BUT SERIOUSLY, FOLKS...京都の地の果てより

楽しみながら苦しみながら、学びながら馬鹿やりながら。

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 「今まで、自分は何でもできて、自分は世界を変えられると思ってたんでしょ」
 「人ひとりが1日生きるって、すごい大変なことだって、よくわかったでしょ」
 「ミャンマーの難民助けようと思う前に、自分のすぐそばの足元みたいとねえ」
 ………………ぐさっ。とどめが刺さった。
 (174ページより)

 
 
 誰にでも「自尊心」はある。この「自尊心」の部分を「プライド」とか「誇り」とか「意地」とか適当な言葉に変えてもらってもいいのだけど、要は誰もが自分のことを多少なりとも誇らしく思っているわけで、日常生活のなかで、知らず知らずのうちに。
 だから逆に、他人の何気ない一言に傷付いて凹んでしまうこともあるわけで。そういう自分の「自尊心」なるものを逆撫でされるようなことになれば、それまでの人生で得てきた経験や自信みたいなものを否定された気分になる。元気があるうちは反発心も湧いて、所謂「逆境へのエネルギー」に昇華されて前向きに人生を歩もう!みたいな展開もあり得るのだけど、人間いつもそんなに健康的ではないわけで。
 冒頭の引用は、難病にかかった著者が担当医から言われた言葉の数々。
 ちなみに著者は、難病以前はビルマ難民を研究し、実際に現地に向かい援助等のフィールドワークに励んでいた大学院生女子。
 その言葉を受けた著者はこれまで歩んできた自分の人生の傲慢さに無理矢理向かい合わされ、反論できる気力すらなく落ち込んでいく。奇天烈な難病(どういう病気かは書かない。まあ、凄まじいというかわけがわからんというか……ぜひお読みになって下さい)にかかり、地獄に仏、オアシスだと思っていた病院の担当医からはこういう言葉を投げ付けられたら、どうしようもない。
 おまけに頼りにしていた友人をはじめとする人間関係もおかしくなってくるし。


 
 「何でもするよ」
 「何でも言って」
 それは、「その場」「その時」の、そのひとの本心だと思う。優しさだと思う。そんな言葉を言ってもらえること自体が、有り難いことだと思う。
 でも、ひとは、自分以外の誰かのために、ずっと何でもし続けることは、できない。
 わたしの存在が、わたしの周囲のひとたちにとって次第に重荷になってきていることを、心の底ではわかっていたけれど、見て見ぬふりをした。まるで、わたしのお見舞いが「義務」や「責任」のように、みんなの肩に重くのしかかっていた。
(中略)
 「救世主」は、どこにもいない。ひとを、誰かを救えるひとなど存在しないんだ。わたしを助けられるのは、わたししかいないのだと、友人をとことん疲弊させてから、大事なものを失ってから、やっと気がついた。
(235ページより)


 
 まさに絶望一直線的な闘病の記録になっている本だけど、著者自身も述べているように、これは「闘病記」ではないのだ。
 なぜなら、病気と闘っているわけではないから。
 闘っている相手は、医者であり、人間関係であり、医療サービスや自立支援と銘打った各種の制度、だから。
 それまでの「自尊心」とやらを脱ぎ捨て、徒手空拳に近いまま既存の使える制度を使い、他人には頼れないとわかったうえで、それでも信頼できる誰かを探し、自分の居場所を作っていく作業の積み重ねを改めてしなければならない、そんな厳しい現実に著者は気付いているのだろう。闘う相手は病気よりも手強いかもしれない、今目の前にある現実なのだ。
 だから、未だに病気も治癒せず、既存の社会制度に疑問を抱き、新しい人間関係を築きながら文筆活動を始めた状態である限り、この本は「闘病記」として完結した作品では有り得ないのだと思う。「生きていく」「生き延びる」ことに直面せざるを得なくなった人間の、あくまで覚悟の途上の記録なのだ。
 


 
 難民の友人たち、彼らはみんな、自らが置かれた境遇というものをよく理解していた。わたしになけなしの食材でごはんをこちそうしてくれることはあっても、わたしに何か過度に期待したり、求めたりすることは、一度もなかった。
(中略)
 ひとが、最終的に頼れるもの。それは「社会」の公的制度しかないんだ。わたしは、「社会」と向き合うしかない。わたし自身が、「社会」と格闘して生存していく術を切り開くしかない。難病女子はその事実にただ愕然とした。
(238ページより)


 
 著者の「社会」と格闘して生存していくための努力が始まる。
 様々な社会保障制度を受けるために資料を取り寄せ病室を書類の山に埋めたり、限られた病院からの外出時間のなかで役所はもちろん不動産屋なども回り、なんとか自分の居場所を探そうとする七転八倒の日々。当然車椅子姿であるから、なかにはバリアフリーとは言い難い場所もあったであろうことは容易に想像がつく。
 それでも困難を伴う行動に著者を向かわせるモチベーションとなったのは……え?!とビックリするような、優しくも甘いエピソードが絡んでいたりするから、やっぱり「生きていく」「生き延びる」ことは面白いなあと思ってしまう。
 ひとりの弱者としての人間が「社会」と格闘するということは、必ずそこには人間としての感情抜きではできないのであって、社会制度に怒ったり、人間関係から安らぎを得たり、何がしかの感情が芽生え、それらを積み重ねを大事にしないと「社会」では「生きていく」「生き延びる」ことはできないのだ。そういう当たり前のことに気付かされる場面もあって、軽妙な文章と共に読者はホッとさせられる。


 
 いつも先生たちは、「よくなってます」と繰り返し言う。一辺倒に言い続ける。これはお医者さんという生き物の癖なのかもしれない。
 わたしは正直、百万回以上の「よくなってます」に辟易していた。ステロイドや免疫抑制剤の副作用で次第に身体が喰われていくのに、いいときも悪いときもあるのに、ひたすら念仏のように「よくなってます」と唱え続けられるのはなんだか違和感がある。
(中略)
 わたしとしては、「よくやってます」と言われたほうが、ずーっと嬉しくて、ほめられているような気持ちがして、社会の中で生きる気力がわいてくるのだが。
(317ページより)


 
 冒頭に「自尊心」という言葉を使ったが、著者は作品中でこの手の言葉は一切使ってない。念のため。
 ただこの本は難病に襲われた人間が、一度は「自尊心」どころか生きる気力さえ失いかけた人間が、再度「よくやってます」と褒められ、社会から存在を認められるための「自尊心」回復の記録だと思う。
 だから、『困ってるひと』なのではないか。
 未だに病気は治らない。それでも「社会」のなかで「生きていく」「生き延びる」ことに一生懸命にならなきゃいけない。かつてミャンマーで見た難民と同じように困った状態が続いているから。
 それでも、苦しいながらも他人を思いやったり、他人から思われたりしながら「生きていく」「生き延びる」術を身に付けなければならないのは、誰でも同じことだと思う。
 この世の中に“困っていないひと”などいない。理由はどうであれ、生きている限り苦しんだり悩んだりすることだらけなはず。だからこそ皆『困ってるひと』であることを自覚すべきなのかもしれない。


 
 いま、この社会を、生きるって、たぶん、すごくしんどい。
(中略)
 病気にかかっているかどうかにかかわらず、年齢や、社会的ポジションにかかわらず、けっこうみんな、多かれ少なかれ苦しくって、「困ってる」と思うんだが、どうだろう。
 どうしてこんなに苦しいのか、みんな困らなくてはならないのか。エクストリーム「困ってるひと」としては、いろいろ思うところがあるのです。
(9ページより)



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PCなどに目が弱いので、ほとんど読みません。

私はすごく自尊心が強いようです。
この頃はへこまなくなり、傷つけた相手に言い返しております。

プライドが高い、というのとは違うな…。

変なとこにプライドを持ってる人がいると思う。

2013/5/21(火) 午前 1:32 [ 玉子 ]

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