな注目株だった田村が全日本女子プロレスを脱退したのは、1997年の事。
脱退の大きな理由は、全日本女子プロレスの経営不振。 所属レスラーによる内部亀裂は凄まじく、この年、大量のレスラーが全日本女子プロレスを脱退。
脱退レスラー9人は、井上京子を中心にネオ・レディース設立。
田村欣子も、そのままネオ・レディース(後のNEO女子プロレス)に入団。
このネオ・レディース、当初は ” 新日本女子プロレス ” を名乗る予定でしたが、新日本プロレスより商標侵害との訴えがあり、ギリシャ語で 「新」を意味する ”NEO(ネオ)” レディースとなった流れがあります。
女子プロレスのキャリア3年少々の田村ながら、その実力はすでに認められており、所属レスラーの顔ぶれもまずまず。 保険会社をスポンサーに迎え、渋谷区に道場兼試合会場の用意も進み、急ピッチながら前途洋々かと思われる中、予定していた試合会場が地元の反対や建築違反等により中止。
試合のない時は、他団体やイベント等に会場を提供し、資金源にしようとしていた思惑が外れた格好となり、大幅に資金やりくりに支障が起こる他、PR不足や段取りの悪さ等もあり、フロント側とレスラーの間に亀裂。
井上京子は起死回生の話題作りの為、オカマのムエタイ選手 ”パリンヤー” と異種格闘技戦を行ったり、DDTプロレスと業務提携を図りますが、2000年1月6日、後楽園ホール大会をもって解散となります。
2000年3月16日、残ったスタッフとレスラーで再起したのが、NEO女子プロレス。
基本的に大会場を避け小規模会場をメインとし、ビッグイベントも後楽園ホールのような中規模会場で行う他、地方興行を好まず(行う時は地方プロモーターに興行権を売る)、大都市における女子プロマニアにターゲットを絞った興行で堅実な経営が定着。 業界からは 「世界一平和な団体」 と称される程に・・・。
そのような中、2000年8月24日 アメリカ・ニュージャージー州・アトランティックシティ・ワイルドウッド・コンベンションホールにおいて、田村欣子とコニル・バスが、NWA女子パシフィック王座とNEO認定シングル王座を賭けた一戦を行い、田村欣子が勝利。 以後、同王座は、NWA女子パシフィック王座&NEO認定シングル王座という統一王座としてNEO女子プロレスが管理・運営する事になります。
田村欣子はNWA女子パシフィック王座&NEO認定シングル王座に、計7回も君臨。
その他、全日本女子ジュニア王座、NEO認定タッグ王座、WCW世界女子クルーザー級王座、AWF世界女子王座、TWF世界シングル王座・・・ も獲得。
サングラスに派手な衣装姿から、「タムラ様」 と呼ばれ大人気。 実力・実績・人気・・ そしてパフォーマンスのできる女子プロレススターとして活躍。
会場を盛り上げ、接戦を制するような緻密プロレスができる他、時には白目を剥いての失神等、ラフプレイもできる名女子レスラーとしてファンの支持を集めました。
2010年12月31日、旗揚げ10周年のNEO女子プロレスは、後楽園ホール大会をもって解散。
解散興行となった 「NEXT DOOR」 では、立ち見まで埋まる1750人が詰めかけ、ついには満員札止め。
メインはこの試合をもって引退する田村欣子、タニー・マウス、宮崎夕妃の同期3選手と、最後のNEO所属選手となった勇気彩、野崎渚、飯田美花による一戦。 結局は幻の3カウント・・ 引き分け。 リング上で6選手が抱き合い健闘をたたえ合う姿に、会場のファンは大感激・・・。
10年間、女子プロレスのトップスターであった ”タムラ様” は、試合後 「この四角いリングが本当に好き。 本当に輝けたと思う。 また輝きを求めて旅にでたい」 とファンにメッセージ。
2011年に結婚され子供も誕生。現在は美容関係の仕事に就かれて、新しい人生を輝かされています。
タムラ様の美容鍼院は、東京都江戸川区南篠崎町1−25−11 03−6318−2124
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伝説の女子プロレスラーサイン集
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いつの世も、金を儲けるには時を知る事・・・。 今何が流行り、何が注目されるのか・・・。
1986年8月16日、国内2番目の女子プロレス団体として、ジャパン女子プロレスが旗揚げされます。
当時は全日本女子プロレスのクラッシュ・ギャルズ人気が爆発。 っとなれば新団体を結成し、莫大な利益を得ようとする者が現れるのは自然な成り行き。
ただこの団体は芸能事務所が絡んでおり、” プロレス版 おニャン子クラグ ” を当初のコンセプトとして設立。
昭和50年代前半に日本中を巻き込んだビューティ・ペアのジャッキー佐藤を筆頭に、実力者であったナンシー久美、格闘技歴のある風間ルミ&神取忍を四天王として押し出す反面、タレント的な要素のある者や、見た目の良さを重視した面もあり、当初からイザコザのある団体でもありました。
キャロル美鳥のデビューは1989年(平成元年)ですから、ちょうどバブル景気が最高潮に達した時。
「ジャパン女子プロレス」 第4期生としてリングに立ちます。
デビュー当時は本名の ” 斎藤緑 ” を名乗り、特に目立った特徴は無し。 ただ身長158cm と小柄ながら、センスは良く、注目株の一人として扱われます。 (当時のプロレス記事参照)
ところが・・・ 1991年、ジャパン女子プロレスは崩壊し、JWPとLLPWに分裂。
風間ルミの付き人だった関係から、LLPW所属となり、リングネームも ” キャロル美鳥 ” に変更。
ウエスト・サイド物語をモチーフにした1960年代のドレスやポニー・テール姿で人気者に。
1995年9月、同期である二上美紀子(GAMI)&紅夜叉とトリオを組み、「決起軍」 を結成。 LLPW認定6人タッグ王者になる他、1998年9月には、イーグル沢井に誘われ ” G−MAX ” に参加。 ヒール(悪役)もこなせる万能ぶりを発揮します。
2001年7月16日 鹿児島アリーナにおいて、イーグル沢井を破り、念願のLLPWシングル王座を獲得。
同年11月23日に剥奪された後、12月16日 後楽園ホールにて井上貴子を破り、引き続き第10代王者に。
この時の心境を後年雑誌にて、「井上貴子さんに憧れていたので、本当に嬉しかった」 と答えています。
有刺鉄線デスマッチも慣行する破天荒ぶり。 2002年11月19日 惜しまれつつ引退。
=キャロル談=
「下(後輩)も伸びてきて、2001年頃から ” もうそろそろかな(引退) ” って考えるようになって。 シングルのタイトルも獲ったし、まだ余力ある内に、惜しまれて引く方がいいのかと。 もう辞めた方がいいと言われるのは悲しいじゃないですか。 そういう気持ちもあって引退しましたが、いざ辞めてしまったら、あまりに失ったモノが大きく、ボーっとしちゃうんです。 いつもなら練習場行ったり、試合に出たり・・ やってた事が全てなくなってしまうわけですから。 後になって ” やることないな・・ 辞めたら何をするのか決めとくんだった ” て思いました。 復帰を考えた事はありませんが ” 引退を早まったかな? ” とか・・・。 寂しかったですね。」
結果、引きこもり状態になり、約4年間を過ごす事に・・・。
一時期、消息不明と言われたのがこの時期。 そんなキャロルを救ってくれたのが、現役時代に対立?していたシャーク土屋だったとの事。
=キャロル談=
「ツッチー(土屋)が ” ご飯食べに行こう ” とか誘ってくれて。 ” 行かない!” って言っても引っ張りだしてくれて。 そのうち気持ちが前向きになってきて、” 何か(仕事)しなくっちゃ ” って思うようになってね。 スポーツ系で人を元気にするような仕事ばっかり受けて、面接して落とされて。 ” やっぱ4年間も寝たきりだったんだから社会復帰は難しいな・・ ” と思いつつ、それでもめげずに ” やるぞ!”って決めて就活頑張ったら、女性専門フィットネスのインストラクターとなる事ができたんです。 運動経験が無く、どこか痛いとこがあるような方たちに、楽しく運動をしていただいて、健康へと導くお仕事です。」
閉じこもりの間、メールがきても返信しなかったのに、「誕生日おめでとう」 といった連絡を続けて送ってくれた、立野記代、ハーレー斎藤、里美和、遠藤美月 にも感謝しているとの事。
女子プロレス世界の過酷(引退後)で・・・ 微笑ましい美談でもあります。
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= 海鮮居酒屋 なごみ亭 =
静岡県三島市一番町3−21 1F
055−973−0441
和食風に内装され、全国の銘酒を並べた御洒落なお店。 この店主妻、椿(旧姓・安田)留美さんこそ、1990年代の女子プロレスLLPWで活躍した ” 紅夜叉 ” です。
現在は長男・長女と4人で三島市にて居酒屋を経営。 選ばれた新鮮魚介類に加え、空揚げGPで日本一になった名店だとか。 地元でも有名で、よく ” 懐かしコーナー ” 番組が取材にくるそうです。
紅夜叉がプロレス好きになったのは、小学校の時にTVで見たテリー・ファンクの雄姿がきっかけ。
中学に入るとクラッシュ・ギャルズによる女子プロレスフィーバー。 高校2年生の時、ジャパン女子プロレスに応募。 無事練習生となったのを機に中退。 福井県小浜市から東京に出て、本格的に取り組むと才能が開花。
1989年(平成元年)12月1日 後楽園ホール大会 北村真美戦でデビューします。
1991年2月に行われた新人王トーナメント大会で優勝。
まだ10代の女子が、地位も名声も順風満帆に望みを叶えていった結果、つい気の緩みで練習をさぼった事で先輩たちの怒りを買い、勢い余って引退・・・。 (別資料では、この時練習をさぼったのは同期の4期生の大半だったとの事。 ジャパン女子プロレスは経営難でもあった事から、練習をさぼった理由は何某のボイコットだった可能性があります。)
小浜市に帰り、父親の手伝いをする日々。 当然ながらプロレスへの未練は断ち切れず、更に同期のレスラーの華々しい活躍を耳にするうちに ” 鬱病 ” が発生・・・。 拒食症、睡眠障害等も発生し、悪化の一途。
(同期のレスラーには、福岡晶、キャロル美鳥、GAMI、コマンド・ボリショイ等)
転機が訪れたのは、ジャパン女子プロレスの崩壊と分裂。 各団体が選手集めに奔走する中、新人王にもなった実力者に声がかからないわけもなく・・・。 ただ当時は鬱状態が酷く、果たして復帰可能なのか疑問視の声もあったようですが、見事に克服し、LLPW旗揚げに参加。
当初は本名の ” 安田留美 ” としてリングに立ちますが、この復帰を機にイメージチェンジをはかりたいと、「女暴走族・紅夜叉」 に変身。 昭和50年代の暴走族衣装に紫をベースとした厚化粧。 木刀を持ち、リングではウ○コ座りという不良をモチーフにしたキャラがウケ、団体を代表するレスラーとして人気を博しました。
1998年5月5日 後楽園ホール大会において、前川久美子を破り、第36代 WWWAオールパシフィック王者となります。 このベルトは別名 ” 白ベルト ” と言われ、初代王者は伝説のテクニシャン ” 池下ユミ ” という伝統あるベルト。 1999年2月26日 同じく後楽園ホールにおいて、前王者の前川久美子に敗れ転落するも、全日本女子プロレスの伝統ベルトを獲得した事で、実力が再評価される事になりました。
更に1993年12月6日 半田美希と組み、実力者の長谷川咲恵&伊藤薫から、全日本女子タッグ王者を奪取に成功。 この全日本女子タッグも、1986年にWWWA世界タッグに次ぐ権威ある王座として誕生して以降、名のあるレスラーが巻き、女子レスラー憧れのベルトです。
そんな1990年代を代表するレスラー ” 紅夜叉 ” も、1999年、結婚を機に引退。
引退試合の相手は、「女子プロレス界最強の男」「ミスター女子プロレス」こと、神取忍。
現在は上記の居酒屋にて、第二の人生と格闘されています。
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昭和が終わり、平成の世となると、プロレス事情も様変わり。
一番の変化は、昭和の大技(必殺技)がつなぎ技に転落し、危険この上ない技が頻繁に飛び交う事になった事。
いくらプロレスラーが鍛えているとはいえ、首や後頭部にかかる衝撃は回避できるものではなく、時には死という最悪な結果につながる事も・・・。
1997年8月15日 JWP広島県立総合体育館において、その悲劇は起こりました。
プラム麻里子&コマンド・ボリショイ VS 尾崎魔弓&天野理恵子 のタッグマッチ。 尾崎のランガ−・ボムを受けたプラム麻里子はフォール負け。 直後に意識不明となり救急搬送。 急性クモ膜下出血並び脳挫傷と診断。 即、開頭手術が行われ、一応は成功したものの、翌日体調が急変し帰らぬ人に・・・。
=尾崎魔弓 談話=
「あれはライガーボムからフォール勝ちし、先に控え室に帰った直後でした。 異変に気が付いたのは、帰った後です。 ちょうど途中休憩前の試合だったのですが、付き人や関係者はバタバタ始めて、救急車で運ばれる事になり、私も病院まで付き添いました。 一晩病院に付き添い、広島だった事から16日の夕方に東京まで帰るよう新幹線に乗ったんです。 17日に、旗揚げ記念興行があったもので・・・。 その車中で悲報を聞きました。 どんなに辛くて悲しくてもリングに立たなければなりません。 17日は昼と夕方の2回に興行がありましたが、亡くなったプラム麻里子の分まで頑張るつもりでリングにあがりました。 どんな試合をしたかすら覚えていませんけど・・。 自分の対戦相手が亡くなったのですから精神的にあとをひきますよ。 ただ周りには気を使わせないように配慮し、極力見せないように心がけてました・・。 プロレスをやめようか悩みました。 でも私と、プラム麻里子、キューティ鈴木、ダイナマイト関西は、ジャパン女子プロレスに一緒に入門した同期なんです。 長い付き合いだし、彼女(プラム)の事はよく知っています。 私がプロレス辞めたら、きっと彼女は ” 迷惑かけてごめんね” って言うでしょう。 ここでプロレス辞めると、彼女は悲しむと思ったのです。 この気持ちは同期の者同士しかわからないと思います・・・」
ちなみに尾崎は事故を契機に、慈善事業 ” プラムズハート ” を立ちあげ、2011年の東日本大震災後は各団体に呼びかけ、” プラズムハート 女子プロレスの会 ” を結成し、ボランティア活動を行っています。
プラム麻里子は1986年(昭和61年)、ジャッキー佐藤が設立したジャパン女子プロレス一期生として入門。
東京都大田区出身。 身長160cm 体重55kg。 トレーナーはグラン浜田と山本小鉄。
入門前のスポーツ歴はサンボであり、抜群の運動神経とセンスは長与千種が即認めた程。
本名が梅田麻里子だったので、リングネームをプラム(梅)麻里子としましたが、当時、ジャパン女子プロレスをプロデュースしていた秋元康は、当初のリングネームを ” コマ梅田 ” としていたというエピソードがあります。
得意技はザンボの流れを組む、締め技や関節技。 それらを複合技にアレンジしたりとオリジナル性に富み、実力派として注目を浴びます。 ただ、関係者の話では、当時のプロレス事情はけっして明るいものではなく、美女レスラーとして売れっ子となったキューティ鈴木や、体格に勝るダイナマイト関西と比べ、やや出遅れた感があったとの事。 それでもジュニア王者やインターナショナル王者のタイトルも獲得。 グラウンド・テクニックやサブミッション(関節技)の上手さから、「サンボ姫」 なる異名を持っていました。
実力者ではありましたが、怪我が多いレスラーでもあり、JWP発足後は怪我との闘い。
キューティ鈴木のパートナーに抜擢され、” ファイティング・ドールズ ” を結成するも、人気に対して活動期間が短かったのも怪我のせい。
もしプラム麻里子が復調し、もっと受け身の技術を身に着けていたら、女子プロレスマット界も変わっていたかもしれません。
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極真空手界において、「重戦車」の異名をとる中村誠は、1979年(昭和54年)に世界王者になった実績を大山倍達に認められ、1981年(昭和56年)兵庫県支部長に就任。 これによって極真空手は兵庫県内に普及していきます。
その中村道場に通い空手を学んだ堀田は、1985年(昭和60年)、全日本女子プロレスに入団。
当時の女子プロレスは、クラッシュ・ギャルズの爆発的人気もあって世間から注目されており、入門オーディションはTV中継された程。 全国から運動神経万能な猛者ギャルや、ルックス豊かなスター候補ギャルが集まり、あまりに入門希望者が多く、書類審査が間に合わなかったといいます。
当然、審査も厳しく、空手をしていた程度では、将来売り物として認められるか微妙なラインと思える中、見事合格。 超売れっ子、長与千種の付き人に抜擢されていますので、フロント側も将来性を感じていた事が伺えます。
1985年6月5日、北海道・苫小牧スポーツセンターにて、タッグマッチでデビュー。 パートナーは仲前芽久美(ドリル仲前)であり、相手は宇野久子(北斗晶)&神崎文恵。 その後、宇野久子とコンビを組むようになると、恵まれた体格から放つ蹴りや投げで相手を圧倒。 1987年(昭和62年)4月15日、大田区体育館において、WWWA世界タッグ王者のダンプ松本&ブル中野を破り、念願のWWWA世界タッグに君臨します。 (パートナーは宇野久子)
実力&将来性を期待されたコンビでしたが、一週間後の4月27日、大阪府立体育館において、当時売り出し中だった ”レッド・タイフーンズ” こと小倉由美&永堀一恵に敗れ、王座から転落。 当時の女子プロレス界は、「25歳定年制」 が物語る通り、若くてフレッシュなアイドルスターを軸に運営する路線であり、真の実力者によるリアル路線は時期早々だったのかもしれません。
その後堀田はコンビを同じ体格の西脇充子(大相撲・魁皇の妻)に変更し、” ファイヤー・ジェッツ ” を結成。
1988年7月19日 大田区体育館において、ブル中野&岩本久美子を破り、WWWA世界タッグを再奪取。
約一ケ月後の8月25日 川崎市体育館 小倉由美&小松美加 に敗れ王者転落するも、1989年7月19日 大田区体育館において、” マリン・ウルフ ” こと、北斗晶&みなみ鈴香を破り、第91代 WWWA世界タッグ王者に再君臨。 女子プロレス界の実力者として名をあげていきます。
そんな女子プロレス界も1997年には選手大量離脱が起こる程の経営難が発生。
実力者は多くとも、スター性に乏しい面が観客動員数を直撃。 ついには給料の遅配により、興行をボイコットするレスラーも現れる中、残留して説得にあたる堀田が、会社側のまわし者扱いで反発・阻害された事も・・・。
結局、2003年5月をもって、全日本女子プロレスを退団。
2003年6月24、アルシオンを吸収合併し、メジャー女子プロレス AtoZ を設立するも、2006年5月3日の後楽園ホール大会をもって解散。
フリーランス(2006年〜2011年) → REINA女子プロレス(2011年〜2012年) → ワールド女子・ディアナ(2012〜2016年) → フリーランス(2016〜) と渡り歩き、2018年4月時点で51歳。(1967年生)
「暴走女王」 として活躍。 ” 一度も引退しないで現役を続ける、日本女子プロレスレスラー ” でもあります。
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