もぐら

昭和レトロに思いをよせ・・ 古き良き時代を振り返り・・

伝説のプロ野球選手サイン集

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索
イメージ 1

イメージ 2


戦前は職業野球として軽蔑・罵られてきたプロ野球ですが、戦後、大衆的な娯楽として爆発的な人気を獲得。
そうなると群がるように各企業がリーグ参戦を希望。 西日本鉄道も例外ではなく、「戦後の福岡に明るい話題を提供したい」として、リーグ参加を申し込みますが、元々西日本鉄道は、戦前に大洋軍を譲り受け、西鉄軍を運営するも失敗し解散させたという前科もち。 リーグ参加は却下されてしまいます。 
しかし加熱するプロ野球人気は留まることを知らず・・ これにより正力松太郎(巨人・顧問)が理想としていた2リーグ制構想は現実化をおび、西日本鉄道はプロ球界復帰に成功。 1950年(昭和25年)、セントラル、パシフィックによる2リーグ時代が始まります。

一時は全盛期を迎えた西鉄ライオンズですが、球団の放漫経営が祟り、徐々に衰退。
1973年(昭和48年)、ゴルフ場開発会社の太平洋クラブと提携に至り、太平洋クラブ・ライオンズに変名。
(当初はペプシコーラに売却予定だったが、同じ時期に東映も身売り希望を起こし、パ・リーグ存続を疑問視したペプシが撤退した・・ というエピソードあり。)
1977年(昭和52年)にはクラウンガスライターと太平洋クラブが提携を結び、クラウンライター・ライオンズが誕生。(正式名はクラウンガスライターですが、球団名が長すぎるこという事になり、クラウンライターに決定)
1979年(昭和54年)、西武鉄道グループの国土開発が母体全てを買い取り、福岡県から埼玉県に移ります。

そんな波乱の中で誕生した西武ライオンズが、早々に球団改革に着手したものは・・・。
① 実績のあるベテランを集め、集客力と即戦力の2つを改善する。(野村克也、田淵幸一、江夏豊等)
② 古臭く、企業宣伝丸出しの球団イメージからの脱却。(球団ロゴに手塚治のレオを採用という斬新さ)
③ 即戦力となる有望選手の獲得。(以後、プリンスホテル職員を利用したドラフト外戦略を展開)
④ 盟主・巨人に負けないドラフト戦略。(有望選手への根回しや、資金力の強化等)

球団を買い取った1978年(昭和53年)の西武首脳陣にいるドラフト対策会議・・。
関東地区を担当していた、往年の名選手・毒島章一が、「東洋大学の松沼雅之ですが、4つ年上の兄がいる東京ガスに就職希望しています。 兄の博久も残留を表明していますが、二人そろってというあたり、何か匂う(怪しい)のですが・・・」 と疑問を投げかけた事により西武は事情を調査。 兄弟は仲が良く、十中八九、兄弟で巨人入りが決まっている事をキャッチ。
ここからが西武手腕のしたたかさ。 巨人と交渉させるだけさせておき、巨人が警戒心を解いた隙を狙って交渉開始。 面食らった松沼兄弟は冗談気分で、兄弟合わせて契約金1億5千万円を要求。 当時、王貞治の年棒が8千万少々だった事からすれば、プロ実績のない二人の兄弟に、こんな法外な金額、出すはずがないと思うのが普通ですが、なんと西武はOK。 これによって一発逆転、西武・松沼兄弟が誕生しました。

雅之談=「巨人との交渉により、兄弟総額1億2千万での契約金が決まっていた。 ドラフト外入団でもあり、当時の契約金で考えれば破格。 そんな時、西武の根本さんが会食を希望され、ウチにこいという。 
兄と話し合い冗談気分で ” なら、ふっかけてやろうか ” と1億5千万を希望したらOKという。 正直、驚きました・・」

草創期の西武ライオンズは、東尾修くらいしか先発の目途がたたず・・ の中、松沼兄弟の加入によって充実。
松沼雅之は、初年度こそ4勝止まりでしたが、2年目となる1980年(昭和55年)〜1984年(昭和59年)まで、5年連続で二ケタ勝利。 (80年=12勝7敗 81年=12勝8敗 82年=11勝8敗 83年=15勝8敗 84年=11勝8敗)  1982年〜1983年の連続日本一に貢献。
1981年と1983年には、パ・リーグ、シーズン最多完封。 1981年〜1984年までオールスター連続出場と活躍。 本格的に黄金期を迎える前の、西武ライオンズの土台を支えました。
一方の兄・博久も大活躍。 初年度は16勝10敗で新人王。 2年目の1980年〜81年は不調でしたが、1982年に10勝9敗で復活。 この年、奪三振王のタイトルも獲得。 以後、3年連続で二ケタ勝利を達成。

1985年以降は故障もあって活躍の場を失い、1989年をもって引退。 兄・博久も1990年をもって引退。
兄弟で同時期に入団し、ともに約10年のプロ人生。 活躍した期間もほぼ同じ・・ という珍しいケース。
1980年代後半以降、常勝・西武は巨人すら圧倒。 あまりに戦力が凄すぎる為、松沼兄弟は脇役のような扱いになっていますが、松沼兄弟の西武入団がなかったら、投手不足の西武は空中分解したかもしれません。

=通算成績=
69勝  51敗  0ホールド  12セーブ  625奪三振  防御率3.62
オールスター出場4回  シーズン最多完封2回

イメージ 1

イメージ 2


1990年代における、とんねるずの某番組においてのやりとり。
石橋=「サダさん(定岡)は巨人時代、三本柱(江川、西本、定岡)って言われたけど、実際、球速はどのくらい出てたの?」
定岡=「最速で147km出したことがあるよ」
石橋=「うそだ〜。せいぜい140km出るか出ないかでしょ(笑)」
定岡=「そんな事ないよ。出した事あるんだから!」
石橋=「絶対ない!本気で投げてんの?って思うくらいの球速だったよ(笑)」

定岡正二は鹿児島県の名門、鹿児島実業のエースとして、1974年(昭和49年)、第56回・夏の甲子園大会に出場。 当時、「鹿児島の定岡」 は有名で、三兄弟すべてがプロ入りしています。
 薩摩隼人風の甘いマスクと、身長184cmの長身が女子中高生に受け、勝ち進むに従い大フィーバーに・・・。 この大会は、前年の江川フィーバーから、東海大相模の原辰徳フィーバーに移っていましたが、準々決勝で、その東海大相模を相手に、延長15回の末、5−4で下した事で定岡人気は最高潮。 
翌日の準決勝では防府商業(山口)と投げ合い2−1のサヨナラ負けを喫するも、今度は悲劇のエースとして扱われ、秋のドラフト会議において巨人軍より1位指名を受け入団となります。
(本人は阪神ファンだった事から、複雑な気持ちだったとの事・・)

入団1年目の自主トレには、定岡目当てに観客2万人が集まり、ついには露天商が並んだという人気ぶり。
しかしプロの水は甘くなく、しばらく二軍暮らしが続きます。 
そんな人気先行の中、1977年(昭和52年)5月18日、石川県立野球場で行われた大洋戦で一軍初登板。 
8回に6番手としてマウンドに立ち、2回無失点と結果を残し、5月26日ヤクルト戦において、初先発の切符を手にしますが、わずか1回1/3を投げ、3失点で降板。 
以後、出れば打ち込まれ、9試合 15.1イニング 19被安打 5被本塁打 12四球 防御率8.40と散々。 
1978年は2試合 2イニング 5被安打 1被本塁打 防御率4.50 
1979年は7試合 14イニング 20被安打 3被本塁打 防御率5.79
1975年(昭和50年)〜1979年(昭和54年)にかけ一軍未勝利どころか、出れば炎上という結果に対し、王貞治は自身の体験をもとに、日本刀で吊るした紙を斬るという特訓をさせたそうですが、一発で斬ってしまい、王が困惑した・・・というエピソードがあるそうで・・。 伸び悩む定岡に首脳陣もお手上げ状態だったようです。

転機がおとずれたのは、第一次・長嶋巨人最終年となる、1980年(昭和55年)。 制球が定まり、カットボール系の落ちる球が効果を発揮した事から、28試合に登板し 22先発 149.1イニング 9勝 8敗 防御率2.54 とシーズンを通じて好投。 

1981年、藤田新監督のもと、30先発 196.2イニング 11勝 7敗 防御率3.70 と結果を残し、巨人・日本一奪還に貢献。
1982年は27先発 189.1イニング 15勝 6敗 防御率3.29 の活躍。 オールスター出場も果たしました。

この時期、巨人軍の主力投手は江川と西本。 そこに定岡を加えて、「巨人先発3本柱」 と言われましたが、1983年以降は失速。 規定投球回数に達する事無く、1983年 7勝 7敗 防御率5.00。 1984年 5勝 10敗 防御率4.58・・・。 1985年には47試合登板も中継ぎ要員となり、オフには近鉄にトレードが決定。

当時29歳でもあり、トレードを受けるか悩んだそうですが、友人のアドバイスもあり、「巨人の定岡」 として引退を決意。 引退後は、元祖・おとぼけキャラとして、主にバラエティ番組に出演。 若くして芸能界入りし成功した事により、引退後、芸能界入りするプロ野球人が増えた事は、ある意味皮肉?な話。 
細身で長身を活かし、プロ野球出身者初となる、ベストジーニストにも選ばれる等、女性にモテるはずが、何故か現在(2018年 61歳)に至っても婚歴なしの独身。 巨人時代の同僚だった角三男によると、隠れてデートをしていたそうなので、女性嫌いというわけではなさそうですが・・・?

=通算成績=
51勝  42敗  0ホールド  3セーブ  492奪三振  防御率3.83
オールスター出場1回
イメージ 1

イメージ 2


大友進は一卵性双生児の兄。弟とともに茨城県立日立工業に進学後、一緒に野球部という経緯の持ち主。 
身長181cmという恵まれた体格。 強肩で制球力も良かった事から、投手兼外野手として注目され、一年生の秋よりレギュラーに抜擢。 なんと弟の猛も同時期にレギュラーに抜擢され、投手兼外野手だったあたり、流石は双子。 サイドハンドからキレの良い速球を投げ込む等、チームの中心選手として活躍しますが、大友の名が知れわたったのが、2年秋の茨城大会で準優勝を成し遂げた時から。

関東大会で好成績を残せば、念願の選抜甲子園出場が見えてくる中、一回戦の相手は、山梨大会の優勝校である山梨学院大付。 前評判では山梨学院大付が有利という中、双子がともにマウンドに立ち、延長の末に勝利。 準決勝、大友は完投するも、戦力に勝る浦和学院に敗れ涙・・・。 
甲子園が期待された3年夏の県予選、チームは双子の活躍で快進撃を見せ決勝に進出。 しかし常総学院の壁は厚く、リリーフした弟が決勝点を失い、3−2と接戦しながら敗退。(日立工業は1989年の県大会決勝でも、常総学院に12−0で敗退しています) 常にあと一歩で涙を飲んだ高校野球でもありました。

高校卒業後は東京ガスに入社し、野手専門として活躍。(ここでも双子で入社) 1995年度のドラフト会議にて、西武ライオンズより2位指名を受け入団となります。 背番号は37。

ルーキーイヤーの1996年は二軍スタート。
当時の西武ライオンズは、ダイエーと大型トレードで秋山幸二を失うも、かわりに佐々木誠が入団。 石井宏典、工藤公康、渡辺智男も去り、監督は黄金期を支えた森昌彦から東尾修に交代して2年目。
しかし戦力は充実しており、野手陣では、松井稼頭央、清原和博、鈴木健、伊東勤、田辺徳雄、ジャクソン、クーパーと層が厚く、新人がいきなりレギュラーに食い込む余地は無し。 

ただ、リーグ戦の結果は思わしくなく、1996年シーズンも4月から6位と5位を行ったり来たりと低迷。
その為、東尾はオールスター後の後半戦に、ベテランから若手起用に方針を転換。 佐々木誠をDHにかえ、新1番打者+外野手として大友進を起用。 
これが見事に大当たり。 62試合に出場し、打率301 3本塁打 15盗塁 68安打 と活躍。 7月まで一度も4位にすら浮上できなかった西武は、大友の活躍で8月に追い上げ、3位(Aクラス)でシーズン終了。

1997年も世代交代は進み、打線も1番=松井、2番=大友、3番=高木大成、4番=鈴木健、5番=マルティネス、6番=佐々木誠、7番=垣内哲也、8番=奈良原浩・・。 (清原は巨人へ移籍・・)
大友は128試合に出場。 128安打 5本塁打 31盗塁 31犠打 四球54 打率278 と、2番打者としての役割を十分に発揮。 チームの3年ぶりリーグ優勝に貢献しました。
(日本シリーズでは、ヤクルトに4−1で敗退しています)

レギュラー固定となった1998年〜1999年は、二年連続でゴールデングラブを受賞。 1999年はオールスターに出場し、ランニング・ホームランを記録する等、順風満帆のはずでしたが・・・ 2000年8月、守備で外野フェンスに追突し、右肩亜脱臼の大怪我。 そのままシーズンを棒に振ると、2001年は大不振に陥り、準レギュラーに降格。 そうなると熾烈なレギュラー争いを勝ち取った若手の台頭もあり、みるみると出場機会が減り、2004年は一度も一軍機会すら無し。 オフ・・ 中日と 2VS2 のトレードが起こり、中日に移籍します。

まだ30歳。 移籍当初は守備力を買われ、福留、アレックス・オチョアに次ぐ外野手として起用されますが、森野の台頭もあって控え組。 結局、打力の復活がなく、18試合 27打数 5安打 打率185 でシーズンを終え、オフに戦力外通告を受け引退。 巨人の吉村もそうですが、ワンプレーによる怪我の怖さ・・ 一瞬で地位も名声も金も失ってしまうプロ野球の過酷さ・・。 更に大友は、中日移籍により単身赴任となり、妻(カリスマ主婦モデルとして有名?な秋本祐希)と離婚。(離婚理由は性格の不一致) その結果、息子まで失っていますので、まさに踏んだり蹴ったり。 本人も相当にこたえたようで、引退後は野球界を去り、プロゴルファーを目指した事があったようです。 

= 通算成績 =
528安打  18本塁打  155打点  80盗塁  打率263
ゴールデングラブ2回  オールスター出場1回 
イメージ 1

イメージ 2


1958年(昭和33年)8月8日 第40回 夏の甲子園大会。
まだ占領支配下にある沖縄県より、首里高校が初出場。 記念すべき思い出の品として甲子園の土を持ち帰る選手たち。 ところが植物防疫法に触れたとの事で土は全て没収。 非常にも海に捨てられてしまいます。
それを聞いた日本航空スチュワーデスが、甲子園の小石を同校にプレゼントをするという美談は、今なお沖縄県民にとって忘れられない思い出だとか。 
今や高校野球界きっての強豪県となった沖縄ですが、全てが始まったのは、この年の首里高校から。

長く低迷していた沖縄県ですが、平成2年〜平成3にかけ、沖縄水産高校が2年連続 夏の甲子園準優勝。
平成11年と平成20年には沖縄尚学が春の甲子園(選抜)で優勝。
そして2010年(平成22年) 興南高校がエース=島袋洋奨を擁して春・夏連覇という偉業を達成。 

★ 興南高校 =島袋洋奨 2010年(平成22年) 史上6校目 春・夏連覇の足跡 ★
=平成22年 選抜甲子園=    =平成22年 夏の甲子園=
  4−1 ・・ 関西            9−0 ・・ 鳴門
  7−2 ・・ 智弁和歌山        8−2 ・・ 明徳義塾
  5−0 ・・ 帝京            4−1 ・・ 仙台育英
 10−0 ・・ 大垣日大        10−3 ・・ 聖光学院 
 10−5 ・・ 日大三           6−5 ・・ 報徳学園
                                                   13−1 ・・ 東海大相模

身長174cmと投手としては小柄。 しかし全身バネそのもの。 小柄な身体から勢いよく投げようと、小学生の時からトルネード投法に取り組んだサウスポー(左腕)
高校時代は150km近い速球を軸に、スライダーを決め球にするパターン。 その他、フォーク、カーブ、ツーシーム の変化球もあり、相手打者に的を絞らせない投球術が持ち味。 崩れそうで崩れないタイプ。
甲子園には4回出場。 13試合に登板し、11勝2敗 防御率1.63は、打高投低の甲子園大会において驚異的な数字。 通算11勝(連勝)は松坂大輔に並び歴代5位にあたり、9月の日米親善高校野球大会にも出場。
これだけの投手を各球団が放置するわけもなく、横浜やオリックスは熱心に勧誘するも、彼の選んだ進路は、プロではなく大学。 結局、中央大学に進学する事になります。

中央大学では入学したばかりの春季東都大学リーグ戦において、新人開幕投手に選ばれる等、期待が大きかった分、無理が祟ったのか2年時に左肘を故障。 治療に専念する間なく、9月には復帰したツケは大きく、以後、フォームが崩れ、コントロール難となり自滅する事も・・・。 4年時の春季リーグでは5連続・四死球を出す乱調。 結果、中央大学・東都リーグにおける通算成績は、47試合 312・1/3イニング 12勝 20敗 防御率2.16。 主なタイトルは無し。

2014年10月のドラフト会議において、ソフトバンクが5位指名。 背番号39。
大学時代は勝敗よりも、防御率の高さもあって、プロでは即戦力を見込まれての入団。 反面、故障した左肘の件もあり、三軍での登板が主。(二軍では9登板ながら、三軍では21試合登板)
一軍での初登板は、2015年9月25日 ロッテ戦。 8回裏 3番手。 1回 無失点。 この年、一軍では2試合に出場。 実はこの年の2試合が、プロ島袋の通算成績となってしまいます。

2016年はぱっとしないも、国際大会ではアジア・ウインター・ベースボールのNPBウエスタン代表に選ばれ、3先発 5リリーフと大活躍。 3勝0敗1セーブ。 防御率2.20。 一軍昇格は無し。
2017年は二軍中心に中継ぎ中心での登板続け、27試合 46イニング 防御率4.63。
そして・・・ オフに戦力外通告。 

現在は育成契約のもとチームに残り、背番号143をつけ復活の為リハビリ中。
一説では球威もだいぶ戻ってきたとの事。 もう一度、甲子園連覇した時の快投を見せてもらいたいものです。

=通算成績=
0勝  0敗  0ホールド  0セーブ  2奪三振  防御率0.00
第82回 選抜甲子園優勝  第92回 夏の甲子園優勝

イメージ 1

イメージ 2


2018年(H30年) 第90回 選抜甲子園大会は、大阪桐蔭が智辯和歌山を5−2で勝ち、2年連続3度目の春制覇で幕を閉じました。 2連覇は史上3校目。 大阪桐蔭は春夏合わせて甲子園決勝に7度出場し、7戦全勝という快挙も達成。 4人の好投手を擁するずば抜けた戦力で他校を圧倒。 ちなみに今世間で注目を浴びている桐蔭の根尾昂投手は岐阜県出身。 両親が医師という恵まれた環境下、自身も中学時代オール5という文武両道。 小学6年生の時、ソフトボール投げで89mを投げたという超強肩は、小学6年生にして球速130km前後を記録。 甲子園でも147kmをマーク。 (ちなみに小学6年生の男子平均は27m。この89mは非公式ながら日本記録だとか)
このような逸材が地元岐阜県で育たず、他県の強豪校に獲られてしまう現実・・・。 (それも同じ高校に、同レベル投手が4人も) 今の甲子園大会は、明らかに学校宣伝の道具にされているとしか言いようがないですね・・。

1988年(昭和63年)の選抜甲子園大会は、第60回記念大会。
横浜高(愛甲)→早稲田実(荒木)→池田高(畠山、水野)→PL学園(KKコンビ、立浪等)と、1980年代の甲子園では、毎年他校を圧倒する目玉チームが沸かせてきましたが、この大会には目玉チームが存在せず、下克上大会とも言われました。 そのような中、名門校を接戦で破り初出場にして決勝に進出したのが宇和島東(愛媛)。 のちに済美高(愛媛)の監督となり、同じく選抜を制覇した故・上甲監督の名が、全国に知れ渡った大会でもあります。

対戦相手は古豪・東邦高(愛知)。 過去3度(当時)の選抜優勝を誇り、愛知県では 「春の東邦、夏の中京」 と呼ばれる強豪。 東邦のエースは2年生・山田喜久夫。 身長173cmながら下半身が太いがっしりタイプ。 球速は140km前後ながら、大きく落ちる球を武器に、抜群の制球力で勝負。 
下馬評では圧倒的に東邦が有利で、宇和島東の牛鬼打線が、山田から何点取れるかがポイントと言われる中、試合は2回裏に宇和島東が2点リードした事で状況が一変。 更に5回には集中打で4点を追加。 ペースの乱れた東邦打線は、小川投手の変化球に対応できず5安打どまり。 10安打を浴びた山田は涙の準優勝・・。

翌1989年(平成元年)の第61回 選抜甲子園大会にも東邦は出場。 3年生となった山田は1回戦 別府羽室台(大分)を6−0。 2回戦 報徳学園(兵庫)を3−0 と2試合連続完封。 準々決勝では近大付(大阪)に3−2でサヨナラ勝利。 準決勝でも京都西を4−2 と安定したピッチング。 決勝は元木、種田の上宮高(大阪)。
5回に各チーム1点を取り合うシーソーゲームは、お互い安打はでるも決め手に欠け延長に突入。
10回表、上宮が1点勝ち越しに成功。 裏の東邦は先頭打者が死球出塁するも、次打者が初球を打ち併殺打。
2死ランナー無しと絶体絶命。 ところが2年生エース・宮田が緊張から乱調となり、四球、内野安打でランナーをため、3番・原がつまりながらセンター前ヒットを放ち同点。 その時、セカンドランナーがオーバーランを起こした事に気が付いた捕手・塩路がサード・種田に送球。 東邦、サヨナラを休したかと思った瞬間、種田が投げた2塁送球を、セカンドが取れず後逸。 更にカバーに入ったライトも後逸という珍事が連発。 東邦は土壇場で奇跡の大優勝劇を起こし、48年ぶり4度目の春制覇を達成しました。
(この時実況者が言った ” ボールが遠い、ボールが逃げて行く、ランナーが帰ってくる・・ あまりにかわいそう ” は当時の流行語にもなった程)

2年連続で春の選抜甲子園決勝に進出し、一人エースとして優勝・準優勝を果たした山田喜久夫は、PL桑田以来の 「ミスター甲子園」の称号?を与えられ大人気。 夏の甲子園大会では1回戦敗退するも、1989年のドラフト会議において、地元・中日から5位指名を受け入団。
初年度の1990年には一軍にあがり中継ぎとして17試合に登板。 左のワンポイント中継ぎとして、1995年まで毎年30〜40試合に登板と、地味ながら制球力を武器に本領発揮します。
1994年には、巨人と優勝を争った伝説の「10・8決戦」 に2番手として登板。

本人談=「今中の後を受けてマウンドにあがったのですが、緊張と重圧で頭の中が真っ白になった事を思い出します。 結果的に、松井秀喜に一発を浴びましたしね。 ほろ苦い思い出ですよ・・・」

1999年、広島に移籍し、その年に引退。 抜群の制球力と左投手という事で、長くバッティング投手を務めたのち、何気なく野球関係者に配った地元の ” わらび餅 ” が大好評。 第二の人生を和菓子職人にと決意。
1年間、老舗和菓子店で修業をつみ、現在は名古屋市内で、「喜来(キク)もち ろまん亭」 を経営。
天然素材で添加物無しの和菓子は評判らしく、大手デパートや球場でも販売しているそうです。

=通算成績=
6勝  8敗  0ホールド 0セーブ  184奪三振  防御率3.76
その他・・ 選抜甲子園大会 優勝1回 準優勝1回

.
mogura
mogura
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(21)
  • きなこ店主
  • 権田さん
  • kazagasira
  • グリフィスの倉庫 メゴマ呉
  • ちょうすけ
  • カメラマン
友だち一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

ブログバナー

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
いまならもらえる!ウィスパーうすさら
薄いしモレを防ぐ尿ケアパッド
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
いまならもらえる!ウィスパーWガード
薄いしモレを防ぐパンティライナー
話題の新製品を10,000名様にプレゼント

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事