もぐら

昭和レトロに思いをよせ・・ 古き良き時代を振り返り・・

伝説のプロ野球選手サイン集

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1956年(昭和31年)5月20日、当時広島カープの本拠地であった広島県総合グランド野球場では、巨人VS広島のダブルヘッダーが開催され、熱狂的なカープファンが押し寄せます。
第一試合、広島は ”小さな巨人” ことエース・長谷川良平を先発に起用しますが敗戦。 第二試合は準エースであった大田垣喜夫で勝負にでますが敗戦。 これにより前日、山口県で行われた巨人戦も含め、カープは三連敗。
5月の通算成績は4勝10敗という結果に怒り狂った一部のファンが、試合終了後にグラウンドにビール瓶やゴミを投げ捨てる暴動を起こし、ビール瓶が引上げ中だった木戸美摸の右膝を直撃。 当時18歳だった木戸は膝下2針を縫う負傷。
更におさまりきらぬファンは暴徒化し、バスに乗り込もうとした水原茂監督を襲い暴行。 これによって怒った巨人軍首脳は、「犯人を割り出し出頭させない限り、今後二度と広島では試合を開催しない」 と発表。
広島球団は、本拠地広島での開催権返上+ペナントレースからの排除(公式戦開催中止)にも発展しかねない窮地に追い込まれる事に・・・。

解決の為、広島球団社長が上京し陳謝した他、後に総理大臣にもなった地元代議士の池田勇人も仲裁に入るも問題はこじれる一方。 その理由は、前年にもカープファンが同様の事件を起こしており、球団社長や代議士が陳謝したからといって、今後、事件が発生しないとは言い切れないという巨人の言い分があった為。
当時の野球は「強い(盟主)巨人に地方の球団が挑戦する」といった裏仕組みが濃く、巨人が開催を拒否するという事は興行が行えないという事を意味します。 その為、広島球団は、一時的にリーグ離脱を検討する事態に。

そんな球団存続危機の中、6月13日、二人の男が出頭。 「投げたビール瓶が当たったかどうかはわからないが、とにかくビール瓶を投げた」 と言う主張に対し、事情聴取した広島西警察署は、「二人が投げたビール瓶が、今回、木戸投手に当たった瓶なのかは不明」として、注意しただけで刑事事件とはならず。 事件を終わらせたい広島球団絡みの ” 替え玉説 ” もあり、事件解決には至らぬとも言われる中、巨人側は、一定の示しがついたと評価。 広島球団のプロ球団存続となりました。 (事実、のちに替え玉だった事が判明。 当初は兄弟で出頭させる予定だったが、それではあまりにも見え見えだという事になり、替え玉が替え玉を用意するという有様。 これらの事もあって、以後野球関係者からは、” 広島ファンは何をしでかすかわからない。 地元でカープの悪口を言ってはいけない。 ” との声が広まります。 また事件再発を抑える為、広島球団・広島球団後援会・警察による話し合いが行われ、以後、広島主催試合では瓶販売禁止とし、紙コップ使用となります。)

木戸は兵庫県立農業高等学校から1955年(昭和30年)巨人入り。 身長171cmと小柄ながら、負傷事件すぐの同年5月26日、静岡での中継ぎ好投が評価され、3日後に大洋戦で先発すると、大洋のエース・秋山登と投げ合って2−0で勝利。(3安打完封) しかも2点のうち1点は自らのタイムリー。もう1点は、現役時代唯一のホームランという活躍ぶり。 1957年(昭和32年)、新人王となった藤田元司と並ぶ17勝(7敗)を挙げ、最高勝率のタイトルを獲得。
しかし、1958年以降は腰痛により活躍の機会を失い、1961年に引退。

= 通算成績 =
26勝  15敗  0ホールド  0セーブ  246奪三振  防御率3.28
最高勝率1回
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高知商業時代、1954年(昭和29年)春・夏の甲子園大会に遊撃手として出場。
春は準々決勝に進出するも、優勝した飯田長姫高の小さな大投手、光沢毅の前に敗退。
夏は準々決勝で、榎本喜八率いる早稲田実業を接戦の上撃破するも、準決勝で静岡商業に逆転負け。
しかし北海道国体では新宮高(和歌山)を下し優勝。 1955年は甲子園出場を逃しますが、その高い守備力を評価した毎日オリオンズより、有望選手として声がかかり1956年に入団します。

当時の監督は別当薫。 コーチに西本幸雄。 若手中心のチームを目指す方針もあり、初年度の1956年から二塁レギュラーに抜擢され、133試合 90安打 8盗塁 打率242 をマーク。
翌年は110試合 103安打 打率278 と打撃好調で、リーグ11位の打率を残します。

順風満帆のプロ野球人生かと思えた3年目(1958年)、チームは大映ユニオンズと合併。 チーム名は大毎オリオンズ(正式名称は毎日大映オリオンズ)に変更。 大映より最多安打王にもなった佐々木信也二塁手が加入した事で出場機会が激減。 それに伴い打撃不振となり、この年は103試合 253打数 48安打 打率190 と低迷。 以後、守備固め要員としての出場となっていきます。

1961年に就任した宇野光雄監督との確執もあり、1962年に巨人へトレード移籍。
守備固め要員ながら92試合に出場し、二塁準レギュラーを獲得。
1962年〜1966年までの5年間、毎年70試合以上に出場。 守備のスペシャリストとして活躍しました。
しかし・・ 1965年、土井正三が入団し、二塁手ポジションについた事でまたも出場機会が激減。
1967年には37試合、1968年はコーチ兼任となった事もあり、わずか1試合しか出場機会がなく、同年をもって引退。

引退後は巨人二軍守備コーチを4年間務めた後、川上巨人最終年である1974年より一軍守備コーチに昇進しますが、1975年(昭和50年)、川上監督の後を継いだ長嶋巨人は設立以来初となる最下位となり、コーチ陣は責任を取らされる形で入れ替え。 須藤も退団となり、以後4年間、民間企業でサラリーマン生活・・・。

1980年(昭和55年)、横浜大洋ホエールズの二軍監督として球界復帰。
1983年、巨人・藤田元司の要請を受け、1984年まで二軍守備・走塁コーチ。1985年より一軍守備コーチ。
1990年、横浜大洋ホエールズより監督打診を受け就任。 3年間の監督成績は、3位 5位 5位 ながら、大魔神こと佐々木主浩を抑えに抜擢する等、斬新なアイディアのもと手腕を発揮しました。

1993年、第二次・長嶋巨人よりコーチ打診を受け就任。(1995年まで)
1997年〜1999年は西武ヘッドコーチ。(1997年は審判に暴力行為を行い出場停止となった東尾にかわり、3試合ながら代行監督に就任)
2004年、堀内・巨人より声がかかりヘッドコーチとなるも、チームの低迷もあり同年退団。

= 通算成績 =
495安打  8本塁打  143打点  42盗塁  打率230
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1989年(平成元年) 夏の甲子園大会決勝は、帝京高校(東東京)VS仙台育英(宮城)という顔合わせ。
帝京は2回戦 米子東(鳥取)を完封、3回戦 桜ヶ丘(山口)に1失点、準々決勝 海星(三重)を完封、準決勝 秋田経法大付属(秋田)を完封 という圧倒的な強さ。 
決勝はエース吉岡、好投手・大越の投げ合いとなり0−0のまま延長に。 10回表、2点をとった帝京が逃げ切り、悲願の初優勝。
吉岡は5試合に登板し、41イニング 1失点 3完封。 大会26号となるホームランも放っており、秋のドラフト候補上位指名に急上昇。 ドラフトでは巨人より3位指名を受け入団。

投手として入団しますが、初年度の1990年、早々に右肩を壊して手術。 リハビリに2年を要した結果、高校通算51本塁打の打力を活かして打者に転向。 1994年には打力が開花し、2軍の2冠王(本塁打・打点)となり、1995年には一軍で30試合、1996年には29試合に出場。
内野レギュラーの一角を狙いますが、同じ三塁手に長嶋一茂がいたり、仁志のコンバートもあり出場機会に恵まれず・・。 1997年1月、巨人が近鉄・石井浩郎の獲得に動き、石毛博史と共に、トレードで近鉄に移籍となります。

移籍2年目の1998年は準レギュラーとして81試合に出場。 主に7番と下位を打つも13本塁打をマーク。
1999年以降はレギュラーとなり、2003年までの間、毎年100試合以上に出場し、100安打以上、二桁本塁打と打棒が爆発。 2001年〜2002年にかけ二年連続で26本塁打、2002年には140安打と、あと一歩でタイトルを獲得する程の成績を残します。

2003年は本塁打数こそ18本と減りましたが、130安打を放ち、自身初となる打率3割(300)をマーク。 5年連続で規定打席到達と活躍を見せますが、2004年、オープン戦でアキレス腱を断裂。 更にオフには近鉄球団の消滅と共に分配ドラフトで楽天入り。 (楽天の本拠地は仙台。 東北の悲願であった夏・甲子園優勝を阻止した吉岡の加入は話題となりますが、” 今度は仙台を優勝させたい ” と抱負を語っています。)

楽天・初年度の2005年はレギュラーとして116試合に出場。 3番打者として、109安打 10本塁打 打率282 の成績を残しますが、2006年以降はアキレス腱故障の影響もあり打撃不振。
2008年オフに戦力外通告を受け、トライアウトに挑むも獲得球団なく、2009年、日本人初となるメキシカン・リーグに参戦。 打率280 5本塁打 の成績を残し、オフに現役を引退。

身長189cmと大柄で、投打に有り余る才能を持ちながら、何故か不遇・不幸の多かった選手。
2003年は打率300 18本塁打 130安打 5年連続規定打席達成 と十分な成績を残しながら、近鉄球団の審査は厳しく、①試合欠場が多かった ②チャンスに弱かった ③打点が60台と期待に達しなかった との理由で減棒されています。 それでも巨人で飼い殺しにされるよりは、近鉄でレギュラーになれた方が幸せ?

 = 通算成績 =
 883安打  131本塁打  463打点  28盗塁  打率273
 オールスター出場1回  シーズン最多併殺打2回
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神奈川県の私立・武相高校出身。 (過去、甲子園に4度出場の古豪ながら、現在は低迷)
1974年(昭和49年)、甲子園予選準々決勝に進むが、原辰徳のいた東海大学相模高校に敗退。
身長177cmと当時としては大柄な体格。 走攻守の三拍子そろった逸材として注目されるも、スリムで長打力不足な面等もありプロ入りならず。 卒業後、キャタピラー三菱 → 三菱名古屋 に就職。
1978年(昭和53年)都市対抗野球大会での1回戦、史上初のサイクル安打を達成した事で、再度注目される存在となり、1979年(昭和54年)のドラフト会議において、阪神タイガースより3位指名を受け入団します。

即戦力ルーキーとして期待され、初年度の1980年から外野の準レギュラーとして一軍入り。(同年4月8日=中日戦にラインバックの代走として初出場) 主に守備固めの代役として65試合に出場し、85打数 22安打 打率259 の結果を残します。
2年目の1981年には同じく守備固め要員ながら100試合に出場。 その強肩と俊足を活かした広範囲の守備力は高く評価され、1982年にはセンターのレギュラーに定着。 1982年〜1983年と二年連続で、ダイヤモンドグラブ賞(現・ゴールデングラブ賞)を受賞します。 
(この間、盗塁も多く、82年=25盗塁 83年=26盗塁を達成。 1983年には31犠打を決め、リーグ最多犠打王のタイトルも獲得。) 
1985年、阪神はバース、掛布、岡田 を中心とした強力打線で日本一となりますが、地味ながら北村は21盗塁と優勝に貢献。 歴史的な優勝メンバーの一員として球史に名を残しました。

1988年(昭和63年)のシーズン途中に、西武・金森栄治とトレードが行われ、西武ライオンズに移籍。
西武でも強肩・俊足を活かした守備固め要員として1988年=40試合(阪神では29試合)、1989年=77試合に出場しますが、欠点でもある打力不足もあって1990年のシーズン直後に中日・鈴木康友とのトレードが行われ中日ドラゴンズに移籍。 中日でも守備固め要員として活躍しますが、1992年、一軍3試合に出場したのみでシーズンを終え引退。

強肩・俊足での活躍としては・・・
①1982年5月の巨人戦において、9回表・2死・2塁 走者は盗塁王・松本匡史。 この場面で河埜和正がライト前にヒットを放つも、ライトについていた北村の好返球でホームアウト。
②1985年10月のヤクルト戦において、小川淳司の左中間ラッキーゾーンへのホームラン性当たりに追いつき、ジャンピング・キャッチする。
③1987年6月16日の中日戦において、鈴木孝政がセンター前にヒットを放つも、一塁で刺しセンターゴロを達成。 (左打者の俊足者で一塁到達が約4秒。 投手の鈴木だけに全力疾走しなかったとしても、センター前に転がった打球で一塁刺殺は離れ業)
その他、多数。

= 通算成績 =
505安打  41本塁打  158打点  114盗塁  打率246
ダイヤモンドグラブ賞2回  シーズン最多犠打1回
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平成29年6月6日・・・ 「巨人11連敗。このままいけば1975年(昭和50年)の第一次・長嶋政権以来の最下位の可能性あり」 というニュースが報道されました。
そうなると黙っておけないのが巨人大物OBたち。 早速、廣岡達郎が、「高橋由監督はコーチ経験もなく監督になった為、選手の使い方がわかっていない。 またコーチ陣もサポートできる者がいない。 フロントも近年、金にものを言わせては大型トレードばかりした為、選手の育成ができる体制でなくなった・・・」 と猛批判。 しかし・・・ チームの立て直しを図るには、こういった先輩監督やOBの助言は必要に思います。 
「昔だからできたんだ」 「今の時代にむかない」 と反論するのではなく、昔の成功例を参考にして、高橋監督独自のチーム編成を早急にすべきでしょう。

三原修はプロ野球選手 ”第1号” としても有名ですが、徴兵された事もあり、選手としての実績はなく、監督として実績を残した偉人。 戦後、巨人総監督となるも窓際族扱いに嫌気がさし辞任。 西鉄ライオンズの監督となると、ユニークな発想と選手育成・起用を行い、地方球団を強豪チームに育てました。

三原監督の起用・采配として有名なのが、「流線型打線」「超二流選手の起用」「運・ツキの見極め」・・・。
「流線形打線」とは、本来なら出塁もでき、バントや小技もできる選手が置かれる二番打者に対し、出塁+強打者を置く事で、より打線に厚みと流れを良くする方法。 西鉄の場合は、2番に豊田泰光という強打者を置き、3番・中西太、4番・大下弘 ・・とする事で打線が爆発。 あまりに強力な打線は 「後期・水爆打線(初代・水爆打線は昭和25年の松竹ロビンス)」と呼ばれました。 
「超二流選手の起用」は、1960年(昭和35年)、大洋ホエールズ監督時代に行い、見事日本一に。
1954年〜1959年にかけ大洋は6年連続最下位という弱小チーム。 西鉄で実績の高い三原がくることで期待されるも優勝の目途立たず・・・。 事実、1960年も開幕6連敗。 エースの秋山登は怪我で離脱という最悪のスタート。 そこで三原は目先をかえ、各選手の一芸飛びぬけたものを探しチーム編成。 けっして走攻守そろった一流選手たちではないが、足の速い者、肩の強い者、長打力に長ける者、短イニングに向く者・・ と各自の長所だけを活かせるポジションに、毎試合、流れに応じて起用。 結果、1点差ゲーム33勝17敗でセ・リーグ制覇。 日本シリーズではミサイル打線と呼ばれる強力打線にて圧倒的有利とされた大毎オリオンズ相手に、4試合中4試合1点差勝利をあげ、4連勝で日本一に。(この敗戦により大毎・西本幸雄監督は責任をとり辞任)
「運・ツキの見極め」も三原が大切にした采配要素。調子の良い選手なら、有名・無名、過去の実績を問わず起用続けた他、たとえボテボテの当たりでも度々ヒットにしてしまうラッキーボーイも起用。野球ならではの運を存分に活かしたユニークな采配が意外にもここぞという場面で大当たり。 
こういった采配は、「三原マジック」 と呼ばれ、三原が監督を行った球団は、必ず勝率が高まっています。

香川県の大地主の末っ子として育ったボンボンらしく、苦労よりは自由に人生を歩んだ人。
早稲田大学時代、慶應大学の水原茂(後・巨人監督)とはライバル同士で、お互い香川県出身。
昭和24年、巨人監督時代、日本シリーズで南海・別所毅彦の前に惨敗したあと、別所引き抜きを決行。 この時、「これで別所の白星が南海から消えた」 と発言した事から大騒動となり、シベリア抑留から帰国した水原茂との関係悪化もあって、何の権限ももたない巨人総監督に。 また大洋監督としてセ・リーグの優勝争いをしていた際、国鉄相手に負けた悔しさから、「死に馬に蹴られた」 と発言し、金田正一が大激怒。以後、大洋戦になると金田が登板するようになり、2度目の優勝を逃した事も・・。 まさに口は災いのもと・・・。

有名な言葉に、「野球は筋書きのないドラマである」「まだ首の皮一枚でつながっている」があります。
その他、自らの野球指導方針を、「求心力野球・遠心力野球」 と表現。 これは、各選手の個性を自主性に任せて引き出す(求心力)+自身の放任主義的野球観(遠心力)の意味。

明治44年11月21日生まれ。 1984年2月6日、糖尿病による心不全で永眠(満72歳)
巨人(3年) 西鉄(9年) 大洋(8年) 近鉄(3年) ヤクルト(3年) = 計27年の監督歴あり。
Aクラス15回 Bクラス12回 日本一4回   監督通算1687勝 1453敗 108引き分け 勝率537

 =通算成績= 
 92安打  0本塁打  40打点  27盗塁  打率226
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