BUT SERIOUSLY, FOLKS...京都の地の果てより

楽しみながら苦しみながら、学びながら馬鹿やりながら。

最近の映画は面白くないのかも

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それとも私の感性が衰えてるのかも
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 「私に、このペンを売ってみてくれませんか?」
 もしも目の前に見知らぬ男が現れて、おもむろに一本のペンを取出し、こういうふうに質問してきたらどう答えたらいいのだろうか。
 何とかそのペンをその男に買ってもらわなければならないのだから、そのペンがいかに魅力的なものか、あるいはお買い得なものかということを訴えなければならないのだと思う。とりあえずそのペンがどういうものかはわからないのだけど、多少の誇張や嘘も並べながら、売り文句を考えてみよう。
 「このペンはとても書きやすくて、かつナウでファッショナブルです!」(あまりにありふれてる!しかも死語だ!)。
 「高級素材を使ったペンでものすごく高価なのですが、今回だけ特別に安くお譲りします!」(まるでテレフォンショッピングだ。ついでに「今買うと、もう一本付いてきます!」とでも言ってやろうか)
 「このペンを使うと、肩凝りや腰痛、今の季節なら花粉症も治すことができるんですよ!」(ホンマかいな。怪しげだけど健康にかかわる商品が好きな人は多いから、これがいいかもしれん)。
 色々と答えを考えてみたのだけど、実はこの質問、映画『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のなかで主人公がしゃべる台詞。しかも2回も、それぞれ異なる場面で使っている。
 その対比が面白い。それだけ観たら十分かもしれない。


 ペンというのは何のためにあるものだろうかと、改めて考えてみる。
 ものを書くためという基本的な機能は忘れてはいけない。
 お気に入りのデザインのものを探して、ちょっといい気分になることもある。そのためだけでも役に立つかもしれない。
 そして何より大切なのは、そのペンで書いたもの、あるいはそのペン自体が周囲とのつながりを作ることがあるということ。そのためにペンはあるのだと思う。
 たとえば、そのペンを使って長い文章を書いたり短いメッセージを紙の上に残したり、殴り書きの一文からビジネス上の形式化された書類まで、自分自身が忘れないように書き留めたものも含めて、いつかどこかで他人との意思疎通のための道具になる。そのための欠かせないもの。
 あるいは、そのペンが流行りのデザインだったりすれば、ちょっとした話題の中心になることもある。それ見たことある!どこで買ったの?ちょっと貸して!的な注目を浴びて、お気に入りのペンを褒められれば悪い気分はしないから、色々と答えを返して話も盛り上がる。これもひとつの意思疎通。
 ということは、ペンの価値というのは、そのペンが固有に持つ機能やデザインにあるのではなく、あくまでそれに付随する出来事、今挙げたような他人との意思疎通の役に立つというところにあるのだと思う。
 いわばペンそのものに価値があるのではなく、あくまでペンに価値を見出すのはそれを使う人間の在り方なのだ。そのペンを巡って何かが生まれる可能性を常に秘めている状況こそに価値があるのだと思う。
 文章を書いたり、所有することで話題ができたりして、何がしかのムーブメントができていく。簡単なメッセージのやりとりのような個人間の交流から始まり、やがて大勢の人間を集めるビジネスにまで発展することもあるだろう。そしてそれは皆に満足感を与えて幸せにすることもあれば、詐欺あるいは犯罪行為にも人を陥れる事件に結び付くこともある。
 それでも、あくまでペンはペン、なのだ。
 ペン自体には何の意味もないし、何の価値もない。ただ、それを使った人間たちの人生が互いにつながり、色々な方向に転がっていくというだけで。


 映画『ウルフ・オブ・ウォールストリート』の主人公は、実在する悪徳金融マン。
 無価値な株式を顧客に売りつけたり相場操縦やマネーロンダリングという金融犯罪だけでなく、ドラッグの過剰摂取、至る所で引き起こす常軌を逸した乱痴気騒ぎなどの悪事をやりつくした果てに、今は被害者への賠償活動を兼ねて、何事もなかったかのように各地で講演活動を行っている。ついでにその悪事の数々を自伝にして出版、それをこうして映画化して一儲けし続けているのだから、マトモな人間ではない。
 映画の方も、ドラッグとセックスとお金を巡るエピソードばかりが続く、コミカルで下品な馬鹿騒ぎが満載である。
 ただそんな馬鹿騒ぎを描いた映画のなかだからこそ、冒頭に挙げた主人公の台詞が心に残るのだ。
 「私に、このペンを売ってみてくれませんか?」
 劇中2回も使われる、それぞれの場面で主人公がそこに込めた感情の熱の温度(その熱は下品な悪意に満ちているのだけど、それがまたこの台詞に皮肉な陰影をつけて、まさにブラックユーモアという気がする)というのが随分違うように描かれている。
 一回目は、そのペンというのはあくまで道具のひとつであり価値のないもの、しかしそこから仲間とつながり、騒ぎを起こしながら、ワクワクするようなムーブメントを起こしてやるといった熱の高さ、主人公の高揚感を描き出す。
 二回目は、そのペンはあくまでペン以上にはならないという、一回目とはまったく別の現実。そのペンによって何かつながりが生まれたりするわけではないという熱の低さ、主人公の冷めた感情を描き出す。
 悪意に満ちた馬鹿騒ぎのなかで、同じ台詞に込めた描写の違いに、この映画の魅力が凝縮されている。
 ペンだろうがドラッグだろうがセックスだろうが、そしてお金だろうが、そこに価値を見出すのは、結局は人間の在り方でしかないということに。


 よく世間で言われる言葉に「お金は人間を狂わせる」といった類のものがある。
 確かに誰にとってもお金は大切なもの、それがないと生きていけないのも事実だし、過去の無駄遣いを後悔したり、現在の欲望を過剰に満たそうとしたり、未来への不安を打ち消そうとしたりして、お金を巡る人間の感情は揺れるものだと思う。そこに色々な思惑を持つ他人が集まってくれば、その人の人生は狂ってしまうものなのかもしれない。
 しかし冷静になって考えてみれば、お金というのはあくまでお金、それ自体が価値のあるものではないはずなのだ。
 今必要なものを買い、やりたいことを行う分には、使うお金の額は知れている。もちろんこれは個人差があって、親や子供などの扶養すべき家族はもちろん、家や車などの資産を持っている人はその維持費としての、何か事業を行うために資金を必要としている人は元手となる資本としてのお金が必要なのであって、その金額の差は個々の生活によって違う。
 それでもそれはあくまで、それぞれの人が生きていく上で何が必要かという原点に戻れば、お金の価値など知れているのだと思う。
 その必要性を満たして、初めてお金は価値を持つ。お金そのものに価値があるのではなく、あくまで価値を見出すのはそれを使う人間の在り方なのだ。
 それはまるで、この映画のなかの台詞に出てくる一本のペンのように。
 何の価値もないペンを使った人間たちがそこに価値を見出し、人生が互いにつながり物語となっていくように、お金も人間の人生を動かしていく。ときに危うい方向へと。
 悪徳金融マンの実話を元にしたコメディ色の強い内容にも関わらず、逆にこういうことを冷静に考えさせられるという部分で、この『ウルフ・オブ・ウォールストリート』は皮肉な魅力に満ちた映画なのかもしれない。




 妻夫木聡がいいと思った。
 若さゆえの軽さや屈託のなさ、おばあちゃん子らしい少し甘ったれた雰囲気、そしてきれいな泣き顔。海外の映画賞を受賞した黒木華よりも、自然な喜怒哀楽がある分だけ、彼の方が個人的にはいいと思ったのだけど。


 戦前の日本の中流家庭のなかの人間模様を、当時そこで女中を勤めていた老婆の回想から描き出した映画『小さいおうち』。
 観る前はいかにも戦争反対的なメッセージ、あるいはその時代を生きた人間の悲しさが前面に出たら嫌だなと思っていたのだけど、そういうものは殆ど出てこないで事実だけを追うように淡々と映画は進んでいき、どちらかといえば拍子抜けしてしまう部分がないわけではなかった。
 奉公先の家庭の奥様と、そこの主の会社の若い部下の不倫の場面にしても、なぜそうなったのかという詳細、事細かな心理描写まではわからない。ただ出会ったタイミングが戦前の昭和、戦勝気分に浮かれる日本の住宅地だったというだけで、ありふれた男と女の出会いがそこにあったという感じで描かれていく。
 逆にそれだけに、戦後何十年も経った現在、生き残った人間の台詞が印象的である。
 「長く生き過ぎてしまった」と泣き崩れる、かつて女中として奉公した老婆。
 「この歳になって母親の不倫を知らされるとは思わなかったなあ」と、呆れた様子で涙をこぼす、その老婆がかつて色々と面倒をみた子供で、今は変わり果てた姿で車椅子に座った老人。
 そして冒頭にも紹介した妻夫木聡の表情の変化。若さゆえの軽さや甘さで溌剌とした表情を見せているのだけど、自分が愛し慕った祖母がかつてどれほどまでに苦しんだか、今となってはそんなに苦しむ必要もないと思える些細な事象なのに、それを一生抱え込んで生きてきた祖母の存在の重さにいたたまれなくなり流す涙の表情。
 この映画は紛れもなく、涙の映画、なのだと思う。
 涙の映画などというと、いかにも感動狙いのセンチメンタルさが前面に出たものを連想するけども、何度も書くように映画自体は淡々と進行し、むしろ涙のような湿っぽさを感じさせる内容ではない。
 ただ時代や世代を超えて、地下で脈々と流れている鉱脈のように受け継がれていった涙の軌跡を振り返る大切さを、観客は思い出す。
 かつて涙を流すことさえ許されなかった時代が確実にあったこと、その流されなかった涙が生き生きと流される時代が今ようやく訪れたことを噛みしめる、そういう作品なのだと思う。
 だからこそ、何がしかのメッセージを大々的に前面に出す必要もないし、謎を解くような入り組んだストーリー展開も最小限にとどめておけばいいのだ。
 そこに、時代や世代を超えた涙、があるのならば。


 さて、果たして今は自由に涙を流したりできる時代なのかなあ、と思ったりする。
 この映画は戦前の昭和を舞台にしているのだけど、今の御時勢、そういうかつての時代を美化する風潮が無きにしも非ず、いや、かなり強まっている気がする。
 そこには、かつての戦争での犠牲者を悼むという悪気のない素直な感情があるのだと思うのだけど、それを余りに美化しようとする勇ましさみたいなものも同時に感じる。そこには個人的に胸のうちに秘めて置く悲しさよりも、いかに悲惨で痛ましかったかということを声高に主張する猛々しさがあるような気がする。
 個人的な感情レベルでは、それはそれで構わないのだろうとは思う。
 ただ、それらが集まって、凝り固まって思想的なひとつの力になったとしたら、それはそれで恐ろしい気がする。
 そういう気配を感じさせる時代のなかで、この映画は、涙を流す力を肯定的に描くことで、今の時代の閉塞感から抜け出そうとしているような気がする。
 個人が個人として生きて、それぞれに秘密を抱え苦しみ、その苦しみを世代や時代を超えて共有することで新しい涙が流れていく、そんな人間の些細な力を信じた作品なのかもしれない。
 それだけで十分だと思う。無理に誇らしげに過去を美化することなく、そっと涙を流すだけで。



 映画の冒頭、コーランを唱えるシーンの美しさに、まずは引き込まれる。日本でいえば小学生くらいのであろう女の子たち数人が学校の授業中、スクリーン上で観客と対峙するようにきちんと整列し、高く清らかな声で歌うように唱えられる一節。
 コーランについては詳しくは知らないし、特定の宗教を特別視するつもりはないけども、このコーランというのはイスラム教の経典ではあるのだけど、イスラム教自体は神の教えを預言者が口頭で伝えることで広まっていったという話を聞いたことがある。天から降りてきた神様の教えを預言者が言葉にしたように、イスラム教の信者は同じように言葉にしていき、それが自らの血となり肉となるように日常生活に浸み込んでいく。
 宗教的戒律が厳しいが故の因習というのは、その当事者である信者を苦しめることもあるのだろうけど、日常生活に浸み込んでいる分だけ実人生における支えになることの方が遥かに多いはず。部外者から見ればなんだかよくわからない不自由なものに映るものが、逆に当事者にとっては自由に生きるための重要な心の拠り所になっているということは、別に宗教に限らずよくあることだと思う。あくまで地球上で生きているそれぞれの人間が持つ多様性の問題であって、何が悪くて何が正しいという問題ではないのだ。
 だからこそ、そのコーランを唱えるシーンの美しさが、より一層映える。
 それは時には因習として人々を縛るものにもなるけども、自分たちのなかに浸み込んだ文化として受け入れてきたという存在感の重みも感じさせる。
 そしてこれは、コーランを覚えられず授業中もふざけてばかりの問題児の主人公の女の子が先生に叱られて、その隊列に加えてもらえないシーンであることが、今後の物語を面白くする伏線にもなっている。
なぜなら、そんな出来の悪い主人公が、欲しくてたまらない自転車を買うための資金を稼ぐために、賞金付きのコーランの暗唱大会に出場すると決意するのだから。憧れの自転車を買うためなら苦手なコーランの暗唱の勉強でもするという主人公の快活な行動力もいいけど、逆にいざとなれば賞金稼ぎの機会を与えてくれた、日常生活に根差した宗教の存在の大きさも感じさせる。
 だからこの映画は、宗教的因習のなかで生きる女性の苦しさや、それに子供心に挑もうとする主人公の少女という対立的な図式のもとで捉えるだけでは、片手落ちなのだということがわかるのだ。
 自由とか不自由とか、そういう単純なものじゃない。自由さのなかにも苦しさや葛藤があるし、不自由さのなかにも安らぎや充実感もある。そういう当たり前の事実に気付かせてくれる秀逸なオープニングだと思う。


 主人公の少女が、欲しくてたまらない自転車と初めて出会うシーンが凄くいい。
 壁の向こうを道路を走る車の荷台に積まれた自転車が、その壁に沿うように滑らかに移動していくのが見える。いつも通ってる道のすぐ傍なのだけど、そこに追い付くことを阻む壁があるが故に、その憧れの自転車に追い付くことはできない。そしてその壁を乗り越えたとしても、女の子が自転車に乗るなんて恥ずかしい行為だという、舞台となる社会特有の冷たい視線が、また新たな“壁”となっている現状がある。
 この映画は色々な意味での“壁”が登場する。先に述べたように、女性が自由に自転車に乗れないという因習的な“壁”もあれば、自由に職業を選べない、あるいは選ぼうとしても自らがどうしても躊躇してしまう心理的な“壁”もある。そして自宅の内と外を隔てる物質的な“壁”も当然多く登場する。
 しかしこれらの“壁”を巡って繰り広げられる登場人物たちの葛藤や悩みというのを、この映画は必ずしも否定的には描いていないと思う。そのあたりの心理描写を苦しさとして丁寧に描きながらも、あくまでひとつの現実として、決して重苦しくならないように淡々と描いている。
 だからこそ、その“壁”に囲まれた屋上で繰り広げられる幾つものシーンが印象的である。
 そこで少女は、友達の男の子から借りた自転車を補助輪なしで生き生きと乗りこなそうとするし、彼女の母親は、花火が上がる夜空の下で過去の苦しかった思い出をその少女に語り、なまめかしいくらい美しい表情をみせる。“壁”のなかにいることは苦しいこともあるけど楽しいこともある、そんな人生の当たり前な部分に気付かせてくれる。
 それは意を決して“壁”の外に飛び出そうとすることと同じくらい、それぞれの人間が選んだ大切な人生の積み重ねが“壁”のなかにもあるということなのだと思う。母親のような古い世代から少女のように若い世代へと、これまでも何度なく受け継がれてきた人生のバトンが、時代の移り変わりとともに形を変えていく。そんな新しい期待と夢が詰まった“壁”に囲まれた屋上のシーンだった。


 果たして少女は“壁”を乗り越え、堂々と自転車に乗ることができたのか。
 そして常に彼女と一緒にいてくれた、かつて自転車を貸してくれた男の子は、“壁”を乗り越え、どういう言葉をかけてくれたのか。
 若い世代が描いていこうとする未来は、いつだって美しい。
 でも、その陰には古い世代の人生の積み重ねがあり、日常生活に根差した多様な文化があるのかもしれないと、ふと思った。
 時代の変化のなかで世代を超えて受け継がれる人生の積み重ね、そして新しい期待と夢。これらがあるからこそ、“壁”の内も外も区別することなく、真の意味で自由で豊かになれる時代がくるような気がする。



 困った映画である。この『47RONIN』。
 予告編を観たときから、こりゃ困った映画になりそうだなと思っていたのだけど、予想以上に困った映画になりました。
 

 日本の『忠臣蔵』をモチーフとしたということだけど、予告編を観る限りはそういう雰囲気をまったく感じさせない、CGやヴィジュアルエフェクツ満載のよくあるパターンで食傷気味のファンタジー・アドベンチャー映画という感じだったので、原作の『忠臣蔵』と比較してどうこうと言うつもりはない。むしろそんな比較などは無視して、映画は映画、ハリウッドの娯楽大作としていかにブッ飛んだ弾けた作品になるかということを期待するのみである。
 だから、作品のなかに城の天守閣や五重塔や大仏のように日本文化を象徴するようなものが脈略なく出てくるのはお約束だし、天狗の秘術やら妖術やら出てくるのも一向に構わない。元々の映画の歴史を辿ればそこで描かれる日本人像や日本文化というのは、ハリウッド映画に限らずトンチンカンなものが多いし、そこで出演する日本人役者の演技もヘンテコだったりしても(真田広之ってああいう演技しかできなくなっちゃったのかなあ……何だか可哀想)、こちら日本人としては苦笑いしつつも、あくまでエンターテインメントとして楽しめるだけの要素があれば満足なわけで、それは日本のことなど知らない他の国の観客にとっても同じことだろう。
 ところが、この『47RONIN』を観て困ってしまうのは、ひょっとしたらこの映画、日本の文化を誤解した上で、勘違いのような尊敬の念を表現しているのではないかしら?!と疑ってしまう、面食らう部分があるからなのだ。


 『忠臣蔵』について、目玉となるシーンはいくつかあって、まずは浅野内匠頭と吉良上野介の所謂“松の廊下”のシーン、仇討に向かって潜伏する間の大石内蔵助ら浪士の行動のシーン、そしてクライマックスの浪士四十七士が吉良亭に押し入るシーンの3つだと思うが、この3つについては、こんなものかなと思う。『忠臣蔵』ファンからも“ハリウッド特撮映画”ファンからも顰蹙を食らうかもしれないが、こういう解釈でこういう映像を作ったんだろうなという点では納得できるのだ。
 ところが、この映画でものすごく違和感を感じるのは、(前に挙げた3シーンを代表とする特殊効果を使ったアクションシーンはおざなりで迫力不足なのに)、よりによって切腹シーン、最初は浅野内匠頭、そしてラストの四十七士が白装束を身にまとい、肌を見せ刃を立て自らの命を絶とうとするところが、無駄に映像の流れのなかで無駄に時間と空間を取って描かれているのに、少し驚いてしまった。
 これは明らかに監督や製作スタッフが、日本の武士道らしきものに興味と尊敬を持っているから、こういう風な作品になってしまったのだと思う。
 汚名を着せられた主君の仇を討つほどの家来の忠誠心、磔等の死罪を受けるのではなく自らの命は自らが絶つという潔さなど、ありがちで俗っぽい武士道についての美学の解釈について力点を置いてしまっているのがわかってしまう。
 こういうのって、ファンタジー・アドベンチャー映画には要らないと思う。
 あるいは、もしもこういう要素を取り入れるなら、美学として中途半端に取り入れるのではなくて、あくまでファンタジーとして消化しないと作品に躍動感が出ないのだ。あくまでファンタジーのなかの未知の国である“日本”の、少し変わってるけど見たことのない美しさのあるアクションとしての“切腹”という風に描かないといけないと思うのだが、この作品では、俗っぽい武士道の美学を中途半端に取り入れたために、作品全体のファンタジー性が随分と下がってしまっているのだ。
 ただでさえ『忠臣蔵』なんて日本人の老若男女が知っている、ネタバレな題材を扱っているのだから、このへんは潔くファンタジーに徹して欲しかったと思うのでした。


 と、ここまで書いてて、少し心配になってきた。
 これって日本人以外の観客が観た場合、どういう反応が返ってくるのかな。
 私ら日本人が観た場合、やっぱり無意識のうちに原作の『忠臣蔵』と比較してしまっているんだろうな。原作は無視しても構わないと思いつつも。だから急に武士道を無理やり象徴させるような切腹シーンが大々的にスクリーンに現れると、少し嫌な気分になるのかもしれない。逆に言えば、日本人だからこそ感じる違和感なのかも。
 ところが『忠臣蔵』など知らない日本人以外の観客の大半にとっては、そんな違和感は感じずにどのシーンも観てしまうのかもしれないと思ったりする。それが面白いか面白くないかは別にして。
 ということは、この『47RONIN』という映画は、日本文化に興味と尊敬を抱きながらも、実は同時に悪意を持って接してる、そういう作品なのかもしれない。日本人の観客を嫌な気分にさせる皮肉っぽい意図を込めた作品だったりして?!
 うーん、やっぱりこれは、困った映画だ。






 
 ふるさとは遠きにありて思ふもの、で始まる詩を思い出した。
 なぜか映画『もらとりあむタマ子』を観終わったあとに、脳裏に浮かんだ。


   ふるさとは遠きにありて思ふもの
  そして悲しくうたふもの
  よしや
  うらぶれて異土の乞食となるとても
  帰るところにあるまじや
  ひとり都のゆふぐれに
  ふるさとおもひ涙ぐむ
  そのこころもて
  遠きみやこにかへらばや
  遠きみやこにかへらばや


 室生犀星の作品や人生については殆ど知らないのだけど、どうやら妾の子供だったらしく、そういう子供にとって生まれ育った故郷の金沢の土地というのは優しいものではなかったと思う。だから詩人として名を挙げるために上京し、そして貧困のなか敗北感を味わい帰郷、そして再び上京というサイクルを繰り返していたらしい。
 これは勝手な想像なのだけど、彼の実人生のなかでの故郷というのは優しいものではなかったかもしれないけど、故郷から遠く離れた土地で彼の心のなかに浮かぶ、想像力を巡らせ夢想に浸りながら描かれた“ふるさと”は、繊細で美しい世界だったという気がする。波乱にとんだ人生のなかで創作に取り組み失敗を繰り返しながら東京と金沢の間を往復しているうちに、彼の内面深くに、彼だけの“ふるさと”が強固に出来上がっていたのではなかろうか。
 だからこそ、ふるさとは遠きにありて思ふもの、であり、そして悲しくうたふもの、なのだと思う。
 故郷から遠く離れた場所で、自分だけの美しい風景を思い浮かべる。しかし、その姿は実際に存在するものではないし、帰る場所などないことを思い知らされるだけのものだったりする。そういうなかで唯一自分ができる文学という創作活動を何とか行おうと右往左往している人生の拠り所としての、彼だけのファンタジーとしての“ふるさと”ができあがっていたのだと思う。
 それは、辛い思い出があったであろう実際の故郷や貧しさを強いられる都会での生活の現実に踏み躙られてしまうような、繊細で壊れやすいもの。だからこそ、それを守るために創作を行い、創作を行うことでそれを守り続けたのではなかろうか。
 この詩が室生犀星のことなど知らない人間の脳裏にフッと浮かぶ、それが心の琴線に触れてしまうのは、誰もが皆いずれは生まれたところを離れなければならない(究極として人生の最終である“死”も含む)ということと、そのなかで守らなければならないものがあるということを、痛切に教えてくれるからではなかろうか。
 貧しくても悲しくても、生まれたところに戻ることはできない。
 だからこそ逆に、心のなかの拠り所としての自分だけの“ふるさと”が必要なのだ。今の人生を歩んでいくためには。


 映画『もらとりあむタマ子』の主人公は、東京の大学を卒業して故郷の山梨の実家に戻り、何をするというわけでもなく親のすねをかじりながら生きている、所謂ニート、かつ俗にいう少しイタイところのある女の子。故郷を離れ創作活動に励んだ室生犀星とはまったく異なる、真反対のキャラクターに見える。
 ただ面白いのは、彼女自身は故郷の実家の生温かい優しさに甘えながら、同時にその優しさに嫌悪を感じたり、何とかそこから逃げ出したいという表情を同時に見せること。
 そのために誰かに背中を押してもらいたい、押してもらうことで今の生活から抜け出せる、ほんの一歩でもはみ出すことができるんじゃないかと仄かに願っているのが、そのふてくされ気味の表情から窺えるのだ。
 こういうのって単なる甘えであって、自分のことは自分で決めて、どっちつかずの中途半端なだらしなさから抜け出すべきだとは思う。だから最近の若い奴は、と小言や嫌味も言いたくなる。
 だけど、老いも若きも大概の人はそういう決断を自分で下せない優柔不断さを持っているのではないだろうか。今の生活からはみ出す、新しい人生を歩めるはっきりとしたきっかけが欲しくてたまらない歯痒さを抱くことは多いと思うのだ。
 だからこそ彼女も、心のなかの拠り所としての自分だけの“ふるさと”を必要としているのだと思う。生まれたところとしての故郷を離れ、自分の足で踏みしめるべき新しい土地に辿り着くためのスタート地点としての“ふるさと”。
 時代も舞台設定もまるで違うのだけど、室生犀星がかつて東京と金沢の間を行ったり来たりしながら自分のなかで抱き守り続けた、生きていくための拠り所になる“ふるさと”が、彼女のなかにも芽生えることを彼女自身が一番願っているのではなかろうか。
 そして、それはひょんなことから叶うことになるのだ。
 「合格」−彼女が映画のなかで父親に対して言う台詞。
 これこそが、彼女がその“ふるさと”を、新しい人生の一歩の拠り所を掴んだ証だと思う。


 室生犀星は文壇で成功を収めたあとは、二度と故郷金沢の地を踏むことはなかったそうだ。
 彼の創作活動を支えた、彼だけの“ふるさと”がある限り、帰るところはない、今生きているところしかないという気持ちはますます強くなったのではないだろうか。それは望郷の念としての寂しさや悲しさと背中合わせの、自らに課した文学に向かう姿勢の拠り所にもなっていたのかもしれない。
 映画のラストシーン、生まれ育った故郷の殺風景さのなかで、アイスクリームバーを頬張りながら、主人公タマ子はどこに向かうのだろうか。
 人それぞれの人生がある。そしてそれを支える拠り所も様々なはず。



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