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道徳的権威と共産世界の没落
1989年11月9日、ドイツを東西に二分したベルリンの壁を、東ドイツの市民が壊し始めた。やがてそこに西ドイツの市民が加わり、東西ドイツのみならず、西欧民主陣営と東欧共産陣営を分かつ冷戦の象徴たる壁は解体された。市民が立ち上がったことで、抑圧者は失脚に追いやられた。そのわずか1カ月前、共産主義強硬派である東ドイツの書脱出しようとッヒ・ホーネッカーが軍部に命じ、日増しに拡大するデモ隊に発砲するよう指示したが、軍が市民に向けて銃を発射することはなく、以後1年足らずでふたつのドイツは再びひとつになった。
ベルリンの壁は東ドイツの人の脱出を防ぐために築造されたもので、警備兵は脱出しようとする者をその場で射殺することができた。しかし西ドイツのテレビやその他の媒体を通して流入する情報は、東ドイツの人々の、より自由で住みやすい場所に行きたいという欲求を刺激した。1989年初頭には、何千人もの東ドイツ住民が民主化を達成したハンガリーへ、チェコスロバキアを通して逃げ出した。東ドイツ首脳部はこれを防ぐため、四方の国境を閉鎖したものの、脱出を希望する人々の列は途切れることがなかった。そしてすべての出口が閉鎖されると、政府に抵抗する市民の数が増加したのである。
1989年、ライプツィヒで開かれた「月曜デモ」は、反政府デモの象徴となった。築800年以上にもなるライプツィヒ、聖ニコライ教会で始まった小規模な祈祷と討論の集会は、32万人が参加する民主化を求める平和行進へと発展した。こうした民主化を求める集会は、全国の教会へと広がった。
デモに加わる人々の数が多くなると、大衆の憤りに恐怖を感じたドイツ社会主義統一党(SED)は、1989年10月8日、ホーネッカー書記長を権力の座から追放した。最終的にこのデモは、ドイツ社会主義統一党の権力維持のための抵抗の意志を砕くものとなった。政府は50万人を超える市民が参加した11月4日の東ベルリン集会を許可し、一切の旅行禁止処置を撤回し、ついにベルリン岡部の崩壊を目の当たりにすることになるのである。
内閣は間もなく総辞職し、「党の主導的な役割」という文句が憲法から取り払われ、多党制が成立し、自由選挙が実施された。SEDはマルクス・レーニン主義を放棄し、党の名称を社会主義統一党・民主社会党(SED-PDS)に変更した。共産主義体制から平和的に民主主義体制へと移行した国々で見られるように、この過程で党の協調的な役割は重要な要素として働いた。党指導部は旧時代的要素を取り除き、権力独占を放棄し、新しい民主的政治プロセスを導入した。
彼らは、最後まで抵抗して収監されたり処刑されたりするよりも、高禄的な姿勢を取ったほうが、自分たちにとって遥かに有益であると見抜いたのである。一方ルーマニアの独裁者ニコエラ・チャウシェスクはこの点を見誤った。彼は権力への未練を捨てることができず、信頼していた軍部によって妻もろとも銃殺刑に処された。他の東ヨーロッパの共産党が体制転換の過程で変わり身を成功させたのに対し、ルーマニアの共産党はついに生き残りに失敗したのである。
*コリアン・ドリーム「道徳的権威と共産世界の没落」中から抜粋 |

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