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曽田博久のブログ

懐かしのJAC

JAC(ジャック)とは、JAPAN ACTION CLUBのことである。
何十年も昔に、俳優の千葉真一が設立したアクション俳優の養成所であるが、今の若い人は千葉真一と言っても、名前ぐらいは知っていても映画やTVは見たこともない人が多いいのではなかろうか。新田真剣佑(マッケンユウ)のお父さんと言えば、若い人は分かるだろうが、逆に年寄りは「何じゃ、それ」であろう。
なぜ急にJACのことを書いたのかと言うと、先にご案内した『ごごあめプロュースのクライマガコのための遁走曲』の出演者の大政明日香さんが元JACと作演出の吉永亜矢さんから教えられたからである。JAC出身者は大勢いるので珍しくもなんともないのだが、実は意外なところで明日香さんと縁があることが分かったのである。
儂は昔戦隊シリーズという特撮番組の脚本を書きも書いたり、10年間も書いた。そのシリーズの終わりごろに、『高速戦隊ターボレンジャー』なるものを書いた。
その登場キャラクターの中に『妖精シーロン』という可愛い女の子を登場させた。5、6歳くらいの外人の女の子が演じたような記憶がある。
その当時から、ヒーローショーが日本中で演じられていた。そのヒーローショーの聖地と言えば後楽園である。もちろんヒーローのスーツに入って演じるのはJACである。その後楽園で『ターボレンジャーショー』を公演していた時、何と明日香さんは『妖精シーロン』を演じていたと言うのだ。
何年前のことだとは言うまい。
儂はJACにいたと言うだけで無性に応援したくなったのである。
JACに入っても、誰もがアクションスターになれるわけではない。そのほとんどがスタントマンとなる。主役の身代わりで危険なアクションをこなす。変身物ではヒーローのスーツを着てアクションをする。ヒーローの代りならまだいい。ぞろぞろ出て来る悪の兵隊役などになったら大変だ。冬でも海に飛び込まなければならない。
儂はそういう番組に関わっているうちに、いつしか彼らが好きになっていた。実際彼らは皆いい連中だった。子供番組と言うのは、アクションだけではない。造形屋さんに行けば、シンナーの臭いの中で怪獣作りに夢中の若者がいたし、特撮にも模型を作るのに必死の若者がいた。ピアノ線で吊ったメカを目の色を変えて操っていた。
その若者たちの上にはベテランと言われる大人たちがいた。プロフェッショナルである。彼らもまた若者たち以上に真剣に子供番組に取り組んでいた。真剣に取り組むことが若者たちを育てることであり、将来は後継者になってくれることを願っていたのだ。儂が大好きな『徒弟奉公』の世界があった。厳しい上下がありながら、限りない愛情を降り注ぐ世界。儂は今でも人を育てる基本は『徒弟奉公』だと思っている。
だから、師匠を持たない人を信じない。
JACは養成所だが、危険を伴う世界だから、普通の学校とは違う。師匠は絶対である。その代わり師匠も命がけで教える。明日香さんも女でありながら、そういう世界で育ったのだと思う。だから好きだし。(会ったことないけれど)。だから信じるし、応援するのだ。どうか、皆さんも、時間が許すなら、観て下さい。もう一度宣伝しますね。
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昔『ターボレンジャー』を書いていた時、後楽園でショーをやっていた方のことは全然知らなかった。それが、今になってこんなかたちで巡り合うとは、これだから人生は面白い。今回は観に行けないけれど、いつか必ず観に行きます。

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また台風が来る

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左は前回の台風24号が来る前の写真。去年は白い曼殊沙華が3本咲いたが、今年は5本咲いた。何年も3本しか咲かなかったので、増えて嬉しい。この調子で増えて欲しいのだが、白い曼殊沙華は赤ほどは増えないようだ。
向こうは池。ホテイアオイがここはアマゾンかと言うほど生い茂っている。

右のへたくそな絵は「イチゴの苗の正しい取り方」
親からランナーが伸びると、次々と子供の苗が出来る。それを太郎次郎三郎と名付ける。一番最初に出来る太郎は親の悪いウィルスを受け継ぐそうなので、これは取らない。次の次郎、三郎からポットに受けて苗を育てる。大きくなったら秋になって植え付ける。こうすれば苗代ただでイチゴが出来る。
儂もそうするつもりだったが、暑くて畑に出るのが嫌になった。みるみる雑草が伸び、イチゴも枯れたので諦めたのだが、どっこい何株かしぶとく生きている苗があり、ランナーも伸びて出来の悪い子供を作っている。それが9月28日の下の写真。
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正しい苗の取り方ではないが、適当にスコップで掘り起こし、ポットに移し替えた。
果たしてこんなやり方で取った苗がうまくイチゴをつけるかどうか分からないが、何十本も苗を買うと金がかかってしょうがないので試してみる予定でいる。
農作業は後に残すとどんどんたまるので、台風が来る前にばたばたとやってしまう。
イメージ 510月1日のレタス。
台風24号はまた出雲には雨だけ降らせて和歌山の方へ行ってしまった。ところが、北海道まで行ったのに、やけに吹き返しの風が強く、数日前に植えたばかりのレタスの苗が2本ほど千切れたり、なぎ倒されたりした。



イメージ 6イメージ 7左は大根。10月3日に間引いて一本立てにした。畑先生に次の台風25号が行ってから一本立てにすればよかったのにと言われたが、抜いた後に言われてもなあ。
右の写真は左から、春菊・サラダ蕪・春菊・サラダ蕪と4列に種を蒔いた。
なぜこんな蒔き方をしたかと言うと、春菊と蕪はコンパニオン・プランツと言って、とても相性がいいのだそうだ。
春菊の匂いで、蕪に来る害虫を防ぎ、大きくなった春菊は蕪の風よけにもなるのだそうだ。勿論、農業雑誌の受け売り。これまでは広い畝に蕪だけ植えていたのだが、空いた場所に春菊を植えても問題がないのだから効率的に畑を使うことも出来るわけだ。
イメージ 810月4日に植えた、鈴なりブロッコリーパープルとカリフラワーの苗。4本ずつ。ブロッコリーとカリフラワーもコンパニオン・プランツ。ブロッコリーの間にカリフラワーを植えると、ブロッコリーの害虫が迷ってしまい、ブロッコリーに寄り付かなくなると言う嘘みたいな話。ブロッコリーの間にカリフラワーを密植しても問題ないのだからこれまた結構な話である。
台風25号が来る。これまでの台風は逆行台風以外はことごとく出雲を避けて、出雲の右側を通過して行った。だが、今度と言う今度は日本海を通りそう。出雲の左側を通過して行く。皆、口々に今度はこれまでのようには行かないと言う。そこで、はやばやとブロッコリーに支柱をする。大きい支柱をしたのがブロッコリー。苗が風に振り回されないように紐で8の字結びしておく。カリフラワーには小さい支柱をする。
台風が過ぎてから植えれば支柱もまだしなくていいのだが、来週には早くも妻が外泊で戻って来る。退院した父の弱りぐあいが著しくとてつもなく手間がかかるようになった。風呂でも溺れかけるし。やれる時にやっておかないと、秋は農事の予定がびっしり。大根もレタスもブロッコリー達も天に任せるしかない。畑だけでも順調に行ってもらいたいものだ。

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公演ご案内

来る10月19日〜21日、第8回『午後から雨になるでしょう』プロデュース
朗読公演『クライマガコのための遁走曲(フーガ)』が行われます。

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去年の夏のブログでご紹介した、脚本家の吉永亜矢さんの2年ぶりの公演です。美人で颯爽として、いつも風を切って歩いている、儂の大好きな脚本家です。(脚本家の旦那がいるけれど……)
毎年、公演をしていたのに、2年ぶりになってしまったのには訳がある。
彼女は何年も前から、お母さんの介護をしているのだ。去年は特に大変で、とても公演どころではなかったのである。介護が楽になることはないのだが、今年こそはと頑張って公演に漕ぎつけたのです。
家庭があり、自分の仕事があり、お母さんの介護があり、その上、公演までこなすなんて、儂もどちらかと言うと頑張る方だけど、とてもかないません。脚本家なのだから、脚本を書いて演出家に渡すだけならまだしも、演出もする訳ですから、エネルギーは倍必要です。
ここ2回朗読劇になったのはそこに理由があります。介護をすませ、へとへとになって、お芝居の演出をつけるのはさすがにスーパーウーマンにとっても限界でした。それでも舞台をやりたい。そこで彼女は考えたのです。朗読劇なら可能だと。声に絞ったのだと儂は思いました。秋の一日、彼女の声に耳を澄ませてください。儂は彼女の芝居を観たことがあるし、前回の朗読劇の台本を読んでいるので、上京できないけれど、暗い客席にいるつもりになって想像します。きっと日常では忘れてしまった言葉、しんみりと心に残る言葉、追いかけたくなる言葉……を、聞くことが出来ると思います。
普段お芝居を観る機会のないあなた。秋天の一日、異次元の世界に浸ってみて下さい。

外はかなりの雨。今度の台風もまた出雲は直撃を免れそうだが、いまからこれだけの雨が降っていると言うことは、やはり前回の台風より相当大きいようだ。被害の小さいことを祈るばかり。いい秋を迎えたいものだ。

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第三章 戦国擾乱(4
 
 早速、辰敬は吉童子丸に対面する為、庭を回ってさらに奥まった小庭に通された。
 現れたのはおまんであった。相変らぬ強烈な白粉の匂いが降り注いできた。
「若様はわぬしには会いとうないと仰せられておる」
 見下した驕慢な声も変わらなかったが、そっと上目に見上げた辰敬はそのやつれように思わず目を背けたくなった。
 白粉の乗りが悪いのか、まるで古家の漆喰のように白粉は剥げ落ちていた。深い皺にこびりついた白粉が今にもぽろぽろとこぼれ落ちそうだった。
 京極家を襲った不幸は、満々と膨らんでいた白粉狸をかくも無惨に面変わりさせていたのである。
 それから三日通ったが、吉童子丸とは会えなかった。
 三日目にはいくら待っても無駄なので戻れと言われたが、辰敬はあの美しい人の願いを打ち捨てることは出来なかった。
 雨が降り出したが、小庭に座り続けた。
 梅雨も終わりが近づいた事を教える雨はたちまち辰敬を濡れ鼠にした。
 ぴかっと空が光り、遠く雷鳴が轟いた時、何やら悲鳴が聞こえたような気がした。
 辰敬は耳を澄ました。
 激しく叩きつける雨音を通して、邸の奥から確かに悲鳴と女達の叫ぶ声が聞こえて来る。
「若様」
「吉童子丸様」
「あれえ、お許し下さいまし」
 ただならぬ気配が伝わって来る。
 思わず腰を浮かせると、辰敬は縁に上がった。声のする方へ進むと、奥の一間の前で数人の女房衆がおろおろしていた。
 覗き込むと、おまんが倒れていた。その上に吉童子丸が馬乗りになり、狂ったように扇子で打ち据えていた。吉童子丸の目はつり上がり、容赦なかった。おまんは両手で頭を庇い、必死に許しを請うていた。
「若様、お許し下さいまし」
「黙れ、狸婆」
 薄い唇から吐き出された言葉に、辰敬は思わず噴き出しそうになった。確かにおまんは辰敬が白粉狸と毒づいた憎々しさはなく、ひたすら許しを乞うカチカチ山の古狸に見えたのである。
 言い得て妙である。暫く会わなかった吉童子丸は、幼児の面影は失せ、一回り大きくなり、口も達者になったようであった。
 恨み骨髄のおまんが打たれているのを見るのは小気味良く、留飲が下がったが、吉童子丸の打擲はいつ果てる事もなく続いた。
「失せろ。嫌いじゃ。お前なんか」
 尋常ならざる光景であった。
 初めはざまあみろと思っていた辰敬だったが、いかに若様とは言え、子供とは言っても、度を越しているように思えて来た。抗う事の出来ない家来の、しかも女房衆に対してすべき振舞ではない。
 吉童子丸は七歳になっているはずだ。
 辰敬が御屋形様の前で将棋を指したのが六歳の時で、子供ながら立派に御奉公していたと言う自負があった。
 そう思うと、いくら同情すべき事情があるとは言え、吉童子丸のこの幼すぎる振る舞いに対して嫌悪を覚えた。涙を流しながら耐えているおまんの、白粉が剥げ落ちた、やつれた顔が哀れに思えた。
辰敬は理に合わぬことが嫌いで、正義感の強い子であった。力にものを言わす事も性に合わなかった。
 我慢ならなくなった辰敬は、おろおろしている女房衆達をかき分けると、吉童子丸の前に進み出て両手をついた。
「吉童子丸様、おなごを打つのは武士にあるまじき振る舞いにございます。どうかおやめ下さいまし」
 振り上げた扇子が止まり、吉童子丸がきっと辰敬を睨みつけた。
 おまんも吃驚して辰敬を見上げた。
 扇子を握った手がぶるぶると震えると、吉童子丸は言葉にならない悲鳴のような声を上げて扇子を振り下ろした。
 ばしっと鈍い音がして、辰敬は思わず頬をおさえた。頬が裂けたかと思ったほどの痛みが走り、火傷したように熱くなった。みみず腫れが出来たに違いなかったが、掌で確かめる間もなく、狂ったように扇子が振り下ろされた。
 今度は辰敬が耐える番となった。
 吉童子丸は辰敬の傍らに立つと、さらに激しく辰敬を打ち続けた。
 辰敬は身を庇おうともせず、打擲を受けた。
 扇子はたちまちぼろぼろになり、ばらばらに飛び散ってしまった。すると、吉童子丸は拳を固め、まだ飽き足らぬとばかり辰敬を殴り続けた。
 怒りを駆り立ててしまったのは分かるにしても、正気の沙汰ではなかった。
 おまん同様に辰敬も耐えるしかなかった。吉童子丸が諦めるか、疲れて止めるまで我慢しようと決意していた。その態度は吉童子丸にも伝わるのだろう、ますます吉童子丸は逆上した。
 意味不明の声を喚き続けたが、一段と大きく張り叫んだ時、一瞬、辰敬にはそれが悲鳴に聞こえた。
 はっと見上げた時、吉童子丸は泣きそうな顔をしていた。七歳の男の子の顔であった。
 この時、辰敬は吉童子丸の悲しみの大きさを初めて知った思いがした。五十を過ぎた御屋形様の悲しみは沈黙であったが、吉童子丸は突然の悲劇にどう向き合っていいか分からないのだ。運命の残酷さに怒っているかのようにも思えた。
 辰敬は心の底から思った。気がすむまで打ってくれと。打つことで少しでも悲しみが癒えるなら、これくらいの痛みは喜んで耐えようと。
 が、不意に拳の嵐が止まった。
吉童子丸は小さな拳を左手で押さえると顔を歪めていた。
「若様、いかがなさいました」
 おまんがにじり寄ったが、吉童子丸は振り払って部屋を飛び出した。
 おまんと女房衆達も追いかけて消えた。
 暫く待たされていると、若い女房が引き返して来て、吉童子丸が拳を痛めたらしいと伝えた。骨は折れてはいないが、ひびは入っているかもしれないと言う。
 そう言う訳で、御奉公は暫くまた休みになった。
 
 その六月二十三日の夜のことだった。
木阿弥がいなくなって、狭いながらもがらんとした部屋で、辰敬は眠れぬ夜を過ごしていた。暗い屋根裏を眺めながら、吉童子丸との相性の悪さに呆れていた。余程、星の廻り合わせが悪いらしい。御奉公はもう上手く行かないのではないか。ぼんやりとそんなことを考えていると邸内が騒がしくなった。
 ばたばたと走り回る足音がして、ただならぬ声があちこちから上がった。
 また何か起きたらしい。材宗の悲報がもたらされた夜が甦った。何が起きたのだろう。辰敬は京極家に関わりのない事を願った。これ以上、京極家に災いが襲いかかるのは許して欲しかった。
 その時、バーンと土間の片開きの戸が開き、
「一大事や」
 と黒い影が叫んだ。
「右京兆はんが殺されはったそうや」
 辰敬は弾かれたように跳ね起きた。
「えらいこっちゃ。えらいこっちゃで」
 と駆け去った声は次郎丸だった。
 その声を聞きながら、辰敬は全身から力が抜けて行くのを感じていた。みるみる身体も冷え、夜気もまるで真冬の寒気が戻ったように感じられた。辰敬はぶるんと身震いすると茫然と呟いた。
(そんな馬鹿な……管領細川政元が殺されたなんて……。半将軍と呼ばれ、公方様や天子様さえ恐れる、権勢並ぶもの無き細川一門の当主が……なぜ、一体誰がそんな恐ろしい事を……)
 
都の夜を震撼させた惨劇は細川屋敷の湯殿で起きた。
 政元は丹後に出陣したが、一色義有が和睦を申し出ると、その交渉を武田元信に任せ、和議も整わぬうちに、五月の末には澄元とともに帰洛していたのであった。
 澄之は丹後に残り、義有の重臣石川直経の籠もる加悦(かや)城を包囲していた。他にもまだ丹後で戦っている者がいるのに、都に戻った政元はそんな事は忘れたように、猿楽や連歌会などの遊芸に憂さを晴らしていた。
 一心に打ち込んでいる事と言えば、飯綱の修行の他にはなかった。天狗を祀り、修験道の霊地となっている愛宕山への信仰はいや増すばかりで、近年、毎月の参詣を欠かす事はなかった。
 その愛宕の縁日を翌日に控えた夜遅く、政元は湯殿で潔斎の行水をした。それは愛宕の縁日の前夜に必ず行われる決まり事であった。
 そこを、その夜の湯殿の警固をしていた竹田孫七の刃が襲った。政元は一刀の許に斬り捨てられた。政元、四十二歳。あっけない最期であった。
 黒幕は香西元長と薬師寺長忠で、もちろん澄之とは示し合わせてのことであった。
 翌朝、香西元長率いる軍勢は細川澄元の屋敷を襲った。
 この時、政元の三人目の養子細川高国と淡路守護細川尚春は幕府の警固に当たり、澄之澄元両派のどちらにも与みそうとはしなかった。戦いの帰趨を見守ったのである。
 激戦は数刻に及んだ。
 剛の者香西元長の怒涛の攻撃を、負けじ劣らじの剛の者三好之長は必死に凌いだ。
 陽が傾きかけた頃、決死の覚悟の馬廻りの者に守られ、澄元と三好之長は命からがら屋敷を脱出した。追撃を振り切り一散に近江を目指し、甲賀の山中為俊の許へ逃げ込んだのであった。
 京兆家の家督争いが澄元有利に進むことへの澄之派の焦りが引き起こした事件であったが、そこには三好之長を筆頭とする阿波者の増長に対する反発もあったのである。
 薬師寺長忠は先に政元に謀反を起こした薬師寺元一の弟である。兄が背いた時、兄につかず政元に忠誠をつくしたので、元一が死んだ後も、兄の跡を継ぎ、摂津守護代を任されていた。
 ところが細川澄元が摂津守護となると、三好之長がまるで自分が守護代になったかのように振舞い始めたので、之長への憎悪を膨らませていたのだ。
 細川一門の内衆でもないのに増長する之長と、我が物顔の阿波者に対しては、細川一門は苦々しく思っていた。それを許している政元への懐疑を抱いている者達も多かったから、養父暗殺の道義は別にして、正面切っての非難の声は小さかった。
政元は修験道に没頭し、政への情熱を失っていた。加えて、気まぐれな言動で周囲は翻弄され続けていたから、人心はとっくに政元から離れていたのだ。
しかし、政元は余りにも巨大な存在であったから、突然、その重しが消えた時、誰もが身の処し方に戸惑った。ひとまずは息をひそめて成り行きを見守ったのであった。
 ところで、澄之はこの事件の前にようやく石川直経との和議に漕ぎ着け、丹波へ引き上げていた。その上での暗殺決行であった。
 七月八日、澄之は丹波から入洛した。将軍足利義澄から御内書により家督を認められたからであった。
 澄之は洛中崇禅寺の遊初軒を居に定めた。ここは八代将軍義政の子で、若死にした九代将軍義尚の旧御所だったこともあった。細川政元が十代将軍義材を押し込めにした後、十一代将軍義澄を擁立した所でもあった。
 翌日、澄之は細川一門の棟梁たる京兆家の家督として、義澄に拝謁した。澄之、十九歳であった。
 その報を受けた時、辰敬の眼前に昨日の澄之の姿がまざまざと甦った。
 辰敬は見物の最前列に立っていたのだが、目と鼻の先を通り過ぎる馬上の澄之に圧倒された。そこにあるのはただの十九歳の輝きではなかった。父を殺し、父に取って代わった若者の剥き出しの生命力だった。辰敬とは数年違いの若者が放つ、触れれば切られそうな刃の如き若さを、辰敬は九分の畏怖と一分の憧れが籠もった目で見詰めたのであった。
背伸びしたがる辰敬は、十九と言う数字はすぐにも手が届きそうに感じていたのだが、その十九歳の光は別世界の別な人間が放つものだったのである。
 真夏の灼熱の光に打たれながら、辰敬は昨日の感慨を改めて噛みしめ、眩暈を覚えるのであった。
 七月十一日、澄之は政元の葬礼を執り行った。
 京極家中は政元の死に対して冷ややかだった。
 なぜなら、京極材宗と京極高清の北近江での最後の戦いの時、管領細川政元は高清方に付き、援兵を送ったからであった。
 材宗が敗れ、和睦を余儀なくされたのは、政元のせいと家中は恨みに思っていたのだ。
 この春、材宗が自害に追い込まれ、その思いはなおさら強くなっていたから、天罰が下されたのだと言う者もいた。
 その気持は辰敬も良く分かるのだが、辰敬には打ち消し難い感慨があった。正直に言うと、政元の死が残念でならなかったのだ。
管領細川政元を見た事もない。どんな人間かは噂でしか知らぬ。近年は悪評しか聞かぬ。その通りの人間だったかも知れぬ。
 それでも辰敬は期待していたのだ。政元が魔法使いである事を。
 上洛したばかりの少年が、政元に抱いた憧れを、政元には叶えて欲しかったのだ。
 飯綱の法を自在に操り、全知全能の魔法者として君臨する姿を見たかったのである。
 素朴な考えだが、魔法使いの管領がこの世を統べれば、戦いのない、平和な世が実現するはずだ。
 だが、現実は冷酷だった。
 魔法使いはいなかったのである。
 辰敬は思った。魔法使いがいないのなら、神仏もいないのではないかと。余りにも恐ろしい考えに、辰敬は思わず身震いした。
 しかし、そう思わざるを得ない現実があった。武士は戦いに明け暮れ、民百姓は貧しさと飢えに苦しんでいる。巷には嘆きと怨嗟の声が渦巻いている。
 世はまさに末世であった。
 この先どうなるのか。一体どこまで続くのか。辰敬は怯えた。
怯えていたのは辰敬だけではない。誰もが怯えていた。
上は天皇から下は乞食に至るまで、明日さえも判らぬ世に。最も怯えていたのは武士かもしれない。
 澄之派は細川宗家の家督となったものの、細川一門も幕府も固める事が出来ないでいた。 そもそも今回の主殺しも、焦りと主への不信感が高じて引き起こしたものであり、十分な計画が立てられていたとは言えなかった。周囲への根回しもなかった。傍からは暴走としか見えない行為だった。
 しかも、澄之には常に出自の問題が付きまとっていた。澄之は関白九条家の出身である。公家の血を引く者が、細川一門の棟梁となったことへの不満は強くなる事はあっても減る事はなかった。
 澄之派は公家の血を引く者が管領となれば、武家と公家が力を合わせて安定した政権を築く事が出来ると主張したがなかなか受け入れられなかった。
 では、反澄之派が澄元支持かと言えばそうでもなかった。細川一門の中で、阿波細川家が突出することへの警戒感も決して消えることはなかったのである。
 近江の甲賀へ逃げ込んだ澄元と三好之長は早速反撃の態勢を整えつつあった。南近江の守護六角高頼と手を結び、近江の国人を糾合し、細川一門や近国の有力者、寺社などに反撃の檄を飛ばした。
 澄之派も勢力拡大に励み、応戦の準備に全力を挙げた。
 洛中の武家屋敷は濠を拡げ、櫓を建てた。
 普段は武家御所も守護大名達の屋敷も一切の武装はしないものと決まっていた。それは、武装しないのは、世の中が平和に治まっている証しと思われたからであった。武装するのは世が治まっていない証しで、為政者としては失格とみなされたのだ。
 それゆえ、屋敷の周りに濠を掘り、櫓を建てる事を、都人は城を築くと言った。
 だが、ここに至っては綺麗事を言ってはいられず、皆、こぞって城を築いた。
 連日、埃を巻き上げて早馬が走り抜け、流言飛語は飛び交い、誰もが疑心暗鬼に駆り立てられた。
 誰が敵で誰が味方で、誰を疑い誰を信じていいのか分からなくなっていた。
判っている事はただ一つ。誰もがこのままでは終わらぬ事を知っていた。これから本当の戦いが始まる事を。
 誰もがほうろうで炒られる豆粒だった。焼けたほうろうの上で、むやみに弾け、跳ね回っているのであった。
 暑い夏はますます熱く、都全体が一つの巨大なほうろうだった。

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96歳頑張る

96歳の父が18日に入院した。
この夏の暑さがこたえたのか、食欲が減退気味だったが、先週末、ついに何も食べれず、水も一口も飲めなくなった。
儂には一切弱気なことは言わないのに、丁度助っ人に来ていた娘には「入院したい」とか「年を取ることがこんなにきついこととは思わなかった」と言ったそうだ。
妹は今月は忙しくて休む予定だったのだが、衣装の入れ替えなど儂には出来ないと思い、急遽無理して来てくれたのだ。虫が騒いだと言っていた。
儂の妻も外泊で戻って来ていたし、娘夫婦も来ていたから、こんなに弱った父を抱えて、もし儂一人だったらと思うとぞっとした。
「入院したい」と弱音を吐いたのが、15日の土曜日。16日が日曜、17日は祝日。
16日は一旦元気が戻ったように見えたが、17日はもういけない。訪問医に相談してひとまず点滴してもらうことに。
ところが点滴の針が刺さらない。
看護士さん曰く。「水分がなくて、血管がぺしゃんこになっていてなかなかうまく刺さらなくて……」
血管がぺしゃんこなんて初めて聞いた。
16日娘夫婦は帰京。
18日、訪問医が紹介状を書いてくれて、徳洲会病院に入院できた次第。妹も用事があるのでこの日に戻る。
病院では早速点滴を打つ。
すると、お昼にはハーフ食だが、ぺろりと平らげる。二日連続点滴を打ったからだろうか。ひとまず胸を撫で下ろす。この年で入院したら寝たきりになってしまうと聞いていたので、それを一番恐れていたのだが、手術をしたわけではないので案じるほどではなかったのかもしれない。点滴も19日で終わる。治療計画書ではおよそ1週間で退院予定とはなっているが、主治医とも面談したが、今回の不調の原因がこれと言ってはっきりと特定はできないとのこと。
数値的にも画像的にもそれほど悪いものは見当たらないのだそうだ。
もしかしたら「老衰かもしれないが、老衰なら直す方法はない」ようなことを告げられる。確かにこればかりは誰も避けられない。一番聞きたくない言葉だったなあと思う。96歳で要介護1、療法士さんも驚いていたが、衰えは確実に迫っているのだ。
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リハビリは19日から始まっていて、ベッドの上でマッサージを受け、足を曲げたり延ばしたりする。その後、足に5キロの重りをつけて、ペダル漕ぎする。
廊下で杖を突きながら歩行訓練もする。専用のリハビリルームが6Fにあるので、次はそこで訓練するそうだ。しっかりリハビリしてくれているので安心する。
ところが、21日に儂に異変が。
夜中に何度もトイレに通い、明け方には耐えがたい腹痛に襲われ、激しい下痢に見舞われる。この日、儂はかかりつけ医の病院で、エコーを受けることになっていたのだが、起き上がることが出来ない。儂が病気になると言う、この家では絶対に起きてはいけないことが起きたようで、儂は焦りに焦りまくる。
その後もトイレに通い、最後は布団にくるまって寝ていたら、お昼ごろには何とか起き上がれるようになる。エコーは2時からなので、何とか間に合う。
エコーでは胆のうのポリープは異常なし。10年近く飼っているのだが、大きさは変わらず。あらたにすい臓に嚢胞が見つかったが、心配は無用。ただ、脂肪肝が見つかる。これは、正直ショックである。儂みたいにほとんど酒飲まない人間に出来るなんてどうにも納得が行かない。
その後、かかりつけ医から『腸感冒』と診断され、腸炎の薬などを出してもらう。
出ました!『腸感冒』!以前、このブログで、『秘密のケンミンショー』で「島根の医者は風邪を腸感冒という」と紹介されたことを取り上げ、いつかなぜ『腸感冒』と言うようになったか、そのうち先生に訊いてみると書いた。帰郷して『腸感冒』と言われたのは、これで二度目である。聞くチャンスだったのだが、混んでいたし、父の見舞いにも行かなければならなかったので、また次の機会にすることに。
病院には毎日顔を出しているが、特養もほったらかしにしておくわけには行かない。
22日は妻が特養に戻って4日目なので儂としては絶対に顔を出してやらないといけない日である。声だけで儂と分かってくれるとほっとする。久しぶりに天気が良くて散歩も出来たが、便失禁あり。ちょうどお昼ご飯の準備で忙しい時に、スタッフに頼むのも気が引けたので、自分でやってしまう。十何年やっているから、こんなこと何でもない。
その後、病院へ。出雲市の西から東まで横断。
今日はリハビリ休みの日。少し歩かせようかと思ったが、今日はやりたくないと言うので無理はさせず。おやつやバナナ、幼児用ジュースが欲しいと言うので、明日はおふくろを連れて見舞いする時、届ける予定。それだけ元気が出た証か。
ところで、脂肪肝対策も今夜から始める。
先生は運動をしろと言う。儂には一番縁のない言葉。これまでそんな時間がないと諦めていたのだが、そうも言ってられない。そこで夕食後、歩くことから始めることに。今夜は15分歩いて引き返す。30分の散歩から始める。ただ、これを冬の出雲で続ける気はない。ある程度、体力が出来たところで、体育館やプールの運動に切り替えようと思っている。本当に儂は忙しくできている人間なんだなあとつくづく思う。

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