徳島市内の熊野神社

 この間からから熊野信仰について少し調べている。今日は文献のお勉強ではなく外へ出て徳島市内にある熊野神社をめぐってみた。徳島県にある熊野神社はどの神社も紀州にある熊野本宮・新宮・那智社(どれかまたは三社まとめて祀る)の支社である。徳島市内は人口も多く紀伊水道に面しているので熊野神社も多いのではないかと思ってあらかじめ調べてみると意外と少ない。『熊野神社』が小松島との市境の丈六町に一社と吉野川の大堤防のすぐ近く東吉野町にある『熊野新宮社』の一社のわずか二つしかない。

 まずは熊野新宮社へお参りする。市民病院北の堤防沿いをすこし東に行ったところにある。周りは住宅地である。

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 神社の由来書きを読む。江戸時代の正徳年間(西暦1715年)ころ建立されたものらしい。城下の鬼門(丑寅の方角・城から見て北東)鎮護のため建てられたとある。
 
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 狛犬さんを見ると嘉永七年とある。ペリーが浦賀に来た次の年であり、この年に安政と改元されている。

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 裏から見ると吉野川の堤防がすくそこ、間に墓地が広がっているのは神社と隣り合うように明治初年まであって廃寺となった廣福寺の名残だろうか。

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 境内の動画


 次に向かったのは小松島市の境に近い丈六町、熊野新宮社からだとかなりある。自転車で向かう。途中、ここかと思える神社があったがまさかこんなに大きいはずはないと思い鳥居の神社名を見るとやはり違った。「勝占神社」とある。由来書きもあった。本殿まで行こうと思ったが標高65m登る。今回は本殿まで行かず下から参拝した。

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 そこからは少し上り坂だがほどなく熊野神社の標識が見えてきた。

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 竹藪の道を上る。

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 神社の石段が見えてきた。

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 本殿

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 境内の様子(動画)


 かなり山を上がったところにあるが木々が邪魔をして眺めはよくない。木々の間から少し遠景が見下ろせる。

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 行きしは国道バイパスを通ったが帰りしは北山町を経由して八万へ出た。途中、日本一低い山弁天山の横を通った。

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 天気も良く、秋の赤っぽい陽光に映えるのは濃い黄色のセイタカアワダチソウや柿。そういえば10日後のハロウィンのシンボルカラーもこの色だ。弁天山直売所前にハロウィンのカボチャが置いてあった。

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秋の行事

 昨晩8時前に消防分団小屋の前を通ると2階に明かりがついていて、祭囃子の笛太鼓の音がする。一週間後にせまった神社の秋の祭礼のお囃子の練習をしているようだ。

 神社の秋祭りは最も古い伝統だが、この他十月には別の伝統行事もわが町にはある。「鴨島菊人形」である。火事や主催者の変更などで紆余曲折もあったが大正14年から始まって続いている、あのモラエスさんが活躍していた頃からなのでほぼ百年にはなる。これも伝統行事といっていいだろう。主会場は市役所前だが鴨島駅前にも菊人形の展示がある。(開催期間10月19日〜11月18日)

 駅前の菊人形

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 主会場の市役所前広場の菊人形、テーマはその年の大河ドラマの2シーン、もう1シーンは毎年同じ空海と村娘。


 そういえば徳島城公園では毎年十月に『小屋掛け人形浄瑠璃』の芝居が臨時特設舞台で開かれている。城公園の入り口にはこのように説明板がある。読むと例年やっているとある。しかし昨日通ったが特設会場なんかはなかった。今年はいつ開かれるのだろうか?気になったので帰りし駅前の観光案内所の人に聞くと、二年前を最後に開かれていないそうだ。一昨年まで(平成18年から始まったから十年間くらいかな)続けられていて毎年見るのをたのしみにしていたのだが残念である。

 公園入口の説明板とその中の人形浄瑠璃小屋掛け公演の説明

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 同じ城公園では野外彫刻展も開かれている。今年が56回目というからほぼ半世紀だ。毎年のことなので今年は特にブログに取り上げてなかったが、今日、何気なく大手門の橋を渡っていると堀に発泡スチロールのゴミがたくさん浮いている。

 「あ〜〜〜ぁ、誰れじゃ!こんなとこにたくさんのゴミ放り込んで!」

 と見た時は一瞬思ったが、いや待てよ、これもしかして芸術作品なんじゃあるまいか、数年前もゴミの塊だの黒いゴミ袋だのを組み合わせて作品として展示していたのがあったな。もしやと思い橋を渡って横を見ると、やはりこれ、作品だったんだ。このように主題と製作者のプレートが置いてあった。

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 芸術的センスのないワイにはよ〜わからん。 

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一遍聖絵に見る熊野詣

 衛門三郎はんは赦しと救いを求め何度も何度も四国巡礼を繰り返す、しかし「お大師さん」にはどうしても会えない。今まさに命が尽きようとしたその時、とうとう「お大師さん」に会うことができた。その場所は奥深い四国山地の山道、焼山寺へ行く道であった。一遍はんが熊野の神に会うのも本宮へと至る険しい山路であった。奥深い山では神や仏に出会えるのであろうか。

 一遍はんが熊野の神に出会ったところ(権現と記してあるのが熊野の神)、一方が崖の険しい山道である。

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 白い浄衣を着た熊野詣りの巡礼、従者が荷を担ぐ、本宮へ向かっている。

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 本宮までは険しい山道を辿らねばならないが本宮からは川下りの船に乗るため歩かなくてもよい。らくちんである。
 
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 那智の滝、青岸渡寺

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 どの時代にも定住するより移動しながら人生を送る人々が存在する。しかし歴史時代が始まって以来このかた定住する人々を基礎に地域社会や国を作ってきた社会は移動しながら生きている人々を特別視する。移動しながらも生業を持っているので犯罪的な人々ではない。移動しながら持つ生業とかかわりを持つ定住民には受け入れられるが、一時的なものが多く(その定住民の地元で許された期間の業務のみ)でそのようなかかわりを持たず定住民の地に入ってくれば、定住民からは白眼視されたり排斥されたりすることが多い。古代律令時代は国家の建前が公地公民制で租税によって国の仕組みを作ったため定住しない人々はほとんど反社会的集団扱いである。続日本紀(奈良朝)によく出てくる『浮浪人』などはそんな人々が含まれていた。

 中世になると古代に『浮浪人』などとひとくくりにされていた人々はいろいろな名前で呼ばれるようになる。傀儡、遊び目、放下師、熊野比丘尼、白拍子、琵琶法師、連歌師、勧進聖、などなど、さまざまな遊芸人、またほとんど定住せず各地をありきまわる行商人(連雀商人)などもそれに含めてよいだろう。これらの人々は生業を持つが流浪の民である。

 現代日本においてもはっきりそうだとは言ってはいないが国民とは定住地を持つ人々であると暗黙に定義している気がする。ちなみに役所に書類を出すとき、役所から公共サービスを受けるとき、資格免許を取得するとき、いずれも『現住所』がなければそれらは非常に困難になることを見ても、定住地を持つことを基本に置いていることがわかる。

 そもそも現代日本において定住地を持たない流浪の民のような人々が存在するのか?存在するのである。さすがに戸籍を持たない人はほとんど存在すまいが、定住していないため事実上住民票の意味を持たない人々はかなり多く存在する。それらの人は行政では『住所不定』として扱われる。偏見かもしれないが住所不定にはほとんど犯罪書的な響きがある。具体的には日雇労働で稼ぎながら、家を持たないため、いわゆるドヤ街の格安簡易宿泊所に寝泊まりしている人々などがその一つであろう。

 でもこの人々よりももっと流浪度の高い人々がいる。それは人生を「旅」とぴったりと重ねる人々である。上記に書いたような中世の職業、遊芸人や連雀商人、さまざまな全国行脚の僧、神官などは人生=旅といってよいが、では中世ではなく現代でそれにあたるのはどんな人々だろうか?
 〇終わりのない巡礼旅、これまた終わりのない日本一周の旅(徒歩、自転車)などの人々がそのような人々ではなかろうか。

 いくらなんでも人は終わりのない旅に出かけられるのだろうか?と疑問視するが、けっこう多くの人はそのような(実行するか否かは別として)心性を持つものである。芭蕉の奥の細道の劈頭の文を紹介しよう。

 『月日は百代の過客にして、行きかう年も又旅人なり、船の上に生涯を浮かべ、馬の口をとらえて老いをむかふるものは、日々を旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり、予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれ、漂泊のおもひやまず・・・・・』

 これを読んで心を動かされた人などはそのような心性をかなり持っている人ではないだろうか。かくいう私などはその心性を強く持つ者の一人である。もう40年以上も昔、私が書いた日記というか随想を読み返すと、記憶も定かではなくなった大昔の自分の心情の吐露だけに、今の自分がこれを読むとまるで別の人の心情を見る気がして、ああ、自分もむかしから芭蕉翁を慕う、漂泊の思いを持っていたのだなと思う。下がその時の日記というか随想です。

 「・・・そして大学も終わりの冬、進路も決まらぬまま、卒業までの長期の休み、みんな就職活動が決まったかあるいは求めて奔走してるのに、それらに嫌気がさし旅行。北陸、新潟へ長期の一人旅、家族にも言わぬまま失踪状態。
 鈍行を乗り継いで、北陸トンネルを抜けた小さな駅で下車、理由もなかったと思う。小さな町で物凄い雪、積雪も降雪も見たことない大雪、小さな日本旅館に飛び込みで泊めてもらった。夕食なんかは当然用意されていないが、腹ペコで、頼み込んだのだろう、どんなメニューか思い出せないが、缶詰の赤貝の煮つけの小皿が出たのだけは覚えている。
 その夜、古い日本間でなかなか寝付かれなかった。外は深夜になっても増々降りつのる雪。窓を開けてふわっとした新雪の深さを確かめたのを覚えている。

 今までの自分から離れた漂泊の旅の一夜に興奮したのである。しかし終わりのない漂泊の旅など出来ようもなく、それから一週間余り北越を旅をして帰った。しかし帰った後も繰り返し繰り返し漂泊の想いはますます募ってきた。でも実際に現実から抜け出すとしたらそれなりの覚悟が必要となる。そんななか出来るかもしれない漂泊の旅として夢想したことがあります。それは巡礼の旅です。旅に生き、旅に死すこともよしとして何もかも振り捨てて旅立つのです。でもほんとうにそんな覚悟で出発できるかと問われれば、はいと答えられません。しかし漂泊の旅として巡礼の想いは私の頭から離れません。」

 いま、高校あるいは大学を卒業しても就職せず四国巡礼や西国巡礼、あるいは自分探しと称しての全国一人旅、などがブームと言えるほど流行っていると聞きます。やはり40数年前の私のような心性をもつ若者がそれなりに多いのでしょう。

 とはいえ、いくら漂泊のこころの強い若者でも、旅を住処とし、終わりなき旅、つまり旅で末期を迎える、いわゆる行き倒れ(行路病死人という)を覚悟して出発する人がどれだけいるだろうか。そして覚悟して出発しても旅先の苦難を経つつ何十年後か知らないが人生の最後まで続けられるだろうか。第一衣食住、衣は着た切り雀でいいとしても、食を得るにどうするか、銭がいる。泊りは野宿を通すとして銭を使わなくても、あれやこれやの物品がいるからこれも得るには銭がいる。

 歴史時代の巡礼は通過するところの人々のお情けにすがり「巡礼に御報謝を〜」といって銭や米などを得つつ、その手に入ったわずかなもので口すぎをした。人の喜捨がなければその間絶食である。続く空腹、飢餓、それがもたらす病気そして行き倒れ、それらを受け入れて巡礼をするのである。

 初めからよ〜け銭をもって巡礼する、持ち前の銭で旅の食住を賄う。そんな旅も江戸時代には始まりそして現代の巡礼のほとんどはそうであろう。しかし芭蕉翁のいう漂泊の想いやみがたく旅を住処とし、旅に死した古人を慕う旅はそんなものではなかろう。もちろん現代はそんな旅もあっていい。芭蕉翁の気持ちをチョビットこ味わい、ある程度満足して元の家に帰っていって定住の日常が再び始まる。むしろ今はそんな巡礼旅がほとんどだろう。還暦過ぎて退職し退職金をどっさりもらいこれからの日々暇もたっぷりある。ここはいっちょ巡礼旅にでてこまそ、古風を慕い全路歩いてこまそ、と殊勝な心掛けで旅立つご老人も多い。だがやはり尊いのは財産も俗世の紐も降り捨て、銭も持たず巡礼をし、気のすむまで(人生を終えるまでならそこまで)続ける人である。若者なら旅のあちらこちらで労力を提供し糧を得るのもアリである。なんら旅を住処とし旅に生きる人生に違(たが)うことはなかろう。

 でもそんな旅人や巡礼さんは絶滅希少種である。なんもかんも降り捨て何年も何年もそれこそ旅に死す覚悟でまわる人がホンマにいるんやろか。

 もう十年以上になるだろうかなぁ、そんな人がいたのである。偶然公共放送のテレビを見ているとあるお遍路さんのドキュメンタリー番組があった。それには『くさ遍路』と呼ばれている80歳近いじいちゃんが、まさに私の言う理想的な巡礼をしているのである。人々のお恵みにすがり、ある時は食品をもらい、ある時はちょっとしたお手伝いをし御報謝を受け、旅を住処とし、おそらく足の続く限り繰り返し四国巡礼をしているのである。

 ちょっと感動した、いやぁ〜〜〜!こんなじいちゃんもいるんやなぁ、と

 ところがそれから一か月もたたずかなぁ、同じ公共放送のニュースが、あのくさ遍路のじいちゃん、殺人未遂で全国指名手配されていたことがわかり逮捕されたと伝えた。なんじゃそら!この結末であのドキュメンタリー「くさ遍路」に感動した人が興ざめしただろうと思われるが、私などは好意的に解釈して、悔悛する旅、贖罪の旅ならばこんな巡礼の旅もありかな、とおもうが、テレビの表情を見た限りでは、悔悛とか贖罪とかの感じはあまりなかったようだが、そんなこころの奥底までは表情からはわからん。今でも私としてはこのくさ遍路のジイチャン、人生の最後まで旅を全うさせてあげたかったと思っている。

 そしてこちらは一か月にもまだならないから皆さんも覚えているかもしれない。全国一周チャリンコの旅の若者(とはいっても30歳だが)、実は脱走逃避行で世間の注目を浴びまくっていた指名手配犯だった。全国一周の道半ばでひっ捕まったが捕らえたのは警察じゃなかったというすごいオチまでついて大ニュースとなった。こちらは芭蕉翁の言う漂泊のこころやみがたく、ということもなく、また悔悛、贖罪の旅、とはこじつけでも思われず、私としてはほとんどシンパシーを感じない。

 このくさ遍路のジイチャン、そして指名手配犯で全国一周チャリンコの旅の若者、芭蕉翁のような詩心をかき立てるものはないが、今風の話として、この二人の旅の人生、映画のロードムービーにしたらさぞかしおもしろかろうと映画の特にロードムービーファンからの声がしきりである。かくいう私もその一人、さしずめ両者ともロードムービー的な喜劇でかつそこはかとなきペーソスをまじえた、泣き笑いのおもっしょい映画ができると思うがいかがだろうか。ワイに映画の才能があったら作るんやけんどなぁ。 

 さっき野村芳太郎監督の『砂の器』のDVDを見たがラストの15分間、巡礼姿の父子が全国を旅する哀れな姿、それと全く対照的な美しい自然の映像が流れる、小説の設定とはいえ旅に死す覚悟の巡礼である。時代設定は昭和17年である。大昔はこんな真剣な巡礼の旅もあったんやなぁ。

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古銭

 先週末文化の森博物館で特別展をやっていたが、その特別展(テーマは那賀川流域自然・人文)のコーナーの一つに『古銭』があった。

 この古銭、昔から続く家の蔵などから発見されたものではない。みんな発掘の結果出土したものである。コーナーのパネルを見るとその場所と量がわかる。

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 かなり大量の古銭が発見されている。海洋町の大里というところではなんと7万枚である。どのような銭かというとこれもこのコーナーに実際に展示されている。

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 非常に種類が多い。ところでこの埋蔵された時代であるが室町期が多い。この時代、我が国は銭の鋳造は事実上中止しており、流通銭は中国の銭がほぼすべてといってよい。中国の各王朝で鋳造された様々な種類の銭がある。この中で圧倒的に多いのは中国・明初期の「永楽通寶」である。上記のパネルの一番右隅のあるのがそうである。古銭は骨董的価値があり、いま高額の値が付くものもあるがこの永楽通寶はあまりにも室町期(また江戸時代も流通した)に多量に出回っていたため、今日でも古銭として出回っており価値はあまりない。我が家にもこの永楽通寶の古銭が何枚かあったくらいである。

 こんな多くの種類が同時期に出回っていてそれぞれの価値が違うとすると計算も大変だと思うが、これ種類が違っても穴あき銭の場合みんな「一文」として数えたから多種類が混じっていても枚数さえ同じなら等価値となった。

 室町期の一文って今の金に換算するとどれくらいの価値だろうか。江戸期の一文はかけそばうどんが十六文というからだいたい、1文=15円くらいだろうか。では室町期はというと、時代が下るにつれて同じ通貨単位だと値打ちは低減していくものであるのは明治以降の「1円」の価値と変わりない。室町期はだいたい50〜100円の間であろうか。

 この大量に発掘された銭、縄文時代の石器や土器であるまいしなんで土の中にあったのか、縄文時代の石器土器は時とともに自然と埋まったと考えられるが古銭はそうじゃない。皆さんもお察しのように人が土の中に埋めたのである。なぜ?いわずもながだが銭がある程度たまると秘蔵し人に見つからないよう、奪われないようにしたのである。中世に銭を貯めて残すにはこの方法が一番である。家だと家探しされたり、戦乱で焼かれたりするが土地に埋める場合は場所さえ覚えていればまず奪われることはない。銭は甕に入れて埋められた。そのため出土は甕に入って出てくる。

 室町期この穴あき銭「一文」より大きな単位通貨はない。商取引で高額決済をする場合でも最終的には(室町期には為替、割符などの決済も始まったが清算決済はやはり銭)この穴あき銭一文のみしかない。そのため高額の場合はまとめて結束して一つにした。百文とか千文とかに、そのため銭は便利な形をしている。中央に穴が開いているため銭差しという紐に通して百文・千文とまとめて一本として高額の単位貨幣としたのである。千文を一貫と数えます。(中世の領主はワイは○○貫の価値の土地を持っているんじゃぞぉ、と銭千枚の単位に換算した価値尺度を使います) 下は一貫の銭

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 さてこの古銭の形態、その伝統を現代まで引き継いでいる貨幣があるのはよくご存じですよね。今の貨幣で思い浮かぶのは「五円玉」と「五十円玉」ですが、伝統を色濃く受け継ぐのは「五円玉」の方です。穴あき銭という伝統と他にまだ二つあるのですがわかるでしょうか?五円玉があれば裏表見てください。気づきましたか?

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 何でしょう?

 まず五円玉はほかの硬貨と違い裏表どこにもアラビア数字はありません(50円玉やほかの硬貨にはある)漢字しか使われていません。中世に持っていたとしても変わった銭とは思われましょうが理解の埒外ということにはなりません。
 そして五円玉の重さは、3.75gです。これは尺貫法で言う「一匁」つまり「文目」(もんめ)に当たります。いわばきっかり一文と同じ重さなのです。当然、五円は千枚集まれば一貫となり、室町期の銭一貫と同じ1000文となります。
 まさに五円玉は古代から中世にかけての穴あき銭「銭」の直系の子孫なのです。

 世界を見渡すと現在流通している硬貨で穴の開いたものはそこそこあるようですが、歴史的に銭が流布していた東アジアで穴あき銭が今流通しているのは日本だけです。よく中国は四千年の歴史、韓国は半万年の歴史と誇っていますが、穴あき銭の伝統を引き継いでいるのは日本だけとなります。そしてさらに付け加えると硬貨に刻む元号(これは来年確実に変わりますね)も残っているのは日本のみです。このような伝統は誇ってよいと思います。

 この文化の森博物館の特別展は今開催中です。このブログでは出土銭のコーナーしか紹介できませんでしたが他にもいろいろお勉強できる展示がありますので見学に行かれてはどうでしょうか。うれしいことに無料となっております。

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