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昭和レトロに思いをよせ・・ 古き良き時代を振り返り・・

伝説のプロ野球選手サイン集

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1990年(平成2年)と言えば、世の中はバブル経済。 数千万〜億単位の住宅・マンションが即完売。 休日は別荘を持ち過ごす者、海外ですごす者が続出。 宝石・ブランド品が飛ぶように売れまくり、老若男女を問わずファッション感覚が一新。 数百万もする高級車が売れに売れ、予約1年待ちなんて当たり前・・。 
逆に景気が良すぎた反動から公務員人気が超急落。 各自治体は公務員のなり手探しに翻弄。 学生は就職活動など適当にすれば、むこう(大企業)の方から勧誘してくるという夢の時代。 全国の繁華街は賑わい、若者も下手なサラリーマンの給与以上の小遣いで遊びまくり。 合コン、援助交際、夜通し踊り遊び朝帰り・・・ といった社会問題すら、バブル景気の前には蚊帳の外状態。

そんな信じがたい好景気が後押しするかの如く、プロ野球にも新人類スターが続々出現。
西武=渡辺久、秋山、潮崎、日本ハム=西崎、松浦、近鉄=阿波野、ヤクルト=伊藤智 ・・・ といったハンサムで細身、服の着こなしの良い 「トレンディ選手」 が続々誕生し、これまでのプロ野球=「腹の出たようなおっさん」 といったイメージが消え、野球に興味がなかった女性までも巻き込む社会現象となりました。
(1989年には、東京ドームが完成。 新デートスポットとして注目された事も、異常なまでのトレンディ選手人気に結び付いた要因かと思います)

そのような中、野村克也を新監督に迎えたヤクルトは、野村のかがげた 「ID野球」(データ主体に分析し考える野球)のもとリーグ制覇と大暴れ。 それまでお世辞にも人気チームとは言い難かったヤクルトに注目の目が集まります。 すると・・・ ヤクルトには個性的な選手が多い事が発覚。 ”ぶんぶん丸” 池山、飯田 あたりは、「三枚目・美男子」 として人気が高く、オフにはTV出演にも引っ張りだこ。

そんな人気・ヤクルト選手の中で、異質的な雰囲気で存在感を示していたのがギャオス内藤こと内藤尚行。
身長187cm 体重90kg の恵まれた体格。 愛知県・豊川高校から1986年(昭和61年)、ヤクルトよりドラフト3位指名を受け入団。 
高卒ながら度胸ある投球が、当時の関根潤三監督の目にとまり1軍入り。 入団初年度の1987年4月14日 巨人1回戦にて8回リリーフ登板。  
=本人談= 「プロ入り後、キャンプに参加した時、思った程練習がきつくなかったので、” プロの練習は易しいんだ。 これなら中学時代の方が厳しかった ” と思いました」 
との見識程、プロの世界は甘くなく、1/3回 4失点でノックアウト。 結局、初年度は3試合のみと散々。
しかし練習熱心でもあり、2年目は中継ぎを任され、22試合 48.1イニング 2勝 1敗 防御率2.05 と結果を残します。

3年目となる1989年(平成元年)は先発〜抑えまでフル稼働。 1990年と二年連続で二けた勝利を挙げ、ヤクルトの主力投手に成長。
1989年 ・・・ 41試合 15先発 163イニング 12勝 5敗 8セーブ 97奪三振  防御率2.82
1990年 ・・・ 28試合 12先発 132.1イニング 10勝 8敗 6セーブ 109奪三振  防御率4.08
けっして美男とは言い難い容姿ながら、明るく元気な姿が評判となり、そのキャラクター性に目を付けたTV番組からのオファーが殺到。 人気番組だった 「とんねるずの、みなさんのおかげです」 に出演した事も。
(但し、内藤個人ではなく、ヤクルト選手と、とんねるずの絡み番組にて、目立った存在だった程度)

しかし・・ 体格は良くても球速がなく、せいぜい140kmまで。 握りなのか、フォームなのか・・ 意外にも球威がある上、シュート回転がかかってナチュラルに変化。 この癖球を軸に、スライダー(本人曰く、タイミングをズラす為、ズライダー・・らしい) やフォークを決め球に組み立てるのが持ち味。 そうなると生命線は制球力となり、1991年以降は過剰登板が祟って故障が増え、制球が乱れたところを痛打。 以後、登板機会が激減し、1995年、ロッテにトレード移籍。

当初は3連勝と調子を保持するも、またも故障でリタイヤ。 1996年途中、与田剛とのトレードで中日に移籍するも復帰には至らず、1997年オフ、29歳の若さで引退。 引退後はキャラクター性を活かして芸能界で活躍。
野球解説活動も行いますが、どうも解説者としての評判は・・ 人それぞれみたいです(苦笑)
=本人談= 「面識のない選手とかにいきなり、”昨日の配球は悪かったね・・” といった野球談話から入ったら相手もムッとするでしょ? だからあえてその点は避け、”ゴルフの調子はどうだい?” といった感じで入る方が、色々と絡みやすいと思っています。」

登録名にもなった 「ギャオス」 の由来は、いつでも大声ではしゃぐ事からきたのだとか。 新人だった頃、ブルペンでの投げ込みの際、ブルペン捕手が盛り上げ上手だった事もあり二人が大はしゃぎ。 あまりにウザい為、横で投げていた荒木大輔が報道陣に愚痴を漏らしたのがきっかけ。
高校時代、将来の夢はタレント希望 (それもアイドル系。 トシちゃんやマッチの真似を毎日していたらしい) だったという明るい性格も、時としては害になりますので要注意。

=通算成績=
36勝  29敗  0ホールド  26セーブ  454奪三振  防御率3.96
オールスター出場1回
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1980年代初期の高校野球と言えば、横浜(愛甲)、早稲田実(荒木)、池田高校(畠山・水野・やまびこ打線)、そしてKKコンビのPL学園・・。 一部の高校生がプロ以上に注目を浴びる中、甲子園という ” ひのき舞台 ” に縁がなく、地方に埋もれている逸材も多々。 松浦宏明もその一人。 千葉県・船橋法典高校出身。 身長178cm と標準体格ながら、投手としては140km台中盤の速球を投げ、カーブ、シュート、フォークと変化球も多彩。 打っては高校通算46本塁打の強打者。 しかし参加校が多く、強豪のそろった千葉予選の壁は厚く、甲子園出場には至らず・・。 1984年、ドラフト外で日本ハムに入団します。

初登板は入団初年度の1985年(昭和60年)5月28日 ロッテ戦にて。
8回に3番手として登板し、1回を無失点という上々な滑り出し。 ドラフト外入団の高卒ルーキーが、5月に一軍で初登板という例は珍しく、いかに球団が松浦に期待していたかがわかります。

1986年(2年目)は育成の意図もあり、イースタン・リーグ主体で登板。期待に応え、11勝を挙げ、最多勝のタイトルを獲得。 1987年からは中継ぎ、抑えに抜擢され一軍に定着。 すると不思議にも、松浦が登板する試合は何故か終盤に逆転勝ちする事が多く、開幕から5連勝。 ついたあだ名は 「逆転のマツ」・・。

1988年(昭和63年)、日本ハムの投手事情(先発不足)もあり、シーズン途中に先発投手に転向すると連勝・・連勝・・。 36試合 16先発 10完投 169.1イニングを投げ、打たれた安打は125本という驚異の投球。
奪三振153 15勝 5敗 4セーブ  勝率750  防御率2.76 の好成績。 西武=渡辺久信、同僚の日本ハム=西崎幸広 と3人で、パ・リーグ最多勝のタイトルを分け合いました。

ちなみに大活躍となった1988年、松浦は背番号を ” 59 → 0 ” に変えており、あだ名は 「逆転のマツ」 から 「ゼロ戦のマツ」 に変更。 当時、背番号0は珍しく、まして投手だった事から話題となりました。

翌1989年は肘・肩痛により低迷。 わずか6試合6先発で終わりますが、1990年は26試合 18先発 8完投 140イニング を投げ、11勝 8敗 防御率3.47 と復活。
1991年は、防御率は5点台と低迷するも、129.1イニング 9勝 9敗 の成績を残し、日本ハム及び日本代表投手として、日米野球にも選出されています。(1989年、1990年)

1994年、肘・肩痛の再発等もあり不調で終わった事から、1995年は二軍調整からのスタート。
シーズンに入り日本ハムは阪神にトレードをもちかけるも交渉は折り合いがつかず、横浜ベイスターズ=岡本透とのトレードが成立。 
この年、横浜では9試合 16イニング 1勝 1敗 防御率7.31 と結果を残せず、オフに引退を表明。

1990年代初期に流行語ともなった 「プロ野球 トレンディ選手(かっこよくてアイドルのような選手の意味らしい)」 の一人。 派手なガッツポーズや甘いマスクで人気も高く、当時を代表する投手。
反面、投手の宿命?ともいえる肘・肩痛もあり、活躍した期間は短く、記録ではなく記憶の投手。
もし入団時に打者転向していたら、1000安打は打てる中核打者として存在を発揮したかもしれません。

= 通算成績 =
54勝  46敗  0ホールド  14セーブ  防御率4.32
最多勝1回  オールスター出場1回   東京ドームMVP1回
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中学時代は野村沙知代がオーナーを務めた 「港東ムース」 に所属。
その時、「ジジイじゃないんだからシャキっとしなさい!」 と叱咤された事をもじって、「ジジイ → ジージー → G・G」 となり、後にプロ野球の登録名を G・G・佐藤に変名。 
佐藤が活躍していた2009年、岡田彰布がオリックスの監督に就任。 主力選手だった岡田貴弘と ” 岡田同士 ” では区別がつき辛いとの理由から、登録名= T−岡田 が誕生。 名の由来は、貴弘の頭文字及び、恐竜のT−レックス(ティラノ・ザウルス)のイメージから。
イチローはともかく、新庄は 「SHINJO」 と登録。 登録名の近代化は、堅苦しさのあったプロ野球界が変わっていく好印象と反して、どことなく違和感を感じた覚えがあります。

G・G・佐藤は千葉県市川市生まれ。 父は測量事務所社長。 中学時代は野村沙知代がオーナーで、強いが問題の多き?港東ムースに所属。 (港東ムース問題 = 野村克也が引退後に結成したチーム。 チーム運営費は会費とスポンサーより調達。 年3回の国内遠征と年1回の海外遠征は、保護者自己負担。 1999年9月、保護者が税務調査願を出した事で、汚い裏事情が発覚。 ” 選手に背番号を与えると、野村夫人に謝礼金数十万 ” ” 有名な野球高校に進学さると、口利き料として数十万円〜数百万 ” ” 高額な遠征費用は大人も子供も同じ金額を徴収。 しかし宿舎はボロボロ・・ 食事はハンバーガーと支払った金額とつり合いが合わない ” 等々。 更に野村夫人の好き嫌いでレギュラーが決まったり、過剰なシゴキや個人へのイジメ、罵声も問題視。 ついには野村の脱税事件が発覚。チームは消滅・・ )

高校は名門・桐蔭学園。 甲子園出場は逃すも法政大学に進学。 身長184cm 100kg の巨体ながら、大学時代はレギュラーになれず、通算本塁打は1本のみ。 卒業後はアメリカに渡り1年間、メジャー・リーグ=フィリーズ傘下の1Aに所属。 強肩を見込まれ内野手から捕手に転向。 2002年に帰国後は、ジャニーズ事務所でアイドルの警備員をしながら西武の入団テストを受け、伊東の口利きを得て2003年ドラフト会議で西武より7位指名を受け入団という異経歴の持ち主。

入団当初はメンタル面が弱く、2軍で活躍しても1軍ではさっぱりだったり、オープン戦や消化試合では調子が良くても、ペナント中は不調だったりの繰り返し。
但し、長打力は見込まれており、捕手登録選手でありながら、出場機会をもうける為、内野 → 外野 に転向。

才能が開花したのは2007年。 オープン戦で5本塁打をマーク。 
離脱したカブレラの抜けた穴を埋める素材として1軍に定着し、シーズン25本塁打を記録。
「ファンを愛し、ファンに愛される選手になりたい」 という想いから、「愛の波動砲 G・G・佐藤」 と宣言。

2007年 ・・・ 136試合  136安打  31二塁打  25本塁打  69打点  7盗塁  打率280
2008年 ・・・ 105試合  117安打  30二塁打  21本塁打  62打点  1盗塁  打率302
2009年 ・・・ 136試合  146安打  34二塁打  25本塁打  83打点  1盗塁  打率291

G・G・佐藤と言えば、契約更新の際に、よく球団とトラブル(2年連続で年越し)を起こす事と、2008年の北京オリンピック時に、日本敗退の原因と言われるタイムリー・エラーを連発した事が有名。
その為か、ファンサービスも良く、本人の想いとは裏腹に、どこかダーティなイメージが強まっていったのは皮肉な話。 それらもあってか西武球団の評価は低く、2010年に怪我で不調となると2軍落ち。(シーズンは不調になったが、オープン戦は首位打者であった・・)
2011年は、若手起用を理由に一軍昇格ないまま、オフに戦力外通告・・・。

2012年はイタリアでプレー。 野球後進国とはいえ、42試合に出場し打率319と活躍。
翌年は日本のクラブチームでプレー。 伊東勤がロッテ監督に就任した事から、2013年、ロッテに入団。
主には代打で出場し、51打数 13安打 2本塁打 打率255 なら合格点。
しかし・・ 西武時代から好不調の波が激しく、2014年は出番がないまま二度目の戦力外通告。
現在は、実家の会社で働きながら、クラブ野球を続けているとの事。 
実家の測量会社には、西武球団で戦力外となった若者も多数就職しており、プロ野球選手・第二の人生の受け橋にもなっています。 (前川恭平、梅田尚通、林崎遼 等々)
また、自身は俳優にもチャレンジ。 NHK大河ドラマ 「おんな城主・直虎」 にも出演しています。

=通算成績=
507安打  88本塁打  270打点  12盗塁  打率276
月間MVP2回  JA全農GoGo賞(強肩)1回  オールスター出場1回  北京オリンピック日本代表

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人気番組だった「お笑いマンガ道場」にレギュラー出演していた ” 富永一郎 ” は熱狂的な広島ファン。
その富永が、戦後、父親の郷里である大分県佐伯市に戻り、佐伯市立鶴岡小学校教員として理科・図画を担当していた時の教え子が、後に広島カープ監督となる阿南準郎とは、なんとも不思議なめぐり合わせ。
平成30年3月5日現在、富永=92歳、阿南=80歳。 随分前のエピソードでもあります。

佐伯鶴城高校時代、1955年(昭和30年)夏の甲子園大会県予選を勝ち上がり優勝。 
今は一県一校制なので甲子園出場・・ っとなるわけですが、当時は地区ブロック制だった為、東九州大会出場となり、鹿児島県立・出水高校に敗戦。 甲子園の夢が断たれます。

そのような中、プロ野球・広島カープでは1955年(昭和30年)に球団倒産事件が起こり、新体制を整える為、有望な若手(それも争奪戦とならないよう、地方に埋もれた有望者)を探しており、守備の名手として県下で名をはせた阿南獲得に動きます。
(1955年=昭和30年 広島球団倒産事件とは、1950年に市民球団として誕生した広島は、市民や後援会の協賛・協力を得て資金を調達していましたが、球団発足5年での負債総額が5635万円(当時)に達し、返済の目途が立たなくなってしまいます。その為、母体である ” 広島野球倶楽部 ” の倒産を発表。 新たに ”(株)広島カープ ” を設立し、球団消滅危機を乗り越えます・・)

初年度(1956年)から一軍でも起用され、主に守備要員として34試合に出場。
翌年は89試合に出場。 守備面は評判通りの活躍を見せますが、打力に課題が多く、1割台後半程度。
1960年あたりからレギュラーと準レギュラーを行ったり来たりの起用となり、1961年〜1967年の間、5年にわたりシーズン100試合以上に出場しますが、打力アップの課題は克服できず、最高打率は1964年(昭和39年)の246。 この年は115安打放ちますが、通算15年のプロ生活で唯一の規定打席達成、100安打以上達成でもありました。 ちなみに、この年から登録名を 「阿南潤一」 から 「阿南準郎」 に変更。

1968年(昭和43年)、近鉄に移籍。 1968〜69年にかけ2年連続・シーズン118試合に出場。
1970年をもって引退。 近鉄にコーチとして残留し、一軍、二軍の内野守備コーチを担当。 
この近鉄移籍ですが、資金に乏しい広島球団は、内部育成による球団強化をはかるため、後々監督やコーチとして有望な選手については、晩年、他球団に出し、視野を広げさせる方針をとっていました。 (古葉が南海にトレードされたのもその例) 阿南も例外ではなく、1974年、広島にコーチとして復帰。 
以後、森永監督 → 古葉監督 のもとで一軍守備コーチとして活躍。 カープ黄金期を支えます。

1986年、古葉監督退任に伴い広島監督に就任。 山本浩二が監督に就くまでの ” つなぎ監督 ” と酷評される中、3年間の監督業における成績は、1986年=1位(日本シリーズでは西武に3−4で敗退) 1987年=3位 1988年=3位 とすべてAクラス。 物おじせず、クールでどっしりと構える監督として、往年の広島ファンの間では、「過去最高の監督」 という声も。 
当時は 背中のネーム表記が 「ANAN」 だった為、人気女性ファッション誌 = 「アンアン」 とかけて、” アンアン監督 ” と呼ばれました。

 =通算成績=
 746安打  34本塁打  254打点  43盗塁  打率218
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1911年(明治44年)8月、朝日新聞は 「野球と其の害毒」 のタイトルで22回にわたり、野球反対のキャンペーンを実施。 これに対して読売新聞は、反論を16回にわたり掲載。 朝日新聞は ” 野球排斥派 ” 、読売新聞は ”野球擁護派” の立場で激突。 これが今に伝わる、「朝日 VS 読売 野球論戦争」 です。
ところが、世の中は野球ブームが到来。 大正に入ると益々盛んとなり、1914年(大正3年)には、早慶明の三大学リーグ戦が開始。(今の六大学リーグ戦の前身) 中学生も好んで野球を行う事から、野球反対派であった朝日新聞は方向を180度かえ、1915年(大正4年)、健全なる少年育成を目的に、全国中等学校野球大会を開催。 戦後、全国高等学校野球選手権大会と変わり、第100回もの歴史を刻み今日に至ります。

そんな歴史ある夏の甲子園大会において、「高校野球を変えた」 と言わしめた大会が1982年(昭和57年)の、第64回大会。 優勝候補の筆頭は、荒木大輔のいる早稲田実業。 徳島・池田高校も優勝候補の末端に数えられる程度の下馬評はありましたが、良くて準決勝あたりだろうとの声。 
1回戦 5−2 で静岡を破るも、2回戦の日大二では逆転されて追う展開。 6回、同点に追いつき、7回、試合前の練習中に口を負傷した9番・山口の本塁打で勝ち越しという薄氷勝利。 3回戦は5−3で都城に勝利。 ここまでは普通の勝ちあがり方でした。 準々決勝は早稲田実業。 圧倒的に早稲田有利と言われる中、一方的に荒木を打ち込み14−2で勝利。 準決勝の東洋大姫路では4−3と接戦を制して決勝進出。 相手は伝統野球の広島商業。 試合巧者の広島商業が、池田打線を封じるか・・ と注目される中、18安打 12−2の圧勝で池田は初優勝。 
当時はタブーとされた筋トレや肉中心の食事方法。 更に練習時間の8割を打撃練習に回すという、金属バットを生かした攻撃的な蔦野球は 「高校野球を変えた 」 と評され、守り中心の学生野球に大革命をもたらしました。

この時のエースが畠山準(ひとし)。 小松島市出身。 一説ではPL学園からもスカウトされていたのだとか。
身長180cm の本格オーバースロー。 ややコントロール難があるも、140km台の速球が武器。
控え投手は水野雄仁。 当時の事を水野は某雑誌インタビューで、「あの早実戦の時、こぞって新聞が荒木、荒木・・って書いてね。 ” 何が荒木だ ” って思ってました。 だって誰も畠山さんの事を書かないけど、畠山さんの凄さは僕たちが一番知っているわけで・・。 畠山さんより凄い投手はいないと思ってました。 そんな畠山さんの投げる球で練習してきた僕たちが、畠山さんより球速の劣る投手に負けるはずがないと信じていました。 (中略) 当時の池田が強かった理由の一つに、紅白戦があげられます。 だって一方のチームは畠山さん、もう一方のチームは僕(水野)が投げるわけです。 それを毎回するんだから、強打・池田というのは、皆さんが言うような理屈(金属バットだの筋トレだの)ではなかったですよ・・」

畠山は1982年・秋のドラフト会議において南海より1位指名を受け入団。
1984年には32試合 153回 と規定投球回をクリア。 5勝 (但し12敗) をあげます。
しかし投球フォームが大きく安定せず、フォーム改造に取り組むも失敗。 打力を生かして1988年(昭和63年)より打者に転向。
1991年からは大洋横浜に移籍。1992年、71試合で10本塁打をマークした事から、1993年〜1994年にかけレギュラーとなり、3年連続で二桁本塁打を記録する活躍を見せます。
(ドラフト制が始まって初の、規定投球回数と規定打席の到達者でもあります。)

しかし・・ 鈴木尚、佐伯、波留といった若手の台頭により、試合出場は激減。
以後、代打や交代要員となり、1999年オフ、戦力外通告を受け引退。 
ちなみに水野は2年目のキャンプ地において、ホテルで右肩を痛め低迷。 貴重な中継ぎではあったものの、甲子園のような旋風は見られず・・。 やまびこ打線の中核だった江上は早稲田大学に進学し、主将を務めるもプロからの指名なく一般社会へ・・・。 高校野球では無敵だった池田も、プロの水は甘くなかったようです・・・。

=通算成績=
6勝  18敗  0ホールド  0セーブ  99奪三振  防御率4.74
483安打  57本塁打  240打点  8盗塁  打率255
オールスター出場3回  優秀JCB・MEP賞  JA全農GoGo賞1回(強肩) 




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