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法医学者の悩み事
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腐敗を防ぐ市民の目 週のはじめに考える(2010年10月10日中日新聞)

 市民の目が届かない権力は必ず腐敗します。主権者の「知る権利」に奉仕する自由なジャーナリズムは、民主社会の基盤であり腐敗防止に不可欠です。

 「権力は腐敗する」と言ったのは十九世紀の歴史・哲学者であるJ・E・アクトンです。近代国家では、この「権力=腐敗」を前提に制度上の工夫をいろいろしてあります。

 代表的な例が日本国憲法も採用している三権分立制です。立法、行政、司法という三つの権力がそれぞれ独立し、監視し合い、牽制(けんせい)し合って、相手の勝手な振る舞いを防ぐ仕組みです。

 “暴走”は問題の矮小化
 それでも権力は腐敗します。国民の目が届きにくいところで、違法な、あるいは不当な権力行使が行われるようになります。

 大阪地検の特捜部検事による証拠のフロッピーディスク(FD)改ざんを、単なる個人の暴走と見るのは問題の矮小(わいしょう)化でしょう。

 上司は内部告発を無視して改ざんを隠ぺいした疑いがあります。容疑者に対する虚偽自白の強要、保存すべき取り調べメモの廃棄など、ほかにも不祥事が次々明るみに出ました。FD改ざんは検察組織の腐敗の象徴なのです。

 アクトンは冒頭の言葉に続けて「専制(絶対)権力は絶対的に腐敗する」と言い切りました。

 専制権力は言い過ぎとしても、検察は強大な力を持っています。人の身柄を拘束でき、起訴・不起訴を決める権限をほぼ独占し、起訴相当の事件でも事情によっては起訴しないことができる「起訴便宜主義」も認められています。

 この力の大きさ、怖さを自覚しないでゆがんだ正義感に酔ったり功名心に駆られると、逮捕された検事の前田恒彦容疑者らのように、権限を恣意(しい)的に利用し違法行為をすることになりかねません。

 “監視”で生まれる緊張
 検察は情報公開に極めて消極的で、検察の意に反する報道をした記者にしばしば「出入り禁止」と称して取材拒否します。

 透明度が低く、内部の空気がよどんでいる組織は、必ずといっていいほど腐敗が起こるのです。

 それを未然に防ぐための最も有効な手段は、市民による監視を徹底することです。外部の風にあたり、監視されていると意識することで公権力側に緊張感が生まれ、腐敗防止に役立ちます。

 情報公開法を制定するなど市民を公権力の内部に立ち入りやすくする諸施策が、一九〇〇年代から大幅に進展しました。司法とその関連分野でもさまざまな改革が行われました。

 裁判所には裁判員制度が導入され、裁判官指名諮問委員会、家庭裁判所委員会など外部の声を生かす制度もできました。

 刑務所には有識者が視察して意見を述べる刑事施設視察委員会が設けられました。警察の事務執行は有識者で構成する警察署協議会が監視するようになりました。

 しかし、検察に関しては、不起訴にした事件について検察審査会が「起訴相当」と二回議決すれば強制起訴、となったほかはめぼしい改革がありません。

 ほとんどの検察関係者は「公益の代表」たる立場を守って適正に職務を遂行していますし、検察の仕事は人権にかかわる事項が多いので微妙な要素もありますが、積み残された改革「検察の透明化」を実現しなければなりません。

 まず、最高検による改ざん事件の捜査、調査結果を第三者が検証するのは当然です。

 検察以外のさらなる透明性向上も必要です。国民の知る権利が実質化し、「権利としての監視」の目が統治機構の隅々に注がれてこそ主権者として公権力を正しくコントロールできるのです。

 情報公開制度の充実に劣らず重要なのは、国民から信頼される、健全で強力なジャーナリズムの存在です。

 民主主義が定着し、国家、社会の運営に主権者の意思がきちんと反映するためには、権力を厳しくチェックし、判断材料を提供する自由な報道活動が必須です。

 「ジャーナリズムは第四権力」と言われることがあります。国民に対する四番目の権力という意味ではなく、三つの公権力から完全に独立し、国民のために三権と対峙(たいじ)する力という意味です。

 しかし、現状は時に権力追随と批判され、脱皮を迫られます。

 “深層”に肉薄する勇気
 米連邦最高裁は「自由な言論に誤りはつきものである」として、報道が誤りを恐れ権力に対し萎縮(いしゅく)することを戒めました。正確性確保は当然として、深層に肉薄するジャーナリストの意欲と行動は安定した民主社会を築く礎です。

 十五日からの新聞週間を前に、反省、自戒を込めて使命の重さをかみしめています。

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この報道以外でも、起訴便宜主義や起訴独占主義について書かれた報道が散見されるようになった。

起訴便宜主義については、法曹関係者はよい制度だという方が気味悪いくらいに多い(かった)。そのように教育されているからなのだろうかと、かんぐってしまうくらいだ。

法医学をやっていると、今の日本特有な起訴便宜主義に関して疑問に感じることが多い。起訴、不起訴の判断が恣意的で、判断のもととなった資料が開示されることはない。故意犯ならまだ理解できるものの、医療事故など過失については、特に判断が不安定で、何を根拠に略式起訴、正式起訴、不起訴などを判断しているのか、まったくわからない。解剖所見や鑑定書くらい開示してもいいだろうに、それすらも滅多にない。この開示の判断も、捜査側の恣意にゆだねられている。そのせいで、医療事故に関しては、医師と患者サイドの間で、示談の手続きさえ進まないこともままある。きわめてブラックボックスな制度に感じられる。

こうしたことが、捜査側が恣意的に動いていることを予感させるのだが、一方では、ある意味当然の結果として、医療側から司法への不信感が出てきて、医療現場からの司法排除のような話が出る中で、我々法医学は、司法関係者であるとの錯覚からなのか、なぜか医師側から非難の対象とされることもある。起訴便宜主義においては、司法関係者にとっては、楽ができるいい制度なのかもしないが、我々からすると、いい迷惑な制度でもある。

起訴便宜主義を本当の意味で、よい制度にするのであれば、検察の判断が、特定のもの(たとえば公務員に甘いなどとも言われるが)に対して甘いなど不平等であると思われないためにも、透明度を高めていいと感じる。特に過失事例では、もっと、解剖結果など、資料の開示を進めてもいいのではないかと思う。それによって、刑事手続きに支障が起きたり、当事者の権利が損なわれることはないだろうし、むしろ、当事者のおいては示談が進めやすいなどメリットさえある。

一方、検察審査会の新制度も不思議ではある。単なる風評だけで、起訴すべきだと判断する可能性がある。しかも、その過程まで非開示とすれば、これまでの司法制度を修正するどころか、これまで以上にブラックボックスな、とてつもなく危険な制度になりかねない。こちらは、起訴便宜主義とはことなる、新たな概念での制度ゆえ、現状のままでは、起訴風評主義とでも呼ばれるべきかもしれないが、そう呼ばれないような、ちゃんとした制度を今後作るべきではないか。


ところで、国民や報道側は、現在のような変遷期において、「起訴」という言葉だけで、犯罪者扱いされることはやめたほうがいい。昔の起訴便宜主義では、有罪率が100%近かったからこそ、起訴=有罪という推定が成り立つが、新たな起訴風評主義では、どうなるかわからない。有罪率0%などということもありうるのだが、そうなった場合、起訴された側の受けた風評被害などの名誉損失をどうしてくれるのだろうか。検察審査会が何も責任を取らないとすれば、それも変な気がする。

国民一人ひとりが、もっと個々人の権利について、お上に丸投げするのではなく、自分たちでしっかり考える必要があるような気がする。

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    鈴川倶楽部と申します。
    以前、福祉事務所の事務局長をしていたとき、みなさまらをお会いすることとなり、たいへんなお仕事と感じました。
    上記のはなし、たいへん勉強になりました。

    KEN

    2010/10/11(月) 午前 11:03

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