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江夏豊や加藤秀司のように、プロの世界においていくつもの球団を渡り歩く者の事を、アメリカでは ”ジャーニーマン” と呼びますが、ランディ・ルイーズの場合は桁違いの ”ジャーニーマン”。
マイナー時代は、レッズ → オリオールズ → フィリーズ → ヤンキース → ロイヤルズ → パイレーツ → ジャイアンツ → ツインズ を渡り歩き、2008年にしてツインズでメジャーデビューを飾ると、翌年はブルージェイスでプレー。
2009年5月には、東北楽天に入団。 2012年は横浜DeNAでプレー。
日本を去った後は、ホワイト・ソックスとマイナー契約。 その後、ヤンキース傘下のマイナーに映り、2014年からはメキシコ・リーグに移籍。
ティファナ・ブルズ → ロングアイランド・ダックス → レイノサ・ブロンコスと移り、再びロングアイランド・ダックスでプレー。
日本では到底考えられない事ですが、マイナーリーグが充実しているアメリカだからこそ、このような珍出来事が、普通の出来事として起こるのでしょうね。 逆に言えば、それだけメジャーの世界が厳しいという事。 ワンプレーのミスや怠慢は即解雇につながる世界。 日本の二軍は過保護なもので、マイナーの選手はハンバーガー食べながら長距離移動で毎日のように試合・・試合・・。 だからこそ勝ち取ったメジャーの椅子を、絶対にわたさないという闘争心が生まれる・・・。 日本で数年程度、好成績をあげたからメジャー移籍を希望って選手が多い現状について、張本ではないですが、「喝!」って言いたいですね。
(日本球界でクリーンナップのルイーズがマイナーの渡鳥状態なのに、ルイーズよりも劣る打者がメジャー移籍なんて、普通に考えたらヘンだと思いますけど・・・?)
薬物規定違反等トラブルも多いルイーズが、即解雇という厳しい世界で、常に受け皿に巡り合えたのは、その卓越した長打力。
2008年、30歳にしてマイナー部門の新人王を獲得した実力者だけに、その秘められた魅力は各球団において高いものがあったようです。
日本でも、ここぞという一発を放ち、実力の片りんは魅せますが、引っ張り一辺倒だったり、守備ミスが多かったりと定着するにはあと一歩といった感じ。 魅力的でも安定性に欠ける点が、やはり ”ジャーニーマン” となる理由なのでしょうね。
= 通算成績 =
(メジャー) 59安打 12本塁打 25打点 2盗塁 打率272
(日本) 113安打 20本塁打 60打点 0盗塁 打率239
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伝説のプロ野球選手サイン集(外人
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公表では、プロレスのジャイアント馬場=209cm となっており、かつて巨人軍に所属した折、一軍で3試合に登板した事から、日本人投手の身長記録となっています。(巨人時代は公表205cmとかバラツキがあります。)
近年、2mを越える大男助っ人が来日するようになりましたが、ファンミルの場合は桁違い。 なんと216cmもあり、もしメジャーでの登板があれば、大男そろいのメジャーにおいても最高身長になると言いますから驚きのデカさ。
ヨーロッパでは珍しく野球の盛んなオランダ出身。2005年まではオランダのプロリーグであるフーフトクラッセに所属。 8チームが参加するこのリーグは年々実力も高まっており、アメリカ式に二部リーグまで存在する盛況ぶり。 オランダリーグで活躍するファンミルに目を付けたツインズは、2006年にマイナー契約を求め合意。
2Aでは主に中継ぎや抑えで登板。 2A通算 6勝 18敗 144奪三振。 その後、3Aに昇格し、あと一歩でメジャーデビューにまで漕ぎつけます。
またその間、オランダの中心選手としても活躍。 2008年の北京オリンピックにも代表投手として参加しています。
2013年の第三回WBC大会にもオランダ代表に選出される中、オフには来日しソフトバンクに売り込み参加を行うも合意に達さず。 翌2014年の春季キャンプにおいて楽天に売り込みをかけ無事合意。(当初は育成選手。その後、支配下登録となります。) 韓国・起亜との練習試合において151kmの速球で1イニング無失点に抑えた事が星野監督(当時)に評価されたとの事。
2A時代、最速159km 平均球速153kmだったというファンミルだけに、その潜在能力は脅威になるかもしれないとの憶測が飛び交い、ファンの期待も高かったのですが、日本では制球面とコンビネーションを重視したピッチングを行った為、豪腕投手というよりは打たせてとるタイプといった印象が残ります。 (スライダーとチェンジアップが武器)
結局は一年で自由契約を受けますが、現在もオランダリーグに復帰し、代表選手として活躍しているとの事。
=通算成績=
(日本) 0勝 1敗 0ホールド 0セーブ 7奪三振 防御率4.15
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メジャーにおいて、実力はあっても開花せず、日本に来るや大活躍・・・ という助っ人選手は多いですが、来日2年目以降にして一時的に開花し、すぐに去って行く・・・ といった助っ人も多々。
ブラゼルは圧倒的な長打力を武器に、阪神時代の2010年、マートンとともに大活躍をみせ人気者に。
この年、167安打 47本塁打 117打点 打率296 という高水準の成績を残しますが、ラミレスがそれらを上回る成績を残した為、残念ながらタイトル獲得には至らず。 (ラミレスは本塁打49本 129打点 で二冠王)
しかし、この年のパ・リーグは、本塁打王がT岡田の33本、打点王が小谷野栄一の109打点だった事からしても、運がなかったというしかありません。
メジャーに昇格できた年は2年のみ。 通算10安打 1本塁打 3打点 という散々な成績でしたが、マイナー・リーグでは常にトップクラスの成績を残す実力者として注目を浴びます。
(2007年のロイヤルズ時代では、2A=ウィチタで7本塁打 3A=オマハで32本塁打 を放ち、本塁打王に輝いています。)
結果が残せなければ即解雇のメジャーにおいて、長年に渡りマイナー契約を結ばせた実績と、150m弾を連発する驚異の長打力に注目した西武ライオンズは、2007年オフに推定年棒1億円で1年契約。
「メジャーにおけるマイナー生活は日本における二軍よりずっと厳しい」 と言われる中、メジャー控え選手をも凌ぐ1億円契約ですから、その球団期待は高く、カブレラの後釜として背番号も 「42」 を提示。 (カブレラがつけていた背番号)
2008年、130試合に出場し、110安打 27本塁打 87打点 とまずまずの成績を残します。
反面、野村克也(当時・楽天監督)が、「右投手が右膝下に落とせば三振する」 と攻略方法を言い放つように、内角低めにくる変化球にモロく、ライト方向への打球が多い事から対策シフトをしかれた結果、打率は234と低迷。 更に怪我が多いという不運も重なり、チャンスをものにしようと真面目に取り組む姿勢は評価されるも、オフに自由契約選手となります。
2009年はオリオールズとマイナー契約後、独立リーグに参加。 6試合で4本塁打と活躍する中、不振の助っ人にかわる長距離砲をさがしていた阪神の目にとまり、5月28日、急遽球団。
この年82試合に出場し、16本塁打 打率291 の成績を残し残留。 そして翌年大ブレークした要因は、野村克也が言った右膝下に落ちる変化球に対応する為、日本人コーチの意見に従い真面目に取り組んだ事。
ファンサービスも良く、人気・評判の良い助っ人でしたが、阪神時代も怪我が多く、「生涯阪神」 を希望しながら2012年に自由契約。
2013年〜2014年はロッテに所属しますが、2年間の通算成績が31安打 5本塁打ではどうしようもなく、現役希望しながらも無念の帰国。
現在も復帰を目指して所属チームをさがしているとの事ですが、35歳(H27現在)という年齢もあり、状況は厳しい様子・・・。
= 通算成績 =
(メジャー) ・・・ 10安打 1本塁打 3打点 0盗塁 打率263
(日本) ・・・ 613安打 133本塁打 412打点 1盗塁 打率269
ベストナイン1回 月間MVP1回 オールスター出場1回
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2014年、台湾公立 嘉義農林学校(現・国立嘉義大学)の甲子園出場を描いた映画 「KANO 1931海の向こうの甲子園」 が話題になりました。 映画には少年期の呉も登場します。 (当時の名前は 「呉 波」 でした。)
身長167cm 体重64kg という体型は、今のプロ野球なら採用されない可能性すらありますが、戦前・戦後あたりでは普通の体型。 俊足・強肩であり、打つやいなやベースを駆け巡る姿があまりに印象的な為、ついたあだ名が、「人間機関車」 ・・・。
主にセンターを守り、定位置からライナーで返球する為、ランナーは進塁する事ができず・・・ が当時、呉最大の見せ場だったと某資料に書かれています。
嘉義農林学校時代は近藤兵太郎監督のもと甲子園に4度出場。(春1回 夏3回) 投手兼が外野手をつとめます。 当時の台湾は物資乏しき時代。 記録によりますと呉は裸足でプレーしたとの事・・・ 今の時代なら即高野連からストップがかかります。
1937年(昭和12年)に巨人軍入団。 当時は春・秋の2シーズン制の為、試合数が少ない事もありましたが、初年度は春=打率289 秋=打率327 と大活躍。 注目すべきは本塁打0に対し、春のシーズンにおいて三塁打が8本。 55試合で8三塁打なんて今の時代では考えられません。
1942年(昭和17年)、前年に始まった太平洋戦争の影響でボールは粗雑化。 俗に言う 「飛ばないボール」となる中、打率286で首位打者を獲得。 翌1943年(昭和18年)は打率300で二年連続首位打者に。
1944年(昭和19年)は阪神でプレーします。 これは1943年オフ、台湾に帰る予定だった呉を阪神が口説き落とした為。 戦争は末期に入り日本は続々と敗戦を繰り返す中でのシーズン。 主だった選手も戦地に流され、巨人を解雇された沢村栄治は輸送艦ともども散惨したこの年、19盗塁を決めた呉は初の盗塁王獲得。
戦後1946年(昭和21年)、早々に阪神復帰しますが選手不足もあり、投手兼野手として出場。 現在の大谷(日本ハム)より先の二刀流選手として、戦後初となるノーヒット・ノーランを達成しました。
1949年(昭和24年)に起こった二リーグ分裂騒動では、阪神時代の同僚だった若林に誘われ、新設されたパ・リーグ 毎日オリオンズに移籍。 史上初となる実働20年選手となった1957年(昭和32年)引退。
通算本塁打数が21本なのに対し、通算三塁打数は81本。 まさに人間機関車でした。
= 通算成績 =
1326安打 21本塁打 389打点 381盗塁 打率272
MVP1回 首位打者2回 盗塁王1回 最多安打王1回 オールスター出場2回
ノーヒット・ノーラン1回 野球殿堂入り
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身長186cm 体重93kg という恵まれた体格から、メジャー時代、4年連続で20本塁打以上を放ち、当時としては珍しい現役バリバリのメジャー・リーガー助っ人として阪神ファンに愛されたカークランドですが、意外にもこれといったタイトル歴はなく、打率も240〜260を行ったり来たり・・・。
しかしインパクトは抜群で、宿敵の巨人との試合となるとホームランを量産。 1969年(昭和44年)には1イニング2本塁打をマーク。 それも引退前とはいえ、当時日本一の大投手・金田正一とエースの堀内恒夫からとなると、阪神ファンが騒ぎ立てるのは当たり前。 ガムを噛みながら打席に入る外人はいても、爪楊枝をくわえて打席に入る選手はカークランドのみ。 その仕草が、当時流行っていた 「木枯らし紋次郎」 に似ていた事から、ついたあだ名が ” モンジロウ ” ・・・。
昭和40年代のプロ野球って、ある意味ほのぼのとしており、庶民の娯楽スポーツNo1だった理由がわかるような気がします。
来日は1968年(昭和43年)。 当時の阪神は投に対して打の主軸が弱く、特に一発長打を期待できる選手がおらず・・ の状態。 (投手は村山、江夏、バッキーとそろっていました。 田淵の入団は翌44年。)
そんな中、メジャー実績があるカークランドが期待通りの活躍を見せ、37本塁打を放ったのですから、阪神ファンとしては王、長嶋を得た気分もあったのでしょう。 以後、打率&本塁打の成績はガタオチしていきますが解雇とならず、1973年(昭和48年)まで実に6年間も阪神の主軸として在籍します。
時代は巨人V9末期。 特に1973年といえば、阪神と巨人の優勝争いが最終戦にまでもつれ込む熱戦となりますが、肝心の主砲・カークランドは打っては最後の打者として三振。 守備でもお粗末さを披露。 なにげないライトフライがヒットにかわるシーンは、今のレベルなら即二軍行き確実のプレーです。
試合も阪神が負け、優勝は宿敵・巨人に・・・ となれば血の気の多い阪神ファン。 一部が暴徒化し、球場内になだれ込む惨事となりました。 (その為巨人は胴上げやセレモニーを取りやめる事に・・・)
オフに阪神を去りますが、あくまで引退であり解雇ではなかったあたり、いかに愛されていた助っ人かわかります。 爪楊枝をくわえたのはファンサービスでもあり、自身がリラックスする為でもあり・・ との事。
アメリカでは定番の、ウサギの脚を幸運のアイテムとしてもつ等、何かと話題のある助っ人でもありました。
背番号は 「31」 ・・ 後に掛布が引き継ぐ事になります。
38歳での引退。 帰国後は野球から離れ、車両整備の仕事をされたようです。 81歳(H27年時点)となられますがお元気な様子。
= 通算成績 =
(メジャー) ・・・ 837安打 148本塁打 509打点 52盗塁 打率240
(日本) ・・・ 559安打 126本塁打 304打点 7盗塁 打率246
シーズン最多出場試合2回 シーズン最多打数1回 三振王2回
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