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日本史

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呉越からの渡来

自分が呉越に近い上海にいるせいか
この手の記事には、つい目がいってしまいます

この記事こだわりの安曇族ってなんだ?
とは思いますが



http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=202671



日本人の起源を探る
202671 弥生人は呉越人との混血によって形成された①
 
田野健 HP ( 48 兵庫 設計業 ) 09/03/22 PM01 【印刷用へ
弥生時代は紀元前300年から始まる。(一説には500年早まるという説もある)日本人の起源や現在に至る氏族を追いかけていくと朝鮮半島に始まるが、その前の稲作伝来まで数百年の隔たりがある事を忘れてはならない。
朝鮮半島の紀元前の歴史は殆どなく、中国がようやく半島の鉄資源を求めて鉄職人を送り込んできた時期である。稲作もその頃に半島南部に広がっており、日本列島まで渡来して先進文化を伝える状況になかった。

朝鮮半島からの渡来人は早くて2世紀まで遅れる。その間、九州、中国地方を中心に弥生の文化や技術を創ってきたのは間違いなく大陸の渡来人である。先行して大陸から渡来人が稲作、漁労、養蚕を伝え、拡げていったのが呉人である安曇族であるという説がある。安曇族はその後の奴国を作り、57年に大陸から金印を授かっている。
「海から見た日本列島」リンクにある以下の記事はそのくだりが書かれており、かなり信憑性が高いので紹介しておきたい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【安曇族を解く鍵「金印」】
博多湾の入口にある志賀の島は 海人の安曇族の根拠地として また AD57年に 後漢の光武帝から授かった「漢委(倭)奴國王」(カンノワノナノコクオウ)と彫られた金印が出土した地として知られている。
中国大陸を制覇した後漢から奴国王が金印を授かったことは破格の厚遇である。なぜ光武帝は倭国の中の一部族に過ぎない奴国に金印を与えたのかまたなぜ奴国王は遠く洛陽まで使者を出したのか。両者の間には 金印授受に値する結びつきがあったはずだしまた 突然の訪問で金印を授かることは考えられないからそれ以前に奴国は中国大陸と交流があったはずである。
その交流にしても奴国王の使者が洛陽まで出かけるにしても海を渡らなければならない。そこには航海術に長けた海人の安曇族が深くかかわっていたはずである。

【安曇族はBC5世紀に呉から渡来。】
『魏志・倭人伝』や『晋書』『梁書』など中国史書にある倭人は入墨などの習俗から会稽地方(現在の浙江省から江蘇省)と共通している。またAD57年に洛陽へ行った奴国の使者は呉の祖といわれている太伯の後裔と述べたと記述されている。 
一方、中国大陸では春秋時代(BC770〜403年)に呉は越と30年ほど戦ってBC473年に亡ぼされた。長年の戦争に船を駆使して戦ってすぐれた航海術をもっていた呉人が日本列島へ亡命してきた可能性は大きい。

以上記した習俗、呉の後裔、呉人の亡命の3点から奴国の使者は呉が亡びたときに日本列島へ亡命した呉人の子孫であると考えた。



日本人の起源を探る
202674 弥生人は呉越人との混血によって形成された②
 
田野健 HP ( 48 兵庫 設計業 ) 09/03/22 PM03 【印刷用へ
安曇族について「海から見た日本列島」リンクより紹介を続けます。

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北九州へ亡命して来た呉人すなわち安曇族は仇敵越への復讐を誓い志賀島を根拠地に中国大陸に出かけて越の情報を集めるのに都合がいい交易をはじめた。
ところがBC334年には仇敵の越も楚に亡ぼされる。元々呉と越は同族で呉越同舟という言葉は両国は戦争をつづけているが何か呉と越に共通する敵が現れたら力を一つにしてその敵に向かうという意味である。このように呉越は兄弟のようなものだから越が亡びて困っていると呉の後裔の安曇族は得意の航海術を使って越人が日本列島へ亡命することを手助けした。
またBC221年に秦の始皇帝が天下を統一すると万里の長城を築いたり阿房宮をつくったりでそのために過酷な税の取立てや強制労働などを行った。安曇族はこれらに耐えかねて祖国を棄てる人たちの亡命も手助している。

【亡命者を日本列島の水田稲作適地に斡旋】
亡命者たちは水田稲作・養蚕や漁撈の技術をもっていた。安曇族は 中国大陸との交易が軌道に乗ると交易で取り扱う品を多くするため日本列島内にも交易網を広げていたから鉄製品がまだ普及せず石や木の農具を使っての水田稲作と養蚕に適している地域の情報ももっていたし魚介類が豊かで船を扱いやすい海岸の情報ももっていた。だから 安曇族は亡命者たちに水田稲作と養蚕に適した地へ漁撈が得意な人たちへはそれに適した海岸を斡旋して住まわせた。

その斡旋先での生産物は安曇族が一手に引き受け日本列島内の交易も中国大陸との交易も大きく発展した。ということで日本列島内においては水田稲作・養蚕と漁撈が盛んになってきた。

こうなると倭国においては一部族に過ぎない奴国すなわち安曇族ではあるが商業に重点を置いた政策をかかげた後漢の光武帝にとっては取引先として大切な相手であった。安曇族にとっても光武帝から金印を授かることは円滑に交易を進める上で欲しいものであった。ということで「漢委奴國王」の金印を安曇族が授かったという仮説は成立するのではないか。

【安曇族の橋渡しで水田稲作技術は中国大陸から伝わった】
●水田稲作について〜稲のDNAを調べた佐藤洋一郎によると 水田稲作技術の日本列島への伝播ルートは 中国大陸から直接と朝鮮半島経由の二つのルートがあるという。ここでは中国大陸からの直接水田稲作技術が日本列島へ入った点に注目する。

●養蚕について〜布目順郎は確定的とは言えないがと前置きして浙江省や江蘇省から東シナ海を直接渡ってきたといっている。水田稲作の適地と養蚕の適地は豊かな水、風通しがよいなど条件が重なっている。

●言葉について〜森博達は日本には中国南朝の音である呉音が入ってきた。そのルートは朝鮮半島経由というのが通説だが呉音には濁音があるが朝鮮の漢字音には濁音がない。と朝鮮半島との結びつきに疑問を投げかけ中国南朝から直接日本列島へ入ってきた可能性を示唆している。

これらの技術や文化が中国大陸から直接日本列島へ伝わるには東シナ海を渡らねばならないからそこに安曇族が関与したことは間違いない。中でも水田稲作と養蚕は日本列島内の交易と中国大陸との交易に結びつくし、安曇族の入植地斡旋は日本列島内の水田稲作の短期間普及につながっている。
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以上のように呉人である安曇族が航海技術に長けた海人としての特徴を生かして、中国から人、物、技術を運んできたと考える事は、その後の日本の海洋国家としての歴史を見ても頷けます。
また、弥生時代の最大の集落である吉野ヶ里遺跡に養蚕が盛んに行われており、中国とも交易をしていたという史実とも整合します。
一方、安曇族が越人を運んだと言われる北陸地方から関東にかけても同質の弥生文化は広がっていったと思われます。

朝鮮半島から来る渡来人第2波の前に既に相当程度、中国の先進文明を受け入れていた可能性があるのです。古墳時代を経て大陸の隋の時代に至るまで、日本列島が半島からの戦火を免れている背景には、弥生時代に構築した中国との関係は見逃せないのではないでしょうか。

戦争に明け暮れた朝鮮半島と戦争史がほとんどなかった日本、その対比を見ていく上で中国からの視点が必要になってくると思います。








http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E6%B0%8F

阿曇氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

阿曇氏(あづみし)は、古代日本氏族で、海神である綿津見命を祖とする地祇系氏族。安曇氏とも表記する。阿曇族安曇族ともいう。

概要 [編集]

古代日本を代表する海神族として知られる有力氏族で、発祥地は筑前国糟屋郡阿曇郷(現在の福岡市東部)とされる。古くから中国や朝鮮半島とも交易などを通じて関連があったとされ、後に最初の本拠地である北九州の志賀島一帯から離れて全国に移住した。この移住の原因として、磐井の乱白村江の戦いでの安曇比羅夫の戦死が関係しているとの説がある。

安曇は海人津見(あまつみ)が転訛したものとされ、津見(つみ)は「住み」を意味する古語とする説もあり、その説だと安曇族はそのまま「海に住む人」を示す。

記紀に登場し、「日本書紀」の応神天皇の項に「海人の宗に任じられた」と記され、「古事記」では「阿曇連はその綿津見神の子、宇都志日金柝命の子孫なり」と記されている。その他、「新撰姓氏録」では「安曇連は綿津豊玉彦の子、穂高見命の後なり」と記される。

律令制の下で、宮内省に属する内膳司天皇の食事の調理を司る)の長官(相当官位は正六位上)を務める。これは、古来より神に供される御贄(おにえ)には海産物が主に供えられた為、海人系氏族の役割とされたことに由来する。

安曇族が移住した地とされる場所は、阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積・泉・熱海・飽海などの地名として残されており、安曇が語源とされる地名は九州から瀬戸内海を経由し近畿に達し、更に三河国渥美郡渥美半島、古名は飽海郡)や飽海川(あくみがわ、豊川の古名)、伊豆半島熱海、最北端となる飽海郡(あくみぐん)は出羽国北部(山形県)に達する。この他に「志賀」や「滋賀」を志賀島由来の地名として、安曇族との関連を指摘する説がある。

また海辺に限らず、川を遡って内陸部の安曇野にも名を残し、標高3190mの奥穂高岳山頂に嶺宮のある穂高神社はこの地の安曇氏が祖神を祀った古社で、中殿(主祭神)に「穂高見命」、左殿に「錦津見命」など海神を祀っている。志賀島から全国に散った後の一族の本拠地は、この信濃国安曇郡長野県安曇野市)とされる。


中国東北史(1)



中国東北史(1)
  
【中国東北(満州)の地域的特徴】
中国東北のうち、朝鮮半島に近い山岳地域は「満州族」の故郷である。この地域は森林地帯で、その中を黒竜江、松花江などが流れる。そのため古くから毛皮獣、人参、牧畜が行われ、夏は川沿いの平地で農耕が行われてきた。ここにツングース系の民族が興亡した。一方で長春、瀋陽から遼東半島方面へ流れる遼河沿岸(東北平原)は中国人が早くから農耕をしていた。さらに東北平原をこえた大興安嶺東麓は乾燥地帯となり、モンゴル系の遊牧民族の地域となる。満州地域はこれら周囲の地域との関係で進展する。

 ※1 歴史でいう「満州」は、現在の遼寧省、吉林省を中心とする山岳地帯をさす。「満州国」の範囲より狭い。
 ※2 ツングース…東シベリア,沿海州・満州に分布する。粛愼、靺鞨、満州など。貊、夫余、高句麗は違うという立場が強い。

【秦・漢・匈奴の進出】
満州には紀元前6-5世紀に粛愼、貊などがいたという。ここに国ができはじめたのは、中国に「秦」(前221-前202)・「漢」(前202-後8)が成立したことに関係する。中国の戦国時代(前403-前221)に入ると、中国の「燕」が満州に勢力を広げ(前4-3世紀)、西北朝鮮方面へ進出した。「秦」・「漢」もその領域を受け継ぎ、「箕氏朝鮮」、「燕」の衛氏による「衛氏朝鮮」、「漢 四郡」(前108)ができた。これにより中国文化の影響を多く受けた。一方モンゴルには匈奴が成立したが、彼らのスキト=シベリア文化も満州に大きく影響を与えた。新羅の早い時期の古墳からはスキタイの影響の強い遺品が多く見つかっている。

 ※1 戦国時代…周の諸侯が王と称して覇権争いした時代。やがて、多くの諸侯のうち「斉・楚・秦・燕・韓・魏・趙」の7国が
       対立するようになるが、秦が強大となり中国を統一する(前221)。
 ※2 匈奴…系統不明の遊牧民族。スキタイの文化を取り入れて強大化して、紀元前5世紀から5世紀にかけて北アジアに
       一大遊牧民族国家を築き、しばしば漢族とも対立した。ヨーロッパで民族大移動の元となったフン族と同系統という
       説もある。

【夫余と高句麗】
前2世紀末には松花江流域に夫余がおきた。遼河流域につながる場所で中国文化の影響の強いところであった。一方高句麗のおきた?稲佳江流域は遼河流域より内陸の山岳地帯であるため、中国文化の影響は遅れた。ここに高句麗がおきたのは、「前漢」の政治が衰えて、漢の対外的な圧力の弱まった前1世紀末のことであった。高句麗は「後漢」(25-220)の光武帝に朝貢する(32)が、一方で遼東、玄?愕に進入して後漢を苦しめ、玄菟郡を現在の撫順まで撤退させたうえ(2世紀初)、遼東と朝鮮の要衝の西安(鳳城県)に進入した(2世紀半)。

 ※1 玄?愕郡は漢四郡の一つで、当初は朝鮮の咸鏡道方面まで支配したが、まもなく南満州の蘇子河畔に後退して、
    満州での「漢」 の前線基地の役割を果たした。
 ※2 高句麗は「貊」から出たとされる。日本では「狛」の文字も用いた。夫余は「?美」の可能性もある(「朝鮮史」山川より)

【後漢の衰退と満州】
2世紀末「後漢」の政治力が落ちると、遼東郡を治めていた「公孫度」は独立して勢力をふるい始めた。「公孫」氏は楽浪郡を手中に治め、帯方郡を設けた (204 頃)。その一方で、「高句麗」の王位継承問題を支援して、「高句麗」の本拠地(桓仁) を攻撃して壊滅的な打撃を与えた。そのため「高句麗」は分裂状態になり、都を丸都 (集安)に移し新国を建てた(209頃)。

「後漢」が滅びて(220)三国時代に入ると、「魏」(220-265)は公孫氏を滅ぼして、楽浪郡や帯方郡を接収した(239)。この年は「邪馬台国」の卑弥呼が魏に使節を送った年(景初3)で、翌年「親魏倭王」に封じられている。「高句麗」は 「魏」と接するようになったが、高句麗が「呉」と接近して遼東に侵入したために魏に討たれた(244)。

 ※ 三国時代…後漢が滅びた後、「魏」(華北)・「呉」(長江下流)・「蜀」(四川)三国が対立した時代。

【魏晋南北朝時代と高句麗】
三国時代が終わり、「魏」を継いだ「晋」(265-316)が中国を統一したが(280)、「八王の乱」(290-306)などのため、「高句麗」のある辺境地域を顧みる余裕はなかった。しかも中国北部は「匈奴」の動乱に乗じて中国北部から騎馬系民族やチベット系民族が一斉に侵入する「五胡十六国」時代(304-439)に入り混乱状態になった。

「高句麗」はその状況を利用して勢力を伸ばして、楽浪郡を滅ぼした(313)。これによって中国の西北朝鮮支配は終焉を迎える。一方で鮮卑の「前燕」が遼東地方を支配するようになると、「高句麗」は勢力を遼東から南方に向きを変え、本格的に朝鮮半島に進出するようになり、「百済」、「新羅」などと鼎立するようになる。

 ※1 匈奴…1世紀中頃に南北に分裂した。南匈奴は漢に従属して農耕生活に入り、五胡十六国時代に再び登場する。
        北匈奴は遊牧生活を維持してタリム盆地に進出するが、後漢がオアシス国家を押さえたことや、鮮卑らの攻撃を
        受けて西へ移る。モンゴルは空白地帯となった。
 ※2 鮮卑…匈奴に変わってモンゴルに進出した民族。それまでは匈奴に服属していたが、2世紀後半に強大となる。4世紀に
        華北に入り、「前燕」(慕容部)、北魏(拓跋部)などを作る。モンゴル系とされるが、テュルクとツングースの混血と
        もいわれる。

【靺鞨の勃興と高句麗の滅亡】
一方で松花江方面では3世紀前半から「?翠婁」が「夫余」に反抗し、松花江から沿海州に勢力をおくようになる。5世紀の中頃には「夫余」が衰退して、松花江に「勿吉」がおこり「北魏」(北朝 386-534)、「東晋」(南朝 317-420)に朝貢した。「勿吉」は6世紀中頃から「靺鞨」と名乗るようになる。中心勢力が変わった事による。一方「高句麗」、「新羅」、「百済」、「伽耶」、 「倭」も4世紀以来の南朝、北朝とそれぞれ結びつつ国力の増大をはかった。倭では五王の時代に当たる。

「隋」(581-618)・「唐」(618- 907)が中国を統一すると、東アジアの国際関係も大きく変わり、「唐」は「新羅」と連合して「高句麗」(668)、「百済」を (660)滅ぼした。「唐」は朝鮮半島に勢力を伸ばそうとしたが、「新羅」の抵抗により失敗した。多くの遺民が「百済」、「高句麗」から「日本」へ渡り、日本の社会に大きく影響を与えた。また、満州の地は、靺鞨と高句麗遺民による「渤海」がおきた。

 ※ 「五胡十六国」の混乱の中で、拓跋氏の「北魏」が華北を統一して(439)、漢化政策を行う(北朝)。一方で「晋」は
   中国南部に移って続いたが、そのの後、「宋・斉・梁・陳」の4王朝が短期間に交替する(南朝)。この対立時代を「魏晋
   南北朝時代」という。


>新羅の早い時期の古墳からはスキタイの影響の強い遺品(画像)
http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/kyongju2.htm
より
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>針塚古墳
石室の様子が似てるなぁ
と 長野の針塚古墳も画像も2枚
http://www5f.biglobe.ne.jp/~sinanodaimon/sinanodaimonmain.files/daimonheya.files/rekizako.files/haritukakohun.html
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>ついでに
http://www.xiangyata.net/data/articles/g01/283.html
からも 殉馬墓 の画像一枚
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高句麗2

高句麗、高句麗・・・・
なんか、高句麗のこと調べているあいだにも
現実の方が・・・・・・

Leeさん、ホント7月に、いけるのか?




ちなみに
7世紀には
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97
隋が倒れて唐が興ると、今度は唐から遠征を受けることとなった。これに備えて淵蓋蘇文はクーデターを起こして宝蔵王を擁立し、軍事政権によって唐の進出に対抗した。唐の太宗による2回の遠征、さらに高宗期の3回の遠征も撃退し、唐と争いながら百済と結んで新羅を攻めた。新羅と同盟関係にあった唐は高句麗討伐の為に再度兵を起こし、660年に高句麗と友好関係にあった百済を滅ぼした。さらに663年白村江の戦いで百済残存勢力が事実上潰滅したため、高句麗は孤立した。
高句麗の淵蓋蘇文の死後に子らの間で内紛を生じると、それに乗じて唐・新羅は連合して高句麗の都の平壌を攻め、668年に宝蔵王らは投降し、高句麗は滅亡した。


ヒラリークリントンが北京に来たり
温家宝が韓国に行ったり
そんなさなかの本日のニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100527-00000035-scn-kr
より

北が朝中国境に迫撃砲、北住民らは「6月始めに開戦」とうわさ

5月27日12時6分配信 サーチナ
 北朝鮮が韓国からの攻撃に備えるため、朝中国境を守る国境警備隊に砲撃砲を追加配備し、この一帯に放射砲旅団を展開させたことが分かった。韓国メディアが26日、対北朝鮮消息筋の話として伝えた。

 消息筋は、2010年2月までに朝中国境付近の国境警備隊に82ミリ迫撃砲を扱う火力支援小隊が編成され、実戦配備が完了したと明かした。国境警備隊は人民武力部に属するが、主な任務は住民の脱北防止であるため、小銃などの軽装備が主だった。

 また、これとは別に、休戦ライン一帯や海岸付近に配備されてきた北朝鮮型多連装ロケット砲が朝中国境にも配備され、北朝鮮と中国との間で微妙な緊張が生じていることも伝えられている。

 北朝鮮は武器強化の理由について、「中国側から韓国の特攻隊が攻撃する可能性があるため」と説明しているという。

 また、韓国メディアによると、北朝鮮住民の間では「6月1日−4日ごろに戦争が始まる」といったうわさが流れている。このうわさは一部の地域だけで広がっているものとみられているが、北朝鮮国内の緊迫する様子が表れている。(編集担当:新川悠)

?美

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文字表記と読み方 [編集]

?美は「穢」とも書き(草冠をつけることもある)「わい」とも「かい」とも読む(「かい」の方がより正しいとの説もある)。「穢(けが)れる、穢(きた)ない」などの意味をもつ文字で書かれたのは、異民族に対する中華王朝の蔑称ともみえるが、音は何らかの自称名を写したものであろう。一説に、前二世紀の中国東北部の「?美」は(かい)、後三世紀の韓国江原道の「?美」は(わい)と読む。
前二世紀・中国東北部の?美 [編集]

?美は、吉林省の西部から北朝鮮北西部、韓国江原道にかけて存在した古代の種族。?美貊(わいはく・かいはく)とも記され、貊は狛とも書く。「?美貊」は二文字で一つの種族の名とする説、?美と貊の二種族を連称したとの説などがあったが、「いろいろな?美族の中の貊という特定の種族」の意と考えるのが有力。古代日本では「狛」を「こま」と呼んでいたが、これは「?美貊(かいまく)」の訛りとする説があったが現在は否定されている。

戦国時代、現在の吉林省長春市の辺りに穢(わい)の名が現れる。秦時代、穢の名が消えて「夫餘」(ふよ)が代わって登場するがこれは遡って呼んだものであろう。

  • 紀元前134年、前漢の武帝は穢州[1]を取らんとして城邑を築いた。
  • 紀元前128年冬、穢君南閭ら(穢族の首長の「南閭」たち)が二十八万もの穢人を率いて投降、その地に「蒼海郡」[2]を設置
  • 紀元前126年春、蒼海郡を廃止。この時、現地の首長(南閭か?)に「穢王之印」を授けて独立を認めたらしい。
  • 紀元前134年〜紀元前126年の9年間は漢帝国と穢族の戦いが継続していたのではないかとみる説もある。
  • 紀元前108年、衛氏朝鮮を滅ぼしその跡地に楽浪郡を、周辺に真番・臨屯の二郡を設置。このうち臨屯郡は現在の韓国江原道にあたり、穢族の居住地の一部(最東端)だった。

穢族の四分化 [編集]
前漢代 [編集]

  • 紀元前107年、玄菟郡[3]を設置。この時「穢王之印」を所持した穢人の政権は北へ逃亡し「鹿山」の地に依って「夫餘国」を建てた。夫餘とは穢人の言葉で鹿の意味という。
  • 紀元前82年、真番郡・臨屯郡が廃止。臨屯郡の跡地は穢人の首長たちを多くの「県侯」に任じて治めさせたと思われる。
  • 紀元前75年、玄菟郡が西へ縮小移転(第二玄菟郡という)され、日本海沿岸部(咸鏡道)は放棄され、「沃沮」[4]として独立。
  • 紀元前59年、玄菟郡はさらに西方へ縮小移転を開始し、中国と朝鮮の国境山岳部も放棄され、「高句麗」[5]として独立。

ここにおいて穢族は、穢(韓国・北朝鮮江原道)・沃沮(北朝鮮咸鏡道)・高句麗(吉林省南部+慈江道)・夫餘(吉林省北部)の四つに分かれることになった。この四種族を「穢系種族」または「夫餘系種族」とよぶ[6]。
後漢代 [編集]

  • 32年、後漢の光武帝は、高句驪侯を高句麗王に昇格させた[7][8]。これにより、穢族は、夫餘国と高句麗国の二つの王国をもつことになった。穢(江原道)と沃沮(咸鏡道)は各地に首長たちが並立して統一国家は作らなかった。
  • 107 年、玄菟郡の縮小移転が完了。最終的に遼東郡の北部都尉を廃止してその地を玄菟郡にあてることになった(第三玄菟郡という)

後三世紀の江原道の?美 [編集]
3世紀の朝鮮半島。

後三世紀の江原道にいた「穢」について後漢書には、次のように記されている。

南に辰韓,北に高句麗と沃沮,東は大海(日本海),朝鮮の東は皆、?美の地である。高句麗と同種で、言語や風俗も似ているが、服装は異なる。同姓結婚は認められない。前漢のとき、単々(せんせん)大嶺[9]の以西は楽浪郡が監督し、東部の七県は都尉が監督したが、やがて東部の都尉を廃止し、その地の渠帥(きょすい=首領)を諸侯に任じた。漢末には高句麗に属した。

民族系統 [編集]
ツングース説 [編集]

現在もっともコモンな説[10]であるが、厳密な検討を経た定説というわけではない。(このことは他の諸説も同じであるが)
朝鮮民族説 [編集]

『三国史記』が新羅本紀・高句麗本紀・百済本紀からなる構成をとっていることから、朝鮮人の祖先としてこの三国を同一民族視し、高句麗=貊を?美貊に遡って朝鮮民族に同定する。韓国では民族の源流を「?美・貊・韓」の三種の合流として語る説もあるが、大抵はすべて「東夷」か「粛慎」か「朝鮮」という同一民族に帰着させる。
倭人同系説 [編集]

高句麗語の研究から、?美族の言語は倭人に近いのではなかったかとする説。
古アジア語族説 [編集]

ただし古アジア語族というのは系統的にまとまったものではなく、苦し紛れではないかとの批判もある。
中国民族説 [編集]

中国の歴史学者、王文光氏(雲南大学)は『中国民族史研究』で「穢貊も中国民族」との学説を唱えている。 夫餘族の大半は高句麗、渤海、契丹、女真、漢族に融合されたから「穢貊=中国民族」が成り立つ。同氏は扶餘、高句麗、沃沮も中国民族としている。
その他 [編集]

  • 『三国志』などの史料を読んでいれば、高句麗・夫餘・東穢・沃沮の四種族は前漢代の穢の同種であることは明白であり、これに対し、「穢」と「韓」は最初から別系統の種族として扱われている。
  • 隅田八幡の画像鏡に「開中費直「穢人」今州利二人」とあるが、大和王朝では朝鮮半島からの渡来人をすべて「穢人」(あやひと)と呼んだかのようにいう説は誤りである。
  • 「貊」は隋代以後には単に高句麗をさす言葉になったので、高句麗や百済は俗に「貊族(狛族)の系統である」等と表現される。
  • 「夫餘」は「扶餘」とも書き、どちらも同じであるが、使い分けに多少の傾向があり、中国東北部のフヨ・中国文献でのフヨ・フヨ本家は「夫餘」と書き、朝鮮半島のフヨ・朝鮮文献でのフヨ・フヨ分家は「扶餘」と書かれていることが多い。

秦氏1

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ユダヤ=秦氏は鬼・悪魔

1 :黒男 ◆GKCqilIBuQ :2006/09 /28(木) 22:44:14
秦氏がユダヤの流れを引いているとはよく言われることだが、これは事実である。

そもそも秦氏を秦氏と書くのは、中国でペルシャを秦と書いていたからである。
ペルシャ帝国がバビロン捕囚からユダヤ人を解放し、そのままユダヤ人の一部はペルシャに居住した。
そこで多くのユダヤ人はペルシャ化され、そのまま世界中に散っていった。
これが「失われた十支族」である。
その中のダン族こそが秦氏である。
言うまでもなくペルシャはキリスト教の最大の敵であり、ペルシャ化されたユダヤ人は悪魔となる。
「獣」と書いて「jew」と読むのはそのためである。
ファリサイ派というのは「ファールス」という語からできた言葉であり、ペルシャ派ということである。

秦氏はその後朝鮮半島を経由して日本へと来る。
新羅を一時「波斯」と書いていたのは、秦氏が居住していたからであろう。
日本に来た秦氏は最初権力に座るが、後に賤民身分へと落とされる。そして鬼になる。
鬼に角が生えているのは、バールに角が生えているのと同じ理由である。

秦氏の神はスサノヲやヒルコだが、これが記紀神話でどういう扱いを受けているか考えてみるといい。
要するに、皇室と繋がりはあっても、厄介者なのだ。
ちなみに現在の同和・在日も≒秦氏である。弾左衛門の「ダン」とは、ダン族のことである。

イランと北朝鮮が繋がっているというのは、現代だけの問題ではない。古代に遡ることなのだ。
つまり、秦氏=悪魔崇拝者のネットワークである。
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これは京大教授も事実だと認めた、私の自論です。



http://www7a.biglobe.ne.jp/~mkun/nazo/Kyrgyz.htm
キルギスと秦氏の出身 弓月国の位置関係

キルギスのすぐ北方に弓月国はあったらしい。
弓月国と秦氏

弓月国とは秦氏の出身地と言われている。
日本書紀によると応神天皇14年に弓月君が朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となったという。 秦氏の末裔 広隆寺 聖徳太子
秦氏

秦氏は有名な帰化人、教科書にも書かれている。土木や養蚕、機織、金属工芸などの技術を日本に伝えたそうだ。京都鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏は秦氏から別れた。
秦氏で有名なのは、秦河勝である。彼は聖徳太子に仕え、太秦に広隆寺を創建したことで知られる。聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像を賜り広隆寺を建てそれを安置した。
木嶋神社は秦氏との関係が深い。木嶋神社は、織物の始祖を祀る蚕養神社があることから蚕の社(かいこのやしろ)の通称が広く知られている。
木嶋神社には三柱鳥居がある。
秦 河勝と勝浦

  1. 阿波 徳島の勝浦町
  2. 安房 千葉県の勝浦市
  3. 和歌山県の那智勝浦町

勝浦とは、「秦 河勝」の浦(海辺。浜。)という意味である。たぶん。
日本に勝浦という地名は3つしかない。勝浦の由来 安房と阿波


http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1176.html
隋の人が、秦王国の風俗や人種などが似ていると思った「秦」はどこだったでしょう。そのようなことは分かるわけがありませんが、それでは前に進みませんので、書いてみます。
 イスラエルが滅ぼされたのが紀元前722年です。この時のユダヤの十部族の行方が未だに判っていません。イスラエルが滅ぼされて間もなく中国は春秋時代です。西周、燕、晋、宋、斎、秦、楚の春秋時代に西域に一番近い国が秦です。戦国時代になり秦が強力になり始皇帝が即位したのが紀元前220年頃です。『隋書』の著者が秦王国と似ていると述べたのは、どこの国か判りませんが、「秦」の付くものを探しますと、秦始皇帝の秦と大秦があります。

フリー百科事典『ウィキペディアには、
後漢書に、
「和帝の永元九年(97年)に西域都護の班超が甘英を使者として大秦に派遣した」
大秦の初出である。この後甘英はシリアにまで到達し、地中海を渡って大秦へ赴こうとしたが、パルティア人の船乗りに「大秦までは長ければ二年以上も航海せねばならず、長期間陸地を見ないために心を病んで亡くなる者さえいる」と言われたために大秦に行くことを諦めたとの記述がある。
「桓帝の延憙九年(166年)に大秦国王の安敦(アントン)が遣わした使者が日南郡に訪れて象牙・犀角・玳瑁を献上した」
安敦とはローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(位161年〜180年)、またはその先代皇帝であるアントニヌス・ピウス(位138年〜161 年)の「アントニヌス」の音を写したものと考えられる。ただローマ側の史書には使者を派遣したという記述が見られず、・・・・」
魏略には
「大秦には普段は王はおらず、国に災難があった場合には優れた人物を選んで王とする。災難が終われば王は解雇されるが、王はそれを恨まない」と書かれており、これは共和政ローマにおける独裁官に関する記述であると考えられる。
 この二つのことから、大秦はローマ帝国のことを云うらしいです。
中国の「秦」は、上に述べましたように、中国の春秋時代の国の名前です。
国の名前の他には、中国の西安の大秦寺に景教碑というものがあります。この碑の上の部分に、「大秦景教流行中国碑と書かれています」景教は、東方のキリスト教がペルシャ国から入唐し栄えたキリスト教で(『景教の研究』佐伯好郎著)と言われています。(635年)
中国の大秦寺は、当初、多くのペルシア人やシリア人が来唐したことで波斯胡(ペルシア)寺と呼ばれていましたが、主メシアの教えの源が、ローマ帝国領のシリア、ユダヤ、エルサレムであることを知って大秦寺と改称(745年)されました。(『景教』川口一彦著) 現在では、中国では、景況が衰退してしまいましたので、景教の詳しいことはよく解っていないようです。
大秦寺と似た寺が京都にあります。「太秦寺」です。読み方は「うずまさてら」です。別名は、広隆寺、秦公寺です。
興味のある方は、
「広隆寺」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E9%9A%86%E5%AF%BA をごらんください。字は似ているものの、一方はキリスト教の寺であり、一方は仏教の寺です。
広隆寺は聖徳太子の発癌で建設された寺で603年のことです。
中国の「大秦寺」と京都の「太秦寺」は関係ないと言われ方もおられますが、広隆寺は帰化人系の氏族である秦(はた)氏の氏寺であり、秦氏自身、自らを秦の始皇帝の子孫と名乗っているとも言われ、妙なところで、秦(はた)と秦(しん)の始皇帝が結ばれることになります。
また、「太秦寺」は「うずまさてら」と読みますが、秦氏が税金を納めるときに「うず高く絹を積んだ」との説があります。私は、この部分の方に興味があります。ユダヤ人は、紀元前から日本にやってきており、日本の群馬県あたりから、中国、インド、ビルマ、ペルシアを経て、ローマに絹を運んでいたと推察しています。
秦氏のルーツhttp://www.bekkoame.ne.jp/~gensei/ten/hidecross.html
 
日本の歴史は、絹をめぐって、ユダヤ人と天孫族の人とユダヤ人が三つ巴になった歴史だと考えています。「新しい日本の歴史」http://homepage1.nifty.com/o-mino/page550.html
のNo20 ぐらいから、書いています。全部読んでいただきますと、そんなことが言えるかなというぐらいの程度です。
 キーワードを「秦始皇帝 ユダヤ」で、WEBで検索しますと、秦始皇帝とユダヤ人 人民中国の教科書問題 望郷の書 鹿島昇/著 がいっぱい出てきます。この本は読んでいませんが、どうやら、秦始皇帝はユダヤ人であるということが書いてあるのでしょうか?
 もし、そうであるとしますと、現在の中国の祖先は、ユダヤ人であることになり、政府としては、許すわけには参りません。しかし、人民中国の教科書問題のタイトルとは結びつきません。このように推察しますと、秦始皇帝はユダヤ人であるという証拠は、いっぱいあったが、これまでの歴代の漢民族の政府によって、抹殺されたのかも知れません。

次回は、日本の出雲にユダヤ人の形跡があるのかどうか、書いてみます。



http://www.ican.zaq.ne.jp/euael900/episode17.html
宇野正美によれば、「イスラエルの失われた十支族」(前8世紀末)は、「草原の道」を騎馬民族のスキタイ民族に伴われて東北地方に住み着いたということです。 また、イザヤ(前8世紀末)は、ユダヤの二支族とダビデの子孫ヒデキヤ王の王子を伴って「契約の箱」をシュメールの籠船にのせてペルシア湾から海の道をたどり、日本の四国の剣山にもたらしたという。川守田英二によれば、イザヤは、「絹の道」3・4世代かけて、東漸し日本にたどり着いたという。 ケン・ジョセフによれば、弓月王国にいたユダヤ人キリスト教徒(景教徒)の秦氏は、4世紀に来日して赤穂の坂越にまず上陸し、のち京都の太秦に移ったという。

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