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1972年(昭和47年)ミュンヘン・オリンピック 重量挙げ銅メダリスト の怪力をバーン・ガニアに買われプロレス入りしたケン・パテラ。 ガニアはレスリングのできる者を好む傾向があり、パテラがレスリング経験をもっていた事も、スカウトにつながった要因だと考えます。
1970年代〜1980年代における怪力殺法の第一人者として一世風靡。
必殺技はベア・ハッグやフルネルソン・スイングといった単純技でしたが、筋骨隆々のパテラがすると説得力あり。 この手のレスラーが好まれるアメリカ・マット界において重宝され、NWAミズーリ・ヘビーやジョージア・ヘビーといったローカルの中では比較的権威あるタイトルを続々と奪取。 後にハルク・ホーガンが出現するまでは、「アメリカ1の力持ち」と言われた事も・・・。
日本には計6回も来日。 初来日は1973年(昭和48年)国際プロレス。 まだデビュー1年目の新米でしたが、当時、国際プロレスがAWAと提携を結んでいた流れで実現したものと思われます。
その頃はオリンピックによる知名度だけを武器にした、単なる怪力レスラーでしたが、ショー的要素(パフォーマンス)を高める為にヒール転向したあたりから知名度があがり、NWA→WWWF→NWAエリアに転戦。
1977年(昭和52年)10月における全日本プロレス=ジャイアント・シリーズにおいて、二度目の来日。
未知なる強豪として宣伝され、10月21日、横浜文化文化体育館では、ボボ・ブラジルとのコンビで、馬場&鶴田のインター・タッグに挑戦。 10月24日には岩手県営体育館において、馬場のPWFタイトルに挑戦と厚遇を受けます。
1980年(昭和55年)9月、WWFエリアに転戦した事から、WWFと提携ルートをもっていた新日本プロレスに参加。 9月31日に行われた「新日本プロレス、ファン感謝スーパーファイト」 において、日本武道館で猪木のもつNWFタイトルに挑戦。 初参戦の初戦からの好待遇は異例。 以後、新日本プロレスの常連として、昭和56年1月=新春黄金シリーズ、昭和56年4月=WWFビッグ・ファイト・シリーズ第2弾、昭和59年5月=1984・IWGPに参加しました。
1982年(昭和57年)、AWAに復帰する等、全米マット界を渡り歩き、アンドレやホーガンといった超ヘビー級の対抗馬として活躍。 AWA世界タッグ王者にも2回君臨しています。
そんな絶頂期・・ 酒癖の悪いパテラは、たまたまホテルで相部屋だったマサ斉藤を巻き込んで警察官と大喧嘩。逮捕され、3年間の刑務所送りに・・・。当時の話をマサ斉藤の自伝から再現すると・・
マサ=「いつもは一人部屋で泊まる俺だが、同じ試合に組まれたケンがやってきて相部屋はどうだと言う。 たまにはそれもいいかと思いOK。 夜11時にホテル着すると食事できる場所がない。 しばらく二人でホテルのバーで飲んでいたが、バーテンダーに食事できる場所を聞くと、近くにマクドナルドがあると言う。 そこでケンが買いに行ったのだが帰ってこない。 つまみのポテトチップスを食ってたら、ケンが帰ってきて、「店が閉まっていた」 と言う。 仕方がないので二人で部屋に帰って寝ようとしたところ、誰かがドアをノックする。 いたのは男女二人の警官。 パンツ1枚の姿だったから、とにかくジーパンくらいはかせてくれと部屋に戻ろうとしたら、ドアに足を差し込み、強引に入ってきた。 すると寝ていたケンが怒り出し、女性警官を抱えて壁に叩きつけた。 俺は何が起こったのかもわからずにいたが、男の警官がケンに拳銃をむけたのを見てとっさに、” ケンが撃たれる”と思い、男警官をタックルで吹っ飛ばした。 その後、無線で応援にきた15人以上の警官と大喧嘩。 翌日、事情を聴くと、深夜で営業停止中のマクドナルドに腹を立てたケンが、従業員に開けろ開けないのトラブルを起こし、大きな石をウィンドウに投げつけたらしい。 その上、壁に叩きつけて骨折させた女警官は、署長の娘だったようだが、何故かこの事件は、俺がやった事にされてしまった。 結局俺も逮捕され、1年半もブタ箱入りさ・・」
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伝説のプロレスラーサイン集(外人
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時代と共に変化(進化)する必殺技。 昭和のレスラーは自身の売り物であり代名詞とも言える必殺技を幾つか持ち、ここという見せ場で披露する達人でもありました。
例えば・・・ コブラツイストは、昭和40年代における必殺技。
日本ではアントニオ猪木が得意とし、「これが決まったら終わり!」 と、誰もが認める必殺技でした。
しかし・・ プロレスの進化と共に、試合の流れによる ”つなぎ技” に転落。 今のプロレスでは見かける事も少なくなりました。
キー・ロックも同じ。 力道山 VS ルー・テーズ戦では、キー・ロックをめぐる攻防戦で観客が沸いたものですが、今では見かける事もありません。 まさに死語ならぬ死技・・・。
筋肉隆々の現代レスラーでは、絵にならない事もあるのでしょうが、本来プロレスは 「プロ」 のレスリング。
派手な打撃技や空中戦以上に、地味でもサブミッション(関節)を軸とする攻防戦こそが真骨頂のように思います。
そんな、忘れ去られたサブミッション技の一つに、スタンディング・クラッチ・ホールドがあります。
この技の使い手はカール・ゴッチ。 座り込んだ相手の肩口にまたがり、相手の片足を引っ張り上げるというストレッチ技。 一見、「これも技?」 と思うような奇怪かつ単純な技ですが、身体の固いレスラーだと、首、背骨、股関節、脚 を同時に絞り上げられ、ギブアップに追い込まれる事も。
ゴッチは猪木戦で披露しましたが、当時のビデオを見ると、観客席からは驚きと一緒に笑い声のようなものが聞こえます。
カール・ゴッチはこの技を必殺技ではなく、ダメージを与える、つなぎ技としましたが、ダニー・リンチは必殺技として使用。 1969年(昭和44年) 国際プロレスにて初来日すると、開幕戦の葛飾大会において、グレート草津を相手にスタンディング・クラッチ・ホールドを披露。 見事、ギブアップ勝ちしています。
ダニー・リンチは ” 英国の流血王 ” なるニックネームをもつ巨漢レスラー。
公表では身長185cm(実際はもっと低かったらしい) 体重135kg 蒙古風の風貌のラフファンター。
伝説の名レスラー、ジョージ・ハッケンシュミットを初代王者とする、世界ヘビー級王者(ヨーロッパ版)にもなった実力者。 日本では、ヨーロッパ・プロレス界とパイプがあった国際プロレスに度々参戦。
1969年(昭和44年)初来日では、デイブ・ラールとのコンビで、豊登&サンダー杉山のもつTWWA世界タッグに2度挑戦。 1971年(昭和46年)の来日では、バロン・フォン・ラシクとのヒールコンビで、ラッシャー木村&サンダー杉山のIWA世界タッグに挑戦。 同年10月27日には、ストロング小林初となる金網デスマッチの相手をつとめています。
1975年(「昭和50年)にも国際プロレスに登場。 この時はブライアン・メイソンを 「弟」としたギミックに仕立て、ブッチャー・リンチと名乗らせてタッグを結成。 リンチ・ブラザーズは、1月7日、行田大会において、ラッシャー木村&グレート草津のIWA世界タッグに挑戦。 単独でも2月2日、後楽園ホールにてマイティ井上のもつIWA世界ヘビーに挑戦する等、国際プロレスファンにとっては、懐かしい強豪レスラーでもあります。
1978年(昭和53年)、ドイツでローラン・ボックと対戦した折り、リンチのラフ攻撃に怒ったボックにより脚を負傷しセミリタイア。 引退後はレスリング・スクールを開校した他、TVや映画にも俳優として出演する等、幅広く活動。 2007年5月29日、68歳という若さで永眠。
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1984年(昭和59年)8月25日、ネバタ州ラスベガスにおいて、新星・ザ・ロード・ウォリアーズが、クラッシャー・リソワスキー&バロン・フォン・ラシクからAWA世界タッグ王座を奪取。
その圧倒的な肉体とパワーから、未知なる強豪として日本でも話題に。 当時はプロレスブーム。 人気を活かして一儲けしようと、アメリカン・プロレスなるビデオが発売。
当時、学生だった私は、プロレス好きの友人とこのビデオを借り、アメリカン・プロレスを魅入ったわけですが、このビデオの中に、” 南部の帝王 ” なる、もう一人の未知なる強豪が紹介・・・。 それがジェリー・ローラーでした。
身長183cm 体重115kg の体格は、ヘビー級としては並み。 筋肉隆々というわけでもなく、威圧的な雰囲気があるわけでもなく・・・。 そんな彼が王冠をかぶって王様のような登場に、満員の観客は熱狂。 っという事は、何か独自の必殺技でもあるのかと期待しましたが、いざ試合が始まると、しょうもないボディ・スラム一発喰らう事に、顔をしかめ腰をおさえる痛がりぶり。 何かにつれオーバー・アクションを繰り返し、やられるだけやられた後は、ナックル・パンチで急きょ反撃し、最後は下手なパイル・ドライバーで終わり。 新日本マットだったら暴動モンのショボイ試合でしたが、満員の客はローラーが勝利した瞬間立ち上がり、興奮の坩堝・・・。 全くもってアメリカン・プロレスってヤツは理解に苦しみます。
特にAWAは柔らかいマットに薄い鉄板を敷いたようなフニャフニャマット。
叩きつけるとバーンと派手な音が響き渡りますが、レスラーはトランポリンのように何回も弾みます。
1990年代に入ると鉄人ルー・テーズは、「日本のプロレスはタフマン・コンテスト(我慢大会)」「アメリカのプロレスはカートゥーン(漫画)」と小馬鹿にしましたが、こんなプロレスラーが世界チャンピオンでは仕方がないように思えます。
ジェリー・ローラーはラジオDJ出身。 つまりはタレントあがりのショーマン・レスラー。
客の喜ばし方や興奮させやすい方法に長けていたという事でしょう。
しかし、人気と比例してタイトル歴は凄く、AWA世界ヘビー、AWA世界タッグをはじめ、南部にあるNWA・AWAのローカル・タイトルを幾つも奪取。 王座についた回数は驚きの52回に達しますから、いかにローラーの人気が凄かったかわかります。
必殺技はフィスト・ドロップこと正拳突き。 ラジオのDJがトレーニングつんで、何故、必殺技が正拳突き??
これぞアメリカン・プロレス=カートゥーン(漫画)ですね。
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昭和53年版 プロレス大百科 坂口征二のコーナーでは、EWU世界スーパーヘビー級という、聞きなれないタイトル保持者(すでに王者からは転落)との紹介記事が・・・。
このスーパーヘビー級、レスリングでは120kg以上のレスラーを対象にした階級に当たるも、ヘビー級の曖昧さもあってか、今ではあまり使用されていない階級。
坂口のEWU(ヨーロピアン・レスリング・ユニオン)世界スーパーヘビー級タイトルマッチは、1976年(昭和51年)10月31日 南アフリカ ヨハネスブルグ・アイスアリーナ において行われ、王者・ジャン・ウィルキンスから奪取。 翌年には王座転落するも、シングルタイトルが少ない坂口が、日本人の体格では困難なスーパー・ヘビーという世界タイトルを獲得した事は快挙として扱われ、当時はちょっとした話題になりました。
ジャン・ウィルキンスは南アフリカ〜ヨーロッパを中心に活躍した大型レスラー。
身長196cm 体重130kg という巨人で、必殺技はバック・ブリーカー系。 EWU世界スーパーヘビー級王座に、計6回ついた実力者。 「南アフリカの帝王」なる異名をもち、現地の英雄的人気レスラーでした。
日本には1969年(昭和44年)6月 ダイナマイト・シリーズに初来日。 当時の国際プロレスはNWAより加入を拒否された関係でヨーロッパとの提携が深く、未知なる強豪が続々来日しますが、ジャン・ウィルキンスもその一人。重量挙げ出身のパワー・ファイターだけに荒技が多く、逆十字固めでサンダー杉山を病院送りにしたことも。
この時は、チーフ・ダニー・リトルベアとのタッグで、サンダー杉山&ラッシャー木村のTWWA世界タッグに挑戦する等、外人エースとして活躍しました。
2度目の来日は、新日本プロレス草創期の昭和48年3月開幕のビッグ・ファイト・シリーズ。
テレビ朝日が新日本プロレス初放送した試合に登場した外人が、ジャン・ウィルキンス。
アントニオ猪木&柴田勝久 に、マヌエル・ソトとタッグを組み対戦しています。 以後、坂口征二とはライバル関係となり、坂口が南アフリカに遠征した折、前述したEWU世界スーパーヘビーのタイトルを奪取。
「南アフリカの帝王」の異名は伊達ではなく、ドン・レオ・ジョナサン、ブラック・ジャック・マリガン、ビッグ・ジョン・スタッド、オックス・ベーカーといった2m近い巨人レスラーや、タイガー・ジェット・シンとも抗争を繰りひろげました。
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年間200試合以上にも及ぶプロレス興行において、権威ある団体が認定したチャンピオン・ベルトは不可欠。
日本プロレス設立当時、力道山は日本ヘビー級やアジアヘビー級といったタイトルを設立して防衛戦を行いますが、権威のないベルトでは、所詮 極東のローカルタイトルに過ぎず・・・。
当時のプロレスは戦後の流れが濃く、皮肉にも、敗戦国であり身体が小さな日本人のコンプレックスが、プロレス人気を支えていました。 状況判断に長けている力道山は、コンプレックスを最大限に利用。 日本人気質を考えれば誰もが認める世界王者から奪取したベルトこそ権威の象徴だと考え、標的をルー・テーズに絞ります。
1957年(昭和32年)10月にテーズ初来日。東京・後楽園球場、大阪・扇町プールと2連戦を行うも奪取ならず。
1958年(昭和33年)8月27日 ロサンゼルスのオリンピック・オーデトリアムにおいてルー・テーズを破りますが、この時点でNWA世界ヘビー王者はディック・ハットンに移っており、この試合はノンタイトルマッチ。
ただ事前の打ち合わせで、別のベルトを賭ける約束がされており、力道山の日本興行を手助けする為、テーズを初代に新設されたのが、NWA認定インター・ナショナル王座となります。
(そういった事情もあり、ベルトの作成が間に合わず、王者でありながらベルトなしでの帰国。 ベルトは帰国後、日本で作成しました。)
以後、日本での王道タイトルはシングルとなり、タッグ王者は ” おまけ ” のような存在として脚光を浴びませんでしたが、1963年(昭和38年) 絶対カリスマであった力道山が、暴力団員に刺殺された事で状況は一変。
残ったレスラーからエースとして抜粋された豊登がWWA世界王者につくも、またも伏魔殿ことWWA本部により王座を剥奪される事態から上手くいかず、日本プロレスは人気若手を起用したタッグ王座を企画。
1966年(昭和41年)9月 ダイヤモンド・シリーズ、第6代・NWAインターナショナル・タッグ王者として、フリッツ・フォン・ゲーリング&マイク・パドーシスが初来日。
11月5日 蔵前国技館においてジャイアント馬場&吉村道明が奪取に成功。 1967年(昭和42年)10月6日 福島県体育館でターザン・タイラー&カウボーイ・ビルワットに敗れるまで計6回防衛に成功。
アントニオ猪木の日本プロレス復帰後は、馬場とのBI砲が保持。 TVの普及もあり、日本中に再びプロレス・ブームを巻き起こしました。
フリッツ・フォン・ゲーリングによって持ち込まれたNWAインターナショナル・タッグ王座の権威ですが、当時の主力団体であったAWA、WWWFと並び、世界3大タッグ・タイトル扱いであったと、当時の資料に紹介されています。 BI砲からファンクスに移り、馬場が全日本プロレスを設立後、ジャンボ鶴田とのBJ砲が奪取に成功。
1982年のNWA総会により、NWAインターナショナル王座、NWAインターナショナル・タッグ王座、NWAインターナショナル・ジュニア王者の保有権(管轄)が全日本に移り、NWAの崩壊後に設立されたPWF世界タッグとの統合によって、”世界タッグ王座” として生まれ変わりました。
(日本のように、団体がレスラーを社員として保有するのではなく、プロモーターが遠征してくるレスラーを集めて興行するアメリカでは、プロモートに必要なタイトル定着が重要。その為、各地区に「〇〇認定〇〇版」といった同じ名前のタイトルが多数存在。 特に格下扱いのタッグ・タイトルにおいては、NWA系列プロモーターが、自身の仕切っているエリア向けに世界の称号を入れたローカルタイトルを乱発。 フリッツ・フォン・ゲーリングが持ち込んだNWAインターナショナル・タッグ選手権も、そんなローカル・タイトルであったという説があります。)
フリッツ・フォン・ゲーリングは1934年生まれ。 ドイツ移民系だったようで、異名は ” ナチの流血獣 ”・・。
身長192cm 体重120kg という大型ブルファイターで、得意技はニー・ドロップ。
日本のプロレスと縁深きロサンゼルスあたりを本拠地に活動していたのか、1961年(昭和36年)にジャイアント馬場(当時は馬場正平)が海外武者修行の際、ロスを仕切っていたWWA主催試合において、8月9日 オリンピック・オーデトリアムで一緒に出場しています。 (鈴木幸雄ことマンモス鈴木は第2試合目。馬場は第4試合、ゲーリングは第5試合で共にシングルマッチ。 ちなみに第6試合がセミ・ファイナルでルー・テーズのシングルマッチ。 第7試合のファイナルはエドワード・カーペンティアやフレッド・ブラッシーといった有名レスラーでのタッグ・マッチ。)
1972年(昭和47年) 日本プロレス主催のNWA・タッグリーグ戦の為、2度目の来日。 ワイドー・フォン・エリックとのナチ・コンビとして注目されましたが、さほどの活躍とならず。 これが最後の来日となりました。
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