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2004年の暮れだったか・・? 某ニュース番組で 「ロッテの元投手 小川博が強盗殺人で逮捕」 という衝撃的な報道が・・・。 当時、不人気球団でもあったロッテ選手だけに、あまり詳しくはなかったものの、伝説となった1988年の近鉄戦では先発をつとめた投手として記憶があり、複雑な思いに駆られました。
右サイドから食い込むような速球とシンカーを武器に、前橋工業時代(群馬)3度甲子園出場。
美男子としても有名で、ついたあだ名が、「群馬の玉三郎」 ・・。 青山学院大学に進学。 当時、まだ無名だった野球部が全国区に注目される野球部に変貌したのは小川の活躍があっての事。
1984年(昭和59年)ドラフト会議において、ロッテより2位指名を受け入団します。
初年度の1985年は21試合 2先発 61.2イニングに登板しますが、2勝 3敗 4セーブ 防御率4.67 と結果を残せず。翌年も6試合 6.1イニング 防御率7.11と低迷。
3年目の1987年、40試合 98.0イニング 防御率3.28 と安定感を得ると、翌1988年に大ブレーク。
203.2イニングを投げ、204奪三振と三振ショーを展開し、最多奪三振(当時は表彰なし)のタイトルを獲得。
投球イニングよりも奪三振が上回ったのが、パ・初の快挙でもあった事から、パ・リーグに奪三振王のタイトルが創設されるきっかけとなりました。
1988年10月19日、川崎球場・近鉄との伝説のダブルヘッダー第1試合において先発出場。
当時、圧倒的に強かった西武の優勝を阻止するには、近鉄が2連勝する必要があり注目される中、7回が終わって3−1でロッテがリード。 好投する小川でしたが8回に同点とされ、9回は抑え・牛島がつかまり近鉄の逆転勝利に日本中が大興奮。 2試合目を見たさにファンが続々と押しかけ満員となる中、白熱した一戦は4−4のまま時間切れ引き分けとなり近鉄は涙・・・。 小川の名前は全国区に広がっていきます。
しかし・・ 1989年は5月に右肩痛が発生し登録抹消。
当時のロッテ投手コーチだった植村義信氏= 「普通、投手というものは、打者の力量に合わせて配球をかえ、力で押したり、変化球でかわしたりするものだが、小川は4番だろうが8番だろうが全力投球で手抜きをしないで派手に三振をとる。この投球スタイルだと体力披露や身体負担もかかる上、崩れ出すと粘りがきかない・・」
1990年は78.1イニングを投げ、3勝 1敗 防御率4.83 の成績を残すも、以後2軍暮らしとなり1992年をもって引退。 1999年まではロッテコーチ、2000年〜2002年までは球団職員として編成担当。
そんな小川でしたが、とかく金遣いが荒く、夜遊びや借金を繰り返す常習犯。 消費者金融やヤミ金融の他、ついには警備員や一般ファンにまで借金したという凄まじさ。 2度の離婚もあり家庭も崩壊する中、プライドだけは高く、「子供にプロ野球選手らしい生活を与えたい」「一夜で数十万遣っていた頃の生活が忘れられなかった」との事。(後に本人が供述)
球団職員を辞めた時点での借金は1750万円と言われ自己破産。 再起をかけて廃棄物業者に雇ってもらうも金遣いは変わらず借金地獄。 2004年11月18日の夕方、埼玉県神尾市にある勤務先会長宅を訪ね、住み込みで働くNさん(67歳)に借金を頼むも拒否された事から突き飛ばし失神させ、175万円の入った封筒を奪うと、失神したままのNさんを車に乗せ、旧荒川の深場にNさんを投げ込み溺死させ逮捕・・・。
弁護側=「1歳の時、子供ができずに悩んでいた大工と掃除員の夫婦に、養子として入った事。溺愛された幼少時代・・ 野球の才能によって少年期〜高校時代と名声を得た思春期・・ そういった生い立ちも人生が歪んでしまった一因・・」 として刑の軽減を訴えましたが、判決は、身勝手な行動だとして無期懲役となりました。
「元プロ野球選手という社会的な立場」 が社会問題となる異例のケース。
プロ野球選手(元・野球選手も含む)は、世間が自分たちをどのように見ているのかをよく考え、私生活においても責任ある行動を御願いしたいものです。
= 通算成績 =
21勝 26敗 0ホールド 5セーブ 460奪三振 防御率4.12
奪三振王1回 オールスター出場1回 最多与四球1回
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伝説のプロ野球選手サイン集
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「最高勝率」と「最優秀防御率」は、投手の勲章ともいうべきタイトル。
一流投手と呼ばれる目安は通算100勝以上の勝ち星から。
球史に名を残す大偉業の一つにノーヒット・ノーラン。
清俊彦はこれら全てを達成した大投手でもありました。
1969年(昭和44年)〜1972年(昭和47年)にかけ4年連続で二桁勝利を挙げ、鈴木啓示と並ぶ近鉄のエースとして活躍しますが、地味でおとなしい性格もあり、華々しい鈴木に対し月見草的存在。
その為、これほどの大投手でありながら、その存在を知る者は、よほどの野球通くらいとは寂しい限り。
これは清が引退後、コーチや監督として一度も球界にかかわらなかった事も要因の一つ。 では清がコーチを望まなかったのかと言えばそうでもなかったらしく、阪神を自由契約となり引退する際は、伸び悩む若手投手に対し、「もどかしい気持ちで見ていた」 との事。 控えめな性格ゆえに、過酷な競争社会であるプロ球界に残れなかった・・ とした方が適切かと思います。
宮崎県・高鍋高校では、1年生の時に ” 第43回 夏の甲子園大会(1961年) ” に出場するも、秋田商業に1−0で惜敗。 翌年のセンバツ甲子園大会にも出場しますが、初戦でPL学園と対戦し3−2で惜敗。
1964年(昭和39年)、西鉄ライオンズに入団すると、キレのよい速球とカーブで注目され35試合 11先発 119.1イニング を投げるも4勝 11敗 と大きく負け越し。 しかし防御率は3.63と安定しており、二年目以降も一軍の投手として毎年50試合前後の登板を果たしますが伸び悩みが続きます。
1966年6月12日 近鉄戦 において、ノーヒット・ノーランを達成。 1967年オフ、トレードで近鉄に移籍。
転機が訪れたのが1969年(昭和44年)。 47試合 23先発 214.1イニング を投げ、18勝 7敗 勝率720 をマークし、最高勝率のタイトルを獲得。 以後、4年連続で二桁勝利をマーク。 1972年(昭和47年)には、19勝 14敗 防御率2.36 で最優秀防御率のタイトルを獲得。
しかし1973年以降は右肘痛に悩まされるようになり成績は低迷。
1976年、阪神タイガースに金銭トレードで移籍するも結果を残せずシーズン半ばで引退。
清の性格をあらわすエピソードの一つとして有名なのが、ノーヒット・ノーランを達成した試合・・。
この日、本人としては今一つ調子があがらず・・ だったようですが、スライダーやシュートが冴え、得意のカーブも決まる事から7回が終わってノーヒット・ノーラン状態。
普通ならプレッシャーを与えまいと、ベンチ全員が知らぬ顔のはずですが、あまりに欲のない清に対してベンチ全体が、「あと〇〇」 とプレッシャーをかけまくり。 このシーズン5勝しか挙げられなかったにも関わらず、無事、大記録を達成しました。 球界きっての美しいフォームで有名な選手でもありました。
= 通算成績 =
100勝 106敗 0ホールド 2セーブ 1064奪三振 防御率3.14
最優秀防御率1回 最高勝率1回 ノーヒット・ノーラン(近鉄) オールスター出場2回
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今や全国屈指の強豪校となった春日部共栄出身。 文武両道方針の私学だけに、2010年には現役生3人が東京大学に合格。 水泳ではオリンピック選手を6人も輩出。 バレーや吹奏楽も全国トップレベル。 野球部は1993年の第75回 夏の甲子園大会で準優勝(優勝は育英)の実績があり、春2回 夏5回 甲子園大会に出場。 そんな春日部共栄だけに、大半が進学してプロ入りする中、小林は同校初の高卒プロ入り選手でもありました。
1996年のドラフトにおいてロッテより4位指名を受け入団。
150km近い速球を軸に、カーブ、スライダー、フォーク、チェンジアップが武器。
制球力がよく、与四球が少ない投手として、2003年〜2009にかけ、ロッテのローテ投手として活躍しましたが、入団初年度は2軍暮らし。 二年目の1998年7月4日 ダイエー戦で一軍デビューするも、この年わずか2試合 2.1イニングのみ。 1999年〜2000年は2軍暮らし・・・ と、なかなかチャンスに巡り合えず。
5年目の2001年の後半頃から出場機会が増え、7月9日 ダイエー戦 10回表2死 7番手で登板。 裏の攻撃でボーリックが満塁逆転ホームランを放った事で初勝利。
2002年は先発の一角にと期待されるも打ち込まれ中継ぎに転向。 すると投球が安定した事もあり、主に7〜8回あたりを担当。 当時のロッテ抑えは小林雅英だった事から、「小林リレー」 として人気を呼び、オールスターにも出場しました。
2003年、前半は抑え 後半からは先発とフル回転。 50試合 14先発 145.1イニング 10勝 10敗 防御率3.84 と初の二桁勝利をマーク。 2004年は先発登板で24試合 154.1イニングを投げるも9勝 7敗 と二桁勝利に届かなかったものの、2005年〜2007年にかけて、3年連続で二桁勝利を挙げ、ロッテのエースとして活躍しました。
2005年 ・・ 23先発 160.2イニング 12勝 6敗 129奪三振 防御率3.30 勝率667
2006年 ・・ 20先発 142.2イニング 10勝 7敗 120奪三振 防御率2.78 勝率588
2007年 ・・ 25先発 170.2イニング 13勝 3敗 163奪三振 防御率2.67 勝率813
2008年となり右肩痛が発症すると以後低迷。 2010年に抑えに転向し、登録名を 「小林 宏」 に変更。
短いイニングによって投球が甦り、57試合 61イニング 3勝 3敗 5ホールド 29セーブ 防御率2.21 と結果を残すも内容的には不安定さも目立ち、オフにFAでメジャーを目指すも獲得球団はなし。 ロッテは慰留拒否とした為、2011年は阪神に移籍。 抑えの一角を期待されるも敗戦が多く2軍落ち。 2012年は1軍登録なくオフに戦力外通告。
マイナーリーグ〜独立リーグを経て、2014年7月、西武ライオンズが獲得。
中継ぎの一角として15試合に登板するも、11.1イニングを投げ16被安打 1被本塁打 8与四球 と散々。
防御率7.94 でシーズンを終えオフに戦力外通告を受け引退。
= 通算成績 =
75勝 74敗 31ホールド 29セーブ 1135奪三振 防御率3.57
月間MVP1回 セ・パ交流戦MVP1回 オールスター出場5回 オールスターMVP1回
WBC日本代表(2006年)
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1985年(昭和60年)4月17日 阪神 VS 巨人 の伝統一戦(甲子園)は、7回表が終わり3 − 1 で巨人がリード。 巨人の先発は槇原。 阪神の先発は工藤。 ここで工藤は降板でしたが、7回裏にバース、掛布、岡田がバックスクリーン3連発本塁打。 9回、巨人打線が奮起し2点を返すも試合は6 ー 5 で阪神が逃げ切り。 今や伝説ともなった1985年のバックスクリーン3連発は、阪神圧勝ではなく、劇的な辛勝だった事をご存知のファンは、かなりの野球通だと思います。
この勝利もあって工藤は思わぬ人気者に。 身長186cm ながら、ヌーボーとした雰囲気から 「ゾウさん」 の愛称で親しまれました。
この年、阪神は日本一に輝き日本列島が大フィーバー。工藤もファミスタにも登場。 しかし・・ この年、先発はわずか6試合のみ。(30試合登板) 75.0イニング 6勝 3敗 防御率3.84 という成績。 伝説となった試合でラッキーな勝利投手になった事で球史に名を残した投手でもありました。
生まれは青森県ですが、土浦日大高校(茨木)出身。
長身を活かした右スリーク・ウォーターから140km台前半の速球と、カーブ、スライダー、フォークが武器。
1974年(昭和49年)、春・夏の甲子園大会に連続出場。(土浦日大はこの春・夏出場が共に甲子園初出場)
春は1回戦で新居浜商業(愛媛)を3−1で下すと、2回戦で優勝した報徳学園を相手に2−1で惜敗。(この大会は報徳初優勝の他、準優勝が部員11名の徳島・池田高校。” さわやかイレブン ” として甲子園史に名を残しました)
夏は茨木県予選決勝で松沼雅之(取手二)に投げ勝ち出場すると、初戦で原辰徳のいる東海大相模と対戦。延長16回の末、3−2で惜敗。 国体では銚子商業・土屋正勝に投げ勝ち初優勝。 土屋、定岡、永川、工藤 の4人は、1974年における ” 高校投手四天王 ” と呼ばれプロ注目の的に・・・。
1974年のドラフト会議において、阪神から2位指名を受け入団するも数年間は2軍暮らし。
1979年に先発要員として起用され、18試合 119.0イニング 7勝 8敗 防御率4.08 の成績を残しローテ入り。 1980年= 5勝 10敗 1981年=9勝 9敗 と鳴かず飛ばずの中、1982年=11勝 8敗 1983年=13勝 10敗 と2年連続で二桁勝利をマーク。 このあたりがピークながら阪神の主力投手として定着。
1984年、20試合に先発出場し、7勝 5敗 と勝ち越すも、防御率5.10 と打ち込まれ、1985年以降は中継ぎに変更。 1990年をもって引退。
= 通算成績 =
66勝 63敗 0ホールド 4セーブ 623奪三振 防御率4.04
オールスター出場1回 シーズン最多ボーク1回
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野球通・・・ と言われる野球好きでも、今一つルール理解が乏しい違反行為がボーク。
試合中、いきなり主審がボーク宣告を行い、ランナーが進塁となって唖然とした人の多い事。
中には状況を把握しきれない選手や監督、時には解説者もおり、主審がマイクで状況を説明する事もしばしば。
野球ルール規則によりますとボーク行為は13項目もあり、趣旨は 「投手が不当に打者・走者が不利になるような行為をする事により、盗塁やヒットエンドラン、簡単なヒットを阻もうとするものを防ぐ目的」 とあります。
石井は1997年〜1999年にかけ、3年連続でリーグ・ボーク王の不名誉タイトルを獲得。
この頃、先発投手であった為、セットポジションからの一連の動作の際、気の早りから投球動作を制御しきれず(完全に静止させない) ボークになるケースが多かったようですが、プロの選手ですら繰り返すボーク判断(宣告)は審判によってもマチマチとの事。 野球が好きになれないという方の中に、「ルールが複雑すぎてよくわからない」 という声もありますので、あまりに厳しいボーク宣告も良し悪し・・ にも思います。
神奈川県・藤嶺学園藤沢高校時代から本格派投手として注目される存在でしたが、球種の少なさと制球力の甘さもありプロ指名なく、社会人・三菱重工横浜に就職。 150km近い速球が認められ1993年のドラフト会議において、西武ライオンズが1位指名。 背番号 「14」
石井の投球スタイルについて・・
金村 義明 = 「球は速かったが、リリースポイントが見やすかった(左肩の開きが早い)」
大塚 光二 = 「スライダーを投げる際は、顔の表情でわかった」
というように、投球動作の問題点有り。 また入団当初は制球力が弱く、武器がスライダーのみという球種不足もあり、初年度はフォーム暮らし。 2年目の1995年も17試合 7先発 67イニング 2勝 2敗 防御率4.03 と結果を残せず。
3年目・・・ 3勝 6敗 と大きく負け越すも徐々に制球力がつき、140km台のシュートによって95.1イニングを投げ防御率は2.97と安定。 4年目の1997年、中継ぎ・抑えで才能が開花。 59試合 10勝 8敗 9セーブの活躍で西武投手陣の戦力に加わると、1998年は145.0イニングと規定投球回数に達し、9勝 3敗 勝率750 とリーグ1位を獲得。(但し、野球規則変更で最高勝率は規定投球回数ではなく、13勝以上を挙げた投手のみ授与となった事から、最高勝率はロッテ・黒木)
1999年=13勝 8敗、2000年=10勝 7敗 と勝ち越しでの二桁勝利を挙げ、西武を代表する投手として活躍しました。
右肩痛もあり、一時低迷期もありましたが、2004年の日本シリーズでは投手の駒不足から第1戦・第7戦という重要試合に先発出場。 2試合 13イニングを無失点という活躍で、日本シリーズMVPを獲得しています。
2006年、佐々木伝授のフォークを武器に11試合連続無失点(中継ぎ・抑え)と好投。チーム最多の23ホールドをマークするも右肩痛の再発で2007年をもって引退。
気合を入れた顔つきから、「投げる金剛力士像」 と言われた名物投手でもありました。
=通算成績=
68勝 58敗 26ホールド 13セーブ 671奪三振 防御率3.78
日本シリーズMVP1回 オールスター出場3回 シーズン最多完投1回 シーズン最多ボーク3回
シーズン最高勝率1回(最高勝率タイトルは規定により13勝以上の黒木が授賞)
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