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ポーランド出身の教皇、ヨハネ・パウロ二世の道徳的権威
ホーネッカーの時代、東ドイツは、厳格なソ連式共産主義に追従し、秘密警察・諜報機関として悪名高い国家保安省、通称シュタージが管轄する情報員とそのネットワークを用いて、反対派を抑圧した。ゴルバチョフが改革に着手してからは、ソ連で発行される特定出版物の持ち込までも禁止した。これに対し、何より先に党の内部から批判の声が上がった。1977年、西ドイツの週刊誌『シュピーゲル』は、「ドイツ民主主義共産党連盟」が送ったとする声明書を掲載したが、その内容は匿名の中高級SED幹部による、未来のドイツ統一へのプロローグとして、民主的改革を主張するものだった。 このように、大衆の抵抗によって共産主義政権が没落した背景の核には、ソ連の変革があった。ゴルバチョフはソ連が軍事介入によって東ヨーロッパの共産主義政権を支援しないことを明言したが、それはソ連とドイツが今後生きる道を模索すべきという意味を内包した発言だった。そればかりか、ゴルバチョフは、これら東ヨーロッパ共産主義国のトップに各々革命を実行するよう促した。彼がこのようなメッセージを携えてr東ドイツを訪問してから、わずか数日後にベルリンの壁が壊され、ゴルバチョフのメッセージを拒否したホーネッカーは、2週間もせずに退陣を余儀なくされたのである。これに対し、ゴルバチョフが東ドイツの指導部に送った発表文には、「遅れて来る者は人生に罰せられる」という文言が含まれていた。 東ヨーロッパの共産主義体制崩壊の引き金となったポーランドには、宗教界と市民社会をそれぞれ代表するふたりの人物がいる。そのうちのひとりはカトリック教会の首長である教皇ヨハネ・パウロ二世、もうひとりは、電気技師で、独立自主管理労働組合連帯を結成した後、ノーベル平和賞を受賞したレフ・ワレサである。
初のポーランド出身の教皇、ヨハネ・パウロ二世は、東ヨーロッパの共産主義独裁体制の打破に大きく貢献したと評価されている。彼を評価したのは、その支持者のみではない。ワレサやアメリカの元大統領ジョージ・H・Wブッシュ、さらには1981年に戒厳令を宣言し労働組合の機能を停止させた、ポーランドの軍事独裁者ボイチェフ・ヤルゼルスキをはじめ、ソ連のゴルバチョフといった共産主義陣営の指導者すら教皇の働きを認めている。ゴルバチョフは、「教皇ヨハネ・パウロ二世がいなければ、鉄のカーテンの崩壊はなかった」とまで述べている。1989年12月、ゴルバチョフはバチカンで妻に教皇ヨハネ・パウロ二世を紹介する際、「地球上最高の道徳的権威を紹介する栄光に与かった」と述べている。教皇としての影響力はもちろん、その道徳的権威は、ポーランド国民をはじめ、世界中の人々にまで影響を与えた。ポーランド国民にとって、彼は共産主義に対置する精神的な原則と価値基準を代表する人物であった。教皇就任の翌年である1979年、母国を訪問した際、彼を歓迎するのは少数の高齢女性に限られるという共産主義の専門家の予想に反し、彼が主催したイベントには何百万人ものポーランド人が押し寄せた。人々は共産主義のプロパガンダの欺瞞に対抗し、真理の御霊を語る彼の説教に強い感銘を受けた。
ヨハネ・パウロ二世は、「恐れないでください」という言葉を繰り返しながら、ポーランド国民を勇気づけると共に、共産主義が抑えつけようとする豊かな道徳的教訓がポーランドの歴史と偉大な伝統の中に息づいており、それが彼らに更なる勇気や力を与えると語った。共産主義政権もカトリック教会を完全にコントロールすることはできなかった。更にヨハネ・パウロ二世は、共産政権指導部に対し、教皇として彼らの行動を見守り、党は「歴史と良心」の前に責任ある行動をしなければならないと警告した。
ポーランド出身のワシントンポストのコラムニストであるアン・アップルバウムは、教皇は彼のビジョンを通して、共産主義の世界観に道徳的な挑戦をしたと述べた。彼女は「教皇が自分の信念を公に堂々と表明し、また、文化や歴史的資料を引用する彼独自のスタイルは、文化や歴史の一切を統制しようとする政権にとって爆薬に他ならなかった」と述べた。
東ヨーロッパの共産政権に対抗して起こった1989年の革命を記録した、イギリスの歴史学者ティモシー・ガートン・アッシュは、教皇の役割を次のように要約した。「私はこの歴史的な状況を3段階に定義する。ポーランド出身の教皇がいなかったら1980年代のポーランド独立自主管理労働組合連帯の革命はなかっただろう。彼らがいなければ、ゴルバチョフの東ヨーロッパ政策に劇的な変化は見られなかっただろうし、そのような変化がなければ、1989年のビロード革命もなかっただろう」
*コリアン・ドリーム「道徳的権威と共産世界の没落」中から抜粋 |

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