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昭和レトロに思いをよせ・・ 古き良き時代を振り返り・・

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身長211cm 体重150kg の巨体を誇る ヤン”ザ・ジャイアント”ノルキヤ。
南アフリカ共和国出身。 日本ではK−1ファイターから総合格闘技に。 大晦日の定番男として活躍。
「南アフリカの大巨人」「覚醒する大巨人」の異名をもち、南アフリカ キック・ボクシング スーパー・ヘビー級王座を保持した実力者。

ボクシングでは10勝無敗(9KO又はTKO。1判定勝ち)と驚異的な強さを誇り、キックボクサーに転身。
K−1初参戦は1998年4月9日 「K−1 KINGS98」 においてマット・スケルトンと対戦。3R 0:47 パンチの連打を浴びTKO負けという屈辱。 同年10月28日、長井満也戦では1R 2:51 左ストレートが決まりTKO勝ちして初勝利。 しかし第3戦 ミルコ・クロコップ=4R KO負け、第4戦 マット・スケルトン=3R 判定負け、ジェロム・レ・バンナ=1R KO負け、ピーター・グラハム=延長・判定負け と4連敗。 超巨体ながら動きも早く、リーチも長いのですが、それ以上の動きで攻撃されるとモロさが目立ち、以後の試合でも、勝ったり負けたりの繰り返し。 キックボクシングは2013年 ” K-1 World Ichigeki Cup 2013 ” まで参戦。 6月29日 レチ・クレバノフ相手に判定負けをもって終了。
          
   =キック・ボクシング通算成績= 25試合 9勝 16敗 引き分け無し。
   9勝 ・・・ 8(T)KO勝 1判定勝  16敗 ・・・ 11(T)KO負 5判定負

総合格闘技には、2001年8月19日から参戦。
” K-1 ANDY MEMORIAL 2001 〜JAPAN GP 決勝戦〜 ” にて、ゲーリー・グッドリッジを相手に、1R 1:11 腕ひしぎ十字固めを受け敗戦。 2001年12月23日 PRIDE18 山本憲尚を相手に、またも腕ひしぎ十字固めを受け敗戦。 巨体と重いパンチで威圧感がある中、倒され腕をつかまれると、あっけなく腕が伸びきりギブアップ負けが続く等、どちらかと言えば 「曙」 に近い存在に・・・。
そんな中、2002年12月31日 大晦日 ” INOKI BOMーBA−YE2002 ” に出場し、元小結で借金男の安田忠夫と対戦。 安田は前年の大晦日に、K−1の強豪ジェロム・レ・バンナをチョーク・ギロチンで撃破する大金星を挙げた男。 実況の古館も、「K−1の威信をかけた戦い」と語る戦いは、1R終了間際に、ノルキヤのパンチとキックを集中砲火された安田陣営が、2R早々にタオルを投げ込みTKO勝ち。

安田の敗戦により、プロレスの威信をかけた新日本は、2003年5月2日 エースの中邑真輔が対戦し、2R3:12 ギロチン・チョークで勝利すると、同年12月31日 大晦日において喧嘩番長の異名をもつ成瀬昌由と対戦させ、1R4:40 チョーク・スリーパーで勝利。 この一戦、成瀬は173cm 90kg 29歳 で、ノルキアは211cm 140kg 30歳 と紹介され、お茶の間でTVを見る人たちは、圧倒的に成瀬が不利との見方が強かったといいますので、プロレスラーの強さを世間にアピールした一戦でもありました。
総合格闘技は2009年5月26日 ソクジュ戦をもって終了。(1R2:29 パウントKO負け)
   
  =総合格闘技 通算成績= 8試合 2勝 6敗 引き分け無し。

尚、2003年〜2004年にかけて、「ヤン・ザ・ジャイアント・コンビクト」 「ザ・コンビクト・ノルキヤ」 のリングネームでプロレスにも参戦しています。

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2013年3月22日に開幕した、第85回 記念・選抜甲子園大会において、四国枠から選抜された済美高校のエースは、2年生の安樂智大。 最速150kmを投げる大会屈指の大型投手として注目を集める中、初戦の広陵(広島)戦では、延長13回 232球を投げ、4−3で勝利。 2回戦=濟々黌(熊本)4−1、準々決勝=県岐阜商(岐阜)6−3、準決勝=高知(高知)3−2 と破り決勝に進出。 
この大会において、安樂は最速152kmを記録。 今後メジャーのスカウト迄が参戦してのスカウト合戦が予想される大フィーバー。 TVニュースや新聞でも安樂色で染まった程。
反面、連投による疲労が懸念され、決勝で投げさせるべきかの議論が、専門家を中心に巻き起こります。 当然、その矛先は監督の上甲正典に向けられる中、注目された決勝戦において、先発したのはやはり安樂・・・。 
(決勝前夜のインタビューにおいて、上甲=” 相手に離されず最少失点で守りたい。最後に1点多く取って終われたらと思う。(安樂には)精神力で投げてほしい” とコメント)

決勝の相手は強打の浦和学院。 先取点は済美。 安樂は4回まで無失点で抑え、あと5イニング抑えれば、紫紺の優勝旗・・・のはずでしたが、5回以降は球速が落ち、後半は浦和打線に滅多打ちに遭う始末。 終わってみれば、18安打を浴び、17−1という記録的な大敗。 (17失点全てが、5回以降という異例な結末でした)
この大会において、投げた球数は5試合で772球にのぼり、逸材として目をつけていたメジャー関係者は一斉に、「甲子園は悪魔の大会。 せっかくの好投手を潰す為の大会だ!」 と酷評。 この記事が世界中に広まり、高校野球の休養日や球数制限議論が勃発する等、大事件へと発展していきました。
(5試合の成績は、46回を投げ、自責点12 防御率2.35 奪三振37 であった事からも、決勝での大敗は、過酷な投げ過ぎが原因と報道されました。)

この世論の声に板挟みとなった上甲監督は、連日、TVや新聞・雑誌に追い立てられ悪人扱い。
「高校野球の指導者として、選手の将来(プロ野球)は考えないのですか?」 の質問に、「辛さや苦しさを乗り越えるところに高校野球の素晴らしさがあり、悔しさを体験する事で人間は成長します。 安樂に連投させたのは、彼の成長を促す教育の一環からです」 とコメント。 また別のインタビューでは、「球数の問題はプロでもよくいいますね。でもそれは日本の伝統ある高校野球にはそぐわない。肉体の限界を精神力で乗り越える。武士道精神のような厳しさもまた高校野球だと思います・・」とコメント。
高校野球はあくまで教育の一環と主張する上甲監督に対し、専門家やマスコミは 「指導者の思い上がりだ」「選手の将来を潰す行為は、教育の一環とは言えない」 と猛バッシングの嵐。 せっかくの準優勝が台無しとなってしまいました。

結局、上甲監督は体調を崩し(大会前あたりから体調は思わしくなかったとの事)、問題となった選抜大会の翌年(2014年)、胆道癌のため永眠。 (享年67歳)

宇和島市の山間にある三間町生まれ。 宇和島東高校に進学し、三塁手となるも甲子園出場無し。
龍谷大学に進学。 卒業後は京都でセールス職につくもすぐに辞め、故郷の宇和島に帰り、薬品会社に再就職。 その後、独立して上甲薬局を開業すると共に、1975年(昭和50年)には宇和島東高校・野球部コーチとなり、2年後には監督に就任します。 当時の宇和島東は、強くも弱くもない程度の高校でしたが、地元は少年野球が盛んで、有望な選手がゴロゴロしており、1987年(昭和62年)夏に甲子園初出場。 翌年、第60回 選抜甲子園大会では、下馬評を覆し、決勝では好投手・山田のいる東邦(愛知)を6−0で破り、初出場初優勝。
2001年、妻を癌で亡くしますが、「あなたから野球をとったら何が残る?」 の言葉を受け、薬局をやめて松山市に引っ越し、女子校から男女共学となり創部された、済美高校・野球部監督に就任。
わずか2年で甲子園出場を決めると、福井優也、鵜久森淳志、高橋勇丞といった後のプロ選手を有して、第76回 選抜甲子園大会優勝。 夏も甲子園決勝に進出するも、田中将大のいる駒大苫小牧に逆転負けし準優勝。

済美高校の校歌であり校訓である 「やればできるは、魔法の合言葉」は上甲監督の口癖からとったもの。
箕島高校=尾藤監督を真似て、常に笑顔で選手を出迎える姿は、「上甲スマイル」と呼ばれました。

=甲子園通算成績=
★宇和島東 ・・・ 春4回(7勝 3敗 優勝1回) 夏7回(3勝 7敗)
★済美    ・・・ 春2回(9勝 1敗 優勝1回 準優勝1回) 夏4回(6勝 4敗 準優勝1回)
  計        甲子園出場17回  春=優勝2回 準優勝1回  夏=準優勝1回
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1996年8月21日 第78回 夏の甲子園大会決勝は、松山商業(愛媛) VS 熊本工業(熊本) の顔合わせ。
過去、夏4回の優勝と3度の準優勝の実績から、” 夏将軍 ” の異名をもつ松山商業に対し、過去2度の準優勝があり、川上哲治をはじめ、多数の有名プロ選手を輩出した熊本工業。 しかし対戦するのは初めて。
一回の表、松山商業は3点を先取して主導権を握りますが、熊本工業もその後は失点を防ぎながら2点を返し、9回表の終了時点では3ー2で松山商業がリード。 9回2アウト ランナー無しと追い詰められた熊本工業。 打席には1年生の澤村。 もはやこれまで・・と誰もが思った瞬間、レフトスタンドに奇跡の同点ホームランが飛び出し、流れは熊本工業へ。 そして10回裏、熊本工業は、先頭の星子が左中間に二塁打。 松山商業は投手を新田からエースナンバーの渡部に交代。 打者・園村は送りバントを決め、星子は三塁へ進塁。 
ここで松山商業は満塁策。 澤田勝彦監督は、好投してきた2年生投手・新田をベンチに下げ、正右翼手の矢野勝嗣にチェンジ。 絶体絶命の松山商業に対し、打者・本多はスクイズではなく強打。打球はライトへの大飛球。
若干、風に押し戻されますが80mの大飛球と、俊足・星子だけに、アナウンサーも打った瞬間 「これはいった〜」と叫ぶ中、矢野のバックホームは、「ここしかない」という程ピッタリの大返球。 
タッチプレーというよりも、ミットに球が入り、そのミットに星子がぶつかったような形となり、判定は 「アウト」 ・・・。 後でスロービデオで見ても、ごく一瞬早くタッチが確認できたという程の奇跡が起こり、息を吹き返した松山商業は11回表に、好プレーをした矢野がレフト前にヒット。 これを9回裏に劇的な同点ホームランを打った1年・澤村が処理を誤り二塁打とし、一気に3点を奪った松山商業が5度目の全国制覇を達成したのでした。

松山商業監督の澤田勝彦は、松山商業のOB。1980年代の巨人エースであった西本聖と同期にあたり、選手時代は控え捕手。 甲子園に出場経験無し。 (ちなみに、西本聖の実兄=明和と、澤田の実兄=悟も、松山商業の2年先輩でバッテリーを組み、夏の甲子園準優勝しています)
駒澤大学に進学。 同期は石毛宏典(西武等)がおり、卒業後は東京の信用金庫に就職が決まっていたそうですが、当時の松山商業野球部・部長の強い要請もあって帰郷。 野球部コーチを経験しながら、1988年9月1日、前任の窪田監督より監督職を引き継ぎます。(松山商業22代監督)
但し、名門・松山商業は、常に甲子園出場と常勝が求められる存在。 就任後、春・夏 計3度の甲子園出場を果たしながら、全て初戦敗退という内容に、全国のファンやOBから避難が殺到。 この1996年の夏出場には、悲壮な覚悟があったとの事。 
2001年=第83回 夏の甲子園大会では、好投手・阿部健太(近鉄・阪神)を擁して、ベスト4の好成績。
以後、甲子園への道は厳しく、2006年、体力の衰えを理由に勇退を決意。 後任は白石勇二コーチ。

2010年、北条高校に異動となり野球部監督に就任。
指導方針は目標が「甲子園」、目的が「人間形成」。「人間的に優れていなければ良いプレーヤーになれない」が持論。座右の銘は「勝機一瞬」 (勝つチャンスは一瞬、逆に敗因となるのも一瞬。常に一球一球を一瞬一瞬を大切にするという意味)

「奇跡のバックホーム」 に関するエピソードとしては、プレーの直前にライトを交代させるか迷っていたところ、どこからか 「今を乗り越えないと次はない」 と天の声が聞こえたことで迷いが消え矢野を起用し、語り継がれるプレーが生まれたとの事。
また松山商業では、外野からのバックホームは、ワンバウンド返球か内野中継と決まっていたそうですが、外野の定位置からの返球に限り、ダイレクト返球をしてもよいと指導。 この事を澤田監督は忘れていたそうですが、矢野外野手は覚えており、とっさに投げた返球であったとの事。

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2016年(平成28年)7月15日 第98回 夏の甲子園・大阪予選2回戦において、PL学園は、東大阪大柏原高と対戦(初戦)。 2015年から新入部員を停止しており、3年生のみで戦った結果、6−7で敗退。  無数のプロ野球選手を輩出し、PL学園=日本最強高校 と言われた名門が、その歴史に幕を閉じました。 廃部となった表向きの原因は、”いじめ” 等の暴力事件が引き金と言われますが、実際はPL教信者の減少による経営不振だとの見方が大半。 全盛期には高校の生徒数が1000人にも達した程のマンモス校でしたが、2015年におけるPL小学校の入学者は、わずか3人。 高校も外部からの受験者が28名であり、競争倍率は、大阪府の共学私立において最低の数字。 PL教が公表した信者数は90万人に対して、全信者向き発行機関紙 「芸生新聞」 の発行部数は7万部程度であり、全国に400はあると言われたPL教会も、今では半分程度になっているとか・・・。 これまで信者からの寄付金を基に、全国から有望な選手を集め、特待生として無償で寮生活を送らせながら、全国屈指の強豪校を維持してきただけに、苦しい教団の台所事情が、名門野球部の解散につながったとしたら・・・ 何とも切ない話です。

PL学園が初めて甲子園に姿を現したのが、昭和37年・選抜甲子園大会。 初戦の高鍋高を3−2の接戦で破り甲子園初勝利。 2回戦では強豪・高知商を3−0で下し、初出場ながら準々決勝に進出。 しかし古豪・松山商の前に0−9と大敗。 以後、激戦区・大阪を勝ち抜いては度々甲子園に出場しますが、よくて準々決勝まで。
昭和45年・夏の甲子園大会は決勝進出し、惜しくも東海大相模の前に、6−10で敗れ準優勝を果たすも、昭和46年・夏は初戦、47年・春は2回戦、49年・夏は初戦で敗退。 今一つ結果が残せない状況が続きます。

転機が訪れたのが、昭和51年・夏の甲子園大会。桜美林高校と決勝で対戦し、延長11回 3−4で敗れるも、2度目の準優勝。 昭和53年・夏の甲子園大会でも決勝に進出。 9回まで高知商にリードを許す苦しい展開の中、土壇場で逆転初優勝。(逆転のPLとして流行語に・・) 一躍、全国の強豪校として名を連ねます。
PL学園のOBであった中村順司は、準優勝した昭和51年に、PL野球部コーチに就任。 1980年(昭和55年)秋に監督に就任しました。

中村監督談=「指導者として気をつけた事は、選手に怪我をさせない事。 身体を正しく使う事ができれば、故障はしなくなります。 高校生は身体が発展途上です。 高校で野球を終わらせるのではなく、大学、社会人になってもずっと続けてほしいですから、その為、高校時代に身体を作る。 それでも故障するのであれば、何か要因があるはず。 僕はコーチ時代に、カイロプラクティック(身体の構造と機能的役割を医学的に分析。特に脊髄)を勉強したので、それが指導の基本ですね・・」

それまでの高校野球は「根性」「猛特訓」といった非科学的なものばかり。それを身体力学的観点で指導するという現代指導は効果を発揮。 昭和56年・選抜甲子園優勝。 昭和57年・選抜甲子園優勝 と春連覇を達成。
更に昭和58年・夏の甲子園大会では、史上初となる夏・春・夏三連覇を目指す徳島・池田高校を準決勝で破り、二度目の夏・全国制覇を達成。 翌59年・選抜甲子園でも決勝に進出。 惜しくも岩倉高校に0−1で敗れましたが、中村監督は、この大会の準決勝時点で、甲子園20連勝という不滅の大記録を達成しました。

某選手談=「池田高校と対戦が決まった時、皆、どことなく悲壮感があった。水野君の速球やシュートを、引っ張って打つのは難しいが、中村監督の指示は、下手に流し打ちとかしないで、”思いっきり引っ張ってこい” でした。結果、桑田が特大のホームラン・・ 計3発のホームランにつながりました。 ”池田だって同じ高校生” だと言って、精神的な緊張を解す・・ 中村監督に言われると、何かそんな気分になる。 才能を見抜く目があり、実力があれば1年生でも積極的に使っていく。 昔からの慣例に拘らず、新しい事を取り入れる事ができる。 人を使いこなす事にたけた監督でした・・・」

1985年(昭和60年)夏の甲子園。KKコンビで全国制覇。 1987年(昭和62年)には春・夏連覇を達成。
中村監督談=「PL学園の強さの裏には、上下関係の厳しさもありました。僕も経験者の一人。1年生は先輩に付き、学びながら覚える。それらが身につき、実践に活かされます。またこれらは人間育成にも役立つ。立浪が1年生の時、寮に客がきたので風呂の用意をさせた事があります。 客が風呂に行くと、椅子の上に、ナイロンタオル、石鹸、シャンプーが置いてあったそうで、客が感心していました。 これがPLの強さなんだと・・」

1998年の選抜甲子園・準決勝で、松坂大輔の横浜高に敗れ、18年間務めた監督を勇退。
甲子園通算16回出場 58勝 10敗 勝率853。
(春) 出場10回  31勝 7敗 ・・・ 優勝3回(1981、1982、1987) 準優勝1回(1984)
(夏) 出場 6回  27勝 3敗 ・・・ 優勝3回(1983、1985、1987) 準優勝1回(1984)

1981年春 ○5-0岡山理大付 ○1-0東海大工 ○8-2日立工 ○4-0倉吉北 ○2x-1印旛 (優勝)
1982年春 ○4-1東北 ○2-1浜田 ○1-0箕島 ○3x-2横浜商 ○15-2二松学舎大付 (優勝) 1983年夏 ○6-2所沢商 ○7-0中津工 ○6-2東海大一 ○10-9高知商 ○7-0池田 ○3-0横浜商 (優勝) 1984年春 ○18-7砂川北 ○10-1京都西 ○6-0拓大紅陵 ○1x-0都城 ●0-1岩倉 (準優勝) 1984年夏 ○14-1享栄 ○9-1明石 ○9-1都城 ○2-1松山商 ○3-2金足農 ●4-8取手二 (準優勝) 1985年春 ○11-1浜松商 ○6-2宇部商 ○7-0天理 ●1-3伊野商 (ベスト4) 1985年夏 ○29-7東海大山形 ○3-0津久見 ○6-3高知商 ○15-2甲西 ○4x-3宇部商 (優勝) 1986年春 ●1-8浜松商 1987年春 ○3-1西日本短大付 ○8-0広島商 ○3x-2帝京 ○8-5東海大甲府 ○7-1関東一 (優勝) 1987年夏 ○7-2中央(群馬) ○7-2九州学院 ○4-0高岡商 ○4-1習志野 ○12-5帝京 ○5-2常総学院 (優勝) 1992年春 ○14-1四日市工 ○3-1仙台育英 ●0-2東海大相模 (ベスト8) 1994年春 ○10-0拓大一 ○4-0金沢 ○10-1神戸弘陵 ●4-5智弁和歌山 (ベスト4) 1995年春 ●7-10銚子商 1995年夏 ○12-3北海道工 ○3-1城北(熊本) ○10-5日大藤沢 ●6-8智弁学園 (ベスト8) 1996年夏 ○4-0旭川工 ○11-4県岐阜商 ●6-7高陽東 1998年春 ○5-1樟南 ○9-0創価 ○3-1敦賀気比 ○3x-2明徳義塾 ●2-3横浜 (ベスト4)
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第100回 記念大会となった夏の甲子園。 史上最多56校の参加と、熱戦・豊富な話題も多く、観客数は史上初の100万人を突破。 あらためて高校野球の面白さを体感する大会でした。
私学の名門が集う中、圧倒的な戦力で優勝した大阪桐蔭は別格。 ただ、全国のエリートを寄せ集めた大阪代表の優勝は、本来の高校野球の社会的意義に即しているのか、疑問が残る大会でもありました。
(投)柿木=佐賀、(捕)小泉=和歌山、(内)山田=愛知、(内)根尾=岐阜、(外)宮崎=奈良、控えは1名以外、全員が県外選手。 その点、準優勝した金足農業は秋田の県立高。 メンバー全員が秋田県出身という純粋な県の代表校。 エース吉田を中心に、勝って校歌を歌う姿は、昭和の野球少年そのもの。 エースが投げ、集った仲間が一丸となって戦う高校野球は、「時代遅れ」と言われながらも共感を呼び、金足農業フィーバーを巻き起こしました。

昭和の高校野球は、地方の公立校に熱血な名監督が就任。時に失敗し、時に挫折しながらチームをまとめ、各選手が個性を生かし、総力で勝ち進むドラマが多く見られ感動と興奮を呼んだものです。
和歌山県立・箕島高校もその一つ。 昭和3年に創部という歴史を持ちながら、長きにわたり低迷。 昭和41年に、同校OBでもある尾藤公が監督となると頭角を現し、昭和43年 第40回・選抜甲子園では、初出場ながら東尾修投手を擁してベスト4。 昭和45年 第42回・選抜甲子園に2度目の出場。 島本講平投手を擁して見事、優勝という快挙を達成しました。

大叔父が和歌山相互銀行(現・紀陽銀行)の社長であった尾藤公は、その縁故で同銀行の社員。 同行OBという縁からコーチとなり、監督を引き受けたというボンボン育ち。その為、猛特訓こそが強さの理由と言わんばかりの熱血ぶりが、選手やOB間とわだかまりを生み、全国優勝しながら監督退任という事態を呼びます。

退任後は銀行員に戻らず、地元ボーリング場の従業員として就職。 
尾藤談=「何もかもうまくいっていた時は気が付かない事って多いです。世の中を甘く見てしまう自分がいた。全てを捨て、一から何かを始める事の大変さを、一般の企業に再就職した時に知りました。接客の難しさ、社会の厳しさ、人との接し方・・ 我慢と辛抱を学びました。」

昭和49年9月、箕島高校監督に復帰。 このボーリング場経験を活かし、これまでのスパルタ式練習から、厳しい中にも笑顔を取り入れた ” のびのび野球 ” に変換。 ピンチ、エラーの時も笑顔で選手を送り出し、迎え入れる姿は 「尾藤スマイル」 と呼ばれ、これにより選手は失敗を恐れたり、萎縮する事がなくなったと言います。 (後の名監督となった阪口慶三や上甲正典も、尾藤スマイルに影響を受け、真似たと言います)
また、投手が7回あたりから疲労で調子を落とす事から、知り合いの医師に相談し、ハチミツ+レモン入りの自家製スポーツドリンク(当時はスポーツドリンクがない時代)を開発。 練習中に水分や栄養補充はタブーとされた時代において、水分補給の他、チョコやバナナを試合中に食べさせていたというエピソードがあります。
(このスポーツドリンク補給により、箕島の投手陣は疲れ知らずとの話題が起こり、ついには大手薬品や飲料販売の研究員が教えを乞いにきた程。スポーツドリンクが開発されるきっかけとなりました。)

昭和52年 第49回・選抜甲子園に出場し、二度目の優勝。
昭和54年 第51回・選抜甲子園では、石井毅と嶋田宗彦のバッテリーで三度目の優勝。
更に第61回・夏の甲子園も全国制覇。 史上3校目の春・夏連覇という大偉業を達成。(公立校の春・夏連覇は箕島高校のみの快挙) この年の夏3回戦では、石川の星稜高校と延長18回の大熱戦を展開。 球史に名を残しました。

尾藤談=「監督として一番いけないのは、ヘンな先入観をもつことなんですよ」 「ゴロは目の前で捕れ。バントもバッティングも打ちに行ってはいけない。目の前でボールを捉えろ」 
尾藤野球はあくまで基本の反復形。 繰り返し練習する事で身に着け、実践で応用する・・ 地元の子供たちが、監督の指導に従い成長していく・・・ これぞ高校野球の原点。 「高校野球は教育の一環」 という意味は、このあたりにあるのではないでしょうか。

昭和57年、徳島・池田高校の活躍により、金属バットの特性が重視されるようになると、これまでタブーであったウエート・トレーニングや高タンパク食といった栄養管理が強化。 更にバッティングマシーンの普及もあり、選手の体格・体力・技術は一気に伸びました。 これにより、古き良き昭和の高校野球は終わりを告げます。

1995年、尾藤監督は体調不良(腰痛が悪化し、思うようなノックができなくなった)を理由に勇退。 
2011年3月6日、膀胱癌の為、永眠・・・。(満68歳)

=甲子園通算14回出場 35勝 10敗=
(春)  出場8回  22勝 5敗 優勝3回(1970年、1977年、1979年)
(夏)  出場6回  13勝 5敗 優勝1回(1979年)
★史上3校目 公立校唯一の春・夏連覇を達成

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