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身長166cm 100kg の超巨体から繰り出すラリアットは、「京子ラリアット」 の別名がつく程の威力。
それもロープにもたれ身動きできない場面や、ショートレンジでの一発が多く、食らった相手は受け身がとれないというから恐ろしい・・・。
また相手をライガー・ボムのように背中に担ぎあげた後、前方に投げ捨てる 「ナイアガラ・ドライバー」 や、立ってる相手を後ろから肩に担ぎあげ側面に投げ落とす 「ビクトリア・ドライバー」 も威力十分。
「京子ジャイアント・スイング」 といい、巨体を活かしたブル・ファイターかと思えば、空中殺法あり、テクニック技あり。 ついた異名は ” 天才レスラー ” ” ディアナの巨山 ” ・・・。
1988年(昭和63年)、全日本女子プロレスに入門。 同年10月10日、後楽園ホールでデビュー。(相手は井上貴子。 井上貴子とは後にタッグを組み、第100代 WWWA世界タッグ王者に・・)
1990年、女子プロレス伝説の一戦となった 「 ブル中野 VS アジャ・コング 」 の試合後、自ら中野にタッグ・パートナーを申し入れ、1991年1月11日 後楽園ホールにおいて、「 ブル中野・井上京子 VS アジャ・コング・パイソン木村 」 の敗者・髪切りデスマッチが実現。 見事、勝利をおさめました。
プロレスラーの完全体は 「スタミナ、スピード、テクニック、パワー、体格、反則」 の6大要素と言われますが、見た目は狂暴なイメージながら、反則をしない正統派。 上記で言う5大要素を持ち合わせた実力派であり、入門して2年半でスターダムに成長。 1991年に行われたジャパン・グランプリでは、1日3連勝と勢いつき初優勝。
1992年2月9日 後楽園ホール W☆ING において、山田敏代とタッグを組み、豊田真奈美&長谷川咲恵との試合は、見ていたディック・マードックが ” 私が見てきた(女子)試合の中で最高の試合 ” と絶賛した程。
他団体との対抗戦では、JWP、LLPWとも試合を行い、” 女最強の男” こと神取忍とも対戦しています。
(1993年 日本武道館で実現。 18分44秒、腹固めを食らいギブアップ負け。 試合後、神取の印象を聞かれた際、” 固かった・・ 石みたいだった・・ ” とコメント)
抗争により、他団体潰しに走るレスラーが多い中、そのような抗争に走らなかったのは、井上京子とアジャ・コングのみ・・ だったとか。 そんな井上に対し、男性ファンも好感が増し、ファンが急増・・・。
1996年12月8日 両国国技館において、宿敵・豊田真奈美を破り、念願のWWWA世界王者に君臨。
1997年をもって全日本女子プロレスを退団し、1998年、ネオ・レディースを旗揚げ・・・。
以後、幾つもの団体を渡り歩きながら、48歳(H30・2・4時点)となった今も、第一線級レスラーとして活躍中。
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伝説の女子プロレスラーサイン集
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” 小さな巨人 ” の異名をもつ グラン浜田を父にもつ浜田文子。
公表では身長162cm 体重65kg となっていますが、ムチムチとしてガッシリした体型からは、もっとウエートがありそうにも感じます。 1981年2月14日生まれの36歳。(H29・10・22時点)
父親から受け継いだ天性のバネと資質を活かし、獲得したタイトル数は14以上・・・。 それも世界的に権威ある団体の認定タイトルを多数含むあたり、浜田文子の凄さが伺い知れます。
= 主なタイトル =
UWA世界女子王座 ・・ 1979年 メキシコLLIが創設し、UWAが管理していた世界女子タイトル。 日本では1984年9月にジャガー横田が第12代王者となった他、1986年12月、神取忍が14代王座に君臨。 浜田は2002年3月8日、ヌエボ・レオンにてミス・ジャネスを破り、第18代王者に君臨。
WWA世界女子王座 ・・ 1989年 メキシコWWAが創設。 第3代王者はモンスター・リッパー。 浜田は第4代王者であったが、獲得以降は防衛線なし。 (FMWが管理したWWAとは別物)
WWWA世界女子王座 ・・ 1937年1月にWWWAが認定。 長きに渡って全日本女子プロレスが管理していた伝統あるタイトル。 2003年5月11日 横浜アリーナにおいて中西百重を破り、第55代王者に君臨。 2004年1月4日 後楽園ホール大会ではアメージング・コングに敗れ王者陥落するも、同年5月2日にゴングを破って奪取に成功。 第57代王者となりました。
TNAノックアウト・タッグ運座 ・・ TNAが2009年8月に創設したタッグ・タイトル。 浜田は2010年、オーサム・コングとのタッグで第2代王者に君臨。 一度タイトルを失いますが、2010年7月27日、テイラー・ワイルドとのタッグで奪取に成功。
メキシコ生まれ。 グラン浜田の四女。 姉のソチ浜田もレスラー。
洗礼を受けており、正式名称は ” アヤコ・バレンティナ・ハマダ・ビヤッレアル ”
1995年に、父・グラン浜田と帰国。 1998年、新設団体アルシオンに入団。 そのレスリングセンスは抜群で、1年足らずで同団体の王者となり話題となりました。 (プロレス誌の表紙を飾る他、写真集やビデオも販売される人気ぶり)
2002年1月にアルシオンを退団。 フリーとなり、GAEA JAPANや全日本女子、ハッスルに参戦。
2005年には悪役にも挑戦。 2009年4月8日 アメリカの団体=TNAと契約し渡米。 同団体の認定タッグ王者に2回君臨する活躍を見せますが、2010年12月に解雇され、以後、アメリカやメキシコのインディー団体を転々としながら活動。
2012年6月、ZABUNと専属フリー契約。 飛び技、関節技、投げ技、打撃技 全てに万能なレスラーとして活躍中。
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身長148cm 体重45kg という体格は、女子プロレスの世界でも、極めて小柄な部類。
1989年(平成元年)、全日本女子プロレスを退団したジャッキー佐藤によって設立された、ジャパン女子プロレスに入門。 1991年(平成3年)11月25日、鳥取産業体育館において、北村真美とのタッグでデビュー。
後年の座談会において、中学卒業後すぐにプロレス入りした事を話しており、現在43歳前後(H29年時点)ではないかと推測されます。
デビューからピエロをモチーフにした覆面を被り、”ボリショイ・キッド” を名乗りますが、その才能を評価した団体の提案を受け、後に戦闘系ピエロ路線として、”コマンド・ボリショイ” に変更。
ジャパン女子プロレス解散後、分裂したJWP女子に参加。 JWP所属現役レスラーで唯一、ジャパン女子時代より活動をしているレスラーでもあります。
トレーナーは当時所属団体が提携にて招聘していた山本小鉄と大仁田厚。
小柄ながら運動神経がよく、必殺技はタイガー・スープレックスやフロント・ネック・ロック、脇固め等。
リングネームでもある「コマンド(戦闘派)」の強調に取り組んだ結果、ザ・グレート・カブキ直伝のアッパー・ブローや飛び膝蹴り(ピコニー・スマッシュ)等、掌打や蹴りもマスター。 体格をカバーした幅広いプロレスを展開。
主なタイトル= JWP認定無差別級王者(第7、25代)、JWP認定タッグ王者(第14、16、19、31、40,44代)、第10代ICE×60王座、第4代CMLL−REINAインターナショナル王座等・・・。
2017年、JWPより全選手を引き連れて独立し、PURE−Jを設立。 JWP時代、運営が選手会に移行した後の現場全権を任される等、いまや女子プロレスの第一人者として活躍中。
そんなコマンド・ボリショイですが、2011年頃、大阪府淀川にある児童養護施設 「博愛会」 出身である事を告白。 乳児院から施設にきたのは3歳頃。 父親は亡くなっており、7人兄弟全てが順番に施設に預けられたとの事。 プロレスラーになろうと思ったのは小学6年生の時。 早く自立しなければ・・との思いを抱く中、身体一つでできる世界を模索し、プロレスの世界を知ったとの事。 中学卒業後、施設を出てジャパン女子プロに入門。
本人談= 「レスラーとして20年が経過した頃、私はこれから、どうやっていけばいいのか考えるようになりました。 施設で先が見えない中、頑張っている人たちに、” 養護施設から、コマンド・ボリショイっていう選手が出たんだよ・・” と胸をはって言えるような選手にならないといけないって・・・。 今までは自分がプロレスをしたくてやってきたけど、これからは子供たちに夢や希望を与える・・ 胸を張れる存在になりたい・・。 そう思うようになり、施設出身である事を告白しました。 現在、ダイドードリンコさんの協力のもと、自動販売機を利用して、” ピュア・ドリーム募金” 活動を行っています。 その売上金を、施設で暮らす子供たちの夢の支援となるよう届けています。 養護施設ではお金がなかったりする事もあるので、子供たちが安心して夢を見る事ができるよう、資金を少しでも支援しようと取り組んでいます。 またプロレスを行う時は、施設の子供たちが楽しんでくれるよう願い、チケットを渡したりしています。 長年プロレスをして持病もあり、誰にも言えずに苦しいですが、身体が資本だし、選手生命にはいずれ終わりがきます。 悔いがないよう、今は一つ一つの試合を全力で取り組みたいと思っています・・・」
まさに、” 女タイガー・マスク ” にふさわしいコマンド・ボリショイ。 私も心から応援しています。
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1976年(昭和51年)、突如巻き起こったビューティ・ペアの大ブーム。
同年2月24日、マッハ文朱&赤城マリ子 から、WWWA世界タッグ王座を奪取したビューティ・ペアでしたが、当初は一部のプロレスファンが知る程度の存在であり、マッハ文朱引退後、団体の運命を託すには、やや心もとないものがあったのだとか。 ところが地方巡業をするにしたがいファン層が増え、シリーズ最終戦が行われた横浜文化体育館では、おびただしい女子ファンが殺到。 デビュー曲 「かけめぐる青春」 は80万枚を記録する大ヒットとなり、彼女たちは一躍 「時の人」 に。 そんなビューティ人気を陰で支えたのが池下ユミでした。
小柄な体格ながら、抜群の運動神経とテクニックをもち、無駄のない動きは全日本女子の中でもピカイチ。
同期のジャッキー佐藤との抗争では、あまりに強い池下を見たジャッキー・ファンが、兜を脱いで、逆に池下のファンになったという逸話まで残っています。(必殺技はバック・ドロップ。他にもロープからかえってきたところにヘッドバットを入れる等、小技から大技までなんでもこなす万能選手でした。)
クール顔だったことから、阿蘇しのぶとタッグを組んで、ブラック・ペアに変身。
凶器(スパナ攻撃が得意)やチョークでライバル・ビューティ・ペアを痛めつけ、あと一歩というとこまで追い詰めると、熱狂の女子ファンたちは悲鳴と涙・・。 会場の盛り上がり方はハンパでなく、ビューティ・ペアの人気は、池下ユミという実力者(ライバル)がいたからこそ成立したと思います。
マキ上田談=「一番手ごたえある選手は池下ユミでした。こちらの技も思い切って出せたし。」
1977年(昭和52年)4月11日 広島県立体育館において、ブラック・ペアはビューティ・ペアからWWWA世界タッグ王座を奪取。 1977年7月29日、ジャッキー佐藤&ナンシー久美 に奪回されますが、阿蘇しのぶ引退後にタッグを組んだマミ熊野との新ブラック・ペアは、1979年(昭和54年)4月6日 後楽園ホールにおいて第70代 WWWA世界タッグ王者となり、1980年2月5日 大阪府立体育館において、ナンシー久美&ルーシー加山に敗れるまで、約1年間にわたり王座を死守しました。
池下はシングルでも活躍。 1977年に全日本女子プロレスが初の海外試合に出向いたことを記念し設立された、ハワイアン・パシフィック王座(後のオールハシフィック王座)の初代チャンピオンとなった他、同タイトルの第5代チャンピオンにも君臨しています。(ベルトの皮色が白だったので、” 白ベルト ” の異名有り。 全日本女子の崩壊とともに封印)
悪役時代に結成された 「ブラック軍団」 にはデビル雅美も参加。
1981年(昭和56年)に引退後、デビル雅美が軍団を継承し、「ブラック・デビル軍団」を結成。 そのデビルが善玉に変身した事から、ダンプ松本率いる 「極悪同盟」 が誕生・・・ となり、池下ユミがいなければ、今の女子プロレスはどうなっていたのか・・・。
引退後はファンの前に姿を見せる事もなく、潔い終わり方をしたのも印象的。
1999年 女子プロレス殿堂入り。
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1976年(昭和51年)にデビューしたナンシー久美。 時代はマッハ文朱→ビューティ・ペアの全盛期。 爆発的な女子プロレス人気の中、美人でボーイシュなナンシーも注目を浴び、翌年にはレコードデビューを果たす人気ぶり。(デビュー曲 ” 夢見るナンシー”)
ナンシーも期待に応えるかの如く実力を発揮。 ビクトリア富士美とのコンビ(ゴールデン・ペア)で、第68代 WWWA世界タッグ王者についた他、1980年2月5日 大阪府立体育館において、ルーシー加山とのコンビでブラックペア(池下ユミ&マミ熊野)を下し、第71代 WWWA世界タッグを奪取。 更に1981年2月25日 横浜文化体育館では、堀あゆみ(ジャンボ堀)とのコンビで王座奪還と大活躍。 1977年7月29日にジャッキー佐藤とのコンビでも、WWWA世界タッグ王者になっていますから、この伝統あるタッグ王者に計4回も君臨した事になります。
必殺技は、各スープレックス、フライング・ネックブリーカー等。
身長165cmと長身でスタイル良し。 中学3年生の時、父親が見ていた女子プロレスに共感を覚え、テロップを見ながら応募したところ合格。 卒業後に入団すると、わずか2ヶ月半でデビュー。(後楽園ホール) 相手は阿蘇しのぶで、約5分・・ 一方的にやられて敗戦だったとか。
ナンシー談・・「当時は年間280試合以上。 準備体操をして受け身の練習で身をほくしたら即試合・・ というハードな日々。 そこに、” いついつまでに新しい技を覚えるように ” と宿題が課せられ取り組む。 技を磨くのも新しい技の一つだと考え、得意のスープレックスに力を入れたりしました。」
1979年2月27日 ビューティ・ペアが解散。 「敗者引退ルール」 のもと、ジャッキー佐藤がマキ上田を下して勝利。 以後の4年間、実力派レスラーとしてトップをはるも、1883年に全日本女子プロレスを引退。
1986年、全日本女子プロレスを辞めたジャッキー佐藤が、ジャパン女子プロレスを立ち揚げするにあたり現役復帰。 ジャパン女子四天王(ジャッキー佐藤、ナンシー久美、神取しのぶ、風間ルミ)として活躍するも、1987年7月27日 大田区体育館の試合をもって二度目の引退。
現在は、清心館空手道総本部指導員として活躍されています。
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