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大分県立・津久見高校と言えば、1967年(昭和42年)選抜甲子園大会に優勝。 更に1972年(昭和47年)夏の甲子園大会に優勝した球史をもつ、全国屈指の野球名門校。
(この名門校も時代の波には勝てず、2014年をもって閉校。 現在は、新・大分県立・津久見高校として生まれ変わりました。)
優勝後、低迷していた名門校が、久々に甲子園旋風を巻き起こしたのが1988年(昭和63年)春・夏の甲子園大会。 エース川崎憲次郎の活躍で共にベスト8に進出。 身長180cmからスリークウォーター気味に投げおろす本格派。 140km後半の速球を軸に多彩な変化球を交え、高校生ながら完成されていると評判に・・・。
結果、1988年秋のドラフト会議において、巨人とヤクルトが1位指名。 ヤクルトが交渉権を引き当て入団。 契約金6000万円 年俸480万円 背番号は17番。
即戦力として扱われ、デビューは入団初年度となる1989年(平成元年)5月9日 阪神3回戦 において、5回1死の場面に3番手として登板。 2回2/3を無失点に抑える好投を見せ、この年、4勝(4敗)をあげます。
1990年は12勝(13敗)、1991年は14勝(9敗)と2年連続二桁勝利。
1992年、故障の為、戦線離脱でシーズンを棒に振るも、1993年には10勝(9敗)と二桁勝利を挙げ、カムバック賞を受賞。 チームも2年連続でリーグ優勝。 その勢いのまま日本シリーズにも2試合登板し、2勝をマーク。 見事、日本シリーズMVPを獲得しました。
当時、川崎は20代中頃の年齢。 そうなると異性に対する想いも高まり、以前からファンという女優・可愛かずみと恋愛宣言。(川崎は可愛の熱烈なファンだった)
しかし・・ 1995年、「怪我治療に専念したい」 という川崎の希望から破局。 1997年、シュートを習得した事で7勝(5敗)と復活した川崎は、11月に女優・堀恵子と結婚。 公私ともに順風満帆かに思えます。
ところが・・ 川崎との失恋後、可愛の精神状態はおかしくなっており、自殺未遂の繰り返し。 1997年5月9日、川崎のマンションから飛び降り自殺した事で大騒ぎに。 そんな中での結婚だった為、川崎に対する世間の眼は厳しく、「可愛を殺した男」「女たらし」「無責任」 といった中傷も多々。
(可愛は、青年実業家と亡くなった翌日に挙式であったそうで、川崎に対する未練が起こした自殺だとの噂が飛び交い、川崎も困惑・・ 更に自殺後、友人のアイドルや俳優が、” 可愛は優しくて真面目で明るい子” と美談をTVや雑誌で語る為、どことなく川崎が悪者に・・・)
そんな大騒動の翌年にあたる1998年、うっぷんを晴らすかの如くの大活躍。
29試合 28先発 204.1イニングを投げ、17勝 10敗 防御率3.04 の成績をあげ、最多勝を獲得。
更に9完投 3完封はシーズン1位でもあり、沢村賞にも選ばれました。
ただ・・・ 故障が多く、安定して成績を残せないのも川崎の特徴。
1999年、166.0イニングを投げながら7勝11敗。 2000年、137イニングで8勝10敗。
それでもオフにFA宣言をすると、レッド・ソックスまでが獲得に動くという好評価。 結局、中日・星野監督の呼びかけに応じ中日に移籍。 4年契約(3年は年俸3億円。以後は出来高払い)で、背番号は中日のエース番号である「20」が用意されるという好待遇。
当然、中日球団のみならず、中日ファンの期待は高まりますが、移籍早々に右肩痛等の故障を起こしリタイヤ。
以後、いつまでたっても復帰の目途は立たず、2003年、ファンが大爆発。 オールスター投票において、一軍登板のない川崎を大量投票するという、ネットで嫌がらせ大騒動(川崎祭)を起し、社会問題となります。
この騒動に対し川崎は、「多少の怪我をおしてプレーされている選手に申し訳ない気持ちでいっぱい。 今の状況では出場(オールスター)はできません。 一票、一票を自分への叱咤激励だと思い、早く一軍で投げられるよう努力致します」 とコメント。
2004年から中日の監督に就任した落合博満は、なんと川崎を開幕投手に大抜擢。
しかし結果は、2回にはつかまり降板。 4月30日、二度目の先発も、一死もとれず5失点で降板。
三度目の先発は引退試合。 古巣・ヤクルト相手に、宮本、古田、岩村から、お情けの三連続奪三振で終了。
結局中日は、4年間で上記3登板 2.1イニング 0勝1敗 防御率34.71 の投手に3億円を失った事になりました。
=通算成績=
88勝 81敗 0ホールド 2セーブ 874奪三振 防御率3.69
沢村賞1回 最多勝1回 日本シリーズMVP1回 カムバック賞 オールスター出場4回
シーズン最多完投1回 シーズン最多完封1回 シーズン最多無四球1回 優秀JCB・MEP賞1回
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伝説のプロ野球選手サイン集
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父は日本プロ野球史に名を残す名選手であり名監督の野村克也。
1970年(昭和45年)8月、野村克也兼任監督は、東映との三連戦の為に上京。 行きつけの高級中華店で食事をとった際、相席となり意気投合したのが伊藤芳枝(後に沙知代に改名)でした。 当時、野村克也は別居状態。 伊藤芳枝も正式に離婚が確定しておらず、いわばお互い不倫状態。
1972年には愛人関係となっており、1973年(昭和48年)7月23日に生まれたのが克則。 その為、非嫡出子である克則は、芳枝の実父・伊藤巳之吉との養子縁組が画策されたとか。
(結局、野村克也が正式に離婚となった昭和53年までは、世間上、実子とできず、離婚後となり、克也が実子と認めた・・・。芳枝とユダヤ系アメリカ人の前夫には、団野村、ケニー野村の男子がいたが、克也との再婚により克則とは異父兄弟となります。)
決して恵まれた環境で過ごしたとは言えない少年期でしたが、こと野球に関しては克也の遺伝子を受け継ぎ優秀。堀越学園では一塁手・主将として活躍。 明治大学進学後、更に打力に磨きがかかり、1993年秋季リーグ戦では首位打者&打点王の二冠王に輝き、ベストナインに選出される活躍。
リーグ通算76試合に出場。 256打数 72安打、打率281、33打点、3本塁打 と結果を残し、1995年のドラフト会議において、父・克也が監督のヤクルト・スワローズから3位指名を受け入団。
(但し、克也はプロ入りには反対で、” お前ではプロは無理 ” と説得したとの事。 しかし克則は ” 親父だって練習生からスタートした。 俺はプロになる為に、これまで努力してきたんだ。 例えプロで失敗しても悔いはない ”と返答。 ヤクルトが3位指名したのは、克也の強いプッシュがあったとの事)
父・克也との公私混同を避ける為、登録名は 「 カツノリ 」 に変更。 背番号は長嶋茂雄にあやかり33。
初年度となる1996年、フレッシュ・オールスターに出場する等、それ相応に期待されますが、当時のヤクルトには正捕手=古田敦也、控え捕手=野口寿浩がおり、とても出番が回るはずなし・・・。
1997年4月16日、横浜ベイスターズ二回戦における7回裏に、投手の代打で初出場。 同年8月2日、中日戦で山田喜久夫から初本塁打。 更に同年8月17日、中日戦で初先発。 この年は途中出場中心に26試合に出場。 入団3年目の1998年は、25試合に出場しますが、出場する時は、大勝か大敗という、古田敦也を休める時に、話題を売るために出場するという客寄せパンダ扱い。 結果、1999年に、若松勉が監督就任するや出場機会がなくなり、2000年、今度は父・克也が監督となった阪神に金銭トレードで移籍。
阪神には古田敦也のような絶対捕手がいなかった事もあり、途中出場での起用は続くも、初年度から43試合に出場。 移籍二年目の2001年には52試合に出場。 サヨナラ適時打を2回もマークする活躍を見せます。
しかし・・ 2002年に星野仙一が阪神監督になると出場機会が激減。 2003年は二軍で打率321の好成績(規定打席外)を残しますが一軍からのお呼びはなし。 2004年の開幕前、巨人の新監督となった堀内恒夫からの希望もあり、巨人へ移籍となります。 (当初、背番号は松井秀喜がメジャーに行って欠番だった ” 55 ” を予定されたが、本人から断り、” 63 ” に・・・)
しかし・・層の厚い巨人では活躍の場がないままシーズンを終え、そのまま戦力外通告を・・。
巨人からは2軍コーチの要請があったようですが現役にこだわりトライアウトに参加。 2打席連続本塁打とアピールに成功。 新球団として戦力補給が急務の楽天・田尾監督に拾われ入団。
楽天では田尾監督がわずか1年で退任となり、またも父親である野村克也が監督に就任となりますが、流石にここでは子かばいとはいかず、2006年オフに二度目となる戦力外通告を受け引退。
=通算成績=
66安打 4本塁打 17打点 1盗塁 打率185
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昭和64年が始まったばかりの1989年1月7日、昭和天皇が崩御。
1月8日、小渕恵三氏の 「新しい年号は ” 平成 ” であります」 から始まった平成元年。
その平成も天皇の高齢化によって幕が閉じようとしています。 早いもので30年の月日が経過しました。
(H30年2月2日時点)
平成初の甲子園大会となった 「第61回 センバツ甲子園大会」 の決勝は、3度の選抜優勝(当時)を誇る、愛知県の名門・東邦と、元木大介を擁する大阪・上宮の対決。 東邦の好投手・山田 VS 上宮打線 が注目される中、試合は1 VS 1 のまま延長戦に突入。 先行の上宮が1点勝ち越し、追い詰められた東邦が望みをかけて臨んだ10回裏2死 ランナー無し。 上宮初優勝と誰もが思った瞬間から流れが東邦に傾き、奇跡の同点後、サヨナラ走者をニ・三塁間に挟んだ三塁手・種田の二塁送球がそれ、更にイレギュラーバウンドまで重なり、ボールは外野に転がる不運。 実況アナウンサーが絶叫した 「ボールが遠い・・ ボールが逃げて行く・・ サヨナラ〜」 の場面は、今でも高校野球史でも類を見ない劇的シーンとして、球史に語り継がれています。
スターであった元木大介やエース・宮田の陰に隠れた存在であった種田仁ですが、その野球センスはピカイチ。
1989年のドラフト会議では中日より6位指名ながら、契約金は上位指名者と同等扱いの待遇を受け、背番号は一桁の ”0” 、1992年には球団の顔ともいえる ”1” をいただくという期待ぶり。
1990年8月20日、高卒ルーキーにもかかわらずスタメン・2番起用。
1991年には遊撃手レギュラーとなり打率272の成績を残した他、1993年には132試合に出場し、10本塁打を放つ等、小柄ながらパンチ力もある内野手として活躍しました。
しかし・・ 1994年以降は、怪我やポジションを巡るライバル激化の影響で出番が激減。
1997年、プロ野球脱税事件に関わったとして起訴猶予処分を受け、1998年は開幕・出場三週間停止処分。
プロ野球及び中日のイメージダウンにつながったとファンからのバッシングと、PLから大物・福留孝介が入団するにあたり、背番号も1→49に変更。 解雇も時間の問題・・ といった状況に追い込まれます。
そんな窮地を救ったのが、2000年から始めた 「ガニマタ打法」 ・・。
バッターボックス内で両足を大きく開いて腰を落とし、左足の踵をあげるフォームは、「打席に入ると左肩が内側に入りすぎる悪癖を修正するのに適していた」 との事。
この新打法開眼により復活した種田は、際どいコースも見極める事ができるようになり、代打で11打席連続出塁という日本新記録を樹立。 規定打席には届かなかったものの、102試合に出場。 打率314 7本塁打をマークし、カムバック賞を受賞しました。
2001年、開幕スタート後の4月、横浜で監督をしていた森昌彦氏の希望で、波留とのトレードが実施され、横浜ベイスターズに移籍。
2002年には100安打を放つ活躍で存在感をアピール。
2004年は120試合に出場し、123安打 8本塁打 打率300。
2005年は140試合に出場し、164安打 9本塁打 打率310。
レギュラーとして臨んだ2006年・・・ 肘の故障から離脱。 若手の成長もあり2007年は控えにまわるようになり、オフには戦力外通告を受け西武ライオンズに移籍。
2008年、復活を目指しますが、西武も若手が育っており、1軍の機会がないまま二度目の戦力外通告。
トライアウトに参加しましたが獲得球団はなく引退。
個性的な顔立ちと、変則で滑稽な打撃フォーム。 隠れ人気者として2009年、芸能事務所ホリポロ所属となりますが、野球への未練は断てず、2010年以降は、韓国プロ野球や楽天にて守備コーチを務めました。
2015年、自己破産していた事が報道され、別の意味での時の人に。 更に2016年には岩手県一関市で無免許運転+スピード違反で逮捕され、またまた別の意味での時の人に。
2005年のシーズン中、アウト判定に激怒して審判に暴力(体あたり+突き飛ばし)退場の経緯もあるように、性格的に問題があった・・・ っという事でしょうか??
=通算成績=
1102安打 71本塁打 401打点 76盗塁 打率264
カムバック賞1回 セ・リーグ会長特別表彰(2000年・代打11連続出塁・日本記録)
オールスター出場3回
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1980年代の中日を代表する投手と言えば都裕次郎。
1982年(昭和57年)のペナントレース。 中日は64勝 47敗 19引き分け 勝率577 の成績をあげ、2位・巨人にわずか0・5ゲーム差で競り勝ちリーグ優勝。
日本シリーズでは、選手層の厚い西武ライオンズが圧勝するも、この年以降、ヤング中日は、常に優勝が狙えるチームとして人気球団に成長。
腰痛があり、それまで中堅投手であった都裕次郎ですが、1982年は好調で、43試合 29先発 221・1イニング を投げ、16勝 5敗 防御率3.13の好投。 勝率762で最高勝率のタイトルを獲得。
この頃の中日主力は、投手では小松、牛島。 打者では大島、谷沢、ケン・モッカ、田尾。 更には平野、上川、中尾といった若手も成長。
滋賀県立 堅田高校出身。 堅田高校は1985年(昭和60年)センバツ甲子園大会に初出場を果たしますが、当時は全国的に無名校。 身長180cmの長身から、快速球を軸に、大小のカーブ、スライダーを武器に地方で活躍する都裕次郎の知名度は低く、1976年(昭和51年)のドラフト会議において、中日が1位指名した事で話題となりました。(この1位指名は、滋賀県初の快挙であった事から大ニュース扱いに・・・)
入団当時は、投球フォームに難があり、滅多に他者のフォームに口を出さない権藤博が修正に乗り出す有様でしたが、努力の甲斐あって投球が安定すると速球の威力が増し、内角低めをえぐるように突く速球を決め球に頭角を出し、入団3年目にして1軍デビュー。 しかし、以後3年間は2勝 3勝 6勝 と結果を残せず。
ブレークしたのは1982年で16勝 5敗 の成績をおさめ最高勝率のタイトルを獲得。
この頃から腰痛で悩まされますが、1984年は開幕から7連勝を飾り、13勝をマーク。 中日のリーグ2位となる原動力として活躍。
1985年以降は腰痛、肩痛が悪化。 満足に投げる事ができない状態が続くようになり、1989年(平成元年)をもって引退。 活躍期間が短く、ブレークしたのは1982年と1984年の2年間のみですが、印象の残る名投手でした。
= 通算成績 =
48勝 36敗 0ホールド 10セーブ 507奪三振 防御率3.73
最高勝率1回 オールスター出場1回
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「当たり前の事が、全て当たり前にできる捕手」 ・・・ 三浦 大輔
「配球やバッターに対する洞察力が凄い」 ・・・ 館山 昌平
2007年のシーズン、捕手ながら391打数118安打で打率302をマーク。
横浜時代=打率259 ヤクルト時代=打率261 巨人時代=打率260 という安定した打力。
2009年のシーズン、122試合に出場し、盗塁阻止率4割という守備力。
2004年、アテネ・オリンピックでは銅メダルに貢献。 2006年の第1回WBCメンバーとして世界一に貢献。
2013年、第3回WBCにも代表メンバー入りする等、長く捕手として日本野球界をリードしてきた相川亮二ですが、2017年(平成29年)をもって引退。
大洋・屋鋪要、ヤクルト・池山隆寛に憧れ、中学時代は投手。
東京学館高校では外野手でしたが、2年生の時、強肩を活かすため捕手に転向。
俊足巧打者でありながら長打力に乏しく、甲子園大会出場経験が無いため中央では無名。 更に捕手転向わずかという急造捕手。 普通だったら大学や社会人野球に場を移し成長を待つべきところながら、1994年のドラフト会議において、横浜ベイスターズから5位指名を受け入団となるのですから、非凡な才能を見せていたのかもしれません。
入団から4年間はファーム暮らし。 初出場は5年目の1999年8月21日 ヤクルト19回戦 7回表に捕手として。 打撃面の評価は入団早々からありましたが、初本塁打は2001年5月3日 ヤクルト戦において、高校後輩にあたる石井弘寿から。(代打)
身長183cm 体重85kg の恵まれた体格。 しかしシーズンで二桁本塁打をマークしたのは2010年の11本のみ。 にもかかわらず2013年6月5日、楽天戦において青山より本塁打を放ち、史上27人目となる全球団から本塁打を達成。
打力、守備力、走力の三拍子そろった大型捕手。
十分、球史に名を残す素質がありながら、とにかく怪我が多く、戦線離脱するシーズン多々。
ただでさえ過酷な捕手というポジションだけに、「無事これ名馬」 こそが名捕手の条件。
そのあたり・・・ ちょっと残念な名捕手でした。
= 通算成績 =
1150安打 69本塁打 475打点 12盗塁 打率260
オールスター出場5回 アテネ五輪日本代表(2004年・銅メダル) WBC日本代表(2006年、2013年)
セ・リーグ最高盗塁阻止率2回 セ・リーグ捕手シーズン最多刺殺数1回
セ・リーグ捕手シーズン出場数1位2回 ジョージア魂賞1回 その他
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