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ジャック・クレインボーンの実弟であるジェリー・モローは、1971年(昭和46年)、兄が主戦場としていた好で、国際プロレスに弟子入り。 当初は、「エティフィア・ジェラール」 と名乗りますが、次のシリーズであるダイナマイト・シリーズからは、「稲妻ジロー(二郎)」 と改名。 ” 二郎 ” の由来は、トリニダード・トバゴ出身の黒潮太郎に次ぐ、二番目の留学弟子だったからだと言われています。 出身はフランス領カリブ海に浮かぶ、西インド諸島の中のウィンドワード島の一つ ” マルティニーク” 出身。
アフリカ系フランス人であり、黒人肌を活かし、時には覆面をかぶって、「ザ・ワイルド・ヌウ」 に変身。
台所が火の車であった国際プロレスにおいて、外人レスラーの代行として予算節減に貢献。 1974年(昭和49年)7月13日 気仙沼大会では、ラッシャー木村と金網デスマッチを行っています。
1975年(昭和50年)、カナダに遠征し、兄のジャック・クレインボーンとタッグを組み、ローカルながらタッグ王者に君臨。 1976年2月20日、王座転落を機に、再度日本マット界に遠征。 1976年3月28日、蔵前国技館で行われた全日本プロレスとの対抗戦にも出場し、園田一治に勝利する等、国際の一員として活躍しました。
1977年(昭和52年) 国際プロレス主催の ” 第6回 IWAワールド・シリーズ ”に出場。 また兄のジャックとのコンビで、同時開催された ”IWA世界ダッグ王座決定戦” にも出場する等、カナダと日本のマット界を主戦場としていましたが、1981年8月に国際プロレスが崩壊。 1983年、ジェリー・モローとして全日本プロレスに参加。 また1984年8月には新日本プロレスに参戦。 同年11月に開催された第5回MSGタッグリーグ戦においては、フランス語が話せる事から、アンドレ・ザ・ジャイアントのパートナーに抜擢されています。
そんな稲妻ジローには、日本留学ならではのエピソードも多々。
「2mの巨漢で同じ黒人留学生であった黒潮太郎は日本の習慣に馴染めず失敗に終わったが、ジローの場合はいち早く日本語を覚えた事が成功につながった。 二郎の日本語の教科書は歌謡曲。 中学二年生だった ”森昌子” の歌った ”先生” を気に入り、口ずさむ事で日本語を覚えていった。 そんな二郎は森昌子に一目惚れ。 持ち前のスピードとドロップキックで頭角を現した頃、森昌子が、森進一と結婚するという電撃ニュースが・・・。 ” 僕の昌子ちゃんがお嫁に行く ” と言って、泣きながら ” 先生 ” を歌っていた。 あまりにジローの昌子熱が凄いので、先輩のマイティ井上が、知り合いのTV関係者に頼んで、”夜のヒットスタジオ” 収録の場で二人を合わせるという演出。 ジローにとって井上は頭があがらない存在。 」
” 忘れじの国際プロレス参照 ”
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