BUT SERIOUSLY, FOLKS...京都の地の果てより

楽しみながら苦しみながら、学びながら馬鹿やりながら。

にっぽん流行歌史?!

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困った顔

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 この年の瀬、2013年から2014年へと時代が動こうとするタイミングで、とてつもなく大きな訃報が届いた。
 大瀧詠一、死去。享年65歳。
 とりあえず、このタイミングで追悼にふさわしい曲をアップしておこう。




 およそ追悼とは程遠い作品なのだが、この人の歩んできたミュージシャンとしてのキャリアを振り返ると、常に洗練されたユーモアの香りが作品に漂っていたと思う。
 それは単なるウケ狙いのギャグというのとは少し違う、日本のロックの黎明期、洋楽に影響を受けながらそれを消化し、ポップミュージックの歴史のなかで独自のスタイルを模索して苦悩している彼自身の孤独感と、逆にそこから距離を置こうとする彼自身の冷静さが混じり合ったものではなかったかと思う。
 一見ユーモアの香りを漂わせながらも、その裏では洋楽に影響を受けながら日本のロックとしての自分独自のスタイルを見出した、試行錯誤と苦悩に裏付けられたポップミュージックのひとつの完成形だったのだと思う。




 個人的には、やはり『A LONG VACATION』に触れないわけにはいかない。高校時代リアルタイムで、どれだけ耳に飛び込んできたことか。
 これぞ日本のポップミュージックの歴史の金字塔といえる傑作だった。
 思わず口ずさみたくなる、どこか懐かしく親しみやすい感じの、聴く者の心に届くメロディー。これが決して傑出したヴォーカリストではない彼の声に乗せられることで、ますますその魅力が伝わっていたと思う。
 逆に、そのメロディーの親しみやすさと相反するような、聴く者にはわからない、どうでもいいじゃないかと思えるほどの、アーチストのこだわりを細部に感じさせる詩・曲・アレンジ・録音……この作品はのちに何度となくリ・マスター盤が発表されることになるのだけど、それぞれの段階でいったんは完成形の作品として発表することになっても、まだまだ変化したい、もっと美しい音楽を作りたいという偏執的なアーチストの狂気みたいなものが滲み出るのが面白い。
 そして、この相反する要素を包み込むようなアルバムのジャケットのデザインが、この作品をより深いものにしている。
 永井博デザインのイラストの上に『A LONG VACATION』と大々的に作品タイトル、右下にひっそりと『EIICHI OHTAKI』とアーチスト名が印刷された印象的なアルバムジャケット。今見てもオシャレといえばオシャレだが、シンプル過ぎて愛想がないデザインのようにも思える。
 これは、いわゆる大衆の嗜好のなかで消費される量産型ポップミュージックのパッケージを意図的に、彼独特の皮肉なユーモアに包んで表現したのではなかろうか。
 『A LONG VACATION』から現在に至るまでキャリアだけみると寡作のアーチストと思われがちな彼だけど、バンドのはっぴいえんどからソロの『A LONG VACATION』、CMソングから他人への作品の提供と、それまで歩んできた道ではむしろ多作、様々な分野で楽曲の大量生産を強いられる時期が多かったのだ。だからこそ、大衆のなかで消費されるポップミュージックの悲しさと、そしてそれでも自分のこだわりを大事にしながら、自分だけにしかできない音楽をする喜びとが、この『A LONG VACATION』には結集していたのだと思う。
 だから、この2013年の最後の最後で、彼が亡くなったというのは、ものすごく大きなことだと思うのだ。
 今や消費者の嗜好に従順で、売れることだけを目指したポップ・ミュージックばかりが聞こえてくるヒットチャート。CDの売上上位の顔ぶれは完全に固定され、特定の歌手だけが何年も連続でレコード大賞などのイベントを独占している現在。それはそれでいいと思うのだが、これってあくまでマーケティングの勝利であって、ミュージシャンがそこで戦ってるという感じがしないのだ。
 大衆音楽として消費される悲しさと、それでも自分だけのスタイルを何とか作ろうとする孤独感、そしてそれらを独自のセンスで包んで聴き手の心に届くように戦っていた人、それが大滝詠一という人ではなかろうか。




 彼の活動で興味深かったのは『ナイアガラ・トライアングル』と称して、自分よりも若いミュージシャンとコラボレーションした作品を発表していたこと。
 彼がどういう意図で、その時々の才能ある若いミュージシャンと組もうとしたのかはわからないけど、恐らく一緒に戦える仲間を探して新しい刺激を受けながらも、決して分かり合えない自らの孤独感を噛みしめていたのではあるまいか。そしてそこで共演した若いミュージシャンは、今や大御所といわれながらも、どこか彼と同じような孤高さを感じさせる存在に成長したと思えるのは気のせいだろうか。
 今、大滝詠一が再び『ナイアガラ・トライアングル』を組んだら、誰を呼び寄せるだろうか。そういう若いミュージシャンはいるのか、彼らが孤高さを漂わせながら育っていく余地が、今の時代にあるのだろうか。
 そんなことを、ふっと思った。

困った顔

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 炭鉱のカナリアは、炭鉱においてしばしば発生するメタンや一酸化炭素といった窒息ガスや毒ガス早期発見のための警報として使用された。本種はつねにさえずっているので、異常発生に先駆けまずは鳴き声が止む。つまり危険の察知を目と耳で確認できる所が重宝され、毒ガス検知に用いられた。
 日本では炭鉱のカナリアや童謡「かなりや」の影響で、実態以上にひ弱な鳥といったイメージが流布しており、外の世界で生きられない事の比喩表現である籠の鳥とは本種のこと、とすら思われている。
 しかし、高級フィンチの中には本種よりずっと気難しくて温度管理にうるさい種があり、それらに較べればずっと飼い易いうえに巣引きも簡単である。野外で生き延びられないのは飼育環境へ適合した結果であり、逆を言えば、野鳥はかごで飼うと気をつけないとすぐに死んでしまうが、その事実について触れられることはあまりない。
 (Wikipediaより一部引用)


 今から30年くらい前でありましょうか、まあそれより前でも後でもいいのだけど、昔は「核」「原子力」「放射能」というテーマで作品を発表するミュージシャンは、普通にたくさんおりました。パッと思い出すだけでも、マーヴィン・ゲイ、ストラングラーズ、エアロスミス、グレッグ・レイク……『NO NUKES』という名の原子力発電所反対をスローガンにしたコンサートもあったりしてライヴ盤として残っている。
 この、アリス・クーパーですら、そうでした。
 まあ、ああいう人でありますから、シリアスとジョークの狭間の騒々しいロックンロール、といった感じであっという間に終わる曲なんですけどね(笑)。


 スリーマイル島(かつて原発があった所)に住みたいぜ
 きれいサッパリしてて、健康オタクも居やしない


 いやはや、危ない歌詞のオンパレードなんですけど、この辺を自虐を込めてサラッとやってしまうのが、この人のいいところ、なのかもしれませんな。



 
 昔は前述したようなテーマの作品というのが普通に発表され、ヒットチャートでもある程度流れていた記憶があるのですけど、今じゃ殆どなくなりましたね。
 その分「原発推進」の歌こそないものの、原発のCMがテレビで普通に発表され、ある程度安全性が信用されるようになった世の中になったような気がします。その間、自分たちの暮らしも随分便利になったのでしょうね、その頃に比べたら。音楽を巡る環境だけを考えても、ポケットに入る端末機とヘッドフォンで好きなときに好きな分だけ楽しめるし、楽器の値段も下がったし、多重録音や自動演奏も気軽にできるようになりました。昔は大変だったのよ。カセットテープとかレコードとか機材とか大きくて高価だったし……。
 振り返れば、原発が電力調達の手段として定着し、自分たちの暮らしが豊かになるのと比例するように、ロックが社会的問題や不安を叫び歌う機会というのが減っていったという気がするのは、私だけでしょうか。
 今じゃ、さっきのアリスの曲なんて殆ど放送されることはないでしょう。まあ、そんな大した作品でもなかったのですけど(笑)。


 今回の原発事故報道で、シーベルトだベクレルだと聞き慣れないカタカナが並び、今すぐ影響は及ぼさないなど意味不明瞭な言葉が飛び交うなか、わかったことは、原発の構造って物凄く単純であること。だって極端にいえばエネルギーでタービン回すだけだもの。あとは万が一事故が起こらなくても、その維持や保守にコストが膨大なコストがかかるということ。単純に電力調達だけを考えてはだめなのですね。
 個人的には、原子力発電所は必要だと思う。開発と研究を止めてはいけない。
 ただ、それは他の手段、すべての可能性を考慮した上でのバランス上の問題。石炭・石油・ガスなどの火力、太陽光、地熱、風力、波力……それらが修理や設備交換の維持コスト、そして何より事故が起こった時の住民への対処と政策実行者と経営者の責任が明らかであること、それらをすべてクリアしないと、この災害後の次のステージには進めないと思っている。
 だから、考えて感じなきゃいけないと思っている。専門家じゃないからわからないし、政治家じゃないから何の力もないけど、電気に囲まれた豊かな暮らし、その背景にあるもの、そしてこれから目の前に続くであろう道。
 そこから先は、想像力の世界。カナリアでも小さな脳みそを駆使して鳴くくらいのことはできる。
 それは悲観か楽観か、わからないけど。


 スピッツの草野マサムネが倒れたそうだ。急性ストレス障害でダウン。東日本大震災や福島第1原発の深刻な状況により、「本人に急激なストレスが襲いかかり、精神的な障害にまで発展した」とのこと。4月3日からの全国ツアーは延期に。順調に回復すれば、同13日の東京・NHKホール公演から復活見込みという。
 人によっては、凡人には及びもつかない繊細な感性を持っている場合だってある。その繊細さは、内に籠って本人を傷つけたり、あるいは逆に外に向かって創作を行うエネルギーになることだってある。一見ひ弱そうなカナリアが、実はどんな環境にも耐えられる強かさと細やかさを持っているように、時間が経っても歌を忘れることは有り得ない。きっと彼も再び歌い出す日がくるのだろう。
 それは、私たちすべてについていえることなのかもしれないな。
 被災地から遠く離れた場所で、水やトイレットペーパーを買い占めることに力を発揮している場合か。
 ひ弱で頼りなくても環境に対応し、小声でも歌を歌うことが必要なのではないか。心と身体をフル回転して。
 もし、この人が生きていたら、どんな鳴き声を奏でるだろう。



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キリン「フリー」増産、岡山工場でも生産 今年14%
 (2011/1/27 日本経済新聞)

 キリンビールはアルコール分がゼロのビール風味飲料「フリー」を増産する。これまで生産を手掛けてきた取手工場(茨城県取手市)など2工場に加え、岡山工場(岡山市)でも6月から生産を始める。レストランなどの飲食店や家庭での需要が堅調なことから、2011年の生産量を前年比14%増の590万ケース(1ケースは大瓶20本換算)に引き上げる。


 ノンアルコールビールってヒットしてるんだな。
 少し前にはサントリーの商品が生産が間に合わないというニュースもあったし、コンビニの商品棚にもひとつのコーナーができるほどになってしまった。中国との提携ということは当然中国でも売り出すのだろう。現に米国では試験販売しているらしいし。健康志向の高まりとともに世界中にノンアルコールビールが溢れる日が来るのかもしれない。
 実際のところ、あれはなかなか使い勝手のいい飲み物で、友人が話すところによると、会社関係のパーティや宴会で車通勤の人間が参加する場合、あれをコップに継ぐことで恰好が付く部分もあるようだ。それに複数の会合をはしごする場合でも、こっそり酒量を控えて乾杯することもできるそうな。確かに日本の会社社会って、上司や関係先を前にして1人だけウーロン茶というのも居づらい雰囲気があるからね、未だに。現にそいつは、ノンアルコールビールであることがばれてしまって、上役から変な目で見られたらしい。
 各社が出しているノンアルコールビール、確かに冷やして飲むと旨いのだ、どこのやつも。特に去年の夏のような酷暑には昼間からビール風味が味わえるというのは、なかなか良かった。スポーツのあとなんかだったら、第三のビールよりこっちを採るね、私は。ほんのり苦い、軽くてすっきりした飲み心地。
 ただ、冷気がさめてしまうと途端に味が落ちてしまうと思うのは私だけかな。炭酸味は十分あるのに、中途半端に甘い様な感じになって、仄かに漂っていた苦さが変な味わいにあってしまうような気がして。だから、あれは夏限定、スポーツ後限定、キンキン冷え冷え限定の飲み物ということになっている、私のなかでは。
 しかしノンアルコールということは、未成年者も大きな顔をして飲めるわけだから、色々と食を巡る風景も変わるような気がするな。例えば部活帰りにコンビニの前に集まって“酒盛り”をする奴らとか、昼食の時間に珍味とかのおつまみを頬張りながらグイッと一杯やる奴も出てくるかもしれない。そういう風景が日常になったら、先生が注意しても逃げられるし、こっそり本物のビールを混ぜてもわからないかもしれない。うーん、これはゆゆしき問題だ!
 しかし一番問題なのは、本当のビールの味がわからない、ビールの美味しさがわからない人が増えるんじゃないかなあ、ということだったりするんじゃないでしょうか。いや杞憂かもしれないけど、ああいうものばかり普及して、メーカーもそれに力を入れるようになったら、酒の味を楽しむという喜びが減っても何とも思わない人が増えてしまうんじゃないかと。


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 数ある味覚のなかで、子供の頃はわからないけど大人になってからわかる美味しさというのは“苦さ”ではないだろうか。
 例えばコーヒー。幼い頃飲んだときは、真っ黒で変な匂いがして一口飲んだら思わず吐きたくなるような味だったのに、今では一日に何杯も砂糖・ミルクなしで飲んでいる人は多いのではないだろうか。「良薬口に苦し」の言葉のように、子供にとっては馴染みにくい、その良さがわかるには高いハードルがある味覚だと思うのだ。
 ビールに限らず、酒類全般もそうだろう。以前デュランデュランの記事のときも書いたが、ウイスキーの良さというのは、ある程度時間とお金をかけて飲んでみたいとわからないもので、最初に口にしたときは濃厚な香りと苦みに苦しんで、さらに翌日は二日酔いに苦しまないと、その良さがわからないものなのだ!険しい道程なのだよ!(そこまでしなくてもいいよ、という声はさておき)。
 ただその“苦さ”に慣れて、その美味しさが自分のなかに刷り込まれてしまうと、それまで同じに感じていたコーヒーも原料豆や飲み方によって味が違うということがわかってくるし、食器選びなども含めて、味を楽しむということができるようになる。
 ビールにしても、冷えたジョッキで飲む日本の生ビールが一番と思いきや、海外に目を向ければ常温で香りを楽しんだり、ライムを添えてカクテル感覚で楽しめるものもある。琥珀色や黒色、赤みがかったものなどをグラスと組み合わせて楽しむのも面白いと思えるようになってくる。
 要は今までと違う世界を楽しむには、“苦さ”というハードルを超えなければ見えてこないものがあるということ。
 ノンアルコールビールもいいが、あれがビールと思われると困るのだ。温くなったやつを飲んで「やっぱりビールは不味い!」と思われると困るのですよ、酒飲みとしては!
 取り越し苦労でしょうかね。でも、人間の味覚というのは意外と冒険しないもの。一度慣れ親しんでしまうと流されてしまうもんですよ。


 ノンアルコールビールばかり普及すると、一昔前に流行った「一気飲み」というやつは確実になくなるだろう。未だにこんな飲み方をしている団体があるのかどうか知らんが、一度注がれた杯は断れないものだからね。そういう無理強いがなくなるのは非常に良いこと。
 でも“脱・苦さ志向”みたいになったら嫌だな。変に健康的な、とりあえず知らないものを入れるのは心配だから入れません、みたいな感じになったら。
 昔は馬鹿みたいに無茶飲みすることが、ひとつの歌のネタになったりした。時にシリアスに、時にコミカルに。酒の持つ“苦さ”を人生の“苦さ”と重ね合わせてみたり、逆にそんな雰囲気を笑い飛ばしたり、その“苦さ”が音楽のテイストとして色々な風味になっていた。
 「煙草」「電話のダイヤル」「写真のフィルム」……昔はそういうものを題材にした曲も多かったけど、その題材自体がなくなってしまったから、そういう歌もなくなってしまった。そのうち、これらの曲を紹介するときに「煙草というのは昭和時代に流行ったもので…」なんて説明を入れないと通じなくなったりしてね。
 そのうち、ノンアルコールビールを題材にした歌が巷に溢れるのかもしれない。“苦さ”とは無縁の無味乾燥なヒット曲として。



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 地元のFM放送は、土曜と日曜の朝に少し前の歌謡曲を流してくれて面白い。FMというと未だに洋楽や最近の音が中心のイメージがあるのだけどね。英語のMCとか。その番組はそんなものとは無縁、AM的な喋りでコテコテの歌謡曲中心。だから面白い反面、少し困ることがある。
 例えば夜のカラオケで年配の人が歌うようなムードデュエットの曲が流れたりする。『もしかして パート2』とか『男と女のラブゲーム』とか。
 なんだか朝から居酒屋にでもいるような気分になってくる。そういえば『居酒屋』って曲もあったな。五木ひろしと誰かのデュエット。もうちょっと爽やかな懐かしさを感じる選曲にして欲しいのだけどね。
 という私の意見を聞いてくれたわけでもないのだろうけど、こないだの日曜日の朝は、中森明菜の初期の曲がかかっておりました。うん、いいね。昔のアイドル歌手。ここだけの話だけど、かつて好きだったんだよね、この人。
 曲目は確か『少女A』『1/2の神話』『禁区』『北ウイング』、だったと思う。ほら、しっかり覚えてるでしょ。やっぱり好きだったんだ、私。
 で、今聴くと印象に残るのが意外と“泣きのギター”だったりするんだな、間奏部分の。余りにもベタなフレーズなんだけど、絶対入ってたんだよねえ。
 当時彼女は、ツッパリというか不良っぽいというか、小悪魔的なイメージをウリにしていたので、こういうハードロックまがいのギターソロというのが,彼女のイメージを醸し出していたのだろう、余計に。同じく反抗的で暴力的なイメージを喚起する、伸びやかなギターの音というのが。
 でも、当時私は余りこういう曲が好きではなかった。だって所詮歌謡曲、同時期に普通に洋楽も聴いてた私としては、中途半端にロック的な要素は要らないから、もっと彼女自身のヴォーカルを楽しみたかったから、当時のアイドルとしては異色だったスロー&ミディアムな曲の方が良かったのだ。『スローモーション』とか『セカンドラブ』とかね。
 彼女がスターになれたのは、間違いなく反抗的なイメージをウリにしたからだとは思うのだけど、デビュー曲のようにスケールの大きな曲を中心に活動していたら、意外と別のタイプのシンガーになったような気がする。歳をとってからも、少し愛想は悪いけど落ち着いた雰囲気のある、少しアルコールが似合う、いい意味での倦怠感のある歌い手に。
 



 小悪魔的なアイドルにハードロック的ギターソロ。そういうスタイルのひとつの完成形が、これかもしれない。
 少しデビュー年はズレるけども、彼女のように小悪魔的なイメージをウリにした歌手、本田美奈子の曲。
 なんといってもゲイリー・ムーア作曲だもの。マジでギター泣きまくりであります。ここまで来ると少し無理があるような……その証拠に彼女はアイドルを卒業してミュージカル方面に行ったからね。若くして亡くなったのは、皆様ご承知の通り。やっぱり無理してはいけません。




 中森明菜、体調不良で復帰のめどが立たないそうで。身体だけは大切にしてください。若い頃の無理がたたったのではないかと、元ファンとしては心配ではあります。
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 今年のノーベル生理学・医学賞はイギリスのロバート・エドワーズさんが受賞されたそうです。
 なんてニュースを聞いても最初は何とも思わなかったのだけど、この人が体外受精技術の開発が受賞の対象となったということを知ったときは、ああ!あのときの!と、かなりびっくりしてしまいました。
 テストチューブベイビー=試験管ベビーという名前は、世界中で話題になったことは憶えていたからね、幼い私でも。
 あれから30年以上経つのか。
 30年以上前の研究が今頃になって受賞の対象になるというのも変な感じがするけども、元々ノーベル賞というのは、これから未来に発展しそうな見込みのある研究よりは、これまでの過去の功績を総合的に判断して価値があった研究が対象になる傾向があるそうです。そういえば去年話題になった日本人の受賞も何年も前の研究に対するものだったわけで。
 しかし今回の場合は、この30年というの時間の流れがものすごく重いものだったように思うのですよ。早いでも遅いでもなく、色々な事件を巻き起こしながら、人々の思いや考え方を変えながら、混沌とした流れのなかで過ぎていった30年だったような。
 実際の研究は卵子や精子やホルモンを巡る医療の歴史に残る研究であって、そんなに人間をロボットみたいに製造してしまうだけのものではないと思うけど、人間が自然の摂理以外のところで人間自身を作ってしまった!みたいな衝撃が当時はすごかったもの。その研究は、今では不妊に悩む人に恩恵を与える技術として自然な治療方法のように定着しているのだけど、そこに至るまでの間には生命を巡る感じ方というのは、私たちのなかでも変わってきたと思うのです。
 たとえば、最近は出産間もない乳児を遺棄したり、育児放棄で虐待あるいは放置で死に至らしめるというニュースに触れているわけだけど、この手のニュースが毎日のように流されると、最初は怒りや痛ましく思う気持ちがわいてきたはずなのに、そのうち慣れてしまって「ああ、またかよ……」的に流してしまうことって多くなってませんかね。我が身を振り返っても、だんだん不感症的になってきているようで。
 生命を作り出し育てる人間、あるいはそれを見守る周囲の人間も、生命に対する意識が知らないうちに変わってきたように思うのです。
 自然受精であれ人工授精であれ、人間は一度生まれれば育っていくもの、いわば将来という名の未来が一人ひとりに備わってるものでしょう。それが子供であれ老人であれ、楽しいものであれ苦しいものであれ、計画通りであれ予想を裏切るものであれ、まだ見ぬ世界を経験するために人生があるわけで、その人生の出発点である受精を人工的に行うことが認められるまでにかかった30年余りの時間は、同時に誕生以後の人間の人生が軽くなっていた時間でもあるような気がするのです。
 人間の命を人工的に作り出し、不妊で悩む人間を救い、幸せな家庭を築くことを可能にした30年。
 簡単に産んで、簡単に育てることを諦めた荒んだ生活を、眉をひそめつつも許容してしまった30年。
 考え過ぎかもしれないけど、これが表裏一体になって流れていった、重く混沌とした時間だったんじゃないでしょうか。
 そういう現実を受け入れるためにノーベル賞は30年の月日を必要としたのかもしれません。
 
 
 
 
 1980年にPANTAが発表した作品。タイトルはこの試験管ベビーの名前からきたものでした。
 暴力的な匂いのする歌詞を、何かに追い立てられるように性急に怒鳴るPANTAのヴォーカル。
 生と死の間で感じる、これからの人生という未来。
 粗野な暴力と華麗なダンスの間で感じる、生きているという感覚。
 試験管ベビーという新しい人間の誕生の先にある、重く混沌とした時の流れを予感させるような内容は、思えばノーベル賞が30年かかったことを、すでに予見していたのかもしれません。
 

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