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(左) ・・ ロッキー羽田 (中) ・・ ジャイアント馬場 (右) ・・ 天龍
「ロッキー羽田」 と聞いてすぐにわかる人は、かなりの昭和プロレス通ですね。
全日本プロレスが誕生した昭和47年、ジャイアント馬場34歳。
ハードなプロレス界においては結構な年齢での独立ですから、馬場としても背水の陣といった気持ちが強かったようですね。 「私につぐ人気レスラーを育て、私と共に客が呼べるパートナーが欲しい・・・」 馬場としては、日本人離れした大型で、かつ日本人ウケしそうなレスラーの育成が急務。 運よくジャンボ鶴田の勧誘に成功しますが、まだまだレスラーが足りない・・・。 そんな中、当時の中堅を担ったのがロッキー羽田です。
1965年(昭和40年)に大相撲・花籠部屋に入門すると、192cmの恵まれた身体を活かした取り口で序の口優勝。あと一歩で十両昇進という1972年(昭和47年)、末期状態の日本プロレスに入門。
翌1973年(昭和48年)に全日本プロレス入りしていますから、馬場としては金の卵を得た思いがあったのでしょう。後の 「夢のプロレス・オールスター」 にも全日本代表メンバーとして選出し、なんと新日本プロレスNo2であった坂口征二とシングルマッチを行っています。
ただ、大型ではありましたが、相撲出身レスラーにありがちな器用性に乏しく、なんかちくはぐな試合が多かったように思います。 まあ当時のプロレスは、前座 → 中堅 → セミファイナル そしてファイナル という試合段取りが明確だった為、中堅に位置する羽田の場合、使用できる技にも制限があったようで、どうしてもワンパターン化してしまう事がありました。 (いかにセミとファイナルを盛り上げる事ができるか・・ が中堅の役割の為、ファイナルよりも先に見栄えの良い技を繰り出す事は御法度。 当時のプロレスにはこういった暗黙のルールがありました。)
その為、アメリカ遠征に行った際は、思う存分暴れる事ができたようで、ローカルタイトルも幾つか獲得。
帰国後は 「ロッキー」を名乗り、1977年(昭和52年)の世界オープンタッグ選手権には、同じく大相撲出身の
天龍とタッグを組み出場。(全日本プロレス推薦枠にての出場) しかし・・ ここでも格下状況はかわらずで、
結果は1点のみという最下位。 でも、こういった役割をするレスラーがいるから、メインレスラーが映えるんですよ。
晩年の鶴田と同じく内臓疾患に苦しみ、期待された程の活躍もないまま1987年(昭和62年)に引退。
1991年、体調を崩し43歳という若さで永眠。
私もプロレス会場で、何度か試合を観ましたが、色白なアンコ型で、のっぺら顔にモジャ髪。 大型だけにマットに叩きつけられた時の音が、他のレスラー以上に大きかった思い出があります。 (キャラが良かったのか、ギャク漫画の他、TVドラマにも数本出演されました)
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伝説のプロレスラーサイン集(日本
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若さゆえに、持て余すパワーの捌け口はいずこに・・・。 まさに蝶野正洋の青春時代は、喧嘩に明け暮れた日々。とはいっても貧乏で複雑な家庭に育った不良ではなく、親は大手企業のエリート・サラリーマンというボンボン育ち。その為、健全なサッカーにものめり込む一方での喧嘩騒動ですから、裕福な家にありがちな 「誰にもわからぬ悩み」 との闘いだったのでしょうね。 (俳優・舘ひろしや、プロ野球投手の藤田元司も、親が医者である裕福さから不良になった先輩であります。)
1984年(昭和59年)、神奈川大学生でありながら、親に隠れて応募した新日本プロレス研修生に合格。 結果、親の反対を押し切って入門。 「練習過酷さ世界一」「3日逃げ出さなければ本物」 と言われる程厳しい新日本合宿を耐え抜き、入団6ヶ月目にしてデビュー。 (相手は同じくデビュー戦だった武藤敬司) 元々骨格が細く、筋肉の付が遅かった事もあり、しばらくは勝ったり負けたりの時期が続きますが、勝気な性格とセンスの良さで実力を蓄えると、1987年 ”第3回 ヤングライオン杯” で橋本真也を破って優勝。 海外修行の切符を手に入れます。
但し、当時の新日本はヨーロッパ遠征による海外修行を遂行しており、まずはドイツのCWAからスタート。 (佐山や前田も新人の頃はイギリス等で修行し大人気レスラーに成長) ここで本格的なレスリングを身につけた後、北米NWAエリアに移ります。
順風満帆にも思えた海外遠征でしたが、1988年には早くも帰国命令。
この背景には、長州力をはじめとする主力レスラーの大量離脱(全日本プロレス入り)によって、日本人選手層が薄くなってしまった補強として、有望若手だった武藤、橋本、蝶野を将来の主力として売り出したいという新日本側の思惑があり、三人のキャッチフレーズは 「闘魂三銃士」 に決定。 TV中継でもアピールされ、新時代のレスラーたちとして定着していきました。 (1991年 G1クライマックス において橋本、武藤を撃破した蝶野が、三人でリング上から猪木の ”ダー” をした事で、ファン脳裏に後継者というインパクトが根付きます。)
第2回 G1も制し、第75代NWA世界ヘビー級王者にも君臨。 1994年、2002年、2005年にもG1の覇者となった他、IWGPヘビー、IWGPタッグ等、数多くのタイトルを獲得。 必殺、「ケンカキック(ヤクザキック)」は、蝶野の過去やいかつい顔面とマッチして、プロレスを知らない者にまで、その名が広まった程。 ルー・テーズ直伝のバックドロップやSTFの使い手としても高い評価を受けています。
1963年生まれの53歳。(H27年時点) 橋本も永眠し、あの若き闘魂三銃士も歳をとりました。
昭和の終わりに誕生したレスラーたちが今や50歳を越える・・ 月日の流れの早さを感じます。
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「猪木さんと馬場さんとでは格が違う」 との理由で、全日本プロレス入りした高千穂(後・カブキ)のようなレスラーもいれば、「終生、猪木さんについていきたい」 との理由で新日本プロレス入りし、レスラー人生を終えた柴田勝久のような者もいる・・。 日本プロレス崩壊によって、厳しい選択を強いられた日本プロレス所属のレスラーたちですが、上記の二人のように信望するレスラーが決まっていれば、決心も早く、第二のプロレス人生に飛び込めたのではないでしょうか?
柴田勝久は昭和41年、猪木・豊登が設立した 「東京プロレス」 の際、大相撲から転身してレスラーになった、いわゆる相撲レスラー。 とはいっても、相撲とりにありがちのアンコ型ではなく、身長180cm 体重100kgと均衡がとれた体格だった事から周囲の期待も大きく、東京プロレス崩壊後は日本プロレス入り。 ラッシャー木村等が国際プロレスに入団した事からわかるように、東京プロレスは 「裏切り者の二人」 が設立した団体という風潮が厳しく、日本プロレス幹部の中には、猪木の復帰のみ認める(大物政治家の口添えがあった事から断れず)といった厳しい意見もあったとか。 そのような中での日本プロレス入りですから、きっとよいものがあったのでしょう。
昭和45年にメキシコ遠征に行くと、相撲レスラーとしてのインパクトを高めようと、リングネームを 「シバタヤマ」 にする等、アイディアも良し。 タイトルには恵まれませんでしたが、この遠征で覚えたメキシコ流テクニック、いわゆるメキシカン・ストレッチはその後の柴田の必殺武器になっていきます。
日本プロレス崩壊後、慕っている猪木がいる新日本プロレス入り。 (当時はメキシコにおりメインもはれる人気レスラーとなっていましたが、猪木の旗揚げを知り、新日本入りの為帰国)
全日本プロレスでも鶴田入団までは、馬場のパートナーがおらずサンダー杉山で代行していたように、新日本プロレスでも坂口入団までは人が足らず、結果、柴田が猪木のタッグ相手をしていた事も。
戦力が整った後は前座〜中堅のテクニシャンとして定着。 昭和52年〜 レフリーに転身して、長くファンに愛されました。
あだ名は 「眠り狂四郎」 ・・ 2010年1月16日 心筋梗塞にて永眠。
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よくお邪魔させていただきます某プロレスファンのTさんのブログの中で、豊登について面白い記事が掲載されていました。
ちょっと一部抜粋させていただきますと・・・
「豊登りには逸話があって、某雑誌に 「豊登は字が書けないんだ。だからサインはしないんだ。何故書けないかというと、” 字は書けなくてもいいから、その分 「ちから」を与えてくださいと、神様に頼んだからだ・・・」 との事(笑) いくらなんでも凄すぎる逸話です。
でも、現代版 「豊登」レスラーがいて・・・ それが山川竜司。
あるイベントでサインに 「不死身」 と書こうとしたところ、間違って 「不自身」 と書いた事から、ニックネームが 「不自身」 になってしまったというエピソードがあります。 そういえばかつてガッツ石松も 「ツ」と「シ」を書き間違えて、ガッシ石松になってしまったというエピソードがありました(笑)
山川竜司はグレート小鹿が立ち上げたインディー団体にて、「デスマッチの鬼」と言われたレスラー。
身長177cm 体重90kg と軽量ながら、卓越したプロレス感性を持ち備え、パワー・ボムやラリアットといった力技から、飛び技、投げ技、絞め技 なんでもござれの万能レスラー。
私も1999年、松山大会を観に行った際、直接出会いましたが、ファンサービスも良く、以後大ファンになりました。
必殺技は ” リバース・タイガー・ドライバー ” これは、タイガー・ドライバーの要領で持ち上げた後、相手の腕を離さないでジャンプし、自らの脚を開脚、腕をロックしたまま、相手を前面からマットに叩きつける技。
ただでさえ危険な技に改良を加えるのですから、食らった方はたまったもんではありません。 山川はこの技を必殺技とし、長く大日本プロレスで活躍。 ファンからも愛された結果、ニックネームもいつしか 「不自身」 から
「ミスター大日本」に大出世変更!
しかし・・ 良い事もあれば、その数倍も悪い事もあり・・・ あまりに激しいプロレスを繰り返す中、2001年には頭蓋骨骨折・意識不明の大重体に陥ったり、椎間板ヘルニアが悪化してセミ・リタイヤしてしまったり・・・。
結局は度重なる事故や怪我により身体がついていけず、2012年7月15日をもって引退。
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プロレスの魅力・・・ それは各自、多方性からの見方によって楽しみ方が違うという事かもしれません。
例えば・・・
「Aさんは怪物レスラーが好きで、Bさんは嫌い」
「Cさんはヘビー級のみ興味ある Dさんはジュニアが大好き」
「Eさんはアメリカン・プロレスが好き Fさんは日本のプロレス以外興味なし」
「Gさんは昭和のプロレスが全て Hさんは今のプロレスの方が楽しい」
「Iさんは女子プロレスだけを観に会場に出向く」「Jさんはインディのみ会場に出向く」
・・・ もうこういった組み合わせ方をしたらきりがありません。
ここまで多方性に広がるエンターテイメントはプロレスならでは。
私の場合、昭和62年をもってプロレスから離れてしまった為、最近のプロレス事情に疎いのですが、時々スカパー等で最近のプロレスを観る度に、その技やインパクト(選手自体の見せ方・アピール)の進化に驚きます。
初代タイガー・マスクが登場した頃、ああいった四次元空中殺法は画期的であり、その面白さに魅了された方も多かったはず。「やっぱりルチャは面白い」 とあらためて感じたものです。 日本でもルチャを専門に見たいってファンが急増・・ その思いを叶えて誕生したのがユニバーサル・レスリング同盟ことユニバーサル・プロレスリング。 (UWF) この団体はルチャを専門にする事から、ヘビー級よりも、ライトやジュニアに目をむけたことから、才能はあっても、体格的に劣る為、プロレスを断念していた者たちを発掘する機会となります。
その発掘された一人がTAKAみちのく。 身長175cm 体重78kg と小柄ながら、みちのくプロレス移籍を経て、メジャー団体の新日本プロレスに参戦。 1994年の「スーパーJカップ」において、ルチャ〜寝技・投げ技・絞め技と万能にこなし善戦。 実力のあるショーマン派として注目を浴びます。(みちのく時代、三度笠スタイルで登場する等、ショーマンぶり有)
1997年にはWWF(WWE)と契約し、みちのくプロレスを退団。WWFが設置した初のライト・ヘビー王者となり、ニューヨークでも人気レスラーとなります。(この入団を巡ってサスケと対立した事も。当初入団予定はサスケであったが、マクマホンはTAKAの方を気に入り指名。 サスケは話を横取りされたと勘違いして激怒)
1998年には年間最大のプロレス祭典レッスルマニアにも登場。 この祭典でシングルマッチを行ったのは、現在に至っても ”TAKAみちのく” のみと言いますから驚きです。
また怪力でキン肉マンを好むWWFにおいて、小柄なルチャ・レスラーの成功は、あまり例がなく、そういった面からもアメリカ国内・プロレス雑誌でも度々話題になりました。
2002年にWWF(WWE)を離脱し、2003年より武藤の全日本プロレスに参加。 以後、ノア、DORAGON GATE、新日本プロレス等に参戦。 総合格闘技をはじめ、幅広い分野で活躍中。
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