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曽田博久のブログ

収穫の季節

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左)6月4日、玉ねぎが倒れたので、全部、抜く。大和路ツアーへ行っている間、乾燥して、戻って来てから干す。
右)わけぎ。これも大和路ツアー前日に全部引っこ抜く。乾燥させて秋まで保存。
秋に植え付けする予定。酢味噌和えにして食べたら美味かったので、沢山植え付けする予定である。
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ツアーから戻って来た翌朝、池をみたらギンヤンマの抜け殻が団子状態。オタマジャクシが異常発生しているので、ヤゴたちは、オタマジャクシを餌にすくすく育ったのだろうか。
ただ、この調子だと、池が殿様ガエルだらけになりそうで、どうなることやらと心配している。藻エビの姿が見えなくなった。カエルに食われたのだろうか。生態系が変わってしまって風情がなくなりそう。
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イメージ 6出雲へ戻って来てから、乾燥した玉ねぎを束ねた。
出来は期待外れ。とても大きい玉ねぎが出来ると言ううたい文句に惹かれて、植えた『アトン』なる銘柄であるが、毎年植えている玉ねぎより小さいくらいである。今年は肥料をやる時期は守ったし、肥料も例年通り化成肥料をやったのだが、どこがいけなかったのかさっぱり分からない。地味が痩せているのかもしれない。お隣さんみたいに、農協からトラック一杯分の堆肥を買って鋤き込まないといけないのかも。
今年から、玉ねぎの吊るし場所を台所の横の窓の外にした。
見栄えのいい玉ねぎばかりで、これで収量の6割ぐらいか。
👈6月16日。
どさっとすごい音がしたと思ったら、玉ねぎが落下。玉ねぎを吊るすのは毎年庇の下に固定した竿だったのだが、そこが北向きで湿気が強かったので、今年から東向きの陽当たりもよく、風も通る場所にした。ただ、玉ねぎを吊るす支柱を固定せず、フックをつないだものに引っ掛けていただけなので、風に煽られて落ちてしまったようだ。うんざり。
14日から妻が外泊で戻って来ている。一日中家に居て、空いた時間に農事に集中できるのだが、さすがにやり直しする気が失せて、ケースに入れて放り投げている。
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ナスは普通は側枝は2本の支柱を斜めに差して固定する。ところが、例のトマトの脇芽を垂直に縛り付けて栽培する人が、ナスの側枝も垂直に縛り付けて栽培する方法を紹介しているではないか。
いちいち側枝に斜めの支柱を当てるのも面倒だなあと思っていたので、早速、飛びつく。ナスの側枝はトマトの脇芽のように次から次へとは伸びないので楽そうに見える。これで肥料をやらなくても、ナスが沢山出来ると言う。
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左)トマト。かなり大きくなった。左から5〜8本目までが、トマトの脇芽を垂直に縛り付ける栽培法。沢山の脇芽がジャングル状態で果たして能書き通りの効果があるのかどうか、実に怪しい。一応、ミニトマトが出来てはいるが、他の栽培法と比べたらとても小さい。こんな状態だと、ナスの垂直栽培もあやしいものだ。
右)坊ちゃんカボチャ。ツルが伸びて来たので、藁を敷いている。
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イチゴはランナーがすごい勢いで伸びている。このランナーに出来た苗を秋になったら植え付ける。次回からは苗代がただになる。ランナーに出来る苗をどうやって育てていいのか分からない。時間があるからぼちぼち研究しよう。
あとはじゃが芋の収穫だが、これがまた怪しい。一番沢山植えた『はるか』が全然成長していない。じゃが芋新農法もダメっぽい。参ったなア。

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大和路2日目、3日目

2日目は、ザ・橿原(ホテル)⇒橿原神宮⇒飛鳥坐(あすかいます)神社【桃〇E】⇒
多武峰観光ホテル(昼食)⇒談山神社【桃〇F】⇒大神(おおみわ)神社【桃〇A】⇒
薬師寺⇒夜は飲み会
しかし、この日は終日雨。濡れながら、歩く歩く。
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古い神社ばかり探訪する中で、一番新しい神社(130年前創建)を見学。新しいから宝物館も小さく、見るべきものなし。ここが新しい神話になることがあるのだろうか?それはまたいつのことか?

神賀詞で、賀夜奈流美命(カヤナルミノミコト)の御魂を坐した飛鳥の神奈備を訪ねる。飛鳥坐神社【桃〇E】には事代主(コトシロヌシ)神、高皇産霊(タカムスビ)命、飛鳥三日比売(アスカミカヒメ)命、大物主命を祀るとされている。アスカミカヒメがカヤナルミノミコトであると言われている。平安初期に移築されているので、神奈備山がどの山か諸説あり、どこに建てられていたのかも不明。
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雨の中、明日香の町を行く。

中央
明日香の町は遺跡や寺社等が普通にある。



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神主さんから話を聞くことが出来たが、「オオクニヌシは国譲りをしたので、出雲にやられたのです」と、まるで用がなくなったので、追い出されたのだと言わんばかり。同行の仲間はなんちゅう言い草だと呆れていたが、私はこれが大和の人のごく普通の感覚なのだと思った。大和の人はオオクニヌシは大和の神と思っているのだ。
こういう言葉が何の疑いもなくあっさりと出て来るのを聞けただけで、今回の研究旅行の意義はあったと思う。
ところで、ここの神主さんの姓は飛鳥、なんと87代と言う。出雲国造の千家さんが
84代だから、俄かには信じがたいが……。昔は立派な社であったらしい。古代の法令では、「飛鳥坐神社が四つの子社の修理をしているように、大きな社は子社の修理をしなさい」と名を挙げられているくらいであったが、そのうちさびれてしまい、20年前まではぼろぼろだったらしいが、吉野町からダムで水没する神社をそっくり買って移築したものだそうだ。今は天狗とお多福が悩ましい踊りをするお祭りで評判になりそこそこ潤っているような気配はあったが、実際はどうなんだろうか。神賀詞とはかけ離れた神社になっていた。

この次に、多武峰(とうのみね)で昼食を摂り、談山神社へ。【桃〇F】
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多武峰観光ホテルの食堂から、道路を挟んで談山神社を望む。雨が降り、ガスが出る。雨に濡れた緑は鮮やか。神賀詞とも出雲系の神とも関係がない神社。なぜ行くことになったかと言うと、勉強仲間に藤原さんと言う人がいて、自分の先祖は藤原不比等と主張。なれば、藤原氏の祖の中臣(藤原)鎌足と中大兄皇子が、蘇我入鹿を倒すための密談をしたと言う談山神社を見たいと冗談みたいなことを言ったのが実現したものである。昼食後、皆、雨に濡れながら笑って見学。
この裏山が談山(かたらいやま)と呼ばれている。この山の中で二人は密談したと言われている。

この後、バスは桜井市へ。三輪山【桃△A】と大神(オオミワ)神社【桃〇A】へ向かう。今回のツアーで、私が一番行きたかったところ。神賀詞では、冒頭にオオナモチ(オオクニヌシ)は自分の和魂(にぎみたま)をオオモノヌシクシミカタマとして大三輪の神奈備に坐し、三人の子と合わせ、天皇の御世の守り神とし、自分(オオクニヌシ)は杵築の宮に静まると誓っている。三輪山に坐すのはオオクニヌシのいわば分身であって、中心となる場所なのである。私が一番注目するのは三人の子の坐す神奈備が今や不明なのに、オオクニヌシの分身の坐す神奈備が三輪山とはっきり分かっていることである。即ち大神神社の御神体は三輪山なのである。これは古代日本人が山や岩などに神が宿ると信じた原初の信仰を今に残していることになる。それゆえ、大神神社には本殿はなく、あるのは拝殿と鳥居だけであり、日本最古の神社とされている。それをこの目で確かめたかったのである。
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左、車の中から写した三輪山。太い柱は大神神社へ行く道にある大鳥居の柱。
右、大神神社の拝殿。普通はこの裏に神様の御神体がある神殿や本殿があるが、この拝殿の裏はすぐ三輪山である。三輪山は禁足地であるから入ることは出来ない。ゆえに拝殿と裏山の間には結界がある。
イメージ 12その結界になっているのが『三つ鳥居』と呼ばれる鳥居である。拝殿のすぐ裏にあるが写真撮影禁止。
左の写真がその模型である。
なぜ、こういう形をしているかは分からないそうだ。文献なし。三つ鳥居の礎石は鎌倉時代か、平安時代にまでさかのぼれるそうだ。
三輪山の頂や、中腹、麓には大きな岩がいくつかあり、いわゆる磐座(いわくら)となっているそうだ。山や磐座を信仰したことが窺える。古墳時代からの祭祀の遺跡がある。
藤岡先生に確認したが、出雲国風土記でも399社の社の名前が上がっているが、杵築の宮(出雲大社)は別格として、社の形をとっていたのは5つか、6つぐらいで、残りのほとんどは、山や岩、木などを直接神として拝む形式だったらしい。
当初の目的である原初の信仰の名残を確認できた。
三輪山の南面には出雲の地名が残っている。北西には纏向(まきむく)遺跡があるが、ここには古くは出雲庄があったそうだ。
奈良には出雲以外にも、石見、飛騨、土佐などの地名が残っている。これは平城京の建設に動員された地方の民がそのまま都に残って住み着いたからだそうだ。

雨ますます激しくなる中、夕方、薬師寺へ。
藤岡先生のつてがあって、東塔の解体修理現場に入ることが出来る。最上階まで上がって、修理中の東塔を見下ろす。撮影は許可されているが、ネットに掲載することは不可。その後、玄奘三蔵院伽藍も見学する。5時に閉めるのに、20分もオーバーして見せてもらえる。平山郁夫の遺作を鑑賞することが出来た。閉館後の我々だけの静かな鑑賞は得難い空間で、一生の思い出になった。
この日、ずぶ濡れになりながら、歩いた歩いた。とどめが東塔の修理現場のスロープ登り。1万3千歩ぐらい歩いたそうだ。

3日目最終日は東大寺大仏殿と奈良国立博物館。イメージ 13
広いからここも歩いた。博物館も歩かないと見ることが出来ない。東大寺は杉並区立向陽中学時代以来の訪問。小学生と中学生の修学旅行と中国人ばかり。大変な混雑。
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奈良国立博物館は平安の正倉院と言われる春日大社の宝物の展示であったが、私にとっては掛け軸や絵巻物などで、神仏習合の具体的な様子が分かったのが最大の成果であった。いくら本を読んでも、神仏習合は分かりにくい。それが、仏教の側から描かれていたり、神様の側から描かれていると、一目瞭然だったのである。
日本の歴史において、実は神仏習合はとても重要なことだったのではないかと、最近になって見直している。これも出雲国風土記の勉強を始めてからである。今回は出雲国風土記を学ぶものにとっては王道を行く学習旅行であったと思う。
昼飯食って、出雲に戻る。
夜の8時過ぎ、真っ暗な荒神谷博物館に到着。
「あっ、蛍だ」女の人の声で星のない夜空を見上げると、一匹の蛍が舞っていた。

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大和路1日目

6時前に起きて、荒神谷博物館へ。7時出発。松江駅に寄ってから、一路奈良県の御所市を目指すが、その間、30分ずつ2回、引率の藤岡大拙先生の講義がバスの中である。先生、86歳。敬服する。
イメージ 2今回のツアーは大和路に残る出雲の神々を訪ねるのが目的であるが、真っ先に問題になるのは当然の如く、なぜ大和に出雲の神々が祀られているのかと言うことである。
一番妥当な考えは、国譲りをした見返りに出雲の神々が勧請され、天皇を守る大切な役目を与えられたと言うものである。これまでは、この考えが一般的で、広く受け入れられて来たのだが、それに対し、出雲系と言われる神々はもともと大和で生まれたという説がとなえられるようになる。
たとえば、オホナモチ(オオクニヌシ)の子と言われている事代主(コトシロヌシ)は鴨氏の神であった。コトシロヌシは鴨氏にとって代わった葛城氏に受け継がれ、その葛城氏は蘇我氏にとって代わられる。蘇我氏が滅んだ時に、蘇我氏が信じていたスサノオやオオクニヌシは追放されたと言うものである。これを過激に主張したのが梅原猛であるが、近年、大山誠一と言う考古学者が、蘇我氏の持っていた神話が出雲神話の元になっていることを精密に主張している。詳しくは説明しきれないので、「神話と天皇」(平凡社)を参考書としてあげておく。
私もコトシロヌシが鴨氏の神であったことを知った時から、なにかしっくりこないものを感じていたので、今では大山説に傾いている。
そういう問題意識を抱きながら、まずは神賀詞(かんよごと)に登場する神を中心に出雲の神をまつっている神社を訪ねた。
イメージ 1桃△A 三輪山
桃〇A 大神神社
桃〇B 鴨都波神社
桃〇C 葛城一言主神社
桃〇D 高鴨神社
桃〇E 飛鳥坐神社
桃〇F 談山神社
桃〇G 大名持神社
桃×H 河俣神社
茶   伊勢街道


緑△イ 耳成山  緑△ロ 畝傍山  緑△ハ 天香具山(大和三山)

神賀詞では、オホナモチ(オオクニヌシ)が自分の和魂(ニギミタマ)を大御和の
神奈備(かんなび)【桃△A 三輪山】に、子のアジスキタカヒコネノミコトを葛城の鴨の神奈備【桃〇D 高鴨神社】に、コトシロヌシノミコトを宇奈堤(ウナテ)に、【桃×H 河俣神社】、カヤナルミノミコトを飛鳥の神奈備【桃〇E 飛鳥坐神社】に、皇孫の守り神として置き、自分(オオクニヌシ)は杵築宮(出雲大社)に静まるとある。
今日はそのうち神賀詞に関係あるのは【桃〇D 高鴨神社】のみ。【桃×H 河俣神社】には行かず。なぜ行かないのか、藤岡先生に尋ねたら、先生が後から見た時はコースが決まっていてしまったそうだ。行きたかったのになあ。

お昼に御所市に到着、「柿の葉寿司」を食べてから、葛城一言主(カツラギヒトコトヌシ)神社へ。
今日はC⇒D⇒B⇒G⇒橿原市と移動する。
鴨氏の神社でコトシロヌシとワカタケル(雄略天皇)を祀る。出雲の神様と思われているコトシロヌシが大和の神社に祀られている例の一つとして、見学する。
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神社の中にはいくつか蜘蛛塚がある。神武天皇が東征した時、抵抗した勢力を土蜘蛛と呼んだ。蜘蛛塚の蜘蛛とは滅ぼされた土蜘蛛を意味する。


次に行ったのが高鴨神社。神賀詞に関わる場所である。
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神賀詞ではアジスキタカヒコネ(オホナモチ=オオクニヌシの子)の御魂を葛城の鴨の神奈備に坐したとあるが、神奈備はおそらく山と思われるが、どの山か分かっていないようだ。後に高鴨神社の祭神はアジスキタカヒコネに加えて、三坐が加わる。
下照姫(オオクニヌシの娘)、天雅彦(アメノワカヒコ・下照姫の夫)、田心姫(タジリヒメ・オオクニヌシの妻)を祀り、四坐となる。天雅彦は高天原の神だが、葦原中津国を征服するために様子見に派遣されたが、オオクニヌシに篭絡され、下照姫と結婚して高天原に復命しなかったという神である。出雲系の神に入れてもいい。ここでも登場するのは出雲系と言われる神である。
右端の殿舎の赤い色のR型にカーブした棟を見た同行の人が、一枚板でこのようなカーブを作り出しているのは大したものだと褒めていた。

この後、小一時間かけて、吉野町の大名持神社【桃〇G】へ行く。
伊勢街道を吉野川(和歌山県に入ったら紀の川)沿いに東へ走る。
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大名持とはオオクニヌシのことであるが、この名の神社は出雲にはない。
上の地図では分からないが、奈良県全図で見ると、この神社の位置は奈良県のどまんなかにある。東へ行けば伊勢へ100㎞、伊勢への最短距離にある。地理的に重要な位置にあることが分かる。
三大実録(859年)によると、正一位を賜っている。大和国で神階が大名持神社を越えているのは春日大社一社だけであった。これを見ても如何に重要な神社であるか分かる。
そんな特別な神社にオオクニヌシが祀られる意味を、次に行く飛鳥坐神社や三輪山&大神神社を見ながら考察する。
神奈備は神社の裏の山で「妹山」と言う。忌山が転訛したと言われている。忌山とは木を切ったり、入ったりしてはならない神聖な山のことである。この山は亜熱帯的な独特な樹相で知られたとても豊かな森を残している。
この「妹山」と吉野川を挟んであるのが「脊山」。
浄瑠璃の「妹脊山女庭訓(いもせやまおんなていきん)」の舞台になった所でもある。日本版ロメオとジュリエットの悲劇で、江戸時代人気を博した。
この日、回った神社の中では一番古錆びた、小さな寂しい神社で、古代にそんな重要で大きな神社だった面影はどこにもない。本殿も藁ぶきである。聞けば今や2地区の氏神に過ぎず、氏子も20人ほどしかいないそうだ。

中世においては、参詣する人は数キロ先から榊を口にくわえて歩いて参詣したそうだ。榊をくわえるのは話をせず、静かに参詣するため。
そして、吉野川で身を清める。
6月30日には、潮が湧くので、その水で水を清める。この潮は熊野灘の海水と言われている。熊野灘までは約120㎞。
この潮が湧く話は、東大寺のお水取りにも共通点がある。東大寺のお水取りの水は遠く離れた若狭(福井)の水が湧いたものを使う。

夕方、ぽつぽつと雨が降る中、一路橿原市のホテルに向かう。

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旅行の準備

6月5日から6月7日の予定で「大和路の出雲を訪ねる旅」に出かける。
毎月の『風土記談義』を行っている『NPO法人出雲学研究所』が主催する旅で、参加者は『風土記談義』の受講者。バス一台を仕立てて行く。去年初めて「四国の忌部氏を訪ねる旅」に参加して楽しかったので、今年も参加する。
年に一度の自分への御褒美旅と決めて、楽しみにしていた。
5日
7:00荒神谷博物館出発⇒7:40松江駅南口⇒山陰道・米子道・中国道・近畿道・南阪奈道⇒御所市(昼食)⇒13:30鴨都波(かもつば)神社⇒14:15葛城一言主(ひとことぬし)神社⇒15:00高鴨神社⇒16:00吉野町・大名持(おおなもち)神社⇒17:00橿原市(泊)
6日
8:30ホテル出発⇒8:40橿原神宮⇒10:00飛鳥坐(あすかにいます)神社⇒
11:00談山神社⇒多武峰観光ホテル(昼食)⇒13:30三輪明神 大神神社⇒
15:30奈良市西ノ京 薬師寺⇒17:15奈良市(泊)
7日
8:30ホテル出発⇒8:40東大寺⇒10:55奈良国立博物館⇒昼食後帰路につく⇒
19:35松江駅南口⇒20:15荒神谷博物館着

神賀詞(かんよごと・出雲国造が代替わりする時、上京して奏上する)では、出雲の神々が天皇の御世を祝い、オホナモチ(オオクニヌシ)の魂(分身)とオホナモチの三人の子が皇尊を守ると誓う。その四柱に関連する地を中心に大和路の神社を巡る旅である。
去年の四国ツアーは初めてだったので、何も分からず、物見遊山になってしまった。
イメージ 1下調べしておけばよかったと悔やんだが後の祭りであった。
有意義なツアーにするために、去年の二の舞にならないよう準備し、資料も揃える。

👈奈良の地図

下が葛城市、御所市、明日香村
右下が吉野町
右上が奈良市
今回はこの地図の南半分が主な探訪地になる。

『風土記談義』で配られた資料をコピーして読みなおし、神社についてはネットで検索して、これもプリントアウトする。
奈良は中学生の時、修学旅行で行ったっきり、一度も訪れていない。その後、高松塚古墳などの新発見があったが、古代史に関心はあっても、仕事をしている時は忙しく、訪ねる余裕もなかった。ツアーのお陰で普通ではできない旅が出来ることが嬉しい。

そうは言っても、自分だけ楽しむわけには行かないので、
30(水)、2(土)と、「特養」に顔を出し、明日の4(月)も顔を出す予定。まるで罪滅ぼしみたいだが、やるだけのことをやっておかないと気持ちよく出かけることが出来ない。
丸三日留守にするので、両親の昼と夜の食事をある程度用意する他、畑も世話をしておかねばならない。トマトを支柱に結んだり、脇芽を取っておきたい。出来たら、玉ねぎやワケギも抜いて干しておきたいところだが、明日の午後から全部出来るかどうか。
心配なのは天気。予報では雨ではないか。雨の中、山の中の神社を巡ること想像したら少しブルーになる。

ところで、先日の謎の田圃の件、早速教えてくれる人が出現。
イメージ 2実は鉄分を含む湧水があり、湧水が広がらないようにしているのだそうだ。
まったく予想もしてない話だったが、リアル過ぎて少しがっかりする。お百姓さんにとっては迷惑な湧水なのだが、儂は勝手にロマンを広げていた。
出雲大社に近い場所で、古代のこの地域には阿受枳(あずき)社とか阿受伎(あずき)社と名乗る社だけで30以上もあった。社と言っても、今のような神社ではない。昔の人は山や岩や川などに神が宿ると信じたから、ここに大昔は神が宿る木でも生えていたのかと想像していたのだ。
だが、ここまで考えてふと思った。もし滾々と湧水が溢れていたとしたら、古代人は神が宿ると考えたはずだ。鉄分は時代が下ってから混じったものとしたら。これは立派にロマンだ。ただ、このロマンには難点が一つある。昔は出雲大社のすぐ前までは入海だった。この辺りも入海だったかもしれない。そうなると成り立たない話だが、写真で見れば分かるように北山のすぐ近くである。ギリギリ海辺だったのかどうか。
素人でもこんなことを勝手に考えられるから古代史は面白い。

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第三章 戦国擾乱(じょうらん)(1
 
「御開門、御開門」
深更、時ならぬ声が京極邸の散り始めた夜桜を震わせた。
江北からの早馬であった。
使者は政経の寝所に駆け付けると、
「治部様、御生害」
と、治部少輔(じぶしょうゆう)材宗(きむね)の自害を告げたのであった。
永正四年四月三日の夜、日が変わる頃であった。
起き上った御屋形様は褥(しとね)の上で影法師になられたそうな。寝所の闇よりも濃い影となり、闇に張り付いたまま朝が来るまで、まるで自分も死んだように動かれなかったそうな。
そう辰敬が聞いたのは後日の事だった。
辰敬が騒ぎに目を覚ました時に見たのは、足をもつれさせながら飛び出して行く木阿弥の後ろ姿だった。
辰敬も慌てて外へ飛び出した。
奉公人達も起き出していて、邸内は上を下への大騒ぎとなっていた。邸外に住まう家人達も知らせを聞き、おっとり刀で駆け付けて来た。あちらこちらに篝火が焚かれ、揺れる炎の中に右往左往する人影が地獄の亡者のように見えた。
不意打ちだったと言う。
夜明け前、気がついた時には、材宗の館は京極高清の軍勢に十重二十重に囲まれていたのである。
館には百人足らずの兵しかおらず、近在の兵を集める暇もなかった。
和睦して二年の平和が続くうちに、気が緩んでいたと言うしかなかった。いや、戦いに倦んでいたと言うのが本当のところかもしれない。
館の周囲の濠や土塁の手入れもお座なりになっていた。濠は古材や木の枝、枯れ蘆の束などを放り込まれて、あっという間に埋められてしまった。
材宗は御寮人と吉童子丸を落とすと、館に火をかけ、自害して果てたのであった。
常御殿も騒然としていた。集まった家人達の歯ぎしりが聞こえた。
「和睦を破るとは……高清め、許せぬ」
「上坂家信は何をしておったのや。なぜ高清を止めなんだのや」
 上坂家信は高清の執権である。
 江北の守護代多賀清直、宗直父子が高清に叛いて滅んだ後、江北の有力国人衆として高清を支えていた。
 今浜(現在の長浜市)を本拠としている。
 二年前、箕浦日光寺で材宗と高清が和睦したのも、上坂家信の仲介があったからである。
 昔の事だが、十七年前の延徳二年には、上坂家信は政経、材宗父子に合力し、高清を江北から追い出していた。
 その後は短期間とは言え、政経・材宗政権を支えていた時期もあったのである。
 その後、高清側についたのも私利私欲からではなく、江北の動揺に付け込み、侵攻を図る六角高頼から江北を守るためであった。守護代多賀清直、宗直父子のように、主家の寝首を掻くような真似は決してしない、何よりも江北の安定を願う国人武将であった。
 だからこそ政経と材宗も家信の仲介を受け入れたのである。
「上坂を信じたのが間違いやったのや」
「彼奴も同じ穴の狢や」
「和睦は見せかけやったのや。卑怯者め」
「治部様の御無念、晴らさずにはおくものか」
 今にも一戦を交えんとばかりに刀を握り締める者もいれば、
「御屋形様の御心中、いかばかりか……」
 辺りを憚らず声を放って泣く者もいた。
 奥からも慟哭が黒い津波となって押し寄せて来た。女達の泣き声であった。
 悲嘆と怒りの声が渦巻く真夜中の邸内で、辰敬は誰からも声をかけられることもなく、ただ騒ぎを眺めているだけであった。
 そこへ寝所の方から木阿弥が引き上げて来た。
 木阿弥は辰敬に気づくと首を振った。
「御屋形様は誰にもお会いにならぬ」
 様子を見に行ったものの追い返されたようだ。
 一際大きな泣き声が響き渡った。
木阿弥は顔をしかめると、悲痛な声から逃れるように暗い御庭に向かった。
辰敬もついて行くと、木阿弥は一本の老桜の下の庭石にため息を吐きながらどかっと腰を落とした。
はらはらと花びらが落ちて来た。
見上げると、雲は悲しみの屋敷を押し潰すかのように低く垂れ込めていた。
ここまで来ると屋敷の明りも木の間にちろちろ揺れるだけで、騒ぎは別世界のことのような錯覚に陥った。いや、そうであって欲しかった。辰敬は切実にそう思った。
「和睦したのに、なして……」
 抑えていた感情が吹き出した。
 ふんと鼻で笑ったような声が返って来た。
 驚いて暗闇を凝視すると、木阿弥の冷徹な顔があった。
「和睦なんてものはやなあ、一時のものや」
 これまで見た事もない、鋭い鑿で彫り込んだような顔であった。
「武士は常在戦場や。戦をしておるのが普通で、戦がない時の方が特別なのや。和睦とは正面切って鉾を交えぬだけで、裏では戦いは続いておるのや。お互いに相手の陣営を切り崩したり、取り込んだり、見えない戦いを繰り広げておるのや。むしろこっちの方が大切な戦いやったりするのや」
 どこの守護大名や守護代も国人領主と呼ばれる在地の有力武士に支えられている。
 より多くの国人領主を味方につけた者が領国を拡大することが出来るのである。
「和睦したと言う事は、言い換えれば互いに裏の戦いに切り替えたと言う事や。治部様もこの間、御味方を増やそうと工作されておったはずや。せやけど、高清に後れをとったのや。どこかに六角頼みがあったのやろうなあ。いざとなれば助けてくれるとな。その甘さがこの結果となったのやろう。結局のところ六角高頼を恃んだのが命取りになったのかも知れんなあ」
 北近江の京極政経と南近江の六角高頼は応仁の乱で東軍と西軍に分れてから、長い間敵対関係にあったが、政経は高清との戦いを巻き返すために六角高頼と手を結んだ。ほんの数年前の事である。高頼の娘を材宗の妻に迎えたのだ。
 が、それは毒薬みたいなもので、一時は高頼の支援は力となったが、長い目で見れば逆効果であった。
北近江の国人領主達は六角氏が江北に入って来る事に反発し、かえって高清のもとに結集したのである。
材宗を抹殺することは江北国人領主の総意だったのである。材宗がいる限り、口実をつけて六角高頼は江北を窺う。高頼の介入を阻止するには、材宗に消えて貰うしかないのだ。それも高頼に介入の時間を与えないよう一気に形を付ける必要があったのである。
京極高清も上坂家信もこの総意に乗っかったのである。いや、乗る事が江北の支配者となるべき者の取るべき道だったのである。
これで高清は幕府から近江半国江北の守護と認められるであろう。京極家の名実ともに家督となるのだ。
「京極騒乱が始まった時、御屋形様にはまだ出雲や隠岐、飛騨がかろうじて残っておったが、高清には江北しかなかったのや。御屋形様は負けたら出雲へ逃げはったけど、高清は江北を失ったら行くところがあらへん。その必死さの違いがこうなったのやとわしは思う。二兎追う者は一兎をも得ず。御屋形様は最後に残った出雲と江北を共に失いはったのや……」
 辰敬はおずおずと問うた。
「京極家はどうなるのじゃろう」
「滅びるしかないやろう」
 余りにも冷たい、突き放した言い方に、辰敬は一瞬怒りを覚えた。
「どこにでもある話や。日本中腐るほど転がっとる。京極家だけが特別なわけやない。武門の定めや……」
 それ以上は口を利くのも大儀そうに目を閉じてしまった。
 言われるまでもない事だった。辰敬は自分の立場が不安になって聞いてしまったのだ。
(やっぱり出雲に戻る事になるんじゃろうなあ……)
 こんな時にいちを想っている自分を辰敬は情けなく思った。
 二日後、治部様御寮人と吉童子丸が戻って来たが、二人とも輿の中で姿を見ることは出来なかった
 葬儀の日、辰敬は雑用に追い回された。ようやく焼香を許された時には、御屋形様達も僧侶も引き上げた後だった。
その葬儀が終わった日の夜、木阿弥は戻って来なかった。
翌日も、その次の日も姿を見なかった。
辰敬は殉死したのかと心配したが、次郎丸が嘲るように笑った。
「そんなあほな。あいつ、逃げよったんや。知らんかったのか」
 辰敬はぽかんと立ち尽くした。初めは次郎丸の言う意味が分からなくて、
(逃げた……木阿弥さんが逃げた……)
 と心の内で反芻して、ようやく木阿弥の逃亡を現実の事として理解したのであった。
「京極家におってもしゃあないと思ったんやろ」
次郎丸は吐き捨てた。
「御恩も忘れて、恩知らずめ……こう言う時こそ、御屋形様を御慰めするのが役目やろうに。後足で泥をかけるような真似をしくさって。けたくその悪い奴や。ほんま目端の利く爺やで……」
 口を極めて罵ったが、次郎丸が罵れば罵るほど、辰敬の気持ちは次郎丸から離れていた。
 本当に木阿弥は御屋形様を見捨てて逃げたのだろうか。都の夜道を逃げて行く木阿弥の後ろ姿をどうしても想像出来なかった。
 辰敬は木阿弥が好きだった。大好きと言うほどではないけれど。
 皮肉屋で、何事も斜に構えて、辛辣な言辞を浴びせられると心が萎えたものだ。だが、木阿弥の言う事には常に理があった。
 だから、目端が利いて京極家を見限ったと言われると違うような気がするのである。
 もし、本当に目端が利く男なら、初めから御屋形様の御伽衆にはならなかったであろう。日頃の言動を思い出せば、木阿弥には京極家の行く末が見えていたはずだ。
 きっと御屋形様のお側に侍るのが居たたまれなくなったに違いない。木阿弥にはそんな優しさがある。きついことを言うのは、自分の優しさを隠すためだったのではないかと、辰敬は今になって気が付いた。そう言えば辛辣な言葉の端に、ふっと寂しさや哀しさを感じたことは一度や二度ではなかった。決して御屋形様を見捨てて逃げたのではない。そう信じたかった。辰敬とて御屋形様の前に出るのは辛すぎる。
「ええな、わぬしは帰る所があって。どうせ出雲に戻るのやろ」
 何を言う気かと訝しげに見返すと、
「京極家も腐っても鯛や……もう少し様子をみようかと、皆、言うとるわ」
 散々木阿弥を罵った癖に、その言の端が乾かぬうちに、この言い草である。
 辰敬は蹴飛ばしてやろうかと思ったがぐっと我慢した。
 その後、常御殿に出仕しても、長屋に戻って来ても、問われるのは出雲へ戻る事であった。
 だが、御屋形様からは何の沙汰もなかった。
 吉童子丸が戻って来たら、守に復帰することになっていたはずなのに、それも沙汰がない。
 木阿弥がいなくなって奥の様子がさっぱり分からなくなっていた。沙汰がないのは、もう出雲へ戻す事が決まっているからではないのかと、悪い方へとばかり想像が膨らむ。
 
 その頃、巷では二度目の丹後征伐の噂で持ち切りだった。
 昨年の丹後征伐は澄之に任せてお茶を濁したのだが、此度はついに管領細川政元も遠征せざるを得なくなったのである。
 話は三月の末に戻る。
 若狭国守護武田元信に肩入れする将軍義澄の丹後征伐への執念はいや増すばかりであった。今度ばかりは逃げられそうにないと悟った政元は、管領職を辞すと、奥州に巡礼に行くと称して旅に出てしまったのである。
 これまでにも将軍と対立する度に、政元は修験道の修行をするとか、管領を辞めると言っては、都から逃げ出していた。
 その度に将軍が頭を下げて政元を連れ戻していた。逆に将軍が立腹して出京し、政元が詫びて戻って貰う事もあった。
 奥州を目指す政元が若狭小浜まで来た時、武田元信が駆け付けて来ると、必死に政元を引き止めた。
 そこへ、将軍の御教書( みぎょうしょ)や天皇の勅書まで届いたので、政元と言えども都へ戻らざるを得なかったのである。
 木阿弥がいたら、武田元信や将軍義澄の狼狽ぶりや、勅書を出して貰う為の朝廷への必死の工作などを、見て来たように語ってくれたであろうが、もはやその木阿弥を思い出す事もなくなっていた。
 辰敬は無性にいちの顔が見たかった。
 あの日以来、邸内の規律は目に見えて緩んでいたので、辰敬は誰にも咎められることもなく邸を抜け出す事ができた。
 
 久し振りに加田家を訪ねると、
「おおごとやったなあ」
 公典が飛び出して来ると、京極家の様子を矢継ぎ早に尋ねた。
「で、わぬし、どないなるんや。出雲に戻るのか」
 ここでも関心はすぐに辰敬の身の振り方に向けられた。
 いちと竹ちよも心配そうに見つめていた。
 辰敬は首を振った。
「わからんのじゃ」
 尼子家や出雲の親から、何か言って来てもよさそうなものだが、そのような便りがあるのかないのかも知らされず、忘れられたように放置されている状況を説明すると、
「そうやなあ、わぬしのことに構っている場合やないからなあ」
 いちも心なしほっとしたようであった。
「京極家はどないなりますのやろ。もうお殿様やないのやろ。年貢も入ってこんのやろ」
 竹ちよが心配するのに、
「あほか。とっくの昔からや。せやけど、腐っても鯛や……」
 ここでも腐っても鯛が出た。
「家産もまだ仰山あるやろ。すぐにどうのこうのと言う事はあらへん。我が家とは違う。いや、こんな我が家でも持ちこたえとるがな」
 と自虐めかして笑ったが、妻子は笑わなかった。
「問題は後継ぎや。吉童子丸様はまだ子供やろ。幾つや」
 辰敬は即座に答えられなかった。
「六つ、いや、七つじゃ」
「御屋形様や」
「ああ……」
 辰敬は首を傾げた。
「もうええ、なんぼでも。どうせええ齢にきまっとる。御屋形様、死ねへんやないか。ええ後見人でもおれば別やけど、そないな人、もうおらへんやろうし。御屋形様にもしもの事があったら、今度こそ京極家、本当の終わりやで」
 辰敬は死罪を言い渡されたような気がした。
 


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