BLOG さぬき路

BLOG青い国四国路(旧名BLOG さぬき路)から一部移転しました。

全体表示

[ リスト ]

寺 名:補陀落山・平等院・満願寺
本 尊:聖観世音菩薩
開 基:行基菩薩
創 建:奈良時代
宗 派:真言宗大覚寺派
札 所:さぬき三十三観音霊場十七番札所
住 所:香川県観音寺市豊浜町姫浜1376
マピオンマップ↓↓↓↓
マップコード:207 887 035*26
電 話:0875-52-2538
由 緒
 大野原町五郷の田野々地区に建てられて、山寺としてあった。正保・慶安年間良済上人によって、同町花稲地区に移転された。
 更に、享保十三年(1728)中興の祖宥剛法印によって、現在地に移転、再建された。明治六年(1873)、西讃地方に起こった百姓一揆、いわゆる竹槍騒動によって、大門、鐘楼などを残して焼失したが、漸次再建されて、現在に至っている。
 境内の老松に昔日を偲ばせる。
文化財:
資 料:さぬき三十三観音霊場、Wikipediaなど、
参照HP:
駐車場:無料
関連記事:
撮影日:2018年9月5日

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

 西讃竹槍騒動(西讃農民騒動とも)は、名東県(現香川県)豊田郡・三野郡・多度郡・那珂郡・阿野郡・鵜足(うたり)郡・香川郡の7郡で6月27日(26日とも)から7月6日にかけて起きた。放火された村の数は約130村、農民側死者50名、官軍側死者2名。このうち、この一揆がはじまったのは、三野郡下高野(しもたかの)村であった。
 この一揆のきっかけにはこの様な話が伝わっている。下高野村(現香川県三豊市豊中町下高野)の夕方のこと。ひとり蓬髪の女が2人の女の子を抱え、手には竹槍を持ちどこかに飛び出していった。この女を捕まえた下高野村の住民が、「子ぅ取り婆あ」があらわれた、と言って騒いだという。そのころ、「徴兵検査は恐ろしものよ。若い児をとる、生血とる」という歌がはやっていたのも関係するらしい。戸長が取調べを行おうとしたが、それを不服としたものたちが戸長に暴行、それに群集が興奮し次第に数を増していき、2万人に達した。26日豊田郡萩原村(現観音寺市大野原町萩原)へ向かって進んだ後、翌27日には、騒ぎは三野、豊田、多度郡全域に広がり、さらに東へと広がっていった。6月28日、名東県(現香川県)高松支庁は高松営所を派遣し、早くも6月29日には優勢に立った。そして7月6日これをほぼ鎮圧した。逮捕約282名、うち死刑7名、懲役刑50名(または51名)など、刑に処された者は16,839名(または16,606名、16,654名)にものぼった。
 農民の要求は「徴兵令反対、学制反対」また、『肉食行はれしより牛価騰貴貧民困却』と唱えた。これは、牛食が認められると、それが耕作に必要な牛の値まで上げ、農業生産を圧迫するのだ、という理屈からきたものであったらしい。農民たちは焼き打ち、打毀し、戸長事務所、小学校、戸長宅、邏卒出張所や民家など計599箇所を破壊した。
 また、小学校への毀焼も激しかった。破壊された599箇所のうち48が小学校の数である。一揆をおこした農民は徴兵以外にも、新政のいろいろに不満を持っていたが、明治5年(1872)に施行された学制に対するそれも大きかった。学校経費として丸亀・多度津では一年につき最下層でも25銭の負担が住民に課せられ、辛いものであったとされる。一揆の鎮圧後、名東県(現香川県)は「速かに学校を興すべき達」という通達を出し、小学校の復興を急いだ。



閉じる コメント(0)

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事