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サイクル安打とは、一試合において同じ選手が、単打、二塁打、三塁打、本塁打 全てを放つという珍記録。
本来は単打から本塁打にかけて順番に打つもので、今では ”ナチュラル・サイクル安打” と呼ばれ、逆に、本塁打から単打にかけて打ったものは ”リバース・サイクル安打” と呼ばれます。 一般的に呼ばれるサイクル安打は、内容の順番を無視したもの。
1965年(昭和40年)7月16日、西京極球場で行われた南海 vs 近鉄15回戦後、南海の助っ人 ダリル・スペンサーが記者たちに 「今日、俺はとてつもない記録を出したのに、何故誰もインタビューしないんだ? これはサイクル安打といって、凄いことなのだ!」 と発した事から日本に定着したといういわれの記録でもあります。
ちなみに日本人プロ第1号は、初代ミスター・タイガース 藤村富美雄。(藤村は2回達成)
2003年〜2008年にかけて、中日 → 広島で活躍した、アレックス・オチョアは、メッツ時代の1996年7月3日 フィリーズ戦においてサイクル安打を達成。 更に中日時代の2004年4月13日 巨人戦においてもサイクル安打を達成。 史上唯一の ” メジャー&日本プロ野球 サイクル安打達成者 ” となり球史に名を残しました。
メジャー時代は守備の人として一世風靡。 主には控え・守備要員ながら、その守備目当てに各球団から高評価を得てメジャー定着。 入れ替えの厳しいメジャー界において、守備要員選手が、怪我や故障以外でのマイナー行きがないこと自体が稀な事。 更にレギュラーではないのに年棒は多い時で4億円あったと言いますから、中日入りが決まった時は、「守備面での超大物メジャーリーガー」 として注目を集めました。
強肩を売りに、中日スポーツが読者に 「強肩」 にかわる呼び名を公募した結果、” サンダー・ビーム ” と決まる等、強肩を度々披露。 2004年にはゴールデングラブ賞を受賞しています。
問題視されていた打力も、日本では4番並みの力を示す活躍で、来日一年目に21本塁打を放つと、翌年の2004年も21本塁打をマーク。 打率も毎年3割前後を維持。 2006年、初となるオールスターに出場し、優秀選手賞を受賞する活躍を見せました。
明るく、真面目で、親日家でもあり、日本食が大好物(特にモツ鍋)。 山本昌とTVコマーシャルに出演したり、脳腫瘍で病養中の子供と交流したりと、日本に馴染んだ助っ人でもありました。
= 通算成績 =
(メジャー) 597安打 46本塁打 261打点 56盗塁 打率279
サイクル安打1回
(日本) 847安打 97本塁打 416打点 17盗塁 打率289
ゴールデングラブ賞1回 サイクル安打1回 オールスター出場1回 オールスター優秀選手賞1回
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伝説のプロ野球選手サイン集(外人
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サイドスローから放たれる速球は160km超・・・。 独特の軌道を見せる快速球に対し、韓国では 「蛇直球」 との異名がついた程。 2008年〜2012年の間、ヤクルトスワローズに在籍していたことから、その速球の威力は日本人にも折り紙付き。
1995年に韓国プロ野球 「ヘテ」 に入団すると、3年目の1997年にはリリーフエースとして、64試合登板 14勝8敗 26セーブ 防御率2.33 と好投。 翌1998年は59試合 8勝 7敗 34セーブ 防御率1.89 の好成績で最優秀救援投手のタイトルを獲得。 「宣銅烈の跡継ぎ」 と言われる存在に成長します。
ところが、オフに3対1トレードにて三星ライオンズに移籍。
1年目の1999年、先発なしでの71試合に登板し、13勝 4敗 38セーブ 防御率2.14 で二年連続 最優秀救援投手及び最優秀防御率のタイトルを獲得。
2001年〜2003年は先発に転向。 2001年=14勝 6敗 2002年=17勝 6敗 2003年=13勝 3敗 とエースとして君臨。 2004年は再びリリーフにまわり、61試合 防御率2.01 36セーブで三度目の最優秀救援投手に。 韓国球界を代表する投手として、日本にもその名が紹介されるようになりました。
しかし、過度の登板と酷使もあって、2005年〜2007年は低迷。 希望のメジャー移籍も遠く中、三星球団の投手力がアップ。 存在が薄くなり、自由契約となった折りヤクルトが獲得に乗り出します。
ヤクルト側は 抑え=1イニング限定に絞りこんだ起用を行う事で、肘に不安のある林の精神面を解消した他、本人任せのスロー調整を要請。 それらの方針が当たり、開幕頃には150km超の速球が復活。
2008年=54試合 33セーブ 防御率3.00 2009年=57試合 28セーブ 防御率2.05 2010年=53試合 35セーブ 防御率1.46 2011年=65試合 32セーブ 防御率2,17 と大活躍。 2012年、右肘靭帯損傷で自由契約になるまで、ヤクルトの守護神として貢献しました。
林昌勇といえば、思い出すのが2009年 第二回 WBC の決勝。
この試合前にイチローが戦う決意として発した 「むこう30年は日本には手が出せないな、という感じで勝ちたい」 という言動が韓国の怒りを買い、国内でイチローバッシングが巻き起こる中、イチローに決勝点となる2点適時打を打たれ敗戦投手に。 裏では敬遠の指示があったとも言われますが、林や一部のコーチ陣としては、韓国中がイチローに対して反発している中での決勝・・ それもあの場面で勝負を避ける事はできなかったと言っています。
「韓国人としての誇りをかけて投げた。 結果打たれたんだからイチローの方が上手だった。」 と言う林昌勇。 そんな真っ向勝負に日本中から賞賛の声多々。 あそこまで日本代表を追い込んだ韓国球界のレベルアップを認める声もあがりました。 ところが韓国では逆。 「林は日本球界とつるんで、わざとイチローに打たれた裏切り者」 「憎きイチローに打たれた林は韓国の恥」 といった声が多々。 真っ向勝負の結果として受け入れていないコメントが目立ちました。
このあたりが、日本人と韓国人の国民性(又は感性)の違いなのでしょうね・・・。
= 通算成績 =
(韓国) 114勝 72敗 6ホールド 232セーブ 1294奪三振 防御率3.31
最優秀救援投手3回 最多セーブ王1回 最優秀防御率1回 ★2016年時点で現役
(日本) 11勝 13敗 21ホールド 128セーブ 231奪三振 防御率2.09
オールスター3回
(メジャー) 0勝 0敗 0ホールド 0セーブ 5奪三振 防御率5.40
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キャプテン・フックは、ジェームス・マシュー・バリーの戯曲 ” ピーターパン ” に出てくる登場人物。
片手がフック型義手で紳士的な態度。 このイメージが当てはまり、あだ名がキャプテン・フックだった名監督が、スパーキー・アンダーソン監督。
日本には1978年(昭和53年)、” ビッグ・レッドマシン軍団” ことシンシナティ・レッズの監督として来日。
安打製造機=ピート・ローズ、名捕手=ジョニー・ベンチ、2年連続二冠王=ジョージ・フォスター、2年連続MVP= ジョー・モーガン、ゴールドグラブ賞=シーザー・ジェロニモ、デーブ・コンセプシオン、他ケン・グリフィーといったメジャーを代表する名選手軍団を率いて、1975年〜1976年と2年連続でワールド・シリーズを制覇。
いかにこれらの選手が凄かったか・・・ ピート・ローズはメジャー最多の4256安打。 ジョー・モーガンの背番号8はレッズの永久欠番。 トニー・ペレスの背番号24はレッズの永久欠番であり野球殿堂入り。 ジョニー・ベンチの背番号5はレッズの永久欠番。 デーブ・コンセプシオンの背番号13はレッズの永久欠番等々。
投手力が弱点と言われたレッズですが、エースのトム・シーバーは江夏どころではない10人連続奪三振、ノー・ヒッター記録をもつ大投手。
これらの大半が来日したのですから日本中が大騒ぎ。 読売が主催だった事もあって、” 世界のホームラン王である王貞治はじめとする盟主・巨人軍主軸の連合軍との日米対決 ” といった過剰宣伝を行うマスコミも多々。 しかし・・・ 結果は14勝2敗1分という圧倒的な内容でレッズ勝利。 ジョージ・フォスターは第1戦において、後楽園球場の外野上段に設置してあったフコクの看板直撃する大ホームラン。 看板がへこんでしまったという凄まじさ。 あまりの打球の速さに驚いた名選手・高田繁して、「飛んでくるのが怖い」 と言わしめた程。
ジョニー・ベンチは17試合で9ホームランを放ち、「シーズン通じて日本でプレーしたら、60本は打つ」 と言われた程。
交流戦終了後、メジャーの選手が 「メジャーに比べ日本野球は、大人と子供くらいの差がある」 とコメントする中、最後まで 「日本の野球レベルは上昇するだろう。各選手が前向きに野球と取り組んでいる」 と紳士的な態度をとりました。 そんなスパーキーだけに、王貞治他、長嶋茂雄(当時監督)とも亡くなるまで親交が続いたと言います。
2010年11月4日、認知症による合併症にて永眠(76歳)
4030試合 2194勝(歴代5位)1834敗・勝率.545
史上初めてア・ナ両リーグでのワールドチャンピオン監督 史上初めてア・ナ両リーグで800勝以上した監督 最優秀監督賞2回(1984年・1987年)※この賞は1983年より認定 2000年 米殿堂入り その後カナダでも野球殿堂入り。 背番号10番はレッズの永久欠番 2010年、アンダーソン死によりタイガースの背番号11も永久欠番
=シンシナティ・レッズ時代(1970〜1978年)=
1450試合 863勝586敗・勝率.596 ワールドチャンピオン2回(1975〜1976年)リーグ優勝2回(1970年・1972年) 地区優勝1回(1973年)地区2位3回 =デトロイト・タイガース時代(1979〜1995年)※1979年シーズン56試合目から就任=
2580試合 1331勝1248敗・勝率.516 ワールドチャンピオン1回(1984年)地区優勝1回(1987年)地区2位3回 |
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写真は巨人・クラウン連合との対戦。 投手はクラウン 山下律夫。 捕手は若菜嘉晴。
1978年(昭和53年)、メジャー・リーグにおいて 「ビッグ・レッドマシン」 と恐れられたシンシナティ・レッズが来日。レッズは1975年、1976年と二年連続でワールド・シリーズを制覇。 王貞治の現役時代でもあり、「日米決戦」 との見出しで盛り上がり、日本中が大フィーバーにつつまれました。
特に、この年3000本安打を達成した安打製造機ピート・ローズ人気は凄まじく、少年誌の野球漫画にも、ヒーローや主人公と対戦する場面が度々描かれた程。
そんなスター軍団において、強打の4番として君臨したのがジョージ・フォスター。
身長185cm 体重84kgという恵まれた体格から生み出す弾丸ライナーの威力は凄まじく、後楽園球場における第1戦、フコク生命の看板直撃となる大ホームランを放ち、日本の野球ファンの度肝を抜きました。(投手・堀内)
フォスターは1977年(昭和52年)、1978年(昭和53年)にかけ、2年連続で、本塁打王&打点王に輝いた程の大スター。 1976年〜6年連続でシーズン20本塁打以上 90打点以上 をマーク。 1977年の本塁打王では52本塁打。 また打点王には1976年〜1978年 3年連続打点王となっています。
また俊足でもあり、1976年には17盗塁もマーク。 1978年には124得点をあげ、見事得点王のタイトルも獲得しています。 (その他、計4回にわたり、規定打席に到着しての3割打者にも)
あだ名は 「ザ・デストロイヤー」 ・・。 和名に訳すと ” 駆逐艦 ”。
由来は、彼の長打力が半端ではなく、アメリカでも 「ロケット砲」 として恐れられていた為。
とにかく打球の伸びが半端でなく、高速でスタンド・インとなるホームランは奇跡的。
そんな無敵艦隊レッズも、雨天&長旅後という悪コンディションには勝てず、初戦は伏兵・中畑の逆転弾が飛び出し逆転負け。 しかし・・ その後は調子をあげ、日本中で計17戦行い、14勝2敗1分 という圧勝。
(第5戦までは2勝2敗1分だったが、第6戦以降は、レッズの12連勝)
それも今回の親善試合には、レッズ主力外野選手のキャンセルが相次いだ結果だけに驚きます。
(更に・・・ エースのトム・シーバーは途中帰国。 主力のケン・グリフィも怪我で途中から棄権。)
= レッズ メンバー =
① ピート・ローズ (サード)
② ダン・ドリーセン (ファースト)
③ ケン・グリフィ (センター)
④ ジョージ・フォスター (レフト)
⑤ ジョニー・ベンチ (キャッチャー)
⑥ チャンプ・サマーズ (ライト)
⑦ ジュニア・ケネディ (セカンド)
⑧ ロン・オースター (ショート)
⑨ トム・シーバー (ピッチャー)
ジョージ・フォスターは1982年よりメッツ。 1986年途中よりホワイト・ソックスに移りオフに引退。
引退当時、「海のむこう(日本)でプレーしたい」 と発言した事から、ヤクルトが獲得に乗り出した事があります。
メジャー通算18年。 2000本安打にあと75本届かずの1925安打。 あれだけの天才でありながら殿堂入りしていません。 メジャーにはこのような選手がゴロゴロいます。 野球レベルもそうですが、メジャーの奥深さをあらためて感じます。 (日本野球レベルも相当にあがりましたが、ちょっと活躍するとすぐにメジャーに行きたがる選手の多さは問題です。)
=通算成績= (全てメジャー)
1925安打 348本塁打 1239打点 51盗塁 打率274
MVP1回 二冠王2回 本塁打王2回 打点王3回 シルバースラッガー賞1回
オールスター出場5回 オールスターMVP1回
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1979年(昭和54年)、メジャーのオールスターが来日。 本場野球の凄さが話題になりました。
そんな選ばれしスター軍団において、デーブ・キングマンは話題選手の一人。 っというのも、この年、48ホームランを放ち本塁打王に輝いているからです。
身長198cm。 小顔でヒョロリと背が高いキングマンは、南カルフォルニア大学時代からずば抜けた長打力を誇り、投手から外野手に転向。
1970年、全米大学代表選手となり、同年のドラフトにおいてジャイアンツから1巡目指名を受ける高評価。 翌年の7月にはメジャー昇格を果たすと、デビュー翌日には初ホーマー(それも満塁本塁打)をマーク。 その後も、ここぞという場面に強くホームランを量産。 メジャー屈指の強打者となっていきます。
しかし、長距離打者としては成功しますが打率は低く、「一発か、三振か」 のタイプ。 更に奇抜な発言・行動が見られることが多く、チームの主軸ながらジャーニーマン(球団を渡り歩くこと)状態。
ジャイアンツ → メッツ → パドレス → エンゼルス → ヤンキース → カブス → メッツ → アスレチックスですから、いかに問題があったか・・・。 日本球界に例えるならば江夏豊タイプ。 孤立しても実力があれば、どこかが拾ってくれるあたりも一緒。
1979年、48本塁打でタイトルを獲得すると、1982年(昭和57年)、再び37本塁打でキングに返り咲き。
通算本塁打442本。 通算安打数が1575本 打率が236であることからしてもわかるように、ヒット3本打てば1本はホームラン。 でもヒットは4〜5打席に1本程度・・。 一発のみで不安定な選手でもありました。
1986年(昭和61年)をもってメジャーから遠ざかり、翌年マイナーでプレーした後引退。
1試合3ホームランを計5度も達成した驚異の長打力。 記録よりも記憶に残る名選手でした。
= デーブ・キングマン =
1948年12月21日生まれ(H28・5時点で67歳。)
通算1575安打 442本塁打 1210打点 85盗塁 打率236
本塁打王2回 最優秀指名打者賞1回 カムバック賞1回 MLBオールスター出場3回
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