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1989年(平成元年)のドラフト会議は、有望選手が目白押し。
目玉となったのは新日本製鐵堺の野茂英雄。 史上初となる8球団から指名。(近鉄、オリックス、日本ハム、ロッテ、横浜、阪神、ヤクルト、ダイエー)
その他、佐々木主浩、小宮山悟、新庄剛、古田敦也、岩本勉、前田智徳、石井浩郎・・・ そうそうたるメンバー。
そんな華々しいドラフトの陰に、熊本県立・八代工業からドラフト外で巨人入りした左サイドハンド投手が柏田貴史。 身長179cm がっしりとした体格。 当初の3年間は体力作りに専念。 一軍入りを果たしたのが1994年。 この年は16試合 18.0イニングに登板し、1勝 0敗 0セーブ 防御率3.50 の成績。
1995年にはイースタン・リーグ(二軍)において、9勝を挙げ、最多勝&最高勝率 のタイトルを獲得しますが、一軍ではわずか2試合 4イニングを投げたのみ。
プロ7年目となった1996年も、イースタン・リーグでは39試合 6勝と好調をアピールしますが、一軍からのお呼びはなく、わずか8試合 11イニングのみ・・・。
転機が訪れたのが1997年。 メジャー球団・メッツの春季キャンプに野球留学で参加。 メジャーでは見かけない左ハンドから操る投球術が評価され、キャンプ後もチームに帯同。 ついには5月1日にメジャー・デビューまで果たし、セ・リーグ球団初となるメジャー・リーガーとなりました。
当初は日本でも無名の柏田がメジャー入りした事に対し、「メジャー・リーグの質が低下したのでは?」 といった声が聞かれましたが、35試合 3勝 1敗 防御率4.31 の活躍で評価は逆転。
オフに自由契約となると、国内全ての球団(その他、メジャーから3球団)がオファーを送るという売り手市場。
しかし、柏田が選んだのは、ドラフト外で入団させてくれた恩義ある巨人。 巨人軍としては、出身チームでもあり、「戻って当然」 とした態度を一貫した為、他球団より条件が悪く、柏田の想いは片思いに過ぎなかっただったようです。
そんな条件下による巨人復帰ですので、1998年も出番はなく、わずか2試合 2イニングにみの登板。
しかし1999年には実力が認められ、ワンポイント・リリーフ専門として52試合に登板。 翌2000年も50試合に登板し、終盤になると登場する事から、「平成版・8時半の男」 と称された事も。
2001年も39試合に登板しますが、イニングは27.1。 以後、若手や移籍投手に地位を奪われ、登板機会が激減。 2005年は一軍からのお呼びがないままシーズンを終え、オフに引退宣言・・・。
柏田の扱いが悪かった理由の一つは、当時の野球事情があります。当時はまだ先発完投型が当然とも言える時代。 左の強打者の時に、ワンポイント登板をするだけの投手評価は低く、主力戦力枠の一員として扱われていない面が挙げられます。 また沢村栄治以降、巨人のエースは本格派のオーバーハンド型。 この話は有名OB選手も語っていましたが、 角や鹿取、更には大投手・斎藤雅樹に至るまで、活躍程は評価され切れてないとのこと。
今は・・・ 投手分担制、登板後の中休み等、中継ぎやワンポイントも格段の評価を得るようになりました。
柏田も今の時代で登板できたら、それ相応の名投手になっていたかもしれません。
=通算成績=
(日本) 4勝 2敗 0ホールド 1セーブ 防御率3.91
(メジャー) 3勝 1敗 0ホールド 0セーブ 防御率4.31
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伝説のプロ野球選手サイン集
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漫画「巨人の星」のワンシーン。 オリンピック短距離走の日本代表候補であった速水譲次は、「陸上選手よりも野球選手の方が英雄になれる」と巨人入り。 背番号は100。 公式戦でも俊足を活かし次々と盗塁を決め、実況アナと解説者からは、「俊足」選手が塁に出るという事は、単打が長打になるようなもの・・ と賛辞の声。
長距離打者と比べてみると、王貞治の場合、1974年の本塁打率は7.86。(約8回打席に立ち、1本塁打) 通算9250打数 2786安打 868本塁打 塁打数5862 長打率634 出塁率446 ですので、単純に出塁+盗塁=長打となる計算の場合、俊足選手がいかに他球団にとって脅威的な存在になるかがわかります。
福地寿樹は、俊足を武器に、広島 → 西武 → ヤクルト を渡り歩いた走りのスペシャリスト。
佐賀県出身。 身長184cm と大柄ながら打撃センス良く、高校時代の打率は4割を超え、通算本塁打は18本をマーク。 俊足の下地は陸上。 中学時代は陸上部に所属し、ハードル選手として佐賀県大会で優勝したという運動神経の持ち主。
甲子園には無縁ながら、佐賀県選抜に選ばれると4番を打つ活躍。 1993年ドラフト会議において広島カープより4位指名を受け入団します。
一軍デビューは1997年10月10日 ヤクルト25回戦(神宮)ですが、福地の名が知られだしたのは1999年から。 それまでは二軍でくすぶっていたのか・・ というわけではなく、逆に二軍で大活躍。
ウエスタン・リーグにおいて、1995年〜1998年にかけ4年連続盗塁王。 1998年には、ウエスタン・リーグ史上初となるシーズン50盗塁を記録。 これ程の選手が一軍固定されなかった理由としては、まだ発展途上段階の高卒選手だけに、広島流の英才教育期間だったと考えた方が自然かもしれません。
1999年、14試合ながら一軍入りを果たし、2000年からは一軍に固定。
代走、代打、守備固め要員として起用され、以後、毎年50試合以上に出場。 2000年〜2003年にかけ、4年連続シーズン二桁盗塁(最高は20盗塁)を達成。 結果、2002年終了段階では、通算安打数よりも通算盗塁の方が上回るという珍記録を達成?しています。
しかし・・ 2004年の開幕直前、右足靭帯断裂という重傷により戦線離脱。 2005年には復帰するも、休養期間に若手の台頭やショート・ポジションのレギュラー固定等、不運が重なり出番を失くし、2006年3月、青木勇人とのトレードで西武ライオンズに移籍となります。
2006年は怪我の後遺症もなく25盗塁の活躍。 打力も安定し、294打数 85安打 打率289 と結果を残し、シーズン通じて準レギュラーを獲得。
2007年はレギュラーに近いポジションで起用され、117試合 319打数 87安打 28盗塁 打率273 の成績。 西武の主力選手として生まれかわります。
ところが・・ 同年12月・・ FAでヤクルトから石井一久が西武に移籍。 その人的補償選手としてヤクルトに移籍が決定。 普通の選手ならここから下降線・・・ のケースですが、西武で見せた実力は本物。
2008年、485打数 155安打 42盗塁 打率320 と好成績。 長打力も増し9本塁打をマーク。 俊足を活かし、リーグ最多となる7三塁打を放った他、盗塁王のタイトルを獲得。
2009年も調子を維持し、42盗塁で二年連続の盗塁王。 136安打 打率270 の成績を残します。 同年9月28日 阪神戦において、史上69人目となる通算200盗塁を達成。
2010年以降は怪我が続くようになり、戦線離脱や打撃不振が増え、再び準レギュラーに。
2012年10月4日 広島戦において、史上44人目となる、通算250盗塁を達成。 オフに引退。
=通算成績=
650安打 20本塁打 184打点 251盗塁 129四球 打率272
盗塁王2回 最多三塁打1回 JA全農GoGo賞3回
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1995年のドラフト会議において、三菱自動車川崎の主力選手だった渡邉博幸を、中日が4位指名。
身長183cm 体重90kg(当時) の恵まれた体格。
日大藤沢高(神奈川)より日本大学に進学し、東都大学リーグでは49試合に出場。 打率276 6本塁打 の数字を残しているだけに、打力を買われての指名かと思えば、買われていたのは、どちらかというと守備力の方。
内野・外野 どこでも守れる上、パンチ力ある打撃有りとなれば、社会人出身だけに即戦力扱い。 指名は4位でしたが、背番号はレギュラーナンバー 「5」 というあたりからも、その期待度がわかります。
しかし・・ そこはプロの世界。 守備力は良くても打撃面に難が残り、1軍デビューは1996年9月28日 ヤクルト戦での代走にて。 同年10月2日 広島戦 9回表、落合英二の代打であった川又米利の代打で初打席。 いきなり初安打・初打点をマークしています。
初スタメンは1997年8月21日 広島戦にて。 8番 ショートでの起用。
この年は途中守備固めとして34試合に出場。 52打数18安打 打率346と打撃が好調。 1998年は低迷するも、1999年以降は出場機会が増え、2002年に山田久志が中日監督に就任した事で準レギュラーに。
更に山田にかわって監督就任した落合博満にも、その守備力は認められ、2002年〜2006年にかけ、5年連続で100試合以上に出場。 特にキャッチング術に優れており、2004年、セ・リーグ一塁手部門・ゴールデングラブ賞を受賞しています。
一塁手には一発強打の外人選手のポジションとも言われる中、守備固め要員として重宝されますが、レギュラーには一歩届かず、2007年は出場機会が激減。 オフに戦力外通告を受け引退。
学生時代は勉学にも熱心だったという性格もあり、日大系の高校から日本大学に進学していますが、一般入試を受けての進学だったとか。 (ただ・・ 某選手の証言では、後輩の北川博敏を使いッ走りにしていたとも・・)
ちなみに、歴史ある中日球団。 これまで幾多もの名選手を輩出してきましたが、入団から引退まで12年間、背番号「5」を一番長く背負ったのは渡邉博幸らしいです。
2008年以降は球団職員として・・・。 その他、育成コーチ、二軍内野守備走塁コーチ、二軍監督代行、三塁コーチャー等々、中日一筋で活躍中。
=通算成績=
313安打 11本塁打 123打点 5盗塁 打率269
ゴールデングラブ賞1回
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甲子園優勝投手がプロで活躍する事は稀。
近年は田中(ヤンキース)のような別格投手も現れましたが、それまでは桑田(巨人)、その一昔前は平松(大洋)くらいのもの。
ところが、高校時代は無名ながら、大学で頭角を現す投手は多く、その後、プロに進む者、社会人チームに入団する者・・・。 ところが安藤の場合は、高校時代は無名。 大学(法政大学)時代も無名。 一度は硬式野球をやめ、出身地の大分銀行に就職まで決まっていながら、硬式野球への未練を断ち切れず、社会人・トヨタチームに入団した事で才能が開花。 以後長きに渡り、人気球団・阪神のリリーフをつとめたという遅咲きの投手。
大分県出身。 大分県立・大分雄城台高校出身。 甲子園とは無縁で最高成績は、大分県予選ベスト8。
法政大学に進学。 身長184cmの長身から、150km近い速球を投げる本格派として期待されますが、右肩故障もあり特に目立った活躍はなく、通算成績は7勝4敗。
2年時に対戦した高橋由伸(慶應)に、六大学リーグ通算最多本塁打(23本目。それまでは田淵の22本が最多)を打たれた事を悔やみ続けた事が、地元銀行就職を蹴って、トヨタ入りした理由と言いますから、気の強さは人一倍だったと思われます。
第71回、第72回 と都市対抗野球大会に連続出場。 2001年 IBAFワールドカップ日本代表となる活躍が評価され、2001年 自由獲得枠にて阪神に入団します。
入団当初は右本格派の即戦力・先発投手として期待され、デビューもルーキーイヤーの2002年4月7日(神宮)ヤクルト戦。 初奪三振は2回裏・岩村から。6回を投げ1失点の好投を見せます。
初勝利は4月14日(甲子園) 横浜戦。 8回を無失点。 上々の滑り出しでしたが・・ そこはプロの世界。
5月に入ると打ち込まれ、終わってみれば17試合 8先発 59.2イニング 3勝 5敗 防御率3.77 と散々。
2003年、150kmの速球を活かすには、球慣れされる先発よりも、1イニング限定の中継ぎ(又は抑え)向きとの判断から中継ぎ投手に転向。
51試合 61イニング を投げ、5勝 2敗 5セーブ 防御率1.62 と安定し、阪神のセ・リーグ優勝に貢献。
クローザーのジェフ・ウィリアムスにつなぐリレーは、「勝利の方程式」 と呼ばれ、流行語となった程。
2005年、先発不足に悩む岡田監督の意向(本人も先発希望)もあり、ローテ入り。 23先発 146イニング を投げ、11勝 5敗 防御率3.39 勝率688 と好投。 最高勝率のタイトルを獲得。
2006年=10勝 3敗、2008年=13勝 9敗 と活躍し、先発でも通用する事を証明します。
しかし・・ 2011年頃から右肩痛が再発。負担軽減の為、2013年より、再び中継ぎ投手に転向。
2013年=58試合 2014年=53試合 2015年=50試合 2016年=50試合 と、4年連続で50試合以上に登板。 防御率も2点台後半〜3点台前半と安定しており、阪神中継ぎを支えました。
2017年、若手の台頭もあり、調子は悪くないもののウエスタン(二軍)行き。
7月時点で23試合 22イニング 防御率0.41という好成績を残しますが、ここ頃から気力の限界を感じたそうで引退を決意。
9月15日の引退会見では、「子供の頃から憧れていた甲子園で一軍初勝利を挙げれたばかりか、仕事場になったのは夢のようで、ファンの声援が力になりました」 とコメント。
=通算成績=
77勝 66敗 76ホールド 11セーブ 822奪三振 防御率3.56
最高勝率1回 月間MVP1回 JA全農GoGo賞1回(救援)
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1969年(昭和44年)のロッテ VS 南海戦。
ある俊足選手の登場で、閑古鳥が当たり前の東京スタジアムに、2万人もの観衆が集った事があります。
メキシコ・オリンピック日本代表で、100m10秒1という日本記録(当時)をもつ短距離ランナー ” 飯島秀雄 ” は、代走専門のプロ野球選手としてロッテに入団。 噂の選手を見ようとファン(殆どが野次馬)が殺到。
9回裏 無死1塁の場面で登場すると、初球から単独スチールをかけ、見事に盗塁を決めた他、南海・野村克也の二塁送球が乱れたのを幸いに、3塁にまで到達。 それもヘッドスライディングをした為、球場からは拍手喝さいの嵐。 盗塁見たさに客が訪れたのは、この時が初めてだったのではないでしょうか。
飯島は中学時代、野球部だったことから、まったくの素人ではなかったようです。 野球経験は浅くても、適材適所のポジションを与えると、プロでも通用した事を実際に示したエピソード?でもあります。
巨人での現役時代、代走屋として重宝された鈴木尚広も、ある意味似たり寄ったりの経歴での入団。
野球は5歳の時に始め、中学 → 高校(福島県・相馬高校)と野球部に所属しますが、打者としては並み程度。
目立った球歴もなければ甲子園とも無縁。 中央どころか福島県内でも無名に近い存在だったとか。
野球部では内野と投手(控え)兼任。 ただ中学時代、陸上部をかけもちする程の俊足だった事が巨人スカウトの目をひき、代走屋として期待され、1996年のドラフト会議において、巨人から4位指名を受け入団となります。
入団当初は右打ち。 入団後は走力を活かす為、左打ちの猛特訓を受けますが、慣れない練習のツケは大きく故障を連発。 ついには専門のトレーナーをつけ、日常生活(食事等)まで見直しをした程。
その努力によりベースランニングは13・1秒にまで上達。 更に俊足を活かす為、外野手に転向。 2001年、イースタン・リーグ(二軍)で27盗塁(二位)+ランニング・ホームランを決めた事が評価され、2002年、念願の一軍入りとなります。
2003年は104試合に出場。 200打数 45安打 3本塁打 打率240 の成績ながら、盗塁は18個をマーク。(盗塁死は1回のみ) 2005年には27試合ながら99打数 30安打 打率303 と打力もアップ。
以後、2016年に至るまで、毎シーズン二桁盗塁を記録。
代走での盗塁が多いにもかかわらず、2008年にはシーズン30盗塁に達し、盗塁のスペシャリストであった阪神・赤星にして、「(鈴木が)レギュラーだったら、盗塁タイトルを獲得するかもしれない」と言わしめた程。
この年、105試合に出場し、247打数 75安打 打率304と打撃も好調。 守備率の高さもあり、ゴールデングラブ賞を受賞。
2016年、原監督から高橋監督にかわると、機動力野球は下火となり、出場機会が激減。
わずか10打数 3安打 と打席に立つ機会を失くし、10盗塁をマークするもオフに引退。
巨人一筋。 巨人軍では柴田勲の通算579盗塁、松本匡史の通算342 につぐ、通算228盗塁を記録。
現役時代の盗塁成功率0.829は、200盗塁以上の場合、広瀬淑功の0.8289を抜いて、日本プロ野球記録。 また規定打席に一度も達せず200盗塁以上をマークは、日本プロ野球初の快挙。
通算盗塁228のうち、132盗塁は代走によるもの。 代走での盗塁数も日本プロ野球記録。
鈴木による盗塁の極意は・・ 「失敗する事は考えない」「滑るのではなく、至近距離から跳ぶこと」 なのだとか。
長打力こそありませんでしたが、アベレージ・ヒッターとしてのセンスは十分あり、巨人以外のチームに所属し、出場機会に恵まれていたら、かなりの成績を残したのでは? と思います。
=通算成績=
355安打 10本塁打 75打点 228盗塁 73四球 打率265
ゴールデングラブ賞1回 日本シリーズ優秀選手賞1回 オールスター出場1回
JA全農GoGo賞1回(好走塁) 代走盗塁日本プロ野球保持者(132盗塁)
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