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バッティングにおいて 「体格と飛距離は=か?」 というと、正解でもあり、間違いでもあり・・・。
世界の王貞治は身長176cm(868本)、掛布雅之175cm(349本)、門田博光170cm(567本)、衣笠祥雄175cm(504本)、長池徳二175cm(338本)、落合博満178cm(510本)、野村克也175cm(657本)・・・。
最近では清原、松井をはじめ、185cm以上の大型バッターが飛距離を出すので、つい体格=飛距離に思われがちですが、実際は「腕が伸びきる前にミートさせる」「腕を押し出すようにして、反動力をボールに加える」「下半身の力と腰の回転力を活かす(タイミング)」「ボールをひきつけ、脇をしめ、回転・反動をボールに与える」 といったコツがあり、一流の選手程、これらのコツが卓越していたように思います。
国貞泰汎は身長165cmと小柄ですが、呉港高校時代はホームランバッター。 あまり飛距離が凄い為、国貞フェンスが作られたという逸話がある程。 軍港のあった呉には力自慢の猛者が集まり、初代ミスタータイガース藤村、南海のドン・鶴岡、広岡達朗といった名選手が輩出されており、当時の野球を引っ張る役割を果たしていましたが、野球の盛んな広島県にはライバルとなる強豪校も多く、国貞泰汎は甲子園出場ならず。
1962年に南海ホークス入団。 2年間ファーム暮らし後、1964年に81試合 5本塁打 打率247 の成績を残し一軍に定着すると、翌1965年には二塁手レギュラーとなり、1966年、1968年とパ・リーグのベストナインを獲得。 1967年は11本塁打と長打力も発揮。 南海のリーグ三連覇における中心選手として、攻守に活躍しました。
負けず嫌いで気が強く、メジャー仕込みの猛スライディングで有名な阪急ダリル・スペンサーに対し、二塁に滑り込んだ際、逆に足を蹴り上げ激怒させた程。 ただ広島県人らしく、「言いたい事は言う」 といった奔放な発言も多く、けっして悪気はないのですが、親会社(南海電鉄)に睨まれる事も・・・。
(”さらば南海ホークス” によると、「ワシは南海ホークスは好きやけど、南海野球株式会社は大嫌いや。 ワシの銭が安すぎる」 と言い放った事があるとか・・・)
1970(昭和45年)、古葉竹識とのトレードで、故郷・広島カープ入り。
1971年、セ・リーグでもベストナインを受賞。 1972年は自己最高の打率293で打撃ベストテン5位。
バットを短くもち、しゃがみボールをひきつけ右に流すバッティングは、往年の名選手だった千葉茂(巨人)に共通するものがあり、職人芸として人気を呼びました。
1973年〜1974年は打撃が不調でレギュラー落ち。結果、1975年(昭和50年)に太平洋クラブライオンズに移籍するも活躍に至らず同年で引退。 皮肉にも故郷チーム広島は、初のリーグ制覇。 (それも広島トレード相手だった古葉がルーツの代行監督としてリーグ制覇) 本人も、この点に関しては心残りだったと後年話されています。
あだ名は”ゴリ”。 「人情派」「広島愛」が強い個性派選手として、今でも昭和野球ファンの間では人気の高い選手です。
=通算成績=
977安打 57本塁打 347打点 52本塁打 打率261
ベストナイン3回 オールスター出場3回
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伝説のプロ野球選手サイン集
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「長嶋や王と同じ立場で・・」を熱望する金田が音頭をとり、社会貢献や野球発展、若人選手の育成を目的に設立されたのが名球会。 発足時の規定では「昭和生まれ。投手は200勝、野手は2000本安打をクリアした者のみ入会する事ができる」 でしたが、時代の流れと共に、投手は条件クリアがほぼ不可能となり、「250セーブに達した者も入会できる」 に変更。 更には「足りていない数字を、マスターズでカバーした場合は、準会員になれる」等、条件の緩和がもとで、趣旨が脱線傾向となり、ついには金田企画が売り上げを独占しているとクレームがつき、怒った金田(当時会長)が脱退するという大パプニング。
憧れだったONも、いまや80歳(長嶋)と76歳(王)・・・。 50歳未満の方では長嶋の現役時代すら知らない世代・・。巨人よりもメジャーに行きたい者だらけ・・。 名球会もいまや名前だけの存在になりそうです。
小林雅英は日米通算228セーブ。 あと22セーブで名球会の条件クリアでしたが、200セーブを達成したあたりから野球ファンの間では不満が続出。 大半の意見が 「斉藤雅や桑田が入れないのに、何故9回の1イニングしか投げないセーブ投手が、250セーブで200勝と同じ扱いなのか?」 とうもの。
岩瀬の400セーブや佐々木、高津の300セーブ達成者は別格として、救援投手の価値観が急激に向上した事による優遇は、一般ファンには受け入れが悪いのは事実。 結果、「名球会なんて、なんの意味も価値もない」 という若者ファンが増加。 時代背景やファンの声を無視したことで、会の存続を図った改革は失敗だったように思います。
山梨県立都留高校出身。 身長182cm。
日本体育大学では、150km近い速球と縦スライダー、シュートを武器に、首都大学リーグにおいて16勝 7敗 防御率2.40 最優秀投手1回 ベストナイン2回 と活躍。 1998年のドラフト会議にて、ロッテより1位指名
を受け入団します。 背番号=30。
初年度の1999年は先発(10試合に登板し、3完投)も含む46試合に登板し、124.1イニング 5勝 5敗 防御率2.68 と活躍。 翌2000年は先発に起用されるも打ち込まれ、3連敗を喫したところで中継ぎに降格。
ところが皮肉にも本人の投球スタイルにあったようで好投が続き、ついには抑えのウォーレンが不調だったこともあり抑えに抜擢。 65試合 11勝 6敗 14セーブ 防御率2.13 の成績を残し、以後ロッテの守護神として活躍します。
2001年〜2007年までの間、毎年20セーブ以上をマークした他、うち4年間は30セーブ以上を達成。
2003年6月29日、オリックス戦において日本人最速で100セーブをマーク。
2004年はアテネ五輪の日本代表に選ばれ銅メダルに貢献。
2005年5月17日、広島戦において、日本人最速で150セーブをマーク。この年、29セーブで初タイトル(最多セーブ投手)も獲得。
2006年8月18日、日本ハム戦において、日本人最速で200セーブをマーク。
2008年〜2009年はメジャーに挑戦しインディアンスでプレーしますが、デビュー以来、10年連続で毎シーズン40試合以上(内、60試合以上1回、50試合以上3回)に出場する等、日本を代表する抑え投手として活躍しました。
2010年、年棒5000万円+出来高1億円という条件で巨人入りするも、わずか12試合で1セーブという結果でオフに戦力外通告。 オリックスが獲得するも6試合0セーブで終わりオフに戦力外通告。
2007年までの活躍がウソのような低落ぶりが、小林のイメージを悪くしたように感じます。
=通算成績=
36勝 34敗 4ホールド 228セーブ 465奪三振 防御率2.93
最多セーブ投手1回 月間MVP2回 セ・パ交流MVP1回 JA全農GoGo賞1回(救援)
オールスター出場4回 アテネ五輪日本代表(2004年・銅メダル) 17連続セーブ達成(2002年・パ記録)
7年連続20セーブ達成(史上初) 打者0人で勝利投手(史上初。イチローが盗塁失敗によるもの) その他。
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1986年(昭和61年) 第58回 選抜甲子園大会優勝は、徳島・池田高校。(3年ぶり2回目)
「やまびこ打線」と称され活躍した頃と比べると、やや打線に迫力がないものの、均一的な総合力を発揮しての優勝は、池田・PL時代の 「狭間期」 を象徴していました。
(ちなみにこの大会にもPLは出場していますが、KKコンビ卒業後の戦力がまとまらず、1回戦で静岡・浜松商業に1−8で敗戦しています。翌年復活したPLは、立浪、宮本、野村、橋本、片岡というプロ軍団で春・夏連覇と大活躍。逆に池田はこの優勝を後に、甲子園の常連校から姿を消していきます。)
好投手・高村を擁する宇都宮南(初出場)は、1回戦 和歌山・御坊商工3−4でサヨナラ勝利をすると、2回戦 高知・高知高に1−2で連続サヨナラ勝利。 準々決勝では広島・広島工に3−4、準決勝では富山・新湊に3−8 と勝利し決勝に進出。 高村は三連投の疲れもあって序盤からつかまり、二投手が15安打を浴びた宇都宮南は、1−7で池田に完敗となりますが、本塁打も放った高村は投打において注目されるようになり法政大学に進学。
1990年には春の六大学リーグにおいて防御率1位となる活躍を見せ、1991年のドラフト会議において近鉄より1位指名を受け入団となります。
(当時としては珍しい150Kmの剛速球投手であり、単独1位指名に成功した仰木彬監督が、「本当にこの投手が単独で獲得できたの?」 と驚いたというエピソードあり。)
身長は177cmと平均的ながら、150km前後の速球にスライダー、カーブ、スプリット系が武器。
初年度の1992年からローテに加わると、28先発 180.0イニング を投げ、13勝 9敗 153奪三振 防御率3.15 と大活躍。 同期の若田部(ダイエー)を抑え、新人王を獲得します。
当然、周囲からは ”近鉄のエースに・・ ” と期待されますが、2年目は22先発 132.1イニングを投げ、5勝 11敗 防御率4.96 と低迷。 3年目も22先発 125.2イニングを投げ、9勝10敗 防御率4.66 と低迷が続きます。
4年目の1995年は故障もあり、10先発で終わりますが、5勝4敗 防御率1.91 と好投した事から評価が高まり、1996年〜1998年にかけ、3年連続で開幕投手に抜擢。
開幕あたりでは好投しますが、夏場以降は打ち込まれるといったパターンが多く、入団初年度以降、二桁勝利はなく、防御率も4点台後半が続く等、特に目立った活躍がないまま、2004年の近鉄・オリックス合併により楽天入り。 2005年、1試合のみ登板するも、2イニングを投げ自責点9と炎上。 オフに戦力外通告。
=通算成績=
83勝 102敗 0ホールド 9セーブ 1094奪三振 防御率4.31
新人王 オールスター出場2回
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2010年、アメリカの某スポーツ専門サイトにおいて、「メジャー史に残る個性的(変則)フォーム現役1位」 に輝いた岡島。(歴代では4位) リリースの瞬間、顔は下を向き、キャッチャーはおろかミットも見ないで投げおろし、その後すぐ球の行方確認の為、頭をあげるという変則フォームは、野茂のトルネード以上にインパクトが残り、様々な名選手たちから賛否両論の声が聞こえます。
福本豊 ・・ 「あっちむいてホイといった投球スタイルだ」
カルロス・ロメロ ・・ 「彼は自動操縦だ・・・」
堀内恒夫 ・・ 「子供は真似をしてはいけません」
星野仙一 ・・ 「よくあんな投げ方で、ストライクがはいるもんだ・・・」
角三男 ・・ 「どこに飛んでくるか・・ ぶつけられるかも?と思わせ、恐怖心を抱かせるフォーム」
その他、多数。
京都、東山高校時代、2度、春センバツ甲子園大会に出場しますが、いずれも制球力の乱れから自滅。
MAX142kmと球速は並上程度ながら、変則フォーム+カーブのコンビネーションが評価され、1993年のドラフト会議において巨人が3位指名。 背番号「37」
初年度となる1994年は一軍登録なく二軍暮らし。 初登板は2年目も終わる寸前の、1995年10月6日 ナゴヤ球場=中日26回戦。 5回を投げ1失点ながら9つの奪三振を記録。 1996年5月7日 広島戦で初勝利。 尚、この試合はマリオ・ブリトーの救援を受けての勝利でしたが、マリオにとっても来日初セーブだった為、ウイニングボールを巡って、ちょっとした小競合い?があったとの事。(結局はボールにマリオの初セーブを記載する事で、ボールは岡島が保持する事に・・・)
1997年(入団4年目)、25試合中21試合に先発登板。 109.1イニングを投げ、防御率3.46ながら、4勝 9敗 と大きく負け越し。 翌年も先発要員として12先発するも、62.1イニング 3勝 6敗 防御率4.33 と負け越し。 以後、先発要員から外れ、中継ぎ〜抑え投手となると才能が開花。 2000年以降は2010年のレッド・ソックス時代まで、11年連続でシーズン40試合以上登板を行う等、中継ぎの地位向上に貢献しました。
(岡島は1999年に3先発したのが最後。その後は2016年の引退まで、一度も先発なし)
2006年、トレードで日本ハムに移籍すると、7〜8回を担当し、55試合登板 防御率2.14 と結果を残し、オフにはFAでレッド・ソックス入り。4月、防御率0.71を記録し月間最優秀新人のタイトルを獲得。 5月22日まで19試合連続無失点。 6月2日、ヤンキース戦でメジャー初勝利と活躍。 前半戦を39試合 2勝 0敗 4セーブ 防御率0.83 で折り返しオールスターにも選出(出番はなし)。 その後も好投を続け、ワールドシリーズ制覇の貢献度から一躍スター選手となり、年末NHK紅白歌合戦ではゲスト審査員として登場。
2012年、手首や肩の故障もあり、レッドソックスとの契約が解除される中、ソフトバンクが獲得。
56試合 47.2イニング 0勝 2敗 24ホールド 9セーブ 防御率0.94 と好投し、2013年、再びメジャーに挑戦(アスレチックス)するも結果を残せず、2014年、またもソフトバンク入り。 44試合 42.2イニング 4勝 4敗 27ホールド 防御率2.11 と結果を残し日本一に貢献するも、契約交渉で折り合いがつかず、2015年、横浜DeNA入り。 2016年、オリオールズと契約しますが3月末に解雇となり現役引退。
= 通算成績 =
(日本) 38勝 40敗 74ホールド 50セーブ 760奪三振 防御率3.19
オールスター出場3回
(メジャー) 17勝 8敗 84ホールド 6セーブ 216奪三振 防御率3.09
オールスター出場1回 ルーキー・オブ・ザ・マンス1回
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入団=1960年(昭和35年)〜引退=1969年(昭和44年)と、実に1960年代に活躍した柿本実。
実働10年において、通算300登板 173先発 1402.1イニング 打者5600人 19160投球数 に対し、暴投0という大記録を達成。
福岡県立苅田高時代は内野手(三塁)。 卒業後、豊岡セメント準硬式チームで投手転向。 硬式の日炭高松に移りオーバースローの本格派として活躍。(日炭高松の監督は、本塁打王にも輝いた名選手、深見安博)
1960年、南海ホークスに入団。 内角を突く強気なピッチングが持ち味ながら、オーバースローでは安定感に乏しく、僅か1試合に登板しただけで自由契約となり、1961年、中日ドラゴンズに移籍。
近藤貞雄コーチの指導を受け、サイドスローに転向すると才能が開花。 カーブ、スライダー、シュートで左右に揺さぶり、決め球はシンカー系の落ちる球という投球スタイルで、1961年〜1964年の4年間、防御率2点台という安定感を発揮。 1962年〜1963年、連続20勝以上を挙げる等、中日のエースとして活躍しました。
1962年 ・・ 60試合 40先発 16完投 318.1イニング 20勝 17敗 157奪三振 防御率2.06
1963年 ・・ 48試合 28先発 12完投 260.0イニング 21勝 13敗 83奪三振 防御率1.70
1964年 ・・ 50試合 35先発 18完投 277.2イニング 15勝 19敗 101奪三振 防御率2.85
球威で抑え込むタイプではなく、打ち取るタイプだけに奪三振は少ない反面、完投数・防御率が示すように安定感があり、1962年〜1964年にかけフル稼働。
明らかに過剰登板(酷使)であり、1965年は31試合 23先発 151.2イニング に登板しながら3完投 9勝 7敗 防御率3.14 と成績を落とすと、1966年、佐藤公博とのトレードで阪急に移籍。 しかし、抜群の実績を残した柿本に対し、佐藤は阪急5年間において、7勝 13敗 という実績であり、この時点でピークが過ぎたといった判断が中日側にあったものと思われます。
事実、阪急に移籍した1966年は0勝1敗 防御率5.66 と散々。 僅か1年で自由契約となり、1967年、阪神に移籍。 先発〜リリーフまで幅広く登板する事で、往年の安定感が甦り、1967年は10先発 4勝 0敗 防御率1.52。 1968年〜1969年の2年間も、防御率3・20、3.27 と安定した結果を残しました。
柿本と言えば1965年(昭和40年)後楽園球場での巨人戦において、乱闘事件の主役として有名。
長嶋茂雄に対し、死球ギリギリのきわどいシュートを投げ転倒させると、長嶋も柿本を強襲する安打で出塁。 バントで二塁に進んだ長嶋が、森昌彦にもシュート攻めをする柿本に対し、「いい加減にしろ!危ないぞ!」 と注意した事が気の強い柿本の怒りを買い、怒った柿本が長嶋に向かって歩き出した・・ というもの。
ここで両軍が乱闘。 金田正一含む2選手が退場処分を受けています。 ちなみに柿本はそのまま完投し、見事勝利投手に。 「通算暴投0」 という大記録の裏には、肝っ玉の太さがあったことが伺えます。
= 通算成績 =
83勝 71敗 0セーブ 0ホールド 645奪三振 防御率2.55
最優秀防御率1回 オールスター出場3回 シーズン最多先発1回 シーズン最多敗戦1回
シーズン最多ボーク1回 シーズン最多死球1回
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