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1967年(昭和42年)、メジャー球団の ” ヒューストン・コルト45‘s ” (現在のアストロズの前身) → ピッツバーグ・パイレーツ から長打力を買われてサンケイ・アトムズ(現在のヤクルトの前身) に入団した デーブ・ロバーツは、当初、日本投手の遅くて変化球主体の投球術にタイミングが合わず凡打の山。 っというのも彼のバットは速球主体のメジャーに合わせた長くて重いバットの為、バットコントロールが難しく四苦八苦。 見かねた豊田泰光が、コントロールしやすい軽く短いバットを勧めたところ、よほどマッチしたのか結果を残すようになり、33歳ながら即3番に起用されると、この年、126試合 124安打 28本塁打 89打点 打率270 の成績をあげて一躍主力選手の仲間入り。
2年目の1968年には4番を打ち、135安打 40本塁打 94打点 打率296 と大活躍。
ホームラン王を独占していた王貞治を脅かす存在に成長。 外人選手初の40本越えを記録しますが、王が49本塁打を放った事から2位でシーズン終了。
日本球界に慣れた3年目には、ハイペースで安打・本塁打を量産し、8月半ばで打撃3部門トップ。 三冠王の声が出始めた8月20日 巨人戦においてベースカバーに入ろうとした投手と交錯して右肩を負傷。 3週間戦列を離れた事が災いし、本塁打と打点王への望みは切れますが、終盤戦に一厘差で4人がひしめく首位打者争いに加わる大活躍。 結局2位で終わりますが、2年連続ベストナインに選出されました。
その後もサンケイ (1970年よりヤクルト) の主力としてプレーし、オールスターにも4回選出される人気選手として活躍しますが、39歳となった1973年(昭和48年)は開幕から不振。 シーズン途中の6月に突然戦力構想外の話が浮上し近鉄に移籍となります。
かわりにヤクルトは、メジャーでの実績は高い反面、トラブル・メーカーで有名な、” ジョー・ペピトーン ” を獲得。 しかし予想以上の我がまま・気まぐれぶりが問題となり、シーズンオフには 「日本球界から外国人を排除しよう」 運動が発生。
慌てたアメリカ野球側は、このトラブルへの謝罪と信頼回復の為、人格者で知られた ” チャーリー・マニエル ” を親善大使助っ人として来日させる事で、関係改善を図っていきます。
ロバーツは近鉄では2本塁打と結果を残せず、同年限りで引退しますが、現在に至るまでの ” 外人・最速通算100号 ” ホームラン1位を記録。 ヤクルトにおいて通算181本塁打は、ラミレスに破られるまで助っ人1位。
日本野球に真剣に取り組んだ優良外人として有名で、移動中は相手投手の癖や、相手チームのフォーメーション(守備体系)を調べてはメモし 家族も来日させて、子供はアメリカン・スクールに通わせる等、日本に馴染もうと努力しました。 また日本文化にも溶け込もうと努力する姿から、「日本人以上の日本人」と称された事も。
引退後はアメリカに帰国し、マイナー・リーグのコーチを歴任。 1960年後半〜1970年前半における黒人・名助っ人として名を残しました。
= 通算成績 =
(メジャー) 38安打 2本塁打 17打点 0盗塁 打率196
(日本) 764安打 183本塁打 492打点 22盗塁 打率275
ベストナイン2回 オールスター出場4回 シーズン最多犠飛3回
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伝説のプロ野球選手サイン集(外人
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2017年(平成29年)9月18日、甲子園球場 阪神戦に勝利した広島東洋カープは、1979年〜80年以来となる、2年連続8度目のリーグ優勝を達成しました。 男気!黒田の引退フィーバーといい、今や人気球団と言っても過言ではない広島ですが、ここに行き着くまでは苦難の連続。 初の市民球団として誕生するも、母体がなく資金難から幾度も倒産・解散・合併の危機を乗り越えてきた歴史有り。 その度に奔走して乗り越えた先人たちの努力なしでは、今の広島は存在しません。
「セ・リーグのお荷物球団」 と呼ばれ、万年Bクラスだった広島が ”赤ヘル軍団” として生まれ変わったのが、1975年(昭和50年)。 日本初のメジャー・リーグ出身監督となったジョー・ルーツは、” 燃える闘志を前面に押し出したい ” と、紺色であった帽子を赤色に変更。 (当初はユニホームも予定しますが、予算の関係で、今のユニホームとなったのは1977年から) 打線のつながりを重視し、消極的な選手には容赦ない対応をとる等、意識革命に乗り出します。 そんなルーツの眼にかなったのが、リッチー・シェインブラム(シェーン)と、ゲイル・ホプキンス。
シェーンはロイヤルズ時代の1972年、リーグ6位となる打率300を残し、MLBオールスターにも出場した好打者。 ホプキンスはホワイト・ソックス時代の1969年から3年連続でシーズン80安打以上を放った有名控え選手。当初は身長185cmで陽気なシェーンの方が、勉強肌で身長178cmと小柄なホプキンスよりも期待されていたようです。
ところが・・ シーズンが始まると、予想以上にホプキンスの打棒が爆発。 打率こそ低いものの、ここぞという場面で一発長打が飛び出す大活躍。 特に広島がリーグ初優勝を決めた10月15日 後楽園球場・巨人戦では、9回表に優勝を決定づける3ランを放つ活躍を見せ、広島の初優勝はホプキンスがいなければできなかったとさえ言われた程。 両助っ人に感化された日本選手も奮起し、山本浩=30本塁打 衣笠=21本塁打 水谷実=14本塁打 三村=10本塁打 と4人が二桁本塁打をマークしています。
日本シリーズでは阪急の前に、4戦4敗2引き分けと圧倒されましたが、ユニホームの新着に2年もかかる貧乏球団のリーグ優勝は歴史的な快挙。 赤ヘル軍団の誕生。 まさに新生・広島東洋カープの原点は、この1975年であったと思います。 (シーツ監督は開幕直後、審判のジャッジ不服に際し、オーナーが口出しした事に立腹し退任。 古葉竹識が代行指揮をとりリーグ優勝。 古葉名監督が誕生したシーズンでもありました。)
★シェーン★
1975年 117試合 105安打 13本塁打 56打点 1盗塁 打率281
1976年 122試合 128安打 20本塁打 62打点 3盗塁 打率307
★ホプキンス★
1975年 130試合 127安打 33本塁打 91打点 1盗塁 打率256
1976年 117試合 138安打 20本塁打 69打点 1盗塁 打率329
そんなホプキンスですが、「野球選手の寿命は短い」 事から将来不安があったようで、常に引退後の生き方を模索しており、目指した道は医師。 広島に入団した時、すでに選手寿命も下り坂だった為、ベンチにも医学書を持ち込み猛勉強。 休日は広島大学医学部を訪問する等、まさに異例づくし・・・。
1977年は南海に移籍しプレー後、野球を引退してシカゴのラッシュ医科大学に再入学。 その努力は報われ、オハイオ州で整形外科医となりました。
また聖書にも精通しており、地元大学で聖書学の准教授もされています。
=通算成績=
(メジャー) ・・ 324安打 25本塁打 145打点 6盗塁 打率266
(日本) ・・ 372安打 69本塁打 229打点 3盗塁 打率282
オールスター出場1回 シーズン最多出場1回
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1988年、三冠王まで獲った阪神最強の助っ人 ” ランディ・バース ” が、水頭症を患った息子の保険を巡って球団と対立し退団。 阪神は急ぎ、次なる助っ人探しとなります。
当時の日本プロ野球は変化球投手が多く、狭い球場もあってホームランが打てる打者こそが助っ人。
そんな折、メジャーのブルージェイズに、日本行きを希望する右の大砲がいると聞きつけ交渉したのが、セシル・フィルダーでした。
身長190cm 体重120kg という巨漢。 あまりに太っていた為、変化球に対応できないのでは? と疑問符がつけられる中、1989年4月8日 3番1塁でデビュー(広島戦)すると、いきなり北別府から初安打。 更に8回には長富から3ランを放つ大活躍。
この年、東京ドーム初年度でしたが、巨人・香田から放った一発は、ドーム初となる看板直撃弾。 キングコングの絵柄に当たった事もあり、来日当初のニックネーム 「荒熊」 が、「キングコング」に変わった事も(笑)
とかく大洋戦に強く、5月21日〜7月20日まで、同一カード最多連続試合本塁打(日本新記録)をマーク。 中には一試合で場外弾を含む3打席連続本塁打を放っています。
バース以上の活躍で、”本塁打王間違いなし” と言われた9月・・・ 14日の巨人戦において水野から三振を喫した際、腹いせに叩きつけたバットが当たり骨折するアクシデント。 結果、ホームラン数は38本で止まりタイトルならず。 阪神球団は再契約を求めますが、大幅な年棒アップと5年契約を要望するフィルダーと合意に達せず、結局は一年で退団。
1990年、デトロイト・タイガースと契約しメジャー復帰を果たすと、日本以上に打棒爆発。 1977年に、ジョージ・フォスターが記録して以来となる、メジャー13年ぶりのシーズン50本塁打をマーク。 この年、51本塁打 132打点 を挙げ二冠王。 更に翌1991年も、44本塁打 133打点 で連続二冠王。
その勢いは止まらず、1992年、35本塁打 124打点を挙げ、ベーブ・ルース以来となるア・リーグ 3年連続打点王となりました。
当時はバブル経済による好景気。 貿易摩擦が深刻化し、車産業で栄えるデトロイトとしては日本は憎しライバル国。 そんなデトロイトに本拠地をおくタイガースにおいて、日本からきたフィルダーの活躍は良くも悪くもネタにされ、スパーキー・アンダーソン監督は、同じく日本出戻りのビル・ガリクソンの活躍も含め、「日本製品は素晴らしい」 と発言。 結果地元では、「デトロイトが受け入れた、唯一の日本製品」 と揶揄される事も。 また肥満体型だった為、打てない時のブーイングでは、「スモウ・レスラー」 なる野次も飛んだようです。
ちなみにバースはメジャーで9本塁打しか打っていませんが、あまりの飛距離から、「ロスからニューヨークまで飛ばす男」 と言われました。そんなバースは阪神退団後、メジャー復帰する事無く引退。
本人=「私のバッティング(ホームラン量産)は風に乗せて運ぶ流し打ちであり、苦手な速球派が少なく、変化球投手の多い日本向けの打ち方。 メジャーでは通用しない・・・」
その点、フィルダーは日本で学んだバッティングで大ブレークしたわけではなく・・・ 出戻りというだけで、けっして日本製品というわけではないのですが・・・。
二年連続で打撃二冠王の快挙を達成しながら、いずれの年もMVPから漏れた背景に、貿易摩擦による日本バッシングがあり、日本製品扱いを受けたフィルダーにとっては損した部分があるようです。
=通算成績=
(メジャー) 1313安打 319本塁打 1008打点 2盗塁 打率255
本塁打王2回 打点王3回 打撃二冠王2回 長打率1回 三振王1回 シーズン最多塁打1回
シーズン最多出場1回 シルバー・スラッガー賞1回 ベーブ・ルース賞1回 月間MVP1回
オールスター出場3回
(日本) 116安打 38本塁打 81打点 0盗塁 打率302
長打率1回
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よく「封建的」との言葉を耳にしますが、この「封建」とは、上下関係を重んじるが為、個人の自由や権利を認めない様を意味します。 つまりは上の者が下の者に対し、圧倒的である事を意味指す用語であり、日本人気質にはマッチしていたようで、古くは平安時代の荘園等に由来を発するようです。
また「保守的」との言葉もよく耳にしますが、この「保守」とは、従来からの考え方・習慣・制度・伝統・組織・・を重んじ、新しい事よりも従来型を尊重する思考を意味し、これまた日本人気質にマッチしているみたいです。
日本人の伝統・・・ と言えばそれまでですが、これらの気質に対しプロ野球界も例外ではなく、「日本のプロ野球は”保守的” ”封建的”」 とよく言われるように内向思考がネックとなり、助っ人(外人選手)の活躍妨げとなってきた感は歪めません。 結果、そこそこの成績を残しても、「外人選手には〇〇を期待している。〇〇が足りない」と難癖が残り、活躍しても数年で解雇・・ のパターンの繰り返し。 逆に日本人選手には寛大で、外人選手の半分の活躍(例えば外人選手が40本塁打 日本人選手が20本塁打)であっても、絶賛し長期雇用・・。
かつて阪急在籍中のスペンサーと南海・野村克也が打撃タイトルを争った際、「外人にタイトルを獲らすな」と全球団が団結し徹底的に敬遠攻撃を行い、怒ったスペンサーはバットを逆さにもって打席に立つも、それでも敬遠した・・ という悪例があります。
ジョージ・アリアスもこんな日本野球の弊害に潰された一人。
メジャーでは芽が出ずメキシカン・リーグでプレーしていたところ、オリックス・スカウトの目に止まり2000年に入団。 全くの無名選手でしたが、1年目、116試合 103安打 26本塁打 の成績を残し残留すると、2001年には139試合 142安打 97打点 38本塁打 と打ちまくり、チーム1位の打撃成績を残します。
ところがオリックスは出塁率や打率が低い事を理由に年棒を保留。 結果、退団となり阪神に移籍・・・。
2002年、126試合に出場し、32本塁打 82打点 と大活躍。 オールスターに初出場するとMVPを獲得。
2003年は124試合 38本塁打 107打点 と打撃二冠王獲得すら狙える大活躍。 打撃タイトルは逃すも、ベストナインに選ばれます。また一塁守備もよく、ゴールデングラブ賞を獲得。 オールスターでは1戦、2戦と連続で優秀選手賞の活躍。
こんな大活躍を見せたにもかかわらず、岡田監督(当時)は 「勝負弱さ」「打率が低く、好不調がある」と指摘。
ベンチに下げられる事も・・・。 結果、2004年も25本塁打 84打点 打率272 と結果を残しながら解雇。
失意のアリアスはメジャー復帰を目指し、2005年、ナショナルズとマイナー契約を行いますが結果を残せず4月には解雇となり、再度、メキシカン・リーグに転身。
そこでの活躍と、日本時代、東京ドームでの相性が良かった事から、2006年6月28日、巨人入団が決まり日本野球に復帰しますが、すでに往年の力はなく、更に巨人ブランドの重圧もあり、この年で退団し引退。
イチローや野茂のように、アメリカ野球では人種・国籍以上に、実力ある者に栄冠が輝く中、日本では大活躍を続けても、外人という理由で即解雇・・・。 これはスペンサー時代と同じ、日本人選手保護(体力的に勝る外人選手がなだれ込んだら、日本野球選手の大半が外人選手となり崩壊するという危機感) も絡んでおり、まさに保守的な一面だと言えます。
技術的には世界にも通用する日本人選手に欠けているものは ”体格の差” ・・。
ダルビッシュ、岩隈、田中と大柄な選手も増えましたが、この体格の差問題が解消されない限り、日本野球市場のオープン化は先送りかと思います。
= 通算成績 =
(メジャー) 114安打 14本塁打 55打点 2盗塁 打率238
(日本) 612安打 161本塁打 436打点 13盗塁 打率259
ベストナイン1回 ゴールデングラブ賞1回 オールスター出場3回 オールスターMVP1回
オールスター優秀選手賞2回
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「こんなに強かったのか!侍JAPAN・・・」 第4回WBCも最終ラウンドに入ろうとしています。 メジャー組の不参加や大谷の欠場により、練習試合では国内単独チームや格下チームに敗れる有様で、当初は予選敗退すら囁かれた日本代表が無傷の6連勝。 かつて「日本の野球は2Aレベル」 と馬鹿にしたメジャー球団も、いまではスカウト合戦を繰り広げる盛況ぶり。 本当に日本の野球もレベルアップしてきました。
そんな中、独立リーグ(四国アイランド=高知)には、メジャー通算555本塁打を誇る大物 ” マミー・ラミレス ” が入団。そして、「興味をもってくれる日本プロ球団があれば移籍してプレーしたい」 と来日した本音を披露。
44歳となった彼の中には、「まだ日本野球クラスなら通用する」 という思いがあるようです。
1988年(昭和63年)、ロッテに入団したのは、メジャー通算2008安打 首位打者4回 通算打率305 という超大物 ビル・マドロック。 入団当時37歳とピークは過ぎていましたが、狭い川崎球場を見て、「この球場なら50本塁打は打てる」 と豪語。 そんな大物に対し、ロッテ球団は専用のロッカールームを用意する好待遇。 ロッテファンからも並々ならぬ期待が寄せられます。(主に指名打者で出場)
しかし・・・ いざペナントレースが始まると、打率は250前後をウロウロ。 本塁打もさっぱりで、怒ったロッテファンが、川崎球場外壁に 「マドロック立ち入り禁止」 と落書きを書く有様。
ところが当の本人はケロっとしており、バッターボックスに立つ以外は、ロッカーの裏でテレビゲームをして遊んでいたとの事。
シーズン終盤頃から日本野球と投手配球に慣れ、徐々に打率・本塁打とも復調したあたりは流石一流のメジャー・リーガーではありますが、シーズン成績は115安打 打率263 19本塁打 と期待ハズレ。
(ロッテと近鉄が優勝を巡って死闘を繰り広げた伝説の10・19では、先制となる17号ソロを放っています)
結局ロッテは、まだ1億円プレーヤーが珍しかった時代において、1億3千万円もの高額年棒が回収できず。
ただマドロックが偉かったところは、素直に現実を認め、日本野球を評したあたり。
「ボブ・ホーナーは ” 地球の裏側に、もう一つの違う野球があった ” と言ったがそんな事はない。 日本の野球だって十分にやっている」 と語っています。
= 通算成績 =
(メジャー) ・・・ 2008安打 163本塁打 860打点 174盗塁 打率305
首位打者4回 MLBオールスター出場3回 MLBオールスターMVP1回
(日本) ・・・ 115安打 19本塁打 61打点 4盗塁 打率263
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