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1979年(昭和54年)6月2日、怪物・江川卓がプロデビュー。 初勝利は3試合あとの6月17日・広島戦。
日本列島を熱狂させた右腕から放たれる快速球見たさに、ナイターの視聴率は20%台だったといいますが、江川が140kmに達したストレートを投げたのは、実は3試合目であった事を知っている方は少ないと思います。
(3試合目の実況者が、” 今日の江川は球が走っています。3試合目にして140kmに到達しました ” と話しています) 140mk前後の速球にもかかわらず、伸びる速球と落ちるカーブで三振の山・・・。
1980年当時150kmに達した投手は山口(阪急)と小松(中日)くらいのもの。 残念ながら当時のプロ野球レベルは、この程度だった観は歪めません。
反面、遅い速球を軸として、制球力や変化球を屈してゲームを組み立てる技術は高かったように思います。 常に打者の裏をかいたような投球術。 打者が苦手とするコースをつく決め球。 プロの投手は何も150kmの速球が全てではありません。
水谷則博は名門・中京(愛知)出身。1966年(昭和41年)1年生の夏、控え投手として甲子園に出場。
甲子園決勝では、夏将軍・松山商業(投手は西本聖の兄)に競い合い勝利。 史上2校目となる春・夏連覇を達成します。 当時の中京は選手層が厚く、レギュラー争いも激化。 その為、エースの座をつかんだのは3年時から。 1968年(昭和43年) 第40回・選抜甲子園に出場しますが、初戦で広陵(広島)に1−3で惨敗。 夏は地方予選敗退。 甲子園における実績は残せませんでしたが、177cm(当時は大柄)の大型左腕として、地元・中日よりドラフト2位指名を受け入団します。
地元選手だけに周りの期待の大きさに対し、当初の3年間は伸び悩み。
重心を落とし、スリークォーター気味に投げる投球スタイルは、あくまで技巧派投手。
転機となったのが、1973年(昭和48年)のシーズン途中、ロッテへのトレードにて。 地元選手というプレッシャーがなくなった事と、当時のパ・リーグ事情(セのように注目されない環境)もあって才能が開花。
カーブとスライダーを交ぜながらの投球術で、1974年(昭和49年) 37登板 57.2イニング 防御率2.18 と結果を残し、翌年からは先発要員に昇格。
円熟期の1980年(昭和55年)〜1983年(昭和58年)にかけ、4年連続で二ケタ勝利(11勝、12勝、14勝、10勝)を達成。 弱小球団であったロッテにおいて、4年連続の二ケタ勝利中、負け越しは一度だけだったあたり、いかに水谷の投球術が優れていたかわかります。
また1982年(昭和57年)には、シーズン20完投を記録。この年のパ・リーグ一位でもあり、スタミナ面も優れていた投手でもありました。 9月には月間MVPに選出(初受賞)されています。
1988年(昭和63年)をもって現役を引退。 ロッテのスカウトとして活躍しますが、2001年11月29日 急性硬膜下血腫にて、51歳という若さで他界されました。
=通算成績=
108勝 111敗 0ホールド 2セーブ 952奪三振 防御率4.01
月間MVP1回 オールスター出場2回 シーズン最多完投1回 シーズン最多敗戦1回
シーズン最多被本塁打1回
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伝説のプロ野球選手サイン集
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身長182cm 体重78kg 長身でスリム体型。 更に今風のイケメン。 最速157km 平均149kmの快速球に、138kmの高速フォークを投げる身体能力。 そのフィールディングの上手さには、辛口の落合もが絶賛したという反射神経。 そしてシーズンオフには児童養護施設や病院、老人ホーム等の慰問を行う優しさ。 これで人気が出ないはずはなく、2008年〜2013年にかけ、中日投手陣の中心選手として活躍した浅尾拓也。
活躍し人気が出て年棒が上がると慢心・調子に乗り、スター気取りや身勝手な性格を露骨に現す者がいますが、こと浅尾には無縁の話。 常に全力投球をモットーに、ファンサービスも抜群。 謙虚で礼儀正しく控えめ。
そんな彼の人柄を示すエピソードとして、下記のようなものがあります。
① 「ファン・サービスに対する心構え」
中日の春季キャンプ名物といえば、6勤1休(他の球団なら4勤1休)の地獄のキャンプ。 他の選手は疲れ切り、早々に宿舎帰りをする中、実力・人気の浅尾は連日多くのファンに囲まれる状態。 当然、サイン・写真・握手と様々な要望を要求されますが、嫌な顔一つせず、希望する者がいれば最後まで残ってサインを書いていたとか。 そのファンの多さと、毎回ファンの要求に応じる姿に驚いた某雑誌記者が、「毎日、あれだけのサインに応じてたいへんですね」 とインタビューすると、浅尾は 「ファンの皆さんが、ルールやマナーを守って下さる限り、僕は書きますよ。 僕にとっては毎日の事でも、来てくれた方はその日しか来られないから・・ と考えてしまうんですよね」 と答えたとの事。 シーズンオフには、「野球場に行きたくても行けない人たちの為に・・」 との思いから、児童養護施設や病院、老人ホーム等の慰問を行っている熱血漢。
② 「チームメイトに対する労い」
2011年、MVPに選ばれた際の記者会見では 「自分には縁のない賞だと思っていたので、喜びより驚きの方が大きい」「吉見の勝ちを2つ消しているので、本当なら吉見は20勝。だから、吉見が選ばれると思った」 と発言する等、チームメートへの思いやりと謙虚な姿勢が印象的。
愛知県知多市出身。中学時代は捕手で、愛知県立常滑北高校(現・常滑高校)に進学。
不足する投手を補う為に、2年生の時から捕手兼投手という二刀流を開始。 ただ当時のスピードは135km少々であり、全く注目される事無く、地元にある日本福祉大学に進学。 愛知大学リーグの2部や3部に所属する弱小チームにおいて、53試合に登板し、21勝9敗の成績。 2部の名古屋産業大学からノーヒット・ノーランを達成した事で存在を示すようになると、球速も140kmを超えるようになり、4年生の秋にはMAX152kmに達します。 地元・中日の大ファンで、2006年のドラフトにおいて、中日から3位指名を受け入団。 背番号41。
初年度の2007年から一軍昇格を果たし、19試合 5先発 に登板。 51.0イニングで40奪三振を奪い、4勝
1敗 防御率3.53 と即戦力ぶりをアピール。
翌2008年には、守護神・岩瀬につなぐセット・アッパーとしての地位を確立させ、44試合 50.0イニングに登板し、3勝 1敗 1セーブ 12ホールド 防御率1.79と好投。
2009年、67試合に登板。 7試合に先発し、7勝 9敗 6セーブ 33ホールド 防御率3.49 の成績。
この頃から、浅尾→岩瀬へつなぐ投手リレーは、「中日・勝利の方程式」 と言われ、他球団から恐れられる存在に成長。
2010年、72試合に登板し、12勝 3敗 1セーブ 47ホールド(日本記録) 防御率1.68。
2011年、79試合に登板し、7勝 2敗 10セーブ 45ホールド 防御率は驚きの0.41。 驚きなのは、この年、87.1イニングを投げたのに対し、100奪三振をマーク。 2年連続の最優秀中継ぎ投手となり、セ・リーグMVPを受賞。 更にフィールディングの良さが認められ、ゴールデン・グラブ賞を受賞。(先発なしでゴールデン・グラブ賞の受賞は史上初)
被本塁打0本と抜群の安定感を見せ、ファンからは、” 中日・影の守護神 ” とまで言われました。
しかし・・・ この年を最後に、成績は低迷に・・・。
右肩痛も発生し、往年のスピード・ボールは復活ならず。
2017年10月1日 ヤクルト戦において、プロ野球史上3人目、セ・リーグでは2人目となる、通算200ホールドを達成。 2018年をもって引退。 引退理由は、200ホールドを達成した際、途中に投手交代し、一人抑えただけでの達成だった事。 皆が200ホールド達成に協力してくれた事で、逆に自身の限界を悟ったとの事。
最後まで潔く、好感のもてる投手でした。
= 通算成績 =
38勝 21敗 200ホールド 23セーブ 453奪三振 防御率2.38
最優秀中継ぎ投手2回 最優秀選手1回 月間MVP1回 ゴールデングラブ賞1回
シーズン最多登板1回 オールスター出場2回 セ・リーグ連盟特別賞(年間ホールド記録に対し) 月間11ホールド(セ・記録) 年間47ホールド(世界記録) 年間59ホールド(世界記録)
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育成選手制度とは、各球団において、育成を目的に選手枠を拡大する制度。
日本プロ野球では、戦力の分散と、有望選手の公平な交渉を目的に、1965年(昭和40年)ドラフト制度を導入し、球団の登録枠を60人までと限定。 結果、各球団はテスト生として、有望新人を抱え込むようになり、公平性の妨げとして問題化していきました。 またテスト生は正式な契約ではない事から、練習には参加できても、公式戦には出場できない事もあり、有望選手の将来性が疑問視となり、1992年にはテスト生での抱え込みは禁止され、かわりに支配下登録枠を70人に拡大となります。
ところがバブル崩壊後、各企業は業績不振から社会人野球から相次いで撤退。そうなると次期のドラフト対象となる有望選手が行き場を失い、野球から離れるという事態が発生した事から、日本プロ野球は救済処置案として、準支配下登録制度を検討。 2005年より育成選手制度としてスタートしました。
「育成」「研修」の2つの枠があり、 ” 中学・高校・大学の卒業見込みがある者 ” ” 日本プロ野球以外の国内プロチームに在籍している者(国内の独立リーグ等) ” ” 日本プロ野球に一度支配下されながら自由契約になった者 ” が対象。 社会人チーム所属選手も対象ですが、在籍中は育成理念である 「技術向上、社会教育」 に当てはならないとの理由で育成指名はできない。 外国人については特に規定を設けないのが特徴。
山口鉄也は、第1回となる育成ドラフトにおいて、巨人より1位指名を受け入団。
身長184cmの長身左腕。 神奈川県の名門 横浜商業(Y高)出身。
高校時代の最高成績は、3年時、夏の甲子園県予選においてベスト8。 卒業後はダイヤモンド・バックス傘下のマイナーチームの入団テストに合格し、4年間プレーするも、1A昇格すらできないまま帰国。
2005年10月、横浜と楽天の入団テストを受けるも不合格。 その後、巨人のテストを受けた際、左腕から伸びのあるストレートを評価した巨人が、育成枠での指名を決定。 1位指名だった事からしても、巨人としてはテストの段階で獲得メリットを感じていたように思われます。
2006年、二軍では25試合に登板し、防御率1.61の成績を残し、支配下登録説が浮上するも、定員枠の関係もあって見送り。 2007年4月23日、二軍での好投が続いている事から支配下登録となり、4月29日に一軍初登板。1回を無失点で抑え、この年は貴重な左腕のワンポイント・リリーフとして32試合 25.1イニングに登板。 2008年は67試合 73.2イニングに登板し、11勝 2敗 23ホールド 2セーブ 防御率2.32 と結果を残し、新人王を獲得。 他、ゴールデン・ルーキー賞や東京ドーム特別賞、日本プロスポーツ大賞・新人賞にも選ばれる大活躍。
以後、9年連続、60試合以上登板という大記録を打ち立てる活躍。(日本プロ野球・最高記録)
最優秀中継ぎ投手のタイトルを3度獲得。(2009年、2012年、2013年)
通算270ホールドは、プロ野球における世界記録。 同じく320ホールド・ポイントも世界記録。
2009年、2013年には、WBC日本代表に選ばれる等、巨人という単独チームのみならず、侍ジャパンの一員としても活躍しました。
長いリーチを活かし、左腕スリークォーターから、最速153km 平均144kmの速球を軸に、カットボール、スライダー、チェンジアップ等を交ぜ、制球力で勝負するタイプ。
これだけ毎年のように酷使されても故障しなかったように、頑丈な身体と ” 鉄也 ” という名が評判となり、子供たちにも大人気。 自身も児童養護施設訪問やランドセル寄贈を行う活動に参加しています。
工藤公康を師と仰ぐ程尊敬し、背番号も47を希望。 2006年オフにはアリゾナ自主トレに合同参加。 ここで工藤から学んだ事が、飛躍するきっかけになったとの事。
アメリカから帰国し、横浜・楽天のテストを受けたのは、投手力が弱いチームだったから。 荒削りながら要所で見せる投球内容に対し、たまたま横浜の取材に訪れていた佐々木主浩は、将来の原石だとフロントに獲得進言したそうですが見送られたとの事。 その後、” どうせダメなら強いチームで ” と開き直り、巨人のテストを受けると、その素質を二軍監督だった吉村が見抜き、「スライダーを磨けば、左腕中継ぎとして使える」 と原監督に進言。 当時、二軍投手コーチだった小谷正勝も獲得を進言した事から、育成枠指名になった経緯有り。
楽天はともかく、横浜は佐々木が才能を見抜いて進言したのを見送っただけに、見る目がないフロントによって大魚を逃した事になります。
人間の人生はわからぬもの。才能があっても評価されない人が、突然評価する人と巡り合い開花する・・。
山口の人間ドラマ・・ 厳しい現世において、若者たちの励みになるように思えます。
=通算成績=
新人王 最優秀中継ぎ投手3回 月間MVP1回 オールスター出場5回
2008年ゴールデン・ルーキー賞 東京ドームMVP特別賞2回 ジョージア魂賞1回
ヤナセ・ジャイアンツMVP賞1回 日本プロスポーツ大賞・新人賞 WBC日本代表(2009年、2013年)
その他
通算270ホールドは、プロ野球における世界記録。 同じく320ホールド・ポイントも世界記録。
9年連続60試合以上登板(プロ野球・日本記録)
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「甲子園球場にラッキーゾーン復活論」 が浮上しているという記事を目にしました。
優れた打撃マシーン、筋トレによるパワーアップ、選手の体格の良さ・・ に加えて、高性能の金属バットにより、広い甲子園球場でもガンガン飛び出すホームラン。 高校野球だけを見れば、今や不必要としか言いようのないラッキー・ゾーンですが、高い技術・技量のプロ投手を相手に、木製バットを使用すると話は別。 浜風にも左右される甲子園球場は国内でもトップクラスの 「ホームランの出ない球場」 でもあり、打者側から見れば、かなり不利な球場なのだとか。
高校野球では、いまや ” 打ち勝つ野球 ” が主体となり、一点差を守り切る野球を軽視する傾向が強まっていますが、プロ野球の場合は、接戦をものにする ” 守りの野球 ” は健在。 その為、守備力・走力の高い選手は、打力だけが優れた選手以上に重宝されます。
水谷新太郎は、三重県松坂市出身。 三重県の強豪である三重高校に進学し、1971年(昭和46年) 第43回 夏の甲子園大会に出場。 一回戦で姿を消すも、軽快なリズムで打球をさばく名遊撃手として注目され、1971年のドラフト会議において、ヤクルト・アトムズより9位指名を受け入団します。 身長176cm。 背番号40。
身長184cmの池山の登場以降は、大型野手でも遊撃手を務めますが、昭和時代の遊撃手は、小柄で軽快に動き回る選手こそ望まれており、身長180cmの廣岡達朗が巨人入りした際、千葉茂は、「大型すぎて、使いものにならんかもしれん・・と思った」 と、巨人野球史編集にあたる座談会で発言している程。 このような傾向となったきっかけは、阪神の吉田義男が164cmと小柄ながら、” 今牛若 ” と異名をとる名遊撃手であった為、各球団が真似て同じタイプを求めた為と言われています。
当時、理想的な体格であった水谷に対する球団の評価は高く、3年間ファームで育成。 高卒でドラフト9位指名という点を見れば、早々に見切りをつける球団が多い中、この3年間は期待の表れでもあり、1975年(昭和50年)、終盤の守備固め選手として24試合に起用。 この年、11打数0安打1盗塁失敗と、守備以外の結果が伴っていないにもかかわらず、翌1976年は準レギュラーに抜擢され、100試合に出場。
255打数 53安打 打率208 と打力不足ながら、セ・リーグトップとなる29犠打を決め、犠打王のタイトルを獲得。 以後、地味ながらチームを支える 「守備の人」 として活躍しました。 1979年、背番号が6に変更。
1978年(昭和53年)の日本シリーズは、強者・阪急に対し、初のリーグ優勝を決めたヤクルトが対戦。
圧倒的に阪急有利の下馬評の中、廣岡ヤクルトは投打に緻密な管理野球をもって対抗。 そのよい例が水谷の起用。 打力が一番劣る選手が座ると言われた8番打者に固定し、全7戦に出場。 20打数 3安打と、予想通り非力を披露したものの、守備力の要として日本一に貢献。 このような選手起用方法があるのだと、各球団が驚いたというエピソードがあります。
(同じく名遊撃手であった廣岡達朗の評価は高く、優勝後のオフに廣岡が、” 一人(水谷)を除いては、あとは全員トレード要員だ ” と発言した程)
非力だった打力も、徐々に上向き、1981年(昭和56年)には、セ・リーグ最多となる7三塁打を放ち、この年の三塁打王に輝くと、1983年は、404打数 108安打 打率267をマーク。 更に1984年は、429打数 125安打 打率291 と結果を残しました。 またこの年は守備も絶好調。 当時の遊撃手最高守備率となる991をマークしています。
しかし・・ ピークは1985年(昭和60年)まで。 以後、若手の台頭や打力不足もあり、出場機会が激減。
1990年は一軍登録される事無く、この年をもって引退。
水谷新太郎=守備 のイメージが強いですが、俊足を活かし、通算8回も二桁盗塁(最多は22個)を達成。
また下位打者にもかかわらず、犠打を通算182(9シーズンが二桁)決めています。
縁の下の力持ち的な存在だった事がわかります。
=通算成績=
854安打 23本塁打 240打点 146盗塁 182犠打 打率250
シーズン最多三塁打1回 シーズン最多犠打1回
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過去最多の56校が参加した、第100回 夏の甲子園大会。 試合数増という面はありましたが、熱戦や天気等にも恵まれ、大会期間中の入場者数は100万人を突破する大盛況。
近年の高校生は、優れた打撃マシーンや筋トレ効果もあって、150kmの速球でも打ち返してきます。 また球速も増し、地方予選敗退チームですら、プロ顔負けの速球派がウヨウヨいる時代。
この第100回記念大会だけを見ても、球速140km以上をマークした投手は、実に66人。
150km以上をマークした投手が4人。(最速は柿木の151km) 以下、149kmが3人、148kmが2人、147kmが3人、146kmが3人・・・。 過去、甲子園を沸かした速球投手であった槇原(巨人)が、145km前後の球速でしたが、今年の夏の球速比べて言えば15位。
” やまびこ打線 ” 池田高校 の水野や、KKコンビ・PL学園の桑田の球速が、当時、141〜142kmくらいで表示されていた事からしても、平成の30年間を経て、昭和終わりと比べ、投手の平均速度は10kmアップした事がわかります。 「140km時代が到来」と言われた1980年代。 いまや150km時代が到来しました。
投打ともにレベルアップした高校野球では、打ち勝つ野球が盛んとなり、かつてのバント野球や、守りの野球は消えつつあります。 そうなると 「打たせてとる」 と言われた技巧派投手も激減。 球速130km台でも落ちる変化球に頼る傾向が見られ、まさに金太郎飴状態。 学生野球で同じタイプ(特徴)の投手ばかりが増えると、当然ながらプロ野球の投手も同じ傾向となりますので、いまや150kmを投げても二軍で終わる投手が多々・・。
1980年までのプロ野球界は、球速に頼らず、制球力や変化球で勝負する個性派が多く存在しました。
打者の裏をつく投球術。 左右の揺さぶりが上手く、決め球はカーブが主流。 そしてシュートを有効に使い、打者を翻弄していました。
1970年代〜1980年代にかけ、中日ドラゴンズで活躍した三沢淳もその一人。
島根県浜田市出身。中学時代、一つ後輩に梨田昌孝がいたと言いますから、世間は狭いもの。
江津工業に進学しエースとなると、1970年には、春・夏の甲子園大会に出場。 春は初戦敗退、夏は二回戦敗退と結果こそ残せませんでしたが、同年のドラフト会議で中日より3位指名を受ける程、その評価は高かったようです。 (結局、指名保留状態で新日鉄広畑に入社。社会人野球でも大活躍し、1971年オフに入団)
身長182cmと、当時としては大柄。 アンダースローから多彩な変化球を投げ、内野ゴロで打ち取るのが持ち味。 決め球はシュートで、1973年(昭和48年)〜1975年(昭和50年)にかけ、三年連続 二桁勝利。
1976年は9勝12敗と負け越し、1977年は4勝止まりと、一時低迷しますが、1978年(昭和53年)=12勝、1979年(昭和54年)=13勝と復活。 タイトルこそ無縁でしたが、中日のエースとして長く活躍しました。
昭和54年当時を知るオールド・ファンならば、三沢と言えば悲運の投手。
1979年(昭和54年)6月8日 巨人戦において、9回2アウトまで、ノーヒット・ノーラン。
スコアは0−0という緊迫した状況。 そうした側面が裏目に出たのか、伏兵と言われた柳田真宏に痛恨の安打を浴び、大記録を逃してしまいます。 試合は裏の攻撃で勝ち越した中日の勝利ではありましたが、もし中日がリードしての9回2アウトであったら、違った攻め方が選択でき、大記録を達成できたかもしれません。
1985年(昭和60年)、日本ハムに移籍するも、35イニングで1勝止まり。
1986年も1勝しますが、ほぼ出番はなく、オフに引退。
その後は野球解説者や、中日スポーツで野球評論家となり、ついには1996年、新進党推薦で愛知4区から衆議院選挙に出馬。見事、自民党候補者を破り当選を果たしています。
よく有名人が政治素人ながら参議院や知事選に立候補して当選しますが、野球一筋の素人が、衆議院選挙で当選するのは稀。 それだけ人望があったという事でしょうか??
=通算成績=
107勝 106敗 0ホールド 6セーブ 914奪三振 防御率3.81
オールスター出場1回 シーズン最多ボーク2回 シーズン最多・与死球2回 シーズン最多・敬遠2回
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