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ゴールデンウィークが終わった。辛い連休だった。
別に特別に辛いことがあったというわけではない。ただ、どこに行っても、人、ひと、ヒトだらけなのが辛いのだ。
こういう状況というのは連休に限ったことではないのだけど、京都は観光都市ということもあって、祝日休日が続くほど人混みの量というのも増えて行く。地元民としては今さら有名な観光地に行くわけではないのだけど、例えば今回サッカー観戦に行くのに電車を乗り換えるために京阪電車の駅から阪急電車の駅まで歩くことになったのだけど、ちょうどここは有名な寺や神社こそないものの、鴨川を渡り木屋町と河原町を通り抜けて行くという繁華街のスポットで、歩行者が京都の狭い歩道に溢れ、距離にすれば300メートルくらいだと思うのだが、なかなか前に進むことができない。
これが結構なストレスになる。
これでもし、青空の下で爽やかな川からの風が吹く五月晴れでなかったら、灰色の空から中途半端な小雨が降り足下がぬかるむような天気だったりしたら、身体のどこかが痛くなって疲れてしまい大変な気分を味わっただろうなと、真面目に思ったりした。
心と体のバランスというのは不思議なもので、毎朝ウォーキングとジョギングで数キロメートルのエクササイズをやっても十分元気な人間が、眼と鼻の先の電車の駅の間の人混みを歩いていくことさえ難儀するというのは、やはりそのバランスがおかしくなっているのだろう。
まあ、その日はサッカー観戦は無事にできたことだし、人混みにはなるだけ近寄らないようにしようという今後の注意点が確認できたわけだから、これはこれで良しとする。
しかし、真の困難はゴールデンウィーク明けにやってきたのであった。
まさか、こんなところで人混みに巻き込まれ苦しむとは思いもしなかった。
ゴールデンウィーク明けは、皆がいっせいに動き始める。会社も学校も通常通り再開され、そこには当然病院も含まれる。もちろん月に一度のペインクリニック通いも。
連休の間は病院もお休みだったりするから、連休明け第1日目というのは診療が再開と同時に、多くの患者さんも一気にそこに集まってくるようだ。おかげで11時からのはずの予約が12時までずれ込んでしまった。まあ、それ自体は仕方がないことだと思う。手持ちの本でも読みながら静かに時間をやり過ごせばいいのだ。それくらいに思っていた。
ところが、その待合室がうるさいのなんの。
まるでそれまで溜め込まれていた水が、病院の待合室という名前の池に一気に流れ込んでいくように、いつもよりも多めの患者さんが狭い待合室の椅子を占領することになっているのだが、その患者さん一人一人もこれまで連休中色々と溜め込んでいたことがあるのだろう。特にオバサンの患者さん同士の会話の弾むこと弾むこと。何度も通っているうちに仲良くなっているのだろう。それ自体は悪いことではないが、これが見知らぬ者にとってはなかなかのプレッシャーになって迫ってきた。
どこそこが痛いという病気の症状から始まり、今度はどういう集まりがあるとかいう趣味の話や、どこそこのお店のお菓子の話とか、よくもまあこんなに話すことがあるものだと感心するやら呆れるやら。そういう会話が耳に飛び込んでくるのを我慢すること1時間、それだけですっかり疲れてしまった。何せここは病院の待合室、小さな病院なので8畳間くらいのスペースしかないと思うのだが、そのなかに6人くらいの患者同士の“人混み”状態がすっかりできあがってしまっていたのだ。
おかげでこっちは肩と首の痛みが激しくなり、頓服薬を飲みながら「オバハン、黙ってくれや!」と叫んだのでした。あ、いや、心のなかで、口には出さずに。
ヘロヘロな気分のまま、ようやく診察室へ。辛く疲れた気分を引きずりながら最近の症状を説明し、今回から薬の種類を替えてみることにした。
今までは筋肉の痛みを取るテルネリンと神経の痛みを取るリリカを服用していたのだけど、リリカの量を減らして代わりにトラムセットを加えることにした。このトラムセットという薬は軽い“麻薬性”があるということで少しビビッていたのだけど、一定のところまで痛みが取れてもそれ以上治癒できない状態がずっと続いていたので、今回思い切って替えて様子を見ることにしたのだ。
これで現在服用している薬は、心療内科から処方されているものも含めて7種類ということになった。今回1種類増やす決断をしたのは、間違いなく待合室で立て板に水の如くおしゃべりを続けていたオバハンのせいだろう。
で、今日が服用2日目になるわけだが、少しだけ痛みは和らいだ気はする。いつもは1か月分の薬をもらうのだが、今回は様子見を含んでいるので2週間分。それで調子がよければ再処方してもらうことになると思う。このまま痛みが和らげば、あのオバハンのおかげということになる。
何となく、人間万事塞翁が馬、という故事を思い出した。日々の暮らしは、人生は何が幸いするかわからない。
今度待合室で会ったときには、お礼でも言おうか。いや、あのおしゃべりパワーに巻き込まれるのだけは避けた方がいいかもしれないな。
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メンタルヘルスの迷宮?
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何を書いたらいいのか、わからんのです。けど、書きますよ。
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3年前の3月11日の午後2時46分、何をしていたか。
身体の痛みに耐えながら横になったまま、外出することもなく部屋のなかにいたはずだ。
その前の年、半年の病気療養を経て何とか再就職するも、再び気分の落ち込みや身体の痛みが再発、結局試用期間を全うすることなく再び退職した直後でもあった。
再就職先では色々と苦労をした。ある程度年齢を重ねた、あるいは同一業種でキャリアを重ねたあとの再就職というのは、周囲の見る目も違う。最初のうちはあくまで新入社員、半ばお客さん扱いみたいなところもあって徐々に慣らし運転をしてもらうみたいな周囲の雰囲気もあったのだけど、一か月経つくらいになるとそれも無くなる。仕事の量も増えて、しかもその会社独特の仕事スタイルみたいなものを何の説明もなしに丸飲みすることを強いられて、それが上手くいかないと「こんなことも知らないんですか」と女子社員から冷たい言葉をかけられることも多くなった。それを神妙な顔で受け止め、自分なりに努力してそのやり方に順応して次こそはと仕事をやり直そうとすれば、そのたびに「それはもういらんのや!」と社長直々に罵声が飛んできたりした。そこで多少の反論をしたら、今度は会長のお出ましであった。
お給料は決して悪くなかったし残業も少なかったものの、完全週休二日ではないので休みは少なく、さらに毎朝5時半に起きて片道約40分ほどをバスで通勤して会社に一番乗りで出勤を命じられ、その挙句が冷たい言葉や罵声では精神的にもかなりの負担だったのだろう。かかりつけのお医者さんも再就職が決まった際に労働条件について報告したら、あまり良い顔をしなかったくらいだったから。
でも、こちらとしては当時仕事をしていないことへの負い目や焦りも多大にあったことは事実で、早めに内定をもらえればそこに行こうと深く考えずに決めていた部分はあったのだ。もっとゆっくり物事を決めても良かったのかもしれない。
ちなみに嘘のような本当の話として、入社して初めてわかったのだがそこのポストというのは、今まで就いた人は皆長続きすることなく辞めていった呪われたポストらしく、引き出しを開けると前任者がうつ病で辞めていった形跡である病院の診断書などが無造作に入っていたりした。社内・社外を問わず多くの周囲の人間が「今回は大丈夫かな」と本気だか冗談だかわからない調子で問いかけてくるのも、最初は笑って流せていたのだけど、流れが滞り、詰まって逆流するところまで追い込まれてしまったのかもしれない。
これが今のところ、最後の職歴である。少なからず今の自分にとってこの出来事が、働くということについての精神的な傷を残していると思う。
あのときの会長の「あんた、嫌いや」という多少幼児めいた言葉でさえも、上下関係ありきの組織のなかに留まることの恐ろしさを思い出させるのだ。
外出することなく部屋のなかでじっとしていたはずなのに、地震の揺れは感じなかった。当時の連れ合いが「京都でも揺れたよ。皆、大騒ぎだったもの。揺れを感じたら、すぐにインターネットを開いて」と言っていたにも関わらず。
恐らく同じようにインターネットを開いていたのは間違いない。パソコンの液晶の画面を見つめて地震速報で知ったのだと思う。揺れたという実感のないまま、何気にテレビのスイッチを入れた。日頃昼間のテレビ番組など見ることはないのでスイッチに触れる機会もないのだけど、なぜそのときにすぐテレビを見ようと思ったのかよくわからない。
ただテレビに映った光景に、思わず息を飲み、これはただごとではないということだけは痛いほどわかった。
仙台空港が、あの大きな空港施設がどんどん水に浸され、津波に流されていく。
なんとかしなくちゃという思いだけが強烈に湧き上がってきた。
もう何年も連絡していない仙台出身の友人に連絡を取らなければ、という気になった。別に電話したところで何が変わるわけでもないが、躊躇いを捨てて携帯電話を手に取った。
そのときの相手の声は思いのほか明るかったのを覚えている。
ツイッターは繋がるけど電話が通じないとか、親戚の家のマンションが被害にあったとか色々話したのだけど、恐らくその時点ではあの甚大な被害の全容が誰にもわからないタイミングだったし、相手からしてみれば仕事中に思わぬ人間から思わぬ電話がかかってきたということで、多少の戸惑いや嬉しさもあったのかもしれない。今から考えれば。
こちらも、電話をしたら迷惑かなという気はあった。仕事中だし故郷のことが気になっているだろうし、そういうなかで突然の電話をもらっても困るんじゃないかという気がかりな点もなかったわけじゃない。でも、あの時点ではとりあえず一声かけよう、お互いに疎遠になった立場はとりあえず忘れて言葉を交わそう、そういう純粋な思いがあったような気がする。
それだけしかなかったし、それだけで十分だったと思う。あの時点では。
その彼から再び電話をもらったのは、いつのことだっただろうか。
時期はわからない。ただ今度は寒の戻りのような冷たい朝だったと思う。とても疲れていてベッドのなかから出られなかったのを覚えている。
「このたびは色々と心配いただきまして、ありがとうございました。それでは」
まるで留守番電話に入っているようなメッセージがスピーカー越しに聞こえてきた。以前交わしたような熱を帯びた感じは一切なし。こちらは通話の態勢に入っているのに、それを何ら気にかけない、何かを踏み潰し平板にしていくような口調。もちろん文面以外の通話はなし。こちらの体調の具合を尋ねる素振りさえ見せない、冷たい声だった。
これが、かつての友人と交わした最後の言葉である。自分にとってこの出来事は、少なからず人間関係に対する考え方に暗い影を落としている部分はある。
少しはこちらのことも気にかけて欲しかった、などということは言うまい。彼は彼で忙しいし、故郷が未曽有の災害に遭っているのだから心穏やかになれない部分もあったはず。
しかし彼にとってみれば、かつての友人としての久しぶりの会話が終われば、再び疎遠な知り合いとしての細々とした関係に戻るだけのことだったのだと思う。大人として他人との関係性を測り、大人として振る舞う冷静さを忘れないのは賢い人生なのかもしれない。
冷たい声で他人の心に傷を残していることを忘れていくことも含めて。
あれから3年目。東日本大震災といえば、直接の被害にはあっていないのだけど、それに付随する上に挙げた二つの出来事を思い出す。あまりにも私的なことばかりで、どうしても暗くなってしまうのだけど、そういう暗さに向き合うのも大事かもしれないと自分では思っている。それは過去をくよくよ情けなく引き摺りながら、少しづつ思い出話として消化していくような地道な作業に似てるかもしれない。
今の自分を巡る人間関係も随分変わった。
何もかも失ってしまったような気分になって、つらくなる時間も多い。間違いなく今の方がどん底に近いと思う。
でも、何とかしたい。何とかしたいからこそ、薬を飲みながらこうしてパソコンのキーを打っている。
「時よ止まれ、おまえは美しい」。そして「毎日を生きよ、あなたの人生が始まった時のように」−どちらも『ファウスト』の一節。今朝の新聞に載ってるゲーテの詩の引用。
知ったかぶりで便乗するわけではないが、かつての思い出は辛い出来事であっても過ぎていくもの、そして毎日を生きていれば再び新しい出来事と出会うことができる。そんな過去と未来という時間の狭間である、現在という時間に向き合うために、こうして文章を書いていこうと思うのだ。
地震とは関係ないことなのかもしれない。特に被災された人々から見れば、所詮は被災地から遠く離れた、無力を気取った人間の思い込みにも似た戯言だということはわかっている。
それでもそれが、一個人として東日本大震災から3年の間に学んだことである。
前向きとか後ろ向きとか、そういうことじゃない。今を生きるためのことなんだ。
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障害者手帳を交付してもらった。
資格の証明である障害年金証書を市役所の受付に持って行って、所定の書類に記入をして申請をしたのは約二か月前の年の瀬。
今回は市役所の方から手帳ができた旨の連絡をもらったので、同じように歩いて僅か10分くらいの所にある市役所の同じ窓口までハンコを持って行く。所定の書類に名前を記入して、福祉サービスの案内の小冊子をもらって、受けられるサービスや更新手続き等について説明をうける。そして終われば再び家路に。この間の所要時間は40分程度だと思う。申請時からを含めてもスピーディな仕事。実にあっけないというか、素直に役所の方々の仕事っぷりを褒めるべきなのかな。
あっという間に、これで立派な身体障害者である。さて、何をしようかな。
振り返ると、障害年金受給の申請をしたときは、こんなもんじゃなかったな。どれほど苦労してストレスが溜まったことか。
夏の暑い日にバスに揺られて所定の機関の窓口へ。順番待ちのカードを機械から引いてロビーで待つこと十数分。窓口に現れたのは、失礼ながら余り感じの良くない脂ぎった日焼けした顔をしたおじさん。
こっちが申請に来た旨のことを伝え、受給資格を満たしていることを証明する年金番号の書いた書類を渡しても、ニコリともせずに「ふーん」みたいな感じでつれない反応を繰り返し、さらには何度も受付を離れて奥の方へ引っ込んで、戻ってくるたびに「で、なんで障害者手帳を持ってないの?」とか「お医者さんの証明書がいるんだけど、あれも結構高いんだよね」とか、こちらの予想を超えたどうでもいいような嫌味っぽい響きのある、明らかにこちらを避けているとしか思えない対応をされたのを思い出す。
あれって、俗にいう“水際作戦”だったのだろうな。
ほら、一時問題になったやつ。予算を守るために、あるいは不正受給かどうか調査する前にとりあえず拒絶しておくみたいな、お役所の冷たい対応。あれを見事に食らったのだと思う。
こちらは受給資格を満たしているのはわかっていたし、そもそも病院の先生に一度申請してはいかがですかと勧められて来ているのだから、何も引け目に思うことはないのだけど、やはり役所の窓口で係の人にのらりくらりと、かつ堂々と拒絶されると、やはり困ってしまう。困ってくるとストレスが溜まる。いつものように首や肩など身体の各部分が痛くなり、気分も重くなってくる。ただでさえ役所の窓口で手続きをするというのは手間がかかって疲れるのに、大げさでなくこれはイジメだなと思ったものだ。
「とりあえず、また来てください」
提出用として認められた所定の医者の診断書のフォームを渡しながら、捨て台詞を残して、そのおじさんは去って行った。自宅を出発してから何時間経っていただろうか。猛暑とストレスで疲労困憊となった夏の日の午後でした。
ちなみにその数週間後、お医者さんに記入してもらった診断書を再び窓口に持って行ったときは、別の女性の職員さんが出てきて事務的にテキパキと処理してもらったので、何たる違いだと憤慨したのを覚えている。
それでも実際に受給できたのは、年が明けて2月頃、約半年かかっている。
色々と忙しくて大変なのだろうけど、やっぱりお役所仕事だなあと色々な意味で嫌味を言いたくなったものである。それとも年金とかカネが絡むと、たとえ受給資格者からの申請であってもできるだけ先延ばしにしようとするのだろうか。今の日本の財政を考えると。
寒風が吹くなか、いつの間にか粉雪も舞っている平日の冬の昼下がりに家路につく。
これまで身体障害者というのは縁遠いもの、少なくとも自分はそういう立場にならないと思っていたのだけど、身体の色々な部分に痛みを感じたり、気分が落ち込んだりする毎日を過ごし、その症状を抑えるための薬を服用しては副作用で寝てしまう生活を送っていると、いつの間にか自分はそうならないという思い込みがあっけなく崩れ、所謂“社会的弱者”に知らず知らずのうちになっていたのだなと改めて思う。
その境界というのは、自分が思っている以上にあやふやで、今まで生きてきた人生の立ち位置みたいなものは弱々しかったのだと思い知らされる。平日に仕事もできずに病気に苦しむ“社会的弱者”に自分がなってしまうと、どのようにして今の自分の立ち位置を把握すればいいのか、どこに心の落ち着き所を探したらいいのか困ってしまうのだ。
それは同時に、今まで障害者というものに対して根深い偏見を抱いていたことの裏返しなのかもしれないけど。健常者であることの驕り、とまでは言わないけど、どこか放漫で根拠のない過信で毎日を過ごしていたのかも。
人生何が起こるかわからないもの。ある日突然、あるいは知らず知らずのうちに徐々に何かが変わっているものだなと、つくづく思う。
肌寒い風に煽られながら辿り着いた自宅で、福祉サービスの案内を読んでみる。
とりあえず所得税と住民税は幾らか軽減されそうである。これは素直にありがたい。
あとインターネットサイトで調べたら、映画を観るときは障害者割引が効くようである。これも素直にありがたい。今度試してみよう。
緑色のカバーに覆われた障害者手帳を改めて見る。なかには手帳番号と住所と氏名、障害等級、そして少ししょぼくれた自分の写真が貼ってある。
とりあえず、ここが再スタートなのだと思う。
“社会的弱者”でもいい。いただける恩恵と、自分ができること、楽しめることがあるのだから。
今はまだ寒いけど、春の暖かさがやってくれば身体も気持ちも落ち着いてくれると思う。
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心療内科通院後のプール通いに加えて、そこに併設してあるジムでトレーニングをすることにした。
年が明けてから、いかにも新年の決意みたいな感じで勢いを付けて始めようかな(本当は今すぐやるのが面倒臭そうだったから、先延ばしにしながらやろうかどうしようか迷っていたのが実際のところだったりする)と思っていたのだけど、そうも言ってられない、早く始めないと取り返しのつかないことになる!?という事件があったのである。
それは、そこのスイミングスクールで年2回任意参加で行われる体力テストでのこと。
もともと任意参加であるせいか、選択するコースの時間帯によっては参加者が集まらないこともある。かくいう私もこの体力テストを随分受けていないので余り気が進まなかったのだけど、指導員の先生が「お願いします!」と強く推してきたものだから、久しぶりだけどいいかというモチベーションが低いままで受けてみたのだ。おかげで反復横跳びとか激しく身体を動かす運動はさっぱりできませんでした。
で、良い結果は出ないだろうなと最初からわかってはいたのだけど、いざ結果を掲載した個人票を見て、愕然とした。そこにあった衝撃の一文。
『あなたの体力年齢は 60歳〜64歳 です』
「じぇじぇじぇ!」(← 一応今年の流行語、もはや古い?)である!
いくらなんでも、この結果は酷過ぎる。確かにモチベーションも低くメンタル的にもややダウン気味だった時期とはいえ、実年齢を10歳以上超えているのはショックであった。
測定結果がおかしいのではないか?体重などは以前から余り変わってないし。しかし体型の判定も『過体重・軽度肥満型』と出ている。さらに厳しいアドバイスが続く。
『自分に厳しくトレーニングできていますか?』
『ビール腹傾向とはいえ、今のうちにプロポーションを引き締めておくとよいでしょう』
そして最後のキメの一言。
『トレーニングを継続する事により必ず結果は出ます!一緒に頑張りましょう!』
よくありがちな体力や健康増進を勧める決まり文句に過ぎないとは思う。しかし、このときに気持ちは決まった。
「いつ、やるの?今でしょ!」(← これも一応今年の流行語、もはや古い?まあ、今年の流行語は今年のうちにということで、まとめて使わせていただきました)
実は以前にジムでマシンを使ったトレーニングというのはやっていたのだが、いつの間にか止めてしまった。
その理由は、退屈だから。
同じ歩いたり走ったりするのなら、景色が見える外の方が楽しいに決まってる。といって、実際に外でジョギングなどをしていたわけではないので、やはり怠けていたというだけのことではあるのだが、やはり室内で単調にベルトの上を走ったり、自転車の一部分を切り取ったようなペダルとハンドルだけの機械を相手にするのは退屈だったのだ。
何かマラソンや水泳の大会に出る、記録にチャレンジするという目標があれば退屈さから解放されモチベーションも生まれると思うのだが、そういう目標も設定してなかったから、ただ漠然とマシン相手に身体を動かすくらいなら、プールで全身運動する時間を増やした方が楽しいと思って、ついつい足が遠のいてしまったのだ。
久しぶりにジムのスペースに入り、体力テストの結果を指導員の先生に見せて、とりあえず何から始めたらいいですかね?と藁にもすがる気持ちで尋ねる。先生は「うーん、これはちょっとね……」とテストの結果と私の顔を交互に見ながら笑っていた。
「昔、ジムに来てはりましたよね。とりあえず、同じものから始めましょうか」と言って連れて行ってくれたのが、エアロバイクの場所。最近のエアロバイクは画面表示もカラフルかつ複雑そうに見えるので、長らくサボっていた人間にとってはその高機能さに気が引けてしまう。「あのー、私のような者がこんな立派な機械に触ってもいいんでしょうか?」という変な敷居の高さを感じてしまって、思わず昔からある一番シンプルな操作ボタンしか付いていないものを選んでしまった。
「今日は初めてだから、一番負荷の軽いものから始めましょう」と言われ、適当な数値を設定され、何とか操作方法を思い出しながらペダルを踏み始めた。
ペダルを踏んだところで前に進むはずもない機械に乗って、前方にある鏡の壁面を見る。鏡に映る自分の姿はこれが年相応なのかなという、少ししょぼくれた姿をしていた。老人の仲間入りをするにはさすがに時間があるとは思うが、今ペダルを踏んでいる身体、特に足腰は確実に弱くなっているんだなと実感する。エアロバイクの液晶画面は走行距離や消化カロリーや心拍数などのデータを表示してくれるけども、前に進んでいるという実感がないから充実感がない。こういうメンタルが沈んだままだと、同じ運動をしていても効果が出ないんだろうなと思うと余計に気持ちが盛り上がらない。
これ、続けることできるかな?前みたいに飽きるんじゃないのかな。
そう思いながらペダルを踏んでると、再び指導員の先生がファイル片手にやってきた。「出てきましたよ、昔の記録。ほら、頑張ってましたやん」
そのファイルのなかには、昔ジム通いを続けていた頃にエアロバイクを始めとする機械相手に、どれくらいの負荷をかけてどれくらいの時間をかけていたか、その数値の変遷がA4用紙数枚に渡って記入してある。
最後にジム通いをしたのは、何と2007年の秋のこと。しかも当時は週二回のペースで通っていた。今は週一回がやっとなのに。
そして当時自分に課していた負荷の数値は、どれも今トライしている数値の4倍にも上っている。
つまりこの6年間で、日々行っていた運動というのは二日が半分の一日に、負荷が4分の1にまで減ってしまったわけで、単純に計算したら、0.5×0・25=0.125、つまりは10分の1近く減ってしまっているわけで(計算合ってるのかな?)、さらにそこに加齢も加われば、先のような体力テストの結果が出ても仕方がないということに気付く。
ここで目標は決まった。
せめて6年前の水準まで負荷を戻せるように頑張ろう!今の10倍頑張ろう!
もちろん今すぐそういうことが可能なわけではない。いきなりトライしたら筋肉痛の嵐が待っていることは間違いない。ただでさえ今は神経系の痛みが身体中に広がっているし、気持ちが疲れて落ち込むだけでなく、体力的にも疲れて動けなくなる事態だけは避けて、ゆっくり元に戻していこうと思う。
若干の時期のズレはあるけど、身体に神経系の痛みを感じるようになったのは2009年の秋のことで、それからウツ的な症状が出るようになったわけで、少なくとも2007年の時点ではそういう自覚症状はなかった。
ならば、当時はわからなかったけど、水泳に加えてこのジムでの運動というのが自分の心身の体調を整えるのに一役買っていたのかもしれない。そう考えれば、この退屈な時間も前向きに過ごせると思う。
もう若くはなれないけど、心身共に痛みから解放されるような、新しい自分に出会えるように頑張れるのは年齢は関係ないからね。
というわけで、このクリスマスはジムでささやかに運動していると思います。
そういうことに気付かせてくれた指導員の先生に感謝。これが今年のクリスマスプレゼントになりそうだ。
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「ご気分、調子はいかがでしょう?」
何度この言葉を聞いただろうか。毎週月曜日の心療内科での定期診療でお医者さんが笑顔で投げかけてくる言葉。
そういう先生の顔色は少し浅黒く、あまり健康的な感じはしない。アウトドアの陽の光を浴びた小麦色ではなく、部屋のなかで色々な患者に接しているうちに、この職業ならではストレスを溜め込んだ濁った肌色ではなかろうかと少し心配になる。頭髪も、おでこの方から禿げ上がっているので余計にその肌色が際立つ。
こちらの症状を伝えたうえで、個人的には仕事がしたい、たとえ無給のボランティアでもいいので何かしたいという旨のことを伝えたのだが、先生からは期待したような良い反応が返ってこなかった。
最初の笑顔の愛想の良さを残しながら、愛想とは少し違う医者としての職業意識から来てるのであろう、真っ直ぐこちらを見つめる視線でおっしゃるには、そういうことをすること自体は良いことなのだけど、何らかの責任を負う立場になることは今の状態では必ずしも良くないとのこと。こちらとしては、何か自分の狭い日常生活の範囲を広げるための打開策を考えてのことなのだけど、症状の改善の兆しが見えない以上、しばらくこのままの状況を受け入れるしかないということなのだろう。
「今の症状は、季節的な要因もあると思います。お薬の方はどれくらい残ってますか?」
気持ちが沈み込んだり身体に痛みを感じたりしたときに頓服薬として服用しているものが残り3錠になっていることに気付く。前回から少し多めにもらっているのだが、1日1錠以上服用していることになる。これでは無給のボランティアであっても、自分が何がしかの責任を負うことのストレスに耐えられるかは、いささか心もとない状態であると思い知らされる。
結局、ドクターストップのアドバイスを噛みしめながら、問診室を出る。先生は最初と同じように笑顔で送り出してくれる。こちらが感じたり考えたりしていることのひとつひとつを受け入れながら。そして、この後も別の患者が待合室に数人、ソファに座っている。一見してこの病院に来る必要のない人たちと何ら違いはない外見なのだけど、他人からはわからない痛みを抱えてしまっているのだろうなと思う。俯き加減だったり目を閉じていたり、あるいは携帯電話の液晶画面にひたすら見入っていたりする人なんて、どこにでもいるはずなんだけど、この待合室という空間にいることで、苦しみを抱えて溜め込んでいるように見える。
先生も他の患者さんも色々苦しんでいるのだろうな。
などと他人の心配をしてる余裕はないのだけど。
12月に入ったあたりからだろうか、やたらと涙を流す時間が増えた。
その涙の原因は色々あることはわかっているのだけど、悲しいとか寂しいとか感情的な要素よりも、何かを感じた際にそれを過剰に受け止めてしまうように感覚がおかしくなっている気がする。予期せぬ場面、例えば台所で洗い物をしているとき、掃除をしているとき、あるいは電車の座席に座っているときとかに、急に涙が出てくる。人間がその時々で抱く感情によるものというよりも、自分の外部からの刺激に過剰に反応してしまう感覚的なものが大きいのではないかと、勝手に自己分析をしている。
どこかで、人間は悲しいから涙を流すのではなく、涙を流すから悲しいという感情が湧いてくる、みたいな話を聞いたことがあったっけ。うろ覚えではっきりはしないし、その説が正しいかどうかはわからないのだけど、どこかで正しい部分はあるのだろう。涙を流す信号を送る基となる感覚が少し狂っているから、まずは先に涙が流れる。そのあとに過去の後悔じみた悲しい思い出が言い訳的に付いてくるのかもしれない。外部からの刺激をインプットして、自分の考えや感情をアウトプットする自分のなかの仕組みみたいなものがおかしくなっている気はする。
まあ、これでは先生は言うように、責任を負うような仕事はできないかもしれないな。感覚的なコントロールの具合が狂ってる上に、さらに別のストレスのような負荷がかかったりしたら、自分の状態がどうなるかわかったものではないな。
それでも何とか今ある自分の状態を変えたい、自分の周囲から色々な刺激を受けてみたい、それが良い方向に向かって行けるようにしたいという意欲は、頭の真ん中に、心の底にあるのだけど。
身体の痛み、気持ちの落ち込み、そして予期せぬ落涙ときたら、こりゃ精神的おかしさの3点セットだと開き直るしかないのかな。世の中には、これ以上の4点や5点セットで苦しんでいる人もいるのだろうから、そんな状況よりはマシだとホッとすべきなのかもしれない。
でも、そういう風に、誰誰よりもマシ、みたいな考え方は持ちたくない。
学校でも会社でも、あるいは個人で何か活動をしている人でも、そういう序列を付けたがる人は意外に多いことは過去の経験でわかっている。そういうなかにいるからこそ、ストレスで苦しむ人が出てくるし、一見何気ない顔をしている人も何らかのきっかけで苦しみの狭間に陥ってしまう可能性があることも、今まで見てきた。だから今は、そういう世界とは距離を置いて、自分の症状が回復するのを気長に待つしかないのだろう。そういう序列的な価値観を根本的に捨てることができる日まで。
自分が日々できることは何なのかということを考えて生きていきたい。
そういう機会が訪れる気配を感じたときに、反応できるだけの準備はしておきたい。
その機会が訪れ、かつ自分の痛みが消えたタイミングこそが、真のリ・スタートになるのだと思って、涙を流しながら待つことにしよう。
流した涙の分だけ、新しい希望に満ちた世界があると信じながら。
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