|
1980年(昭和55年) カブスの中心選手であったスティーブ・オンティベロスを西武が獲得。 スティーブの加入により西武は、常勝軍団へ歩む事となります。
1969年(昭和44年)のMLBドラフトにおいて、サンフランシスコ・ジャイアンツより6巡目で指名され入団。
1973年(昭和48年)にメジャー昇格すると、翌1974年には120試合に出場し、343打数 91安打 打率265 の成績をあげレギュラー並みの活躍。 1975年も108試合 325打数 94安打 打率289 と活躍。
1977年(昭和52年) カブスに移籍すると、レギュラーとして定着。
156試合 546打数 163安打 10本塁打 打率299 と、チームを代表する打者に成長。
更に1979年(昭和54年)には、152試合に出場し、519打数 148安打 4本塁打 打率285 と活躍。
一発長打には欠けるものの、確実性の高い打撃は評価され、過酷なレギュラー争いのメジャーにおいて、カブスの正三塁手としての地位を築きます。
そんなバリバリのメジャー・リーガーに目をつけたのが西武ライオンズ。 1980年(昭和55年)の後半戦(後期)に合わせて獲得を発表。 契約期間3年半という変則契約も話題となりました。
後にヤクルトに入団するボブ・ホーナーは、メジャーの主軸打者としての誇りが高く、日本野球を軽蔑したり、マイナーあがりの助っ人を馬鹿にする態度で批判されましたが、スティーブは気さくな性格もあって、すぐにチームにとけ込みます。
デビューは1980年7月4日 近鉄戦。 後期戦スタートとなったこの試合は、1失策を含む、4打数0安打と散々でしたが、徐々に調子をあげ65試合に出場 258打数 81安打 16本塁打 打率314 と現役メジャーの実力を披露。 スティーブの活躍により、前期最下位に沈んだ西武が、後期の一時期、首位に立つ事も。
1981年は石毛の入団でショートが固定された為、一塁や三塁と守備位置が安定せず、精彩を欠いた感がありましたが、翌1982年より三塁を固定された事により復調。 以後、毎年安定した好成績を残します。
当初は3年半契約でしたが、2年延長して5年半もの間、西武の主力として活躍する事に。
1981年(昭和56年) ・・・ 380打数 103安打 7本塁打 0盗塁 打率271
1982年(昭和57年) ・・・ 420打数 129安打 11本塁打 3盗塁 打率307
1983年(昭和58年) ・・・ 476打数 153安打 17本塁打 0盗塁 打率321
1984年(昭和59年) ・・・ 461打数 156安打 20本塁打 0盗塁 打率338
1985年(昭和60年) ・・・ 463打数 146安打 11本塁打 0盗塁 打率315
1982年〜85年にかけ、4年連続で打率3割以上をマーク。
1983年はパ・リーグのシーズン最多安打王。 1984年〜85年にかけ、パ・リーグ最高出塁率のタイトルを獲得。 1982年〜83年にかけ、ベストナインを受賞。 1982年の日本シリーズでは、優秀選手賞を受賞しています。
真面目な職人肌選手で、「チームに貢献したい」が口癖。 大振りをせず、確実性のあるバッティングは、管理野球で名高い理論派の廣岡達朗監督(1982年に就任)にも認められ、外人だろうが容赦しない廣岡が気に入った数少ない選手と言われました。 本人も廣岡監督を 「ボス」 と呼び、廣岡の助言等に対して、「ボスの言う事はわかる」 と従順姿勢で接した事が、お互いの信頼関係を築けた要因だと思います。
反面、短気な部分もあり、度々エスカレートしては衝突。西武球団 退場第1号でもあります。
試合中はハゲ頭でしたが、プライベートでは3種のカツラを使い分ける事も有名。
1985年も西武はリーグ優勝を果たしますが、日本シリーズではバース・掛布・岡田のいる阪神・重量打線に敗れ、日本一ならず・・・。 この年は秋山幸二の台頭で、西武でも一発長打が見直されており、理解者であったはずの廣岡までが、「一発のない助っ人なんて・・」と文句を言うようになりました。
スティーブ談=「俺にホームランを期待しされても困るよ。俺はチームの為に、大切な場面でヒットを打つ事しか考えていないからね。」 と語るように、20本前後の中距離ヒッター。 結果、この年も3割の高打率を残しながら契約更新はなく、日本球界を去っていきました。
= 通算成績 =
(メジャー) 600安打 24本塁打 224打点 5盗塁 打率274
(日本) 768安打 82本塁打 390打点 6盗塁 打率312
最高出塁率2回 最多安打王1回 ベストナイン2回 最多勝利打点1回 月間MVP1回
日本シリーズ・優秀選手賞1回 オールスター出場1回 シーズン最多犠飛1回
|
伝説のプロ野球選手サイン集(外人
[ リスト | 詳細 ]
|
高飛車で失言も多いが、日本プロ野球においての実績も凄い張本勲。 広角に打ち分ける為、打席の前方部に立ち、ややバットを寝かせ気味に構え、球の軌道に合わせるジャストミート打法は、 「スプレー打法」「広角打法」「扇打法」「神主打法」等、様々な異名で呼ばれました。
どんなに速い球でも、どんなに曲がる変化球でも、球はホームベース上の一角に向かって飛んでくるのですから、打者は球の軌道にバットを合わせれば、ミートされた球は勝手に飛んで行く・・・ 無駄な大振りをしたり、踏み込む為に、余計な足上げをしない張本の打法理論は、日本記録である3085安打(日米合算ではイチローの方が上)というずば抜けた成績なり証明されています。
1978年(昭和53年)、本拠地を横浜に移転させ、「横浜大洋ホエールズ」 として再出発した大洋に、大物メジャー助っ人 フェリックス・ミヤーンが加わります。 (日本ではマルチネス・ミヤーンと紹介された事も)
身長180cm 体重78kg と細身だったミヤーンは、バットを極端に短くもって寝かせ、小首をかしげるような独特のフォームで広角に打ち分ける中距離打者としてメジャーでも活躍。
メジャー実働12年のうち、9年連続でシーズン100安打以上を放ち、1970年=183安打 1973年=185安打 1975年=191安打 と、例年なら最多安打王に輝いてもおかしくない程の安打製造ぶりを発揮。
また守備の達人で、1969年、1972年と、MLBゴールドクラブ賞を受賞。 MLBオールスターにも3回出場。
更に小技も得意で、1974年(昭和49年)には、MLBナショナル・リーグのシーズン最多犠打王。
ブレーブス→メッツの中心選手でしたが、34歳となる1977年は怪我もあり調子が上がらず、打率も248と低迷。 アメリカでは受け入れ(メジャーと同格扱い)されていなかった日本球界に参戦したのは、怪我による選手生命の見極めがあったものと推測します。
事実、来日一年目となる1978年(昭和53年)は、肩の故障が影響して、120試合に出場し、443打数 127安打 2本塁打 打率287 と平凡な成績。 期待のミヤーンだっただけにファンもがっかり。
この年の横浜大洋は、あまりの弱さに 「横浜大洋銀行」 とのあだ名がつけられた程で、一部の球団には気前よく勝ち星を提供するのに、そこと争っている球団には意外と強く、結果的に独走状態を作り出す原因とされる始末。(特に巨人は ”お得意様” と言われ、横浜移転後だけにヘンに勘繰るマスコミまで出現・・)
ミヤーンは翌年も残留しますが、1974年(昭和54年)も怪我により、出場は98試合どまり。
しかし364打数 126安打と安定した打力を発揮した結果、36歳にして打率346で首位打者を獲得。(2位の掛布に1分9厘差) ベストナインにも選出されました。
1980年(昭和55年)も日本球界でプレーしますが、怪我の状態は平行線・・・であり、107試合 332打数 95安打 4本塁打 打率286 と平凡な中距離打者のまま契約終了。
1981年(昭和56年)はメキシカン・リーグでプレーした後、惜しまれながら引退しました。
攻守・好打の優良助っ人ではありましたが、長打力に乏しく、打点を稼げないでは、当時の日本野球ではタブー。 (昭和の日本プロ野球において助っ人とは、あくまで日本人ではどうしようもないパワーを重視していましたので、シーズン30本塁打が打てない者は、助っ人として認められない時代でした)
プエルトリコ出身だけに明るく陽気。 トレードマークは鼻下にフサフサとした口ひげとすきっ歯。
後にポンセが大洋に入団し、姿格好から 「マリオおじさん」 と呼ばれた事から、ミヤーンを知る一部のオールド野球ファンの間では、「元祖・マリオおじさん」 なる異名?があるようです(笑)
(ちなみに・・ ミヤーンが入団した頃は、まだファミコンがなかったのですが・・)
=通算成績=
(メジャー) 1617安打 22本塁打 403打点 67盗塁 打率279
ゴールドグラブ賞2回 MLBオールスター出場3回 ナ・リーグ シーズン最多犠打1回
ナ・リーグ シーズン最多死球1回 シーズン最多試合出場1回
(日本) 348安打 12本塁打 92打点 13盗塁 打率306
首位打者1回 ベストナイン1回
|
|
(背番号5= 兄レロン・リー 背番号7= 弟レオン・リー)
「東大に合格するよりも難関」 と言われる日本プロ野球入り。
アマでは抜群の成績を残しながら一軍にあがれず解雇・・・ なんてザラの厳しい世界。 それだけに、けっして日本プロ野球が甘いとは思いませんが、メジャーの過酷な生き残り競争を知ると、やはり総合的には恵まれていると思わざるえない点が多々あります。
ネットで調べてみると・・・
「マイナー・リーグ(3A)選手の年棒は、40人ロースター枠に入っている選手の場合、年棒は約41,400$。 但し同一シーズンにメジャーで(25人ロースターで) 1日以上在籍した場合は82,700$となっています。 加えて(アウェイ試合の場合)ミール・マネーとして1日25$が支給されます。
AAA級だと1シーズンに144試合あるので、半分の72試合のロードゲームにすべて出たと仮定すると、25×72 =1,800$が別途支給されます。最高クラスのAAA級にいて、前年1試合もメジャー枠登録の経験がなく、しかし40人ロースター契約している選手の場合、サラリーは41,400+1,800=43,200$となります。
マイナーリーグの場合、サラリーはシーズンの間しか支払われないので、たとえばAAA級の場合、10月〜2月までは原則として無給です。 多くのマイナー選手はオフに自分でアルバイトを見つけて働いているようです。」 との事。
3A選手ですら日本円で年収450万円程度の平均年収ですから、2A以下の選手はバイト無しでは生活できず。
その上、3年間を目途に、昇格できない選手は実力無しと判断され、自由移籍や契約解除という厳しさ。
2A〜3Aでくすぶっている選手が、日本球界にきて活躍し、大金と名誉を手に入れたいと思うのは、当然の成り行きなのかもしれません。
1978年(昭和53年) 実兄の紹介で日本球界に参戦したレオン・リーは、高校卒業後の1971年(昭和46年)、名門カージナルスと契約しプロ入り。
アメリカ球界では捕手。 鈍足だった為 アメリカの野球評論家は 「もう少し足が速かったら、メジャーで活躍できたはず」 と太鼓判を押す程の巧打者として一定の評価は受けるも、厚い選手層の壁に阻まれ、メジャー昇格ができないまま苦悩していた折、1977年に日本球界に参戦し、パ・リーグ二冠王となった実兄 レロン・リーの仲介もあってロッテ入りが決まります。
初年度の1978年には日本球界に順応し、いきなり打率316 16本塁打 をマーク。
翌1979年(昭和54年)、打率304 35本塁打 を放ち、長打力がある面を披露。
そして1980年には、兄レロン・リーと共に大暴れ。 打撃3部門において、自身キャリアハイとなる 打率340 41本塁打 116打点 と打ちまくり 「無冠の最強助っ人」 と呼ばれました。
この年の10月3日 近鉄戦(藤井寺)では、レロン・リーが3本塁打、レオン・リーが2本塁打を放ち、兄弟で一試合5ホームランという快挙を達成。
兄同様に明るく陽気な性格で、日本文化を理解し、特に契約等でも球団とトラブルが生じた様子はありませんでしたが、1982年(昭和57年)オフ、突然ロッテを解雇され、大洋に移籍。
本人談=「大洋が一番居心地が良かったよ」 と言うように、移籍すぐにチームに馴染み、1983年(昭和58年)は打率288 30本塁打の好成績。 1984年はフル出場を果たし、打率321 21本塁打。
1985年には三塁コンバートを成功させ、8月10日 広島戦では1試合10打点のセ・リーグ記録を樹立。
打率303 31本塁打 110打点の大活躍を見せます。 しかしオフ、またも解雇・・・。
(大洋球団は解雇理由として、”チャンスに弱いから” と公表しましたが、翌年から加入するローマンを売り込みにきた代理人が、レオンが高額な年棒を要求しようとしているとウソついた事が原因とも言われています。)
1986年からはヤクルトに入団。いきなり打率319 34本塁打 97打点の大活躍。
翌1987年は夏場に足の負傷で離脱がありますが、120試合に出場し、打率300 22本塁打をマーク。
しかし、オフにまさかの解雇を受け帰国。 本人談=「まだ日本球界でやりたかった。不完全燃焼だよ」
インベーダーゲームや兄同様にラジコンが好き。 兄・レロンと共に歌手デビューも果たしています。
休日は日本庭園を散策したり、チームメートを自宅に招待する等、積極的に日本に馴染もうと努力。
3球団、セ・パ関係なくシーズン30ホームラン以上を放ったパワーと、10年間の日本生活で8度の3割超え。
大洋球団は ”チャンスに弱い” と言いますが、打点も多く、勝負強かった印象があります。
また人格者であり、1987年、ヤクルトに問題児のボブ・ホーナーが加入した際は、球団から世話役を頼まれますが、白人のホーナーは黒人のレオンを差別したり、マイナー選手だと見下した態度をとったといいます。 そんなホーナーに強いストレスを受けたと本人。 しかしトラブルとならなかったのは、レオンの人柄だと思います。
好成績を残しながら、所属した3球団は不可解な解雇を繰り返しましたが、日本球界を愛し、後年はオリックスのコーチとなった後、一年ではありますが監督にも就任。
息子のデレク・リーは2005年、メジャー・カブスで首位打者&最多安打を達成。 ゴールドグラブ賞3回。
=通算成績=
ベストナイン2回 月間MVP3回 シーズン最多出場2回 シーズン最多塁打1回
|
|
1977年(昭和52年)の日本プロ野球は、王貞治で始まり、王貞治で終わったと言っても過言ではない程の王フィーバー。 新聞、TV、雑誌の他、少年誌各種でも王・・王・・王・・。 ついには郵便局までが貯金箱を作成。
日本シリーズこそ阪急に敗れ、悲願の日本一奪還ならずでしたが、個人タイトルを総ナメ状態。
首位打者こそ若松(ヤクルト)に譲るも、50本塁打 124打点 の二冠王。
1月5日の契約改正において、日本プロ野球初となる、「6000万プレーヤー」(推定6360万円)で契約更新した実力は、36歳にして老いるどころか益々盛ん。
8月31日 後楽園球場で放った39号はハンク・アーロンと並ぶ通算755号。そして9月3日、後楽園球場において、ヤクルト・鈴木から放った40号は、世界のプロ野球リーグ最多となる通算756号本塁打。
「世界のホームラン王」として、日本中が熱狂の嵐に・・・。
逆にパ・リーグは暗黒の時代。どの球団、どの試合も閑古鳥状態。老若男女問わず、世間の注目が巨人・王に集まった1977年は、特に厳しい暗黒時代となりました。
そんなパ・リーグの中で最も人気がないと言われた球団がロッテ。 素質のある選手は多いのですが、某メジャー選手が「ネズミの巣」と比喩した本拠地を含め、球団自体がやる気なし。
1974年(昭和49年)、金田正一監督によって悲願の日本一となった時の主力外人=ジム・ラフィーバーの仲介により、メジャーでくすぶっていたレロン・リーを獲得。 実はレロンの方からラフィーバーに日本球界を紹介するよう売り込んだようです。
レロンの初来日は1976年(昭和51年)秋。元々明るく社交的なレロンだけに、マスコミウケが良い・・ となるはずですが、空港に現れたレロンの手荷物は、大きなラジコン飛行機。 (リー兄弟は熱烈なラジコンマニア)
不安を覚える球団職員。更にキャンプが始まると、思うように打球が伸びず中距離砲といったところ。 こうなると
鎖国主義(日本人贔屓で外人の活躍を良しとしない)の日本マスコミだけに、連日批判記事の嵐。
普通だったら腐るとこですが、そこは自ら背水の陣で来日した精神力の強さ。 雑音に対し知らん顔・・・。
1977年(昭和52年)4月2日 宮城県で開催された、近鉄・前期1回戦 4番・指名打者で初出場。 この試合は無安打で終わるも、翌日の近鉄・前期2回戦において、6回、柳田から初安打がホームランという快挙。
徐々に日本野球に慣れてくると、シーズン通じて安定した成績を維持し、終わってみれば34本塁打、109打点の二冠王を獲得。 首位打者となった有藤(ロッテ)が打率329に対し、レロンは打率317であった事から、あと少しで史上初の外人三冠王が生まれる大活躍に、各マスコミも大慌て。
中には 「リーさん、ごめんなさい」 と見出しをつけ記事にしたスポーツ新聞があった程です。
翌1978年、実弟のレオン・リーもロッテに入団。 ここに日本史上初となる 「兄弟・助っ人」 が誕生します。
兄のレロンがメジャーではくすぶりながらも在籍した実績をもつのに対し、実弟のレオンはメジャー経験なし。
この日本球界入りはレロンの呼びかけだった事もあって、「コネ入団」 と批判もありましたが、4年連続3割をマークする等、兄・レロン並みの大活躍。 リー兄弟は、日本球界の最強助っ人コンビとして定着。
生涯打率(4000打席以上が対象)では、青木宣親に抜かれるまでは、歴代一位の打率320を残した他、日本球界在籍11年で規定打席到達は9年あり、9年ともに打率3割以上をマーク。 1982年は故障で規定打席に到達できませんでしたが、打率は3割をキープしており、実質は11年の内、10回もの打率3割という離れ業を達成しています。
通算安打1579本は、2008年にタフィ・ローズが抜くまで、助っ人最多安打記録。
11年連続 シーズン100安打以上をマーク。(最高は1980年の175安打)
当初問題視されていた長打力不足も、通算283安打と克服。 鈍足と言われながらも33盗塁を決め、1977年には最多二塁打王にもなっています。
日本をこよなく愛する助っ人として評判も良く、兄弟でレコードデビューを飾った他、好きなラジコンやインベーダーゲームでファンと交流する等、「日本人以上の助っ人」 とも言われました。
(1983年には、自動車会社勤務に通訳として働いていた日本人女性と結婚しています)
引退後は、日本球界在留を望むも、何故かオファー無し。 アトランタ・ブレーブスのスカウトに就任。
=通算成績=
(メジャー) 404安打 31本塁打 152打点 19盗塁 打率250
(日本) 1579安打 283本塁打 912打点 33盗塁 打率320
首位打者1回 本塁打王1回 打点王1回 打撃二冠王1回(本塁打&打点) 最多安打王1回
ベストナイン4回 月間MVP1回 パ・リーグ プレーオフ技能賞1回 オールスター出場4回
シーズン最多二塁打1回 シーズン最多塁打1回
|
|
昭和60年1月20日のデイリースポーツは江夏豊の引退式特集と、メジャー挑戦の為、ブリュワーズに向かう江夏の独占インタビューが掲載。
記者の質問 「大リーグ入りは、いつ決意したのか?」
江夏談 「オリオールズが来日した時、球場である人を通じて ”やってみないか?”と言われた。半信半疑だったが、ウインターミーティングで仕事で出かけた時、日本の野球が向こう(アメリカ)では低く見られ、馬鹿にされている感じがした。これじゃ情けない。獲ってくれるなら行ってやろうと思った。」
WBC連覇を始め、国際大会での活躍が認められ、今では野球先進国として認識された日本プロ野球界ですが、緻密な総合力はA級でも、個人の身体能力は4A(メジャーの下、3Aの上という意味らしい)の酷評は相変わらず続いています。 当然、昭和40年〜50年における評価は 「2A〜3Aの下」 とさえ言われる酷いモノ。 それでも昭和20年〜30年代における「2A並」よりは評価されたように、徐々にですが、日本プロ野球の存在が、アメリカ全土に広がり出したのが昭和40年代前後でした。
ジーン・バッキーは大学卒業後、ハワイの3Aチーム「アイランダーズ(現在は解散)」に所属。解雇されるところを、当時スポニチで記者をしていた有本義明に見いだされ、阪神に紹介を受け1962年(昭和37年)7月8日、帰りの飛行機代も持たない極貧状態で伊丹空港着。1962年8月、阪神二軍の練習場であった川崎重工グラウンドでテストを受けるも、捕手が横っ飛びしなければ捕れない程の超ノーコンぶり。 首脳陣はこぞって落第印を押す中、球威ある速球に魅了された藤本義定(当時の阪神監督)のみが 「なんとかなる!」と主張。
結果、”テスト生としてテストを続ける・・” といった、今で言う育成選手のような立場での入団となりました。
但し当時のプロ野球界事情・・。夫人と共に阪神が与えた住宅は、球場裏にあった一間と台所に和式便所という粗雑なもの。当時の外国人選手なら即怒って帰国するところを、バッキー夫妻は日本人に溶け込もうと努力。
テスト生の為、通訳はつけてもらえず、球場までは自転車で通っていた程の酷い扱いを受けながらも、当時の彼たちの暮らしを知る記者談によると、悪環境の中、夫婦とも常に明るく振る舞っていたと言います。
バッキー談 「日本人は皆親切でした。アパート暮らしの時、3人目の子が誕生したけど、妻が不正出血を起こして部屋中が血だらけ。言葉は通じないし、病院に行くにもどうしたらよいのかわからずパニックを起こした。チームメートのソロムコに連絡。彼の妻は日本人なので英語も話せる。救急車にも乗ってくれ通訳をしてくれた。その時、渡辺省三さんの妻やアパートの皆さんが、” こっち(部屋や子供たち)は任せなさい” と言ってくれた。病院から帰ると、血だらけだった部屋は綺麗に片付き、子供たちも無事。今でも彼女たちに御礼を言いたいです。」
球は速いが超ノーコンぶりがネックの中、制球力の良いチームメイトを見本に独学。
バッキー談 「私は欠点である制球力を克服しようと懸命だった。でも同じチームには制球力抜群の小山サンや村山サンがいたから参考にしたんだ。彼らは思ったところに投げ分ける能力に優れ、いつも驚かされる。いつでも投げたいところに投げられるんだ。そこで僕は彼らの足に注目した。すると常に決まったとこに踏み出す事がわかった。リリースポイントも一緒。それを知って以降は、リリースポイントと踏み出す位置を常に考えながら投げるようになった。すると徐々にコントロールが良くなっていったんだよ・・・。投手コーチは杉下サン。とにかく ”走れ、走れ” と走らされた。下半身が強くなると足の踏力が高まり、重心が安定してきたんだ。 短気な僕の頭に血がのぼるとマウンドにやってきて ”バッキー、スマイル・スマイル” と声掛けしてくれる。 おかげで冷静さを取り戻した事が多々あるよ。杉下サンと出会えた事、凄く感謝しています・・」
制球力が良くなると、上手・横手から繰り出すナックル・ボールが生きてくるようになり、来日2年目にして、33試合 23先発 151.2イニング を投げ、8勝 5敗 防御率2,47 の活躍を見せ、阪神主力投手に成長。
3年目の1964年(昭和39年)には、46試合 38先発 24完投 353,1イニング 29勝 9敗 防御率1.89という離れ業をやり遂げ、阪神セ・リーグ優勝に貢献。 外国人投手初となる沢村賞に選ばれた他、最多勝、最優秀防御率といった主なタイトルを独占。 1965年6月28日 甲子園 巨人からノーヒット・ノーランを達成。
「世紀のトレード」で小山が抜けた後、村山との二枚看板として阪神を支えます。
1968年(昭和43年)広島戦に勝利し、通算100勝を達成。 そんなバッキーに悲劇が・・・。
1968年9月18日の甲子園球場。首位・巨人とデッドヒートを展開中のWヘッダー第一試合は、エース村山の好投で阪神が勝利。第二試合はバッキーが先発。
バッキー談 「巨人戦となると、甲子園の雰囲気は凄いんだよ。僕も巨人戦となると燃えに燃えたよ・・・」
いまいち調子の上がらないバッキーは初回にノーヒットで1点を失い、更に4回もつかまり二死2・3塁。迎えたバッターは王貞治。 初球は頭部付近へのボール。 にらみ返すだけでバッターボックスに立った王でしたが、またも同じく頭部付近にボール。 普段は大人しい王が怒りの表情を露わにした事から、打撃の師匠である荒川博コーチがバッキーに飛び掛かりキック。 バッキーも反撃して右ストレートで応戦。 荒川コーチを叩き潰した(額裂傷)事により退場処分。 しかし荒川も合気道の有段者。 バッキーも右手親指の骨折が判明・・・。
利き手の親指骨折は、変化激しいバッキーの変化球を奪い、ついには選手生命も失う事になりました。
(但し本人は、”指の骨折は完治した。近鉄に移籍後、椎間板ヘルニアになって投球ができなくなった・・との事)
当時のバッキー談 「王に投げたのは内角球を要求した捕手のサイン通りにしたもので、けっしてビーン・ボールではない。王がマウンド近くにやってきたので、それを説明している時、荒川コーチが飛び出してきて、私の左太ももをスパイクで蹴ったので、自分を守る為に殴り返した。私を退場させるなら、騒ぎをけしかけた王も退場させるべきだ。退場はプロ生活で初めて。これを最後としたい・・・」
当時の王貞治談 「バッキーが不本意な点の取り方をされたので、きわどい投球をしてくるのではないかと思っていた矢先に、続けてビーン・ボールまがいの球を投げてきたので、”もっとフェアな気持ちで” と注意しに行こうとしたんだ。 ところがバッキーは、”俺だって一生懸命に投げているんだから” と血相を変えた。 これがこんな大事を引き起こすとは毛頭思ってもいなかった・・・」
当時の荒川コーチ談 「先に飛び出した千田を止めようとしたら、やられてしまった。何だかさっぱりわからない。額を切ったがたいした事はない・・・」
1969年(昭和44年)、近鉄で一年間プレーした後は引退し、出身地の中学校教員をしながら、阪神時代に蓄えた資金をもとに牧場を経営。 バッキーを支えたドリス夫人は、2011年に他界。
現在は牧場を長男に譲り、故郷ラファイエットで隠居生活を送っているとの事。(2019・1月現在)
=通算成績=
沢村賞1回 最多勝1回 最優秀防御率1回 オールスター出場5回 ノーヒット・ノーラン1回(巨人)
ベストナイン1回 シーズン最多完投2回 シーズン最多イニング1回 シーズン最多与四球1回
シーズン最多与死球2回 シーズン最多無四球1回 シーズン最多対戦打者1回
シーズン最多被安打1回
|






