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元祖アイドル女子レスラーと言えばマッハ文朱。
若干16歳にしてプロデビューを果たすと、身長175cm(公称では180cm)の長身とルックスで話題を呼び、抜群の運動神経から、豪快な大技を連発。 一躍時の人に・・・。
また歌にダンスも得意という芸能センスで歌手デビュー。 女子プロレス&歌 という試合前の余興も大ヒット。
(プロレスと歌のコラボはマッハから始まりました。)
若さ、明るさ、実力、カリスマ 全てを備えたスターとして人気を博しました。
平成26年7月発行 「女子プロレス60年史」 での座談会によりますと、13歳の時、歌手を目指して ” スター誕生 ” に出場した結果、最終組(第5回決勝大会)に残るも、山口百恵が選ばれ落選。 そんな折、姉が週刊誌の隅に載っていた 「女子レスラー募集」 記事を見つけ、二人で応募したところ合格。 はじめは断るつもりで、松永会長のアポを無視していたそうですが、ついには松永会長が自宅にやってきたことから入門になったとの事。
マッハ=「中学1年生の頃、叔父からプロゴルファーにならないか?と誘われていました。 走っても、泳いでも速かったし、ドッジボールもクラスで一番上手かった。 また長身で運動神経がよかったので、バレーとバスケの顧問が奪い合う事もありました。 そんな状態だったので中学では書道部に籍を置いて、地元の合気道に通っていたところ、中学卒業時には3段となり、10ヶ国の師範代に選ばれたんです。 流石に15歳で海外とはいかず、普通の高校に進学してゴルフレッスンを始めた頃、姉の勧めで女子プロレスの世界に。 当初はプロレスを見たこともなく、ルールもわからない有様でしたが、姉が ” あなたの個性と才能ならば、女子プロレスをもっと面白く変える事かできますよ ” と言うので、その気になってしまって。 」
リングネームの 「マッハ文朱」 は自分で決めたとの事。
マッハ=「動きが速いから ”マッハ” と言われたニックネームが好きで、それをリングネームにしたいと思いました。 そこで本名の ”渡辺文枝” から ” 文 ” をとり、赤色が好きだったから ” 朱 ” をとって、” 文朱 ”にしたわけです。」
正式デビューから8ヶ月弱にして、無敵の王者・ジャンボ宮本を破り、史上最年少(16歳)でのWWWA世界王者に君臨。 更にデビュー曲の 「花を咲かそう」 も大ヒット。 プロレス以外にも、芸能や歌手、バラエティー、ドラマと大忙しの日々。 本人談話では、「若さとパワーが充実した2年間でした。 相手の選手を壊さないように気を付けて闘っていました・・・」
しかし、多忙かつ神経を使った闘いは、まだ成長期にあったマッハには無理があり、18歳の時に腰痛が発生。
わずか2年8ヶ月で突然の引退。 人気絶頂の時だっただけに、世間のイメージが一新されたばかりの女子プロレス界には大痛手となりましたが、マッハ全盛期のうちに、次世代のスターである 「ビューティ・ペア」 が育っていたのは幸いでした。
女子プロレス史上、最高のレジェンド。 「近代女子プロレスはマッハ文朱から始まった」 という意見に賛成です。 必殺技はエアプレーン・スピンや、ジャイアント馬場の16文を模した、マッハキック。
ちなみに・・ 美女レスラーにもかかわらず、1977年の映画 「ドカベン」 に出演した際、岩鬼が惚れている夏川夏子役で出演したことは疑問ですけど・・。
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伝説の女子プロレスラーサイン集
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1978年の女子プロレス全盛期といえばビューティ・ペア。 絶対カリスマが大活躍する中、タレントから女子プロレス入りをし話題を呼んだのがミミ萩原。 身長165cm 体重48kgという抜群のスタイルながら、軽量&非力である面はぬぐえず、デビュー以来87連敗という記録を打ち立てます。
しかし、負けず嫌いで格闘好きという本能が開花すると、巧みなテクニックを続々と繰り出し大物レスラーとも対等に闘うことができるようになり、ついには体重も60kgにまで増加。
1981年2月には横浜文化体育館において、実力者・池下ユミをスモール・パッケージ・ホールドで破り、オールパシフィック王座を奪取。 以後、クラッシュ・ギャルズ時代が到来するまで、全日本女子プロレスのエースとして活躍しました。
ミミ萩原と言えば、やられて悶える表情の美しさと、露出の多い水着が印象的。
どちらも当時の女子プロレスにはなかった要素であり、そのエロチックさを観ようと男性ファンも続出。
ネットで調べた限り、当時の松永会長の残した記事によると・・・ ある大会場の試合の際、ミミが入場しようとすると大多数の男性ファンにもみくちゃにされ、リングにあがった時は水着がズレまくっていたとの事。
明らかに水着の各所に手をつっこまれ、秘部までも男たちの餌食に・・・ といった内容の回想が残っていました。 とにかくきわどい水着。 サポーターすら付けれないハイレグ水着と、ひも一本というブラ姿は、日本中に賛否両論を呼びました。
1981年(昭和56年)、シングル・レコード ” スタンド・アップ ” が発売され、試合前のリングで歌手デビューを果たすと、1982年には、女子プロレスラー初となるヌード写真集を披露。
その美しさはアイドル顔負けと言われ、今でも伝説的な写真集としてプレミアがつく大人気。
1984年4月に引退すると、女優としても活躍。 祖父がフランス系スイス人というだけあって、その存在の大きさも桁違い。 ミミ萩原の ”ミミ” とは、幼少時のあだ名であった ” ミミー ” をもじったもの。
活躍の一方で結婚し・・・ スピード離婚・・・。 その後は、神の声?にて広島に移住。
現在は地元にて、イベントや料理店(イタリアン)を運営するビジネス・ガールとして大活躍。
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= タッグ タイトル =
WWWA世界女子タッグ
UWA世界女子タッグ
全日本女子タッグ
JWP認定タッグ
REINA世界タッグ
ツイン・スター・オブ・アルシオン
= シングル タイトル =
全日本ジュニア王座
全日本シングル王座
クイーン・オブ・アルシオン
NWA女子パシフィック王座
NEO認定シングル王座
タッグにシングルに長年活躍し、今や女子プロレス界のレジェンドとなった下田美馬。
1987年(昭和62年)、全日本女子プロレスにてデビュー。 三田英津子とのコンビで全日本女子タッグを獲得したあたりからブレーク。
身長166cm 体重56kg〜 という均等のとれたスタイルに美顔もウケ、2005年には週刊誌(週刊現代)にてヘアヌードも披露。 まさに売れっ子女子レスラーならでは。
必殺技は低空タイガー・スープレックス。(低空といってもブリッジの位置が低い為とも言われています)
その他、ネックブリーカーやかかと落とし等々。
2000年には三田英津子と共に、女子プロレス大賞を受賞。
団体・男女関係なく出場し、現在はメキシコのCMLLに所属しているとか。
1970年11月23日生まれの45歳。(H28・8時点) 25歳定年制だったかつてと違い、今の女子レスラーは長く頑張っています。
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女子プロレス界では異例とも言える22年間の現役生活。
1987年(昭和62年)、全日本女子プロレスからデビュー。 身長174cm という体格を活かしたファイトが評判を呼び、山田敏代とタッグチーム 「ドリームオルカ」を結成。 全日本女子タッグチャンピオンに輝く活躍を見せます。
1991年、人気女子プロレスラー定番のCDデビュー。 タッグパートナーも豊田真奈美に代え、タッグチーム 「ミントシャワーズ」 を結成。 (さほどの活躍に至らず、自然消滅・・・)
1992年、北斗晶とメキシコ遠征を行い、「猛武闘賊」 を結成。 この遠征がきっかけで試合に幅が出るようになり、以後、トップレスラーにのぼりつめていきます。
必殺技の ” デスバレーボム ” の生みの親としても有名。 相手を肩に担ぎあげ、横に倒れ込みながら相手の頭部をマットに叩きつける必殺技で、和名 ” 死の谷落とし ”・・・。
男子プロレスでは、真壁刀義も多用する程の危険技。 単調な分、使い手によってのバリエーションがあり、今のプロレス界ならではの技と言えます。
下田美馬とタッグを組んだ1994年が絶頂期とも言え、他団体交流戦では、キューティー鈴木&尾崎魔弓から、JWPタッグ王座を奪取。 また数日後には、堀田祐美子&井上貴子から、UWA世界タッグ王座を奪取。
デスバレーボムの威力は凄まじく、タフで有名な豊田真奈美や同期の山田敏代も撃破する大活躍。
以後、膝の手術もあり、ヒールに転向。
1997年、下田とのコンビで、WWWA世界タッグ王座を奪取・・・。
2009年に引退・・ 2014年に一般ファンの方と入籍。
引退後の事を考えて、現役中にヘルパーの資格を取得していたとの事。 現在、介護福祉業務をされているとか。 こんな強いヘルパーさんが近くにいたら・・ 年寄りの皆さんも頼もしいかも(笑)
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1996年3月31日生まれの20歳。(H28年6月にて)
身長158cm 体重48kg という普通の体型の女の子が、今の時代に女子プロレスラーをする目的とは??
メジャー団体の崩壊や小団体の増加、更には格闘技ジャンルの多種多様化によって、会場に客が入らない現状のプロレス界。 そんな状況に身を投じる少女達には、どのような夢や希望があるのか・・・。 きっと ”強くなりたい” といった青春(強い思い)が詰まっているのでしょうね。
元来の格闘技好きで、自身も空手やキックボクシングに励んでいたそうで、基礎がある分センスが良く、井上京子や浜口京子といった本格派レスラーに鍛えられた優等生。
2011年、NEO女子プロレス解散に伴い、井上京子が立ち揚げたワールド女子プロレス・ディアナのプロテストを受験し、1000回のスクワットをこなして合格。 ちなみにこの時、第二横突起亀裂骨折(筋肉とくっついている骨)していたといいますから、並み外れた根性の持ち主。 本名の藤村沙里をもじって、リングネームはSareeeに。 (これは井上京子が大ファンだった歌手GReeeeNに由来するらしい)
2011年4月17日、ディアナ旗揚げ戦で里村明衣子戦でデビュー(敗戦)すると、5月10日にはアジャ・コングと対戦。 善戦むなしく敗れますが、10分以上の熱戦は高い評価を呼び、9月にはメイン(タッグマッチだが)に抜擢される人気ぶり。 2012年4月20日、川佐ナナからシングル戦初勝利・・・。
得意技は裏投げ。 裏投げの名手であった栗原あゆみが、「この選手になら伝授しても」 との思いで直接伝授したという本格派。 また身軽で飛び技もあり、ドロップキックに定評があります。
第24代 JWP認定ジュニア王座、第14代 POP王座、第5代 WWWD世界タッグ王座 も獲得。
今後益々の活躍が期待されます。 (同じ活躍?でも、ヘアヌードの活躍以外で御願いしたいものです。)
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