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昭和の終わる1988年(厳密に言えば1989年)までのプロレスは、全日本&新日本というメジャー2団体から構成されていたので、営業面も充実しており、レスラーたちもまとまりがありました。
それが平成となり、馬場&猪木という2大ボスで抑えが利かなくなると分裂・・・。 SWSのように消えていく団体もあれば、ノアのように生まれてくる団体もあれば・・・。 その方向性も様々。 過激インディーFWM、コミカル団体 大阪プロレス、沖縄プロレス・・ 地方独立リーグのような存在の みちのくプロレス・・。 一番多い時には狭い日本国内に男女30団体が存在し、それぞれの団体が格闘技を売りだのルチャを売りだのと活動したと言いますから、昭和を最後にプロレスから離れていった私には、何が何やらさっぱりわかりません。
ただ一つわかってる事は、昭和の終わりから平成はじめにかけ、入門してきたレスラーは慕うレスラーもとに走りやすいという事。 良く言えば団体に何名かいるトップレスラーのもとでプロレスを学ぶ事が出来る為、短期間でレベル向上をはかる事ができます。 悪く言えば、団体内に 「派閥」 を作ってしまう事。 派閥通しの抗争から始まり、時には分裂や脱退を繰り返すようになり、最終的には大量離脱の要因に・・・。
金丸義信は山梨学院大付属高校時代、控え投手ながら甲子園大会に出場。 身長173cmながら運動能力の高さを買われ、ジャンボ鶴田後援会経由でジャイアント馬場預かりに。 馬場より「小柄レスラー特有のモノを身につけろ」 と言われた事をきっかけに、空中殺法を全面的に押し出した試合を展開。 1998年には三沢光晴の代役として2代目タイガーマスクをつとめた事も。
小橋の付き人からスタート。 その後、秋山軍団入り。 三沢を中心にレスラーが全日本大量離脱の際は同行し、ノア入団。 2002年には新日本プロレス看板タイトル IWGPジュニアタッグ王者に君臨。 ノア退団の後は全日本に参戦・・・。
タイトル歴も面白く、IWGPジュニアタッグ=新日本 GHCジュニアヘビー&GHCジュニアタッグ=ノア
WEWタッグ=FWM 世界ジュニアヘビー&アジア・タッグ=全日本 と複数の団体から獲得。
こういった流れ一つ見ても、昭和のプロレスには見られない事ばかり。
プロレスラーも職業。 いつどうなるかさせわからない過酷な世界を職業とする上で、「フリー」=「自営業」で生計をたてる道って私なら恐ろしいですけどね。
団体が分裂しながら、特色あるレスラーを発掘できる時代を良きとすべきか・・(これによって体格の劣る者でもレスラーになる事が可能となりましたが、レスラー飽和状態ともなり、フリー参戦しながらのスタイルに。)
昭和のように体格規定上、レスラー希望を断念する者が多くとも、団体によって生活が守られる道を良しとすべきか・・ 難しいとこですね。
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伝説のプロレスラーサイン集(日本
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一体、この男は何者なのか・・?? 個人的には一番苦手なタイプの男。
この男の存在は、新日本プロレスを観ていた1970年代後半〜1980年代にかけ、常にグレーゾーンでありました。
どうやら元・プロレスラーのようですが、私が覚えているのはレフリーとして動いている姿のみ。 一介のレフリーに過ぎないと思っていたところ、来日する外人世話係りもしており、レスラー達には 「やたらとサインとかファンサービスをするな」 と陰で仕切っていたとか。 あのアンドレが新日本時代、殆どサインをしなかったのも、高橋の指図だったという記事を読んだ事があります。
(悪役や化け物じみたレスラーが、マットを降りてニコニコでは、試合そのものがインチキとして見られる。その為、悪役はマットを降りた後も、常に悪役姿でファンと接しなければならない・・ といった、高橋論があったとも言われていますが・・・)
そんな哲学じみた考え方ですので、新日本プロレス人気が下降した折、プロレス裏の暴露本を発売。(2001年)
この本を出版した意図の一部を紹介すると・・・
① プロレスは全ての流れにおいて勝敗が決まった上で行う ” 肉体の最高傑作エンターテーメント ” である。 プロレスの内容を真剣勝負だの八百長だのといった見方するからファン離れが起こる。 勝敗の決まった肉体ショーだと思って楽しめば、その超人的な肉体にファンは魅了され、ヘンな八百長疑惑から解放される。
② プロレスラーはこの最高の肉体ショーに誇りをもて。この過酷な闘いを演じる為に、どれだけの努力とトレーニングが必要なのか・・。 最高の肉体ショーを演じれば、見るファンにはその過酷さが伝わる。
③ レフリーとは、決まった勝敗の通りの結果を導き出す為の存在である。(仲立ち)
④ プロレスの本質を知った上で観戦すれば、妙な疑いなど起こらない。 レスラーは胸を張って、最高のエンターテーメントを演じ、プロレスの発展につとめるべきだ。
⑤プロレスのグレーゾーンを払うことで、世間におけるプロレスの地位向上を図りたかった。
⑥いつまでもプロレスの真実を隠し、ショーという言葉に対して抵抗感を感じるようでは、プロレスの未来はない。
高橋に言わすと、もはや現在(当時)の日本プロレス界のレベルは、格闘技を装って嘘を貫き通す事が無理な状態に陥っているとの事。 それだけ質の高い肉体ショーなんだから、胸をはれ! っと言いたいのでしょうが、暴露されたプロレスラー達は大激怒。
あくまで 「八百長と言っているのではない。 最高の肉体ショーだと言っている。 八百長とショーは全く違う」 と主張する高橋に対し、大半のレスラーは怒り心頭、恨みつらみ状態。 中には 「過酷なトレーニングを積み、試合にのぞむ我々が、レフリーなんかにあれこれ言われる筋はない!」 と言い放つ者までいる有様。
私個人主観でモノ言いますと、周りや空気を読めない、このような自己的感覚での 「プロレスの真理」 追及者が、結果、プロレスをダメにしていったように思います。
ファンだって馬鹿じゃありません。 この程度の暴露本なんか読まなくても、そのヘンの事情くらい読んでいます。
真剣なのか? 八百長なのか? といったグレーゾーンも、またプロレスの神秘的な要素であり、魅力でもあったはず。 数学書じゃあるまいし、プロレス観戦するのに「真理」なんて哲学的な話を持ち込むなど滑稽千万。
プロレス(特に昭和のプロレス)は、難しい事など考えないで、純粋・単調に 「凄かった」「怖かった」「面白かった」を楽しめば◎。
猪木の言う 「プロレスラーは何でもいいから一般人にはない超人的なものをもて!」 が全てです。 その部分さえしっかりアピール(ファンの場合は理解)できれば、アホらしいプロレス理屈なんていりません。
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メジャー団体の弱小化によって様々なタイプの団体が乱立する日本プロレス界。
結果、小型ながら身体能力の高いレスラーが続々と誕生し、見たこともないミラクル技を展開する現状は、皮肉にもレベルアップした高度なプロレスへの転換を支え、現在風にイメチェンした二枚目レスラーの活躍もあって、今、世の中はプロレスブームなのだとか。
「体格が劣っても、実力さえあれば受け皿がある時代」 に生まれた者たちは幸せですね。 しかし昭和期においては体格基準が厳しく、レスラーを目指そうにも日本団体では応募もできなかったのが実状。
当時のプロレス大百科によりますと、新日本プロレスの場合、「応募資格は180cm 75kg以上」 となっており、よほど優秀な格闘歴や輝る才能がなければ門前払い・・。 実はマッハ隼人も、新日本入団を希望するも、体格面が劣るが為に審査で不合格になった一人であります。
プロからも誘いがあった程野球が上手く、社会人では名門・東洋工業野球部(現・マツダ)にて活躍。 反面、格闘技が大好きで、空手2段、柔道2段という運動神経抜群のエリートながら、身長176cmと小柄な事により、希望していたプロレス入りを海外に求めるしか方法がなかったマッハ。
小柄レスラーの本場であるメキシコに単身で渡ると、地元のレスリングスクールで基礎を学び、メキシコでレスラーデビュー。 空手を使うマスクマン 「カラテ・ハヤト」 は評判を呼び、地元ミドル王者に君臨。 更には本場仕込みのルチャもマスターし、アメリカにも進出する等大活躍。 そんな折、国際プロレスの鶴見五郎に見初められ、国際プロレスの救世主として1979年(昭和54年)帰国し入団となります。
しかし・・ 時すでに遅し・・。 国際プロレスは1981年9月30日(昭和56年)をもって解散。
この頃には先にフリーとなっていた事から、ルチャが使える日本人として、新日本ならば初代タイガーマスクや藤波辰巳とのタッグや抗争にも参加できたかもしれませんが、またも活躍の場をアメリカに定め渡米。 このあたりは入門を蹴った新日本プロレスに対する意地があったのかもしれません。
そんなマッハが日本に戻り注目を浴びたのは1984年、第一次UWFに参戦した事によるもの。
元々空手を得意とし、シュート系への想いが強かっただけに、佐山聡との対戦はマニアックなファンに注目されますが、ザ・タイガーに扮した佐山の前に歯が立たず、空中殺法でもキックでも翻弄されっぱなし。
最後はタイガー・スープレックスの前にあっけなく敗戦。 (この試合、私も当時としては珍しいレンタルビデオで観ましたが、実力差が激しくて全く相手になっていませんでした。)
その後も、シュート系に取り組みながら、自身の持ち味であるルチャを展開するも、翌1985年、「練習についていけない。 あと10年若かったら・・」 の名(迷)言を残して引退。
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身長186cm 体重105kg というスリムで恵まれた体格を活かし、サブミッション(関節技)の極意を追い求める仕事人というイメージの強い西村修。 長州力の横暴な指導方針に強く反発した事から、ダーティなイメージをもつ方もおられるかもしれませんが、あくまで理論を重視しての事。 まさに古き 「仕事人」・・。
その才能は新日本プロレス入りした時からピカイチで、トレーナーには藤波辰巳の他、カール・ゴッチ、ヒロ・マツダ、そしてドリー・ファンク・ジュニア、ジャック・ブリスコという豪華さ。(フロリダ遠征時における師弟関係が多い)
大半のレスラーが華麗なテクニックを駆使しながら、ルチャと一体化したような現代プロレスを展開する中、地味ながらプロレスの真髄を極めようとする姿から、ついた異名は 「戦う哲学者」「自由人」「ミスター無我」・・・。
若き頃は、ムーンサルト・プレスやドロップ・キックも多様していたように、十分に現代技にも対応できますが、どちらかと言えば師弟関係で伝授された古典技を得意とするのが特徴。
アントニオ猪木=卍固め、インディアン・デスロック ジャック・ブリスコ=足4の字固め
カール・ゴッチ=関節技、ジャーマン・スープレックスホールド ヒロ・マツダ=各スープレックス
ドリー・ファンク・ジュニア=スピニング・トウ・ホールド、エルボースマッシュ
藤波辰巳=ジャパニーズ・レッグロール・クラッチ ・・・・ 等々。
吸収力が早く、どの名レスラーからも 「過去最高の弟子」 と称賛された理由の一つとして考えられる事は、格闘技経験のないまま新弟子となった事で、妙なこだわりや癖がなかった・・・ 事があげられます。
大抵、レスラーを志す者って、柔道、空手、レスリング、ボクシング・・ といった格闘経験がありますので、新しいものには興味を魅かれても、古典技や基礎面には興味が魅かれない者が多いのですが、西村は野球&バレーボールの出身者ですから・・・。
ただ・・ ひたすら理想のプロレスを追及するあまり、一つのものを極めるのではなく、四方から幅広いプロレスを吸収したい心境の変化が発生。 その為、新日本にこだわらず、どの国のどの団体にも参加しながら、あらゆるプロレスを極めたいと2006年、新日本プロレスを退団。 ”無我ワールドプロレス” を設立し、ハッスル、全日本プロレスへと境地を求めて参戦・・・。 ついには政治家への転身も・・・。
これぞ 「無我」 ってやつなのでしょうか??
以前、腹膜腫瘍を患った事がありますが、日本古来の食生活に切り替える ”民間治療” を取り入れた結果、この難関腫瘍を克服した経緯があります。 このあたり ”古き頑固な現代人” って感じがするエピソードです。
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身長180cm 体重150kg(160kgという説あり) という巨体ながら、意外にも身のこなしがよく、巧いレスリングを展開する吉江豊。 1994年に新日本プロレス入門。 巨漢ゆえに怪我も多く、一時期は伸び悩むこともありましたが、1998年の長州力引退試合の一カードを任される等、徐々に力を蓄え1999年には海外武者修行に。2003年には棚橋とのコンビで、IWGPタッグ王者に君臨。
昭和プロレス期には絶対見られなかったこと。 その一つが所属団体以外のマットに登場する事。
各団体から見れば興行を行う上でレスラーは絶対必要。 レスラーもフリーでない以上、団体の運営に従った行動をするのが当たり前でしたが、吉江は全日本だろうがオファーがくればどこでもOKいう考え方。
その為なのか、2006年に新日本プロレスを退団し、妻のサポートを受けながらインディー団体にも積極的に参戦。 更に自らがプロデュースする試合も増えていきます。
「動けるデブ」という皮肉に対し、逆に誇らしげに振る舞うあたり・・ 新しいタイプのヒール??
にやけ顔と髪型、体型、ピンクのコスチューム・・ 雰囲気だけでファンに増悪感を覚えさせるのであれば、超一流になる要素が大ありです。
フライング・ボディ・プレスやフライング・ボディ・シザースといった古典派技から、ミドルキック、裏拳といった必殺技まで使いこなす吉江。 「節約生活してます!」「健康を考えた食事を摂っています!」 と言う割には、ひと月の食事代金は20万円以上。 一食毎に水だけでも2リットルのボトル数本。 デブキャラを保つ為に大食漢なのか、本物の大食漢なのかはわかりませんが、体格を維持することって、本当にタイヘンですね(笑)
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