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身長こそ172cmと小柄ですが、「泣く子も黙る」 喧嘩・極真空手トーナメントに、他流派ながら参加しベスト16入りという実力者。 そんな青柳がプロレス界に現れたのが、1988年に開催された ”格闘技の祭典” における大仁田厚との対戦。 誠心会館の館長として1989年より、本格的にプロレス参戦。 FMWで大仁田や剛竜馬との抗争を展開しますが、青柳が注目を浴びるようになったのは、1990年の新日本プロレス参戦頃から。
獣神ライガーや越中詩郎との抗争は、過激なプロレスを提唱する新日本にマッチする反面、空手VSプロレスの抗争図式に対し、異種格闘技路線の失敗作だと批判するファンも続出。 それに反発するように、越中と反選手会同盟を結成。 更には平成維震軍と改名。 1994年、新格闘プロレスを設立。
この新格闘プロレス、秒殺アリの異種格闘技路線主体を売りにしますが、自身も木村浩一郎に敗北する等、興業的には成り立ちにくさが感じられました。(真剣勝負はよいのですが、エースすら敗北のスタイルは、興行として問題だと思います・・) → 再戦を希望し、「負けたら引退する!」 と言いつつ再戦はなく、団体は自然消滅・・・。
以後、WWFマニアツアー参戦 → 東京プロレス → レッスル夢ファクトリー → プロレスリング・ノア と転々。
2013年、網膜剥離により左目が完全失明。
2015年、ツーリング中に事故に遭い、右膝から下を30カ所以上も粉砕骨折。(これにより引退)
それでも2016年からは魔世軍を結成し、総裁として頑張っているのは立派です
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伝説のプロレスラーサイン集(日本
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1977年(昭和52年)、全日本プロレスに崩壊にもつながりかねない大事件が勃発。
「ジャンボ鶴田が独立し、新団体を旗揚げする」 というもの。(但し、これらは水面下の動きであり、事件が有名になったのは後年) 発案者はサムソン・クツワダ。 日本船舶振興会関与の大物から億単位(当時の億)の資金調達の話をつけ、全日若手のホープであった淵や大仁田、更には当時の人気力士であった高見山にまでも声をかけるという用意周到ぶり。
しかし、このような動きが馬場の耳に入らないわけがなく、たちまちクーデターは露見し、鶴田は再交渉の末、ギャラ&待遇アップで残留。 サムソンは解雇となり全日本を去りました。(当時は公表されませんでしたが、後年、グレート・カブキによって真相が公表されます。)
1967年(昭和42年)、大相撲では芽が出ず、日本プロレス入りしたサムソンは、人気絶頂であったジャイアント馬場の付き人となります。 身長190cm 体重120kg という大型レスラーであったサムソンを馬場も可愛がり、全日本プロレスの腹心として、何かあれば相談するという師弟関係。
サムソンも信頼に応え、中央大学時代、オリンピック出場という経歴の鶴田友美を馬場に推薦。 同時期、同じくオリンピックに出場した吉田(長州)ではなく、身体の大きな鶴田を獲得すべきと進言し、馬場が鶴田獲得に動いた事が、後年、どれだけ全日本の為に役立ったか。
また全日本プロレス旗揚げ戦では、駒(レスラー)不足の全日本をカバーする為、セミファイナルでブルーノ・サンマルチノと闘い興業を盛りあげる等、サムソンの協力は馬場にとっても恩に値するものでした。
そんなサムソンが何故、馬場を見限り、新団体発足に動いたのか・・。
色々な諸説がありますが、あるプロレスファンが書き込んだコメントを参照にしますと、「馬場の経営方針に対する反発からきたもの」 「プロレス業界再編成」 が一番的を得ているように思います。
ファンのコメント①=「全日本プロレスには日本プロレス崩壊後、日本人レスラーが合流し、陣容・経営も軌道にのっていきます。 しかしギャラを出し渋る馬場に対し、待遇面も含めた不満が高まり、腹心であったサムソンに相談がもちかけられるようになりました。 サムソンとしては放漫経営の末に潰れた日本プロレスの悪事を参考に、理想のプロレス団体を、尊敬する馬場と興したい気持ちが強かった分、レスラーの生活に振り向かない馬場に対し反感をもったようで、新団体では所属レスラーのギャラや待遇アップが目玉だったとの事。 結局、事前にクーデターを知った馬場により、” 私生活の乱れ” を表理由にされ解雇。 馬場は新日本や国際にも連絡を入れサムソン潰しに翻弄し、サムソンはこの事件後、プロレスから身を引いています。 後年、馬場が亡くなり、三沢が社長に就任した際、馬場元子と待遇改善交渉が行われるも決裂。 大半のレスラーが全日本を去り、新団体設立となった事から見ても、すでに設立当初から全日本には、運営をめぐるイザコザがあった事が伺えます。」
ファンのコメント②=「馬場の付き人として、華々しい活躍を見せたBI砲は、サムソンにとっては永遠の憧れ的存在でした。それだけに巨人症の影響で動きが鈍くなり、実力の衰え目立つ馬場に対し、いつまでも老体を見せるのではなく、絶対的なスターのままフロント入りしてほしいという思いが強かったようです。 その為、BI砲にかわる新スターこそが鶴田であると確信。 また藤波をはじめ、新世代の者たちにも参加を促します。 後年、クツワダの残した話しによると、鶴田・藤波以外にも、全日・新日から多数のレスラーが参加する手筈だったが、動きを知った馬場は、鶴田に共同経営代表を持ち掛け動きを封じ、猪木サイドにも内容を通達した事から、誰も話に協調してこなかったとの事。 ” 俺に人望がなかった ” と話していたそうです。」
このファンのコメントからすれば、けっして私欲の為のクーデターではなく、「レスラーの為、プロレス界の為」 の正義の行動だった事が伺えます。
反面、「サムソンが新団体を興そうとしたのは、鶴田や他のレスラーが、サムソンの地位(2番目あたり)を脅かす存在に成長。 馬場のサムソンに対する信用や待遇が下がったものによる」 「後年、サムソンは恐喝で逮捕歴ありの人物。 けっして聖人君主ではない。」 といった厳しい意見もあり。
真相は・・・ サムソンの永眠(2004年10月12日 享年57歳)によって、永遠の迷宮入りとなりました。
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「天地とも、平和が達成される」 ことを願ってつけられた年号が ” 平成 ” 。
その平成も、30年12月31日をもって終了とは、時の流れの早さを感じます。
天山広吉は1990年(平成2年)に新日本プロレス入門。 1991年(平成3年)にデビューしていますから、平成史をたどったプロレスラーと言えますが、その面構えや独特の雰囲気、モンゴリアン・チョップという必殺技から、どこか昭和の名残りが漂うような、不思議な魅力を醸し出すレスラーでもあります。
昭和が終わり平成に入った頃のプロレス界は、馬場&猪木の時代が終わり、全日本では四天王、新日本では闘魂三銃士という新たなる時代に突入。 新旧の狭間に鶴田、天龍、藤波、長州たちがいて、メインレスラーへの台頭かつ、若手の厚き壁として存在するという図式。
プロレスラーの技、パフォーマンス、コスチュームも変化。 これまでのパターン化されたプロレスが、一気にオリジナルティ溢れたスタイルに変わっていきました。
そういった新しきプロレスについていけない(新しきスタイルのプロレスを受け入れられない)昭和プロレスファンも多く、昭和をもってプロレスから離れていった者・・ 平成に入ってプロレスに入った者・・ ファン層も様々。 どのレスラーも器用で運動神経抜群。 スタイルよくハンサムな一面、似たり寄ったりの 「金太郎アメ」 状態でもあり、一気に溢れ出た若手に対し、誰が誰やらさっぱりわからぬ結果に。
そんな中、人一倍の個性を売りに台頭したのが、天山広吉。 京都府立山城高校出身。 (山城高校は京都有数の進学校で、釜本邦茂をはじめ沢山のサッカー選手、歌手・尾崎亜美、野球・吉田義男、俳優・山城新伍等、著名人の多い学校としても有名)
1993年のヤングライオン杯に優勝。 武者修行先がアメリカではなく、オーストリア(CWA)というあたりは、新日本プロレスの伝統。 CWA世界ジュニア王者に君臨した実績をさげて帰国後は、サブミッション、投げ技、飛び技、打撃技・・ 全てに精通したプロレスを展開。 その合間に見せるパフォーマンス技(モンゴリアン・チョップやダイビング・ヘッドバット)もウケ、一気にスターダムに昇りつめました。
IWGPヘビー級王者に4回、IWGPタッグ王者には歴代最多の11回君臨。 G1クライマックス優勝3回。
NWA世界ヘビー級王者(127代)、NWA世界タッグ王者の他、全日本プロレスにも参戦し、世界最強タッグ決定リーグ戦では優勝2回。(パートナーは小島聡) タッグの名手であり、プロレス大賞タッグ部門表彰3回。
新日本主催のワールド・タッグリーグ戦においても、G1優勝3回。 SG優勝1回。
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昭和40年代後半〜昭和50年代にかけ、日本プロレス界には、新日本プロレス、全日本プロレス、国際プロレスの三団体が存在。 その中で一番歴史は古いも、メジャーレスラーが育たず格下だったのが国際プロレス。
しかしオールドファンにとって、何故か懐かしさを感じるのは、国際プロレスが一番かもしれません。
スーパーの駐車場やデパートの屋上等、およそプロレス会場としてふさわしくないような場所で、閑古鳥の中行われる試合の数々。 そんなどさ周りの庶民プロレスだったからこそ、不思議と回想されるのかもしれません。
高杉正彦は、そんな伝説の国際プロレス最後の現役レスラー。(平成29年1月時点で61歳)
昭和52年に国際プロレス入り。 日本大学出身で、経験したスポーツはフットボール。 身長175cmと小柄でしたが、全体的に小柄なレスラーが多かった国際だけに、吉原功の期待は大きかったようです。
入門からわずか5ヶ月でデビュー(相手はスネーク奄美)。 長くグレート草津の付き人をしながらジュニア戦線で活躍。 剛竜馬、アポロ菅原と共に、” 国際若手三羽カラス ” と言われるも、1981年(昭和56年)国際プロレスが解散となり全日本プロレス入り。 馬場にキャラクター覆面レスラーの必要性を売り込み、ウルトラセブンに変身。 「国籍不明の謎のマスクマン」 という設定だったようです。 (よくリングサイドでウロウロする姿がTV放送されていました。 ハンセンやブロディが暴れまわってノーコンテスト試合等になると、真っ先にリングにあがって静止しようとするのですが、あっけなく投げ飛ばされるのが毎度のパターン。)
しかし高杉のアイデア虚しく、二代目タイガーマスク(三沢光晴)の登場によってウルトラセブン活動は中止。
更に、長州力率いるジャパン・プロレスや、実力者軍団のカルガリー・ハリケーンズ(ヒロ斉藤、ストロングマシーン、高野俊二)の参戦によって、国際プロレス集団(国際血盟軍)入りするも、日本人レスラーが飽和状態に陥った事から国際三羽ガラスは解雇され、インディー活動から活路を見出す事に・・・。
1989年、” パイオニア戦志 ” を結成。 新日本プロレスにスポット参戦した後、オリエンタルプロレス入り。
剛竜馬が若手とのトラブルで団体から離れた後は代表を務め、その後、IWA湘南プロレスを設立。(1996年には湘南プロレスに改名) インディー団体を巡りながら、息長くレスラー活動を続けられています。
2012年、長男の高杉佑希もレスラーとなり親子タッグが誕生。
高杉談=「息子というより、一人の後輩として見ている。 どんな後輩に対しても甘やかしたらいけない事は同じ。 俺たちが先輩から教わってきたプロレスの厳しさを伝えたい。」
佑希談=「国際プロレスの生き残りですし、偉大な先輩だと思っています。同じプロレスラーとしては、まだ今は雲の上の存在ですが、いつかはシングルで闘えるようになりたいです。 まず自分自身が精進していきます。」
(平成26年発売 ” 忘れじの国際プロレス ” 参照)
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「裏切りの極悪大王」 の異名をもつミスター・ポーゴ。
父親が地元の代議士という恵まれた生活環境が原因か、身体も大きくそれなりの格闘センス(柔道出身)をもちながら、何某につけ挫折の繰り返し。 それでも才能を買われ、スポーツ推薦を受け中央大学に進学しますが、ここでも挫折し中退。 同期生は鶴田友美ことジャンボ鶴田。
中退後、父親の後援会だった方の口利きで、大相撲・二所ノ関部屋に入門し、本名の関川で初土俵。
すぐに頭角をあらわし、翌年の秋場所では序の口で優勝。 期待されるも膝を故障しまたも挫折。
今度は中学時代の柔道仲間だった浜田広秋(後のグラン浜田)と、旗揚げ早々の新日本プロレスに入門。
選手のコマ不足もあり無事デビューとなりますが、山本小鉄との関係が悪化し、わずか1シーズンで解雇・・・ そして挫折と、とことんツキのない人生・・・。
しかしすでに代議士だった父親は他界しており、生きるすべを探す為単身渡米。
かつてのグレート東郷のような、「殴る・蹴る・やられる」 といったショーマン派レスラーに転向し成功。
ザ・ファンクス、ハーリー・レイス、ダスティ・ローデス、リック・フレアーといった大物との抗争まで展開する程に。
そんな中、テリー・ファンクが主催した興行に参戦した折り、尊敬するグレート東郷を真似て、ミスター・トーゴーを名乗って参戦した節、テリーが誤って、ミスター・ポーゴーと誤記した事から、以後のリングネームは、ミスター・ポーゴとなったという逸話があります。
1976年(昭和51年)には国際プロレスに参戦すると、1986年には古巣であった新日本プロレスにも凱旋参加。 ケンドー・ナガサキとのコンビで、藤波辰巳&木村健吾が所持するIWGPタッグに挑戦する等、それなりのレスラーとして活躍しました。
ところが・・・ シリーズ終了後、メインとして活動していたプエルトリコに戻ると、ブロディ刺殺事件によるプロレス人気の低迷の煽りをうけ失業状態。 挫折状態で帰国し、地元のプラスチック形成工場員として働く事に。
それでも大仁田の誘いでFMWに参戦が決まりプロレス復帰。
以後、ジャーニーマン(転々と流れる者の意味)を繰り返し、幾つもの団体のマットに参戦しては消え・・・ のプロレス人生。 そんな生き様を皮肉ったのが、「裏切りの極悪大王」の所以みたいです。
1951年2月生まれですから、H28年10月時点での年齢は65歳。 まだまだ現役中。 昭和プロレス最後の生き残りレスラーを目指して活動中。
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