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猪木に寝技の特訓を行っていたゴッチは、「丸くなって身体を防御した体勢をとれ!」と指示。
猪木は丸くかがみ完全体の姿勢をとるも、突然 「えっ」と驚き、身を崩したとたん、ゴッチの関節技攻撃を食らいギブアップ。なんとゴッチは丸まって防御する猪木の上にまたがりながら、猪木の肛門に指を入れたのだとか。
この話は、ゴッチ最強説における有名なエピソードですが、鉄人テーズして 「ゴッチは天才ではあるが、勝つためにはえげつない手段でも関係なくやってくる!」 の言葉通り、手段を選ばず、融通の利かないゴッチ・イズムはアメリカマットから煙たがれる存在に。
その為か・・・ 日本では 「神様」 と呼ばれるゴッチが、アメリカではあまり評価されていないのだとか。 このあたりのプロレス価値観(スタイル)の違いこそが、ヨーロッパ・プロレス(正統派)とアメリカン・プロレス(演技派)との違いのように感じられます。
ゴッチ、ボック、リーガン、ホフマン、ロビンソン・・ といったヨーロッパの強豪は、スープレックスをはじめ、本格的なレスリングの動きを取り入れたリアル性をプロレスに応用。 世界的に名を広めます。
しかし、広いヨーロッパには、まだまだ未知なる強豪が多数。 ウェイン・ブリッジもその一人。
身長188cm 体重102kg。 新日本プロレス草創期にあたる1972年(昭和47年)に初来日。
当時のブッカーだったゴッチらしい選択レスラーであり、アメリカ系の似合う馬場と違って、猪木の良さを引き出すにはヨーロッパ・ストロング系の方がよいだろうというはからいがあったとの事。 事実、ウェインは1974年、NWA認定カナディアン・タッグ王者にもなった実力派でもありました。
この来日によってウェインと新日本のパイプが定着。 1973年(昭和48年)9月の闘魂シリーズにも参戦。
その後、ウェインは伝統ある大英帝国ヘビー王座に就く等の大活躍。 ヨーロッパヘビー王座にも君臨。
人気絶頂の中、新日本の目玉シリーズでもあった ” MSGタッグ・リーグ ” にも、第3回(家庭都合で棄権) 第4回 と参加する程、新日本と親密な関係を保ち、ヨーロッパ修行中であった ” 佐山聡 ” ”前田日明 ” の面倒も見ていたそうです。
今から10年前の某雑誌によると、パブの経営をしている他、英国プロレスOB会筆頭幹事として活躍中だとか。
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伝説のプロレスラーサイン集(外人
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アームレスリング世界大会優勝(その他、全米アームレスリング大会3回優勝)に、シルベスター・スタローン主演の映画 「オーバー・ザ・トップ」 にも出演。
プロレス入りした時には、すでに話題の人であったというノートン。 身長190cm 体重160km の巨体とミラクル攻撃の前には、日本の名だたるレスラーが敗戦。 長きに渡り新日本の常連レスラーとして、” 越えなければならない壁 ” という立場で人気者となりました。(異名は超竜)
広いアメリカにおいて、偶然にも高校時代のクラスメイトがホーク・ウォリアーだった事が呼び水となりプロレス入り。 当初はレイガンス教室に所属。 以後、バーン・ガニアから手ほどきを受け、1989年にデビュー。
人気の割(有名な)にはショーマン派でない分、パフォーマンスよりも実力者を喜ぶ日本向きのレスラー。
怪力自慢・日本人レスラーの得意技を食らってもケロッとしており、あの長州力が渾身のラリアートを放っても効果なし。シンプルな古典技を駆使し、大反撃に移るのがいつものパターン。
必殺技は ” 超竜ボム ” ” 超竜式パワー・スラム ” といった投げ捨て式の大技。
ただ自身の巨体を浴びせるのではなく、怪力に任せて持ち上げての投げ捨て技が主体なのは、事故防止も兼ねているものと推測します。(160kgがまともにのっかりパワー・ボムをしたら・・・ 相手は死んでしまいます。)
1992年11月22日、両国国技館にて念願のIWGPタッグ王座を奪取。(相手はシュナイダー兄弟。トニー・ホームとタッグ) 同年12月14日 大阪府立体育館において、ホーク&パワーのヘルレイザースに敗戦し、僅か1ヶ月で王者転落するも、1993年8月5日 両国国技館では、ヘラクレス・ヘルナンデスとのコンビ(ジュラシック・パワーズ)でリベンジを果たし、再び王者に君臨。
IWGPヘビー王座にも2回君臨。 2005年くらいまでがピークだったように思います。
160kgとされる巨体ながら、ブッチャーやベイダーとは違って、筋骨隆々のボディ。
ベンチプレスは驚愕の358kgだとか。 とにかく練習熱心。 そんなノートンは今、アメリカ・テキサスのベンツ販売で働いているとか・・・。 まだ54歳(H28・2現在)。 引退は早すぎます!
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1993年8月31日 全日本プロレス豊橋大会における三冠挑戦決定戦・・・ 小橋と対戦したウィリアムスは、垂直落下式(脳天落とし)バックドロップを披露。以後、「デンジャラス・バック・ドロップ」 として彼の必殺技に・・・。
実はデビュー当初にも使った事があったようですが、あまりの破壊力と受け身のとれない急角度から怪我人続出。1990年にはオリンピック男・谷津が受け身をとりそこねて脇腹骨折した事もあり、流石に本人も危険だと察知したのか、自ら封印していた必殺技でもありました。
なんでもありと思われがちなプロレス技ですが、そこは暗黙の了解があり、それなりの禁じ手が存在します。
古くはアメリカの各州ではパイル・ドライバーが禁じ手とされましたし、あの馬場の脳天チョップも考案当時、力道山から 「相手を殺す可能性が高い」 と禁じ手にされていた時期があります。(結局はブルーザー戦で解禁)
ブルーザーはプロレス界一の無法者として恐れられましたが、必殺技のアトミック・ボムス・アウェイの際、相手の力量を見ながら片足か両足かを決めていました(大半は片足)。
いまやつなぎ技になっているブレーン・バスターも当初は、コックス式の脳天落としは危険すぎると、背中落とし式のタイプに変化していった経緯があります。
テーズ戦で見せたゴッチのバック・ドロップ封じは逆のパターン。わざとバック・ドロップを食らいながら、自らの体重をテーズの上半身にかかるように落ちた為、テーズは肋骨数本を骨折。 勝負には勝つも、以後半年間、まともに試合ができず、「ゴッチは汚い男だ。勝つためには手段を選ばない」と激怒し、二度とゴッチの兆戦を受けなかったエピソードは有名です。
そんなプロレス界の暗黙の了解が崩れた瞬間が、あの豊橋大会における急角度バック・ドロップだったというプロレス評論家が多数存在。 事実、その後のプロレス界は、受け身のとれないような投げや落とし方の技がもてはやされるようになり、過激ぶりがエスカレートする反面、怪我人続出・・・ 疲労の蓄積・・・ ついには三沢の死(試合での過労の他、運営不振のストレスや多忙からくる不摂生も原因)につながっていきます。
ウィリアムスは大学時代、アマレス大学選手権4連覇の実績をもつ、筋金入りのレスリング男。
それだけに投げ技は得意で、急角度での 「投げっぱなしジャーマン」 や 「オクラホマ・スタンピート」 更には怪力をいかして、「ドクター・ボム(サイドスープレックスの体勢からパワーボムに切り替える技)」 リフトアップ・スラム」 も披露。 全日本プロレスの常連レスラーとして人気を博しました。
反面、ジャイアント馬場は怪力主体に危険技を連発するウィリアムスへの評価が低く、何某につれ酷評・辛評。
これは大柄レスラー特有の身体の硬さが不器用に見える為、レスリング基礎があっても試合運び下手を毛嫌いする馬場らしい評価とも言えます。(オーバーアクションをする鶴田あたりも同じような酷評でした)
三冠ヘビー級王者の他、世界タッグ王者に8回も君臨した実力者でしたが、2009年12月29日、喉頭癌により永眠。(満49歳)
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昭和49年8月8日 蔵前国技館 において、ミュンヘン・オリンピック代表となった吉田光雄(後の長州力)がデビュー。
同時期にアマレスで活躍し全日本プロレス入りした鶴田友美(後のジャンボ鶴田)と比べると、体格的に劣り、見た目が地味な分、何かと損をした感のある吉田ですが、専修大学時代、鶴田との練習試合において一度も負けなかったという実力は、プロレス関係者の間にそれなりの評判をよんだらしく、前座らしからぬ注目を集めます。
漫画・「風雲プロレス30年=長州章」を参考に、当時の様子を確認しますと、猪木としては鶴田の対抗馬として、同じくオリンピック出身という肩書を全面的に売り出させたかったらしく、デビュー戦には、ヨーロッパ系のテクニシャンレスラーを用意。 当時の新日本ブッカーはゴッチでしたので、無名の強豪ながら、エル・グレコは吉田の実力を引き出してくれるものと期待していたようです。
グレコはテクニシャンぶりを発揮し、大技のブレーン・バスターやドロップキック、更には関節技で吉田を攻めあげる奮闘ぶりを披露。 アマレス出身の吉田の良さを引き出す試合を展開。
結果は必殺・サソリ固めで吉田が勝利しますが、ずんぐり体型の吉田は、イメージ的には豊登に近く、サソリ固めと、豊登の必殺技であるボストンクラブが似たり寄ったりの技だった事から、あまり名勝負との評価はされず、デビュー戦を支えたエル・グレコの名(存在)も、いつの間にか風化していきました。
しかし近年となり、長州も60歳をこえた事から過去が振り返えられるにつれ、再びエル・グレコの存在が脚光を浴びだしました。 身長185cm 体重100kg 異名は” 黄金のギリシャ人 ” ・・・。
クルセーダという必殺技(変形の十字架固めだとか)をもち、主にヨーロッパ(特にドイツ)を主戦場としていたようです。 テクニシャンレスラーとしての紹介本が多い反面、主なタイトル歴はなし。
真の実力はわかりかねる・・・ といったとこが本音。
ちなみに新日本には、同じ名前(エル・グレコ)のオカマレスラーが登場。 たまにオールドファンが間違えるのだとか(笑)
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身長185cm 体重100kg という均一のとれたスタイル。
学生時代、ボディ・ビル コンテストにおいて数々の賞を得たというマッチョボディ。
日本では全日本マットにあがり、1986年(昭和61年)の世界最強タッグ・リーグ戦に参加。 AWA世界王者にもなったリック・マーテルとタッグを組み、6点を挙げる健闘ぶりをみせます。
翌年の世界最強タッグにも、ザ・ターミネーターとのタッグで参戦。 この時は2点どまりと、各チームの引き立て役で終わりますが、筋肉美から放つドロップ・キックが評価を受け、以後、全日本マットの常連レスラーになりました。(ちなみに、ザ・ターミネーターの実兄は、ロード・ウォリアー・アニマルとジョニー・エース)
アメリカマット界ではメインもはれる程の人気者だったみたいですが、日本においての立場は並。
タイトルマッチにも起用される反面、当時、売出し中だった輪島の 「噛ませ犬」 扱いをされた事もあったようですが、そのあたりはアメリカ人ならではビジネス魂。 変なこだわりをもたず、スパッと割り切れるあたりは一流の証。
昭和から平成にかわる1989年頃まで日本マットを主戦場とすると、以後、WCWに移り 「Zマン」を名乗り大暴れ。 ついにはリック・フレアーとNWA世界ヘビー級タイトルマッチまでが実現。 着々と実力・人気をつけていき、短期間の間にUSタッグや世界TV王座を獲得しています。
WCW提携ルートにより、新日本マットにも登場。 1994年には再び全日本マットに参戦。
1996年にはプロレス引退していますから、デビュー(1983年)から僅か13年という短命レスラーでした。
ちなみに・・・ 日本マット界においてトムが有名になったもう一つの理由は・・・
股間の 「もっこり」 だったとか。 ファンの間では ” 常人離れしたイチモツを持つ男 ” と言われたみたいですけれど、その真相は・・・ 知りません(汗)
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