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伝説のプロレスラーサイン集(日本

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「方舟(ノア)の天才」 の異名をもつ丸藤正道。
身長176cm 体重90kg と、体格的にはジュニアながら、ヘビー級相手とも互角以上の試合を展開。
ジャイアント馬場存命中の全日本プロレスにおいて、最後のデビュー選手であった事から、「ジャイアント馬場 最後の弟子」 とも言われ、デビュー当時から注目を集めたレスラーでもあります。

子供の頃から大のプロレスファン。 当時は新日本プロレス=闘魂三銃士 全日本プロレス=四天王 の時代。
どちらも激しいプロレスを売りとする中、特に武藤敬二と三沢光晴に憧れ、中学生の時にはプロレスラーを目指すと決めていたという筋金入り。
身長を伸ばす為、バスケット部に所属したり、プロレス道場で行われていたトレーニングを自宅で実践したりと、努力を重ねていたそうです。
埼玉栄高校に進学し、レスリング部に入った事で才能が開花。 インターハイにも出場を果たし、高校3年生の冬休み、全日本プロレス合宿場に仮入門として参加。 この縁もあって、高校卒業と共に、全日本プロレスに入門。 憧れの三沢の付き人も兼ね、入門後、わずか5ケ月でデビュー。 (これは師匠・三沢と同じで異例の早さ)

1999年1月末にジャイアント馬場が永眠すると、その後の運営方針や選手雇用方法等に関して、フロント側(馬場元子氏)と選手側が対立。 ついには決裂となり、選手代表として中心的役割を果たしていた三沢を軸に、ほぼ全員の選手が全日本を退団。 新設されたプロレスリング・ノアに移籍します。
三沢を尊敬し師匠と崇める丸藤も例外ではなく移籍。 ノアのジュニア部門を引っ張り、2001年12月9日、有明コロシアム大会において高岩竜一を破り、第3代 GHCジュニア王者に君臨。 流出ベルトの奪還により、丸藤への注目は高まり、一躍人気レスラーへとなっていきます。
(GHCはノアが管理・認定のタイトル。 ジュニア初代王者は金丸義信でしたが、2001年10月19日 横浜文化体育館大会において、ZERO−ONE所属の高岩竜一に敗戦。 他団体に管理ベルトが流出していました。)
そのような中、「ジュニア最強はノア」との発言が、新日本プロレス所属の獣神ライガーの逆鱗に触れ、ここから新日本プロレス・ジュニア部門との抗争が勃発。 2002年3月、左膝靭帯損傷で一時戦線離脱する事に・・。

2003年1月、復帰後に師匠・三沢に挑戦し敗れた事をきっかけに、「下克上」を掲げ三沢の付き人も卒業。
ジュニア体格でヘビーとも対戦する一方、2003年7月16日、KENTAとのタッグで、獣神ライガー&村浜武洋を破り、初代GHCジュニア・タッグ王者に君臨。 以後、防衛戦を積み重ね、ファンからは 「ジュニア版・タッグ絶対王者」なる 称号が定着するまでに・・・。 2005年6月18日には、鈴木みのるとのタッグで、GHCヘビータッグ王者にも就いています。

丸藤の凄さは、対戦した相手から絶賛される事が多い事からも伺えます。
初代タイガーマスク=佐山聡と対戦した際は、テクニックに勝る佐山の前に敗れますが、勝気な佐山して、「まだまだ凄い奴がいる」 と言わしめた程。
またパンクラスの鈴木みのると対戦した時は、毒舌の鈴木して ” 凄い奴 ” と評価。 後のタッグ・パートナーへとつながっていきます。

2006年からは、本格的にヘビー戦線に入っていき、同年3月5日、日本武道館大会において、元GHC王者であり、全日本・四天王の一角であった、田上明を撃破。 同年9月9日には、秋山準を破り、第10代・GHCヘビー級王者に君臨。 この時点で、GHCのベルトはヘビー・ジュニアにおけるシングル、タッグともに全制覇。
以後、他団体レスラーとも活発に試合をする他、他団体のマットにも登場。
2010年1月4日 新日本プロレス 東京ドーム大会では、4代目・タイガー・マスクを破り、IWGPジュニア王者を獲得。 以前、全日本プロレスの世界ジュニアも獲得した事があり、IWGP獲得により、メジャー3団体のジュニア・シングル全ての王者として、プロレス史に名を刻みました。

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アントニオ猪木を師匠とし、「猪木イズム最後の闘魂継承者」 こと藤田和之。
藤田の場合、総合格闘技TV放送のインパクトが強く、総合格闘家なのかレスラーなのか、よくわからない部分もありますが、見るからに頑丈な肉体と風貌は、他者を圧倒する切迫感があります。

身長182cm 体重110〜120kg。 八千代松陰高校(千葉)→日本大学に進学。 高校当時はサッカーもしていたようですが、日本大学で本格的にレスリングに取り組むと才能が開花。 1989年(平成元年)より全日本学生選手権で4連覇という偉業を達成。 全日本選手権でも2度の優勝を飾る等、鳴りもの入りで新日本プロレスに入門します。 (大学卒業後、アトランタ・オリンピック出場を目指し、新日本プロレス職員となっていたので、オリンピック代表予選敗退後、新日本にレスラーとして所属したのは、当然の成り行きでした)

プロレスの基礎であるレスリング技術が卓越していた事もあり、デビュー4年後には大会場をわかす存在にまでなりますが、プロレスの場合、ただ強さだけを追求するのではなく、時に相手の動きや技に応じて、自己演出する技量が求められるあたりが、藤田の価値観と違っていたのかもしれません。 2001年1月4日 東京ドーム大会において、キモ相手に放った膝蹴りが、金的蹴りとされ反則負けになったのを機に新日本プロレスを退団。 猪木事務所に所属して、総合格闘技への道を歩みます。

但し、格闘技の天才・佐山聡して、「化け物」 と言い切る才能もあり、プロレス界と縁を切ったわけではなく、2001年4月9日、超大型の怪物レスラーであるスコット・ノートンを破り、第29代 IWGPヘビー級王者に君臨。 防衛戦では、実力者の永田裕志やドン・フライを退ける活躍ぶり。 その後、タイトルを返上しますが、同年6月6日、永田裕志を破り、二度目のIWGP王者に君臨。 この試合は同年におけるベストバウト(年間最高試合賞)に輝いた程の熱戦でもありました。
2004年6月5日、” 100年に一人の逸材 ” こと棚橋弘至を破り、第38代 IWGP王者にカムバック。 防衛戦では柴田勝頼を退けるも、佐々木健介に敗れて王座転落しますが、新日本プロレスの団体象徴であるベルトを三度獲得する活躍には、アンチ藤田のプロレスファンも納得の強さでもありました。
(反面、総合格闘技とプロレスを同時並行して活動する為、王者でありながら地方巡業をしないスタイルは批判轟々。大きな会場でのビッグ・マッチの時しか防衛戦を行わない為、ついには蝶野正洋までが苦言を呈した程)

総合格闘技における戦績は、26試合を行い、15勝 11敗・・・。 2006年5月5日の、ジェームス・トンプソン戦までは高い勝率を誇りますが、2006年6月7日のシウバ戦以降は黒星が多くなっていきます。
藤田の場合、卓越したレスリング技術と頑丈な肉体で、組み合えばグランドテクで圧倒できるのですが、キック・ボクサーのように一定距離を置き、打撃戦に持ち込む相手を苦手とした感があります。
(キックボクサーのミルコ・クロコップ相手に、Drストップ(1回目)判定0−3(2回目)と圧倒され二連敗・・・)
また柔術家が得意の締め技も苦手としており、スリーパー系の技で連敗しています。

2016年9月25日 バルト戦以降は、総合格闘技出場なし。 (バルト戦は、5分2R 0−3の判定負け)
H30年10月16日で48歳となりますが、もう一花咲かせてほしいものです。

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1980年(昭和55年)前後の新日本プロレスは、猪木とタイガー・ジェット・シンとの血の抗争や、異種格闘技路線により 「強さ」 が注目され、団体の象徴でもあるアントニオ猪木の人気が爆発。 更に馬力型のスタン・ハンセンの台頭もあり、TV視聴率は20%に達する程。 同時に、後にプロレス界を引率する逸材が多数入団します。その一人が仲野信市。 身長185cm 体重110kg(全盛期) の恵まれた体格から放つスープレックスは、受け身の上手いレスラーを相手にしても破壊力抜群。 当時の子供向けプロレス入門でも、一押しの若手レスラーとして紹介されています。

神奈川県横浜市出身。 子供の頃から体格がよく、柔道を習うと共に野球でも活躍。 日大藤沢高に進学し、野球部で活躍します。 そんな仲野が新日本プロレス道場を見学に行った際、目を付けたのが山本小鉄。 
当時の子供向けプロレス入門では、新日本プロレスの入門テストは、腹筋1000回、腕立て500回、スクワット200回をこなした者が合格と書かれていますが、近年、スカパー日テレGで、「俺たちのプロレス 小林邦昭」 が放送された時、小林曰く、” 入門テストなどなかった。 希望すれば入門できる。 ただ地獄の特訓についてこれなければすぐ夜逃げ・・ ” のような事を発しており、小鉄が入門を声掛けしたのも、自然の成り行きだったのかもしれません。

デビューは1980年3月1日 大田区体育館。 相手は斎藤弘幸(後のヒロ斎藤)。
当時の若手は、佐山聡(後の初代タイガーマスク)、前田日明、ショージ高野(後のザ・コブラ)、平田淳二(後のストロング・マシーン)、斎藤弘幸(後のヒロ斎藤)、高野俊二、山崎一夫、高田延彦、保永昇男、新倉史祐・・ と充実していましたが、キビキビ・ハツラツな試合展開が高評価され、前座ながら蔵前国技館のような大会場でも頻繁に試合が組まれた程・・・。

そんな期待の星でありながら、他者に後れをとったのは、肩に脱臼癖があったからだと言われます。
脱臼を繰り返すうちに癖がつき、貴重な若手時代(20代前半)に、新日本プロレスを離脱。治療に専念します。
もとろん食っていかねばならず、恵まれた体格を活かそうと、佐川宅急便のセールスドライバーのバイトも開始。
この時、佐川急便との縁ができたと言います。 

本人談=「脱臼で戦列を外れた為、ライバル(同期の者たち) と差をつけられていました。 ただ、人は人・・ ブランクから差が生まれたのは残念ですが、脱臼癖が治ったのはよかったです・・・」

1984年(昭和59年)、長州率いるジャパン・プロレスの一員となり全日本プロレスに登場。
当初は目立たぬ存在でしたが、長州が全日本を去ると、谷津のパートナーに抜擢された事から注目を集めるようになります。 新日本プロレス仕込みのスープレックスは、同じく新日本出身でオリンピック男の谷津と名コンビとなるかに思えましたが、当時の体格はジュニアに近く、ベビー相手は難しい状況。 ジャンボ鶴田に顔面ドロップキックを決めた際、怒った鶴田が、エルボー、ニー・アタックの後、急角度のバック・ドロップを決め、前歯をへし折られKOという事も・・・。
以後、ジュニア戦線に場を移し、1989年(平成元年)4月、淵正信をジャーマン・スープレックスで破り、第7代 世界ジュニア王者となる大金星もあげています。

谷津と共にSWSに移籍するも、1992年には脱退。 1993年、SPWFで復帰。 1995年、レッスル夢ファクトリーに移籍。 その後、WARに参戦・・・ と目まぐるしく団体を渡り歩き、2001年、無我で引退。
「日本一のセールス・ドライバーを目指します!」と引退後の豊富を述べ、佐川宅急便に入社。
新日本、全日本、ジャパン、SWS、そしてインディーと渡り歩いた苦労人。 厳しいプロレス界の裏事情を知る、貴重なレスラーでもありました。
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1980年(昭和55年)前後の日本プロレス界における有望新人を振り返ってみると、新日本プロレスには、1978年に前田日明、平田淳二、ヒロ斎藤が入門。 1979年、ジョージ高野。 1980年には、保永昇男がデビュー。 更に1981年、高田延彦、高野俊二、仲野信市、新倉史祐がデビューし、山崎一夫が入門。 その後も、有望新人が続々入門した事から内部が活性化。 団体の将来性も高く、前座からメインまで、質の高い試合が展開されるようになります。
ところが全日本プロレスは、有望新人が育つどころか入門希望者も少なく、たまに入門してもすぐに辞める始末。1979年にデビューした越中詩郎と、1981年にデビューしたターザン後藤以外、若手らしき者と言えば、小柄な淵正信、大仁田厚、ハル薗田くらいもの。 越中も後藤も、決して体格面に恵まれていたわけではなく、大型ファイターを望む全日本の場合、頼えるのは鶴田、天竜、戸口くらいのもの。 
そんな御家事情もあって、後藤に対する期待は高く、数年間、ジャンボ鶴田の付き人を務めます。

大相撲出身。 1979年(昭和54年)中学卒業後、15歳で九重部屋に入門。 静岡県島田市初の力士誕生という事で話題となり、地元からは注目されたようですが、同年11月にあっさり廃業。 最高位は序二段95枚目。
その後、全日本プロレス入り。 身長178cmと小柄ながら、基礎的なレスリングを身に着けた事もあり、徐々に頭角を現すと、1983年(昭和58年)のプロレス大賞・新人賞を受賞するにまで実力がアップ。
1985年(昭和60年)、海外遠征が決定。 ベトナム出身レスラーとギミックを打ち、「ホー・スー・ウィン」なるレスラーを名乗って大暴れ。 翌1986年には、テネシー州に進出。 佐藤昭雄とタッグを組み、同地区のインター・ナショナル・ヘビー級王座に君臨と活躍。 
私生活も充実したようで・・・ 全日本女子プロレスにも来日経験(1984年に来日)のある女子レスラー ” デスピナ・マダガス ” と結婚。 結婚のきっかけは、ミックス・マッチ(男女混合試合)を行った際、タッグを組んだ後藤が一目惚れし、リング上で告白したとの事。 (しかし・・後に離婚)

そんな後藤に対し、全日本プロレス側は無視。 後年、インタビューで馬場は、「後藤は向こう(アメリカ)で結婚して、プロレスを辞めたと聞いたので、帰国命令を出さなかった」 と応じていますが、実際は当時、長州軍団(ジャパン・プロレス)、カルガリー・ハリケーンズ、国際プロレス残党、フリー日本人、更には全日本所属の若手〜中堅レスラーと、全日本プロレスは日本人レスラーで溢れており、対戦カードも組めない状態。
後藤を無理やり帰国させるメリットや話題はなく、建て前は 「結婚して廃業と聞いた」 ですが、実はわざと連絡しなかった・・ が本音のようです。 当然ながら本人に問い合わせは一切無し。 馬場にはこういった冷酷さがあり、日本人レスラー(特に所属している)に対しては、天龍のようなスターレスラーにも、長年にわたり給料の遅滞を誤魔化す為、現物支給(給与の不足分を、チケットで支払う)を行っており、危険な職業でありながら、保険加入も自己負担にさせていた程。 (この現物支給の件等は、天龍自身が後年にインタビューで応じています)

そんな折、FMWを立ち揚げるから協力してほしいと、大仁田から連絡があり帰国。
(但し本人談では、ジャンボ鶴田から、帰国命令が出たのだと勘違いした・・との事)
馬場に退団を申し入れた後、FMWに参戦。 平成元年12月、後楽園ホール大会にて大仁田と組み、初となる有刺鉄線デスマッチを慣行。 以後、デスマッチの鬼として活躍。 平成2年には、初となるノーロープ・有刺鉄線電流撃破デスマッチを行い、プロレス大賞・年間最高試合に選ばれています。

過激なデスマッチにも怯まず、タフネスぶりを発揮するうちにファンが増大。 異名も=「鬼神」と命名され、売れっ子レスラーに。 過激ぶりは異種格闘技戦にも広がり、1991年(平成3年)には、異種格闘技タッグ選手権に大仁田とタッグで出場。 柔道王こと山下や斎藤のライバルとして有名な、身長187cm 体重125kgの巨漢柔道家のグリゴリー・ベリチェフ&コバ・クルタニーゼを破り、初代世界マーシャル・アーツ・タッグ王者に君臨。
1992年には、ビック・タイトンを破り、世界マーシャル・アーツ王者に君臨。
1994年3月、WAR両国大会に大仁田と出場。 天龍&原と対戦。 後藤のアシストで大仁田が天龍からフォール勝ちという番狂わせの一番を演じ、二度目となるプロレス大賞・年間最高試合を受賞・・・。

年齢と共に、体重が増加していき、一説では150kgにも達したとの事。
しかしレスリング・テクニックは高く評価されており、多くのレスラーが後藤から指導を受けて育っています。
2017年7月16日放送の 「新婚さんいらっしゃい」 に再婚相手と出演。 妻が経営しているラーメン屋で修業していると語っていますが、真相はいかに?
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今のプロレスラーはたいへんです。
素早く複雑な技の応酬と、危険な技のオンパレードに耐える肉体。 派手やかな必殺技と、パフォーマンス。
そういった全ての要素がなければ、ファンの支持を受ける事ができません。 昭和50年当時を振り返れば、男子プロレス団体は、全日本プロレス、新日本プロレス、国際プロレスの三団体のみ。 女子は全日本女子プロレスの一団体のみであった為、活躍の場が集約された分、そこまで深く、各レスラーに求めるものはなく、大半のレスラーは、ごく一部の花形レスラーにつなげる為の駒に過ぎませんでした。 
ところが今は、全国に無数の団体がしのぎ合う為、各レスラーは時に、他団体にフリー参戦する事も。 
どうしても自身がメインを務めれるレベルに達しないと、食っていけない状況。 レスラー意識が変わった事で、前座第一試合から、大技連発の白熱した試合が展開され、出場選手自体も、派手やかなコスチュームやパフォーマンスで客を盛り上げるようになりました。 昭和50年頃のプロレスでは、前座試合では大技使用が禁止され、大技が使えるのはサブ又はメインとされていたそうですが・・・ プロレスも変わりました。
(当時は相撲体質の要素が残り、大関にあたるのが、鶴田や坂口・藤波、横綱にあたるのが、馬場や猪木。 いかにメインが盛り上がるかが全て。 前座試合は相撲でいう十両のようなものでした)

本間朋晃の売りは、「こけし」 と言われるパフォーマンス。
倒れた相手に向かって、ダイビング・ヘッド・バットを行う際、両手を横におき、頭を傾けて、一瞬空中に止まったような錯覚を起こしながら落下。 またロープに投げて、反動でかえってくる相手に向かって、空中停止のジャンピング・ヘッド・バットを行う事も。 その時の姿・恰好が 「こけし」 そっくり。 
決まれば食らった相手のダメージは大きいのですが、外れる(自爆)と、自身のダメージも大きく、その時の痛がる表情や姿が、またファンウケ・・・。 そのあたりを上手く利用しながら、会場の雰囲気を高めていくのですから、鍛えた肉体と、卓越した受け身技術がなければ務まりません。 また、おちゃらけ顔や潰れたダミ声も、「こけし」 イメージとマッチしており人気の秘密。 このあたりも売りとして意識されているみたいです。

経歴を振り返ると、高校2年時にはプロレスラーになると決め、新日本の門を叩いたそうですが失敗。
そこでアニマル浜口ジムで鍛えながら、みちのくプロレスに入団するも、人間関係に馴染めず、わすか一週間で、アニマルジムに出戻り。 その後、クレート小鹿が立ち揚げた、大日本プロレスに入団。 デスマッチを得意?として注目を浴びるようになり、フリーに転向し、全日本プロレスに参戦した際、馬場元子氏に目をかけられ入団。 武藤敬司の付き人兼、サポーターとして存在価値を高めていきます。

2006年、ヘルニアの為、長期欠場を余儀なくされた事で、全日本プロレスを退団。
主戦場を新日本プロレスに・・・。 真壁刀義率いるヒール(悪役)ユニット ” G B H ” メンバーとして活躍。
見事な嫌われぶり?により知名度・注目度が急上昇。 2010年には、プロレスリング・ノアにフリー参戦。
前述した 「こけし」 パフォーマンスもあって、今では人気レスラーとなりました。
2015年、G1=CLIMAXにエントリーするも、二年越しの17連敗という、G1ワースト連敗記録を達成。
しかし同年の、プロレス大賞(技能賞)にも選ばれる等、試合内容や盛り上げ方は一級品として評価されています。

順風満帆かに思えた2017年3月3日 沖縄大会において、邪道のグリーンキラー(ハングマンDDT)を受け、緊急搬送される事態に。 一時は四肢麻痺状態に陥る重度化となり、診断名は中心性頚髄損傷。
この間、リハビリを支えた一般女性と入籍。 鍛えた肉体が功を奏して、2018年6月23日、地元・山形大会で477日ぶりに復帰。 身長181cm 体重98kg 2018年9月時点で41歳。 今後の活躍に期待です。

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