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昭和レトロに思いをよせ・・ 古き良き時代を振り返り・・

伝説のプロレスラーサイン集(外人

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日本人最強の柔道家は木村政彦。 「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」 と言われた柔道王。
腕立て伏せをすれば1000回連続、100キロのバーベルを転がすように持ち上げるパワー、師匠の牛島が扇子で仰いでくれと言えは畳を持ち上げ仰ぎ出し、電車に乗れば強力な握力で吊り輪の “わっか” を割ってまわる・・・。 圧倒的な強さを誇り、15年間で負けなし。 得意技の大外刈りを食らうと、一回転して頭から落ちると言われた程。

1964年、東京オリンピックの柔道・無差別級の王者はアントン・ヘーシング。 2m近い体格と圧倒的なパワーで柔道チャンピオンとして大活躍。 そんなヘーシングを追うように現れた強豪がウィリアム・ルスカ。
1972年、ミュンヘンオリンピックでは、史上初となる二階級制覇(重量級、無差別級で金メダル) を達成。
あまりの強さに日本柔道界はタジタジ。 ついには上記で紹介の木村政彦で勝負すると言い出した程。

そんな強豪中の強豪であったルスカが、プロレスラーのアントニオ猪木と異種格闘技戦を行うと言うのですから、これで無関心な人なんてそうはいません。
元々のきっかけは、当時の大スターボクサーのモハメッド・アリが、得意の大ぼらを吹きながら、ジャンル問わずの挑戦者煽りをした際、団体の借金に困り果てた猪木が、話題作りを兼ねて挑戦状を叩きつけ、それに柔道から引退していたルスカがのった・・・ というのが定説。 当時、「俺もアリも同じ金メダリスト。 アリと闘いたければ俺と闘え!」 と猪木を挑発する漫画のシーンを見られた方も多かったのではないでしょうか。

1976年(昭和51年)2月6日 日本武道館において両者は激突。
結果は、猪木のバックドロップ3連発が決まり、タオルが入って終了。 投げのスピードや体重の乗った組手は流石ながら、猪木が裸であった事から、投げ・絞め共に中途半端となり、更に隙を見ては行う猪木のパンチ攻撃に錯乱された試合でもありました。 
この試合だけを見たら、プロレスラー猪木の圧勝という感じですがプロたちの眼は違い、格闘技経験者に言わせれば、ルスカ最強説は一向に揺るぎませんでした。

怒ったり興奮したりすると毛細血管が浮き出る為、白人によく見られる赤肌となります。 その為、このような人の事を日本人は 「赤鬼」 と呼びました。
そんな昭和を代表する柔道家ルスカも、2015年(平成27年)2月14日 74歳で亡くなりました。 ルー・テーズなんて、この歳でもマットにあがっていましたから・・ 早すぎる死だったように思います。
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2015年(H27)大晦日を飾るのは、元・大相撲・大関=把瑠都 VS ジェロム・レ・バンナ の総合格闘技戦。
把瑠都30歳に対し、バンナ42歳 という年齢差はあるものの、バンナと言えば ”黄金の左” と呼ばれるパンチと破壊力抜群のキックで、常にKOを狙う喧嘩番長。 かたや把瑠都も体重を30kg落とし、170kgで調整し、筋骨隆々に仕上げているとか。 曙がブヨブヨの身体ながらトレーニングをさぼった結果、ボブ・サップに1Rもたなかった悪夢の再現とはならないだろう・・ だけに、ある意味期待しています。

今や外国人相撲取りに占領されている感のある大相撲ですが、幼少時から格闘技で鍛え、基礎の出来ている外人に対し、身体が大きいというだけでスカウトされ相撲入りする日本人とでは、出だしから雲梯の差がある事は認めざる負えません。 琴欧洲もレスリング・チャンピオンあがりの相撲取りの為、入門時にはすでに出来上がった体格感がありました。 そんな彼達ですから、相撲をやめて別の格闘技を行っても、十分強いわけです。

ジョン・テンタもカナダ・ジュニア・レスリング王者の肩書をもつ元・相撲取り。
1985年(昭和60年)に佐渡ヶ嶽部屋に入門すると、序ノ口、序二段、三ノ段を全て7戦全勝。 圧倒的な強さで周囲を驚かせます。 しかし・・ 相撲という異質な世界に合わず失踪事件を起こし廃業。 次に選んだ道がプロレスでした。 

身長200m近く、体重も170kg近い大型ファイターながら、ドロップ・キックまで使いこなせる天性のバネは、流石レスリング・チャンピオンならでは。
1987年(昭和62年)に全日本プロレス入りすると、いきなり御大・ジャイアント馬場とタッグを組む等、鮮烈なデビューを飾ります。 以後、UWAヘビー王者、カナダ・ヘビー王者といったローカル王者にも君臨。 年末恒例の世界最強タッグにも出場。(パートナーはグレート・カブキ) あの難しい性格のブロディまでが、レスリング基礎ができている大型ファイターのテンタを絶賛したという逸話が残っています。

1989年よりWWF(現・WWE)に進出し、WWF世界タッグ王者につく等、活躍の場を広げていきましたが、2006年6月7日、膀胱癌により42歳の若さで永眠。
もし、相撲を続けていたら、外人初の横綱になっていただろう逸材。 相撲出身・外人レスラーとして、実力をアピールしてくれた功労者でもあります。
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14歳の時にアマレスを始めるとメキメキ上達し、イリノイ大学在学中の1966年〜1969年にかけて、AAU(全米体協)王者に君臨。 1968年のメキシコ五輪ではグレコローマン8位に入賞。 これらの輝かしい実績をさげて、1969年(昭和44年)プロレスデビュー。 当時のニックネームは ”オール・アメリカン・ボーイ” ・・・。

身長186cm 体重125kg の巨漢ながら、アマレスで鍛えたテクニックを武器に、フロリダを中心に大暴れ。
妥協のないストロング・プロレスを展開します。 ところが・・ 1970年代〜 のプロレスは、1960年代までのルー・テーズ式のようなプロレスを好まず、スープレックスやショーマン派による魅せるプロレスにモデルチェンジ。 強さの求道者のようなループのプロレスは、新しきプロレス・スタイルにマッチせず大成しない状況。

そのような中、大物なのに大成に至らないボブ・オートン・ジュニアと意気投合。 
結果、新団体ICWの設立手助けを行うも、「裏切り者」 としてNWA勢力圏での試合が激減してしまいます。 
1981年〜ビル・ワット主催のMSWAに参戦。 北米ヘビー級タイトル争いに加わる等、持ち備えた実力を発揮する中、1983年頃には再びNWA圏に復帰。 トミー・リッチ等との攻防で人気を博しますが、1987年に首の故障で引退。 

日本には1970年(昭和45年)日本プロレス 「NWAタッグ・リーグ戦」 に参戦。(パートナーはラーズ・アンダーソン) この大会、馬場はミツ・ヒライとコンビを組み、猪木は星野勘太郎とのコンビで参戦。 とは言っても、この大会も従来と同じで、日本人同士の対戦は避けるように仕組まれており、猪木&星野組みが優勝。

1974年、全日本プロレス 「サマー・アクション・シリーズ」 に参加。 巨体の馬場を軽々と持ち上げ、ショルダー・バスターでフォール勝ちした事で知られています。。 (相手を逆さに持ち上げたあと、肩口を膝に当てる技で、一種のつなぎ技でありますが、エース・馬場がフォール負け・・・)

1979年、新日本プロレス 「新春黄金シリーズ」 に参戦。 猪木のNWF世界ヘビー級にも挑戦しています。
(この試合、周囲の予想に反し、ループの寝技で猪木が劣勢となる等、今でも猪木ファンにとって伝説の試合と言われています。)
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ファンクス一家、マードック一家、エリック一家・・ 日本では稀ですが、アメリカには、親子や親戚筋全てがレスラーといった一家が多数存在します。 マレンコ一家もその一つ。 ディーン・マレンコの親父は ”デスマッチの鬼” と称えられたグレート・マレンコであり、兄は全日本プロレス・ジュニア部門で活躍したジョー・マレンコ。

幼少の頃から父に鍛えられた他、あの名門・カール・ゴッチ道場にもいたというストロング派であるディーンは、1985年にゴッチ路線でUWFにて初来日。 当時のUWFは ” ストロング ”にこだわり、前田日明、藤原喜明、佐山聡といった本格派が、理想の格闘技を目指していた頃。 従来のプロレス・スタイルを無視(ロープに投げても返ってこない、相手の技に協力しない等)した感のあるUWFにおいて、これらの一流相手に試合をする事ができる実力は本物。 しかし体格面に見劣りがあるのも事実で、ジュニア体格では新・格闘路線の本格派相手に対抗するのは不利。

UWFの崩壊もあり、1988年〜 全日本プロレスに参戦し、当時のNWA系ジュニア王者だった渕正信や世界ジュニア王者の兄・ジョーと好試合を展開。 マレンコ兄弟はジュニア界の強豪として、日本のファンに定着しました。
1992年〜新日本プロレス IWGPジュニア戦線に加わると、1994年にはECWに参戦。
ジュニア体格ながら高度なテクニックで評判となり、ECW世界タッグ王者にも君臨しています。

必殺技の一つがノーザンライト・スープレックス。 これは正面から相手の脇に頭を入れて、後方に投げ、そのままフォールするという、いわゆるブロック・バスター・スープレックス(猪木がルー・テーズからフォールした技)の変型版なのですが、ここで一言。 実は1980年頃、某プロレス雑誌企画で、「新しい必殺技を教えて下さい」 というものがあり、私はこの技を応募したのですが落選しました。 この技って、1980年当時、使い手がいたのでしょうか???
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「最強パキスタンの巨人」「無敵のカラテ家で20数戦無敗」「アンドレよりもデカい身長226cm」・・・ 
1987年(昭和62年)6月6日 日本武道館において、ジャイアント馬場と異種格闘技戦が決定!
 
当時のプロレス界は、前田日明率いるUWFがリアル・プロレスを展開したことから 「真剣勝負」 がもてはやされ、馬場の全日本プロレスは世間の逆風にさらされ苦しい状況。そのような中で突然持ち上がった馬場の異種格闘技戦に対し、期待100%・・ 不安も100%・・。

いざ、試合が始まったら・・ ラジャが前蹴り2発! したとたんバランス崩して尻もち。 
「なんじゃこりゃ〜?」 という切ない気持ち。 立ち上がったラジャ、今度は横蹴り〜! したとたん、バランス崩して座り込み、柔道の受け身のようなかっこうでマットをパタン。 もうこの時点で、この勝負の全貌が見えたような。

それでも左右で蹴り続くうちに、スローなハイキックが馬場の顎や側頭部に命中。 ぐらつく馬場にヒヤヒヤ。
しかし、そこは世界の馬場。 2R 腕挫十字固めを決めてギブ・アップ勝利。
「アジア巨人対決」 に勝利した馬場 ・・ に対し、リングサイドで観戦していたタイガー・ジェット・シンが猛然とアピール。 それを静止しようと中に入ったラジャに対し、サーベルのつかでゴツン。

日本中を沸かせたあの世紀の一戦も、早いもので28年前の出来事となってしまいました。(H27年時点)
その後、ラジャ・ライオンは日本に留まり、全日本プロレス練習生となりましたが、いつしかいなくなりました。 一説では、現在パキスタンで警備員をしているとの事。 その他、カレー屋のおやじをしている説も有り。
本名はリアズ・アーメッド。 馬場との対戦時21歳。 彼は一体、何がしたかったのでしょう???

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