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自由のための運動
次にポーランドの変化に影響を与えた人物は、レフ・ワレサであった。教皇がポーランド人たちに、希望と変革に向かう勇気を与えてくれたと信じていたレフ・ワレ サは、教皇から与えられた刺激をもとに、1980年に独立自主管理労働組合連帯を設立する。これはソ連帝国の下で政府の統制を受けない最初の労働組合として 記録される。この連帯は 読み書きから労働条件まで、日常のあらゆる面を指示、命令する一党独裁国家を拒んだ、平凡な労働者たちが集まって組織された団体だが、驚くべきことに政府はこの組織の存在を認めるグダンクス協定に署名したのである。 連帯は短期間に急速に成長し、大規模な社会運動を展開し、ポーランドの労働年齢人口の3分の1である、役1000万人の人員をかき集めた。これをソビエト体制に対する重大な反逆と認識したソ連共産党書記長のレオニード・ブレジネフは、ポーランド人に連帯を鎮圧することを命じ、これに逆らった場合、1968年のチェコスロバキアのようにソ連軍によって占領すると脅かした。結果、ヤルゼルスキーは戒厳令を宣言し、連帯の活動は禁止され、ワレサやその他のリーダーたちは投獄されることになった。
しかし彼らは、国際貿易労組団体とカトリック教会の支援を受けて活動を続け、中央指導部の体制に代わり市民団体運動に入った。政府の弾圧にも負けす続連帯は健在を維持し、むしろその影響力を拡大させながら、1989年、ついに政府を彼らと交渉せざるを得ない状況にまで追いやった。その結果、多党制の自由選挙が実施され、連帯出身の候補者が議席の大半を占め、連帯が主導権を握る新しい政府が誕生した。やがてワレサは、第二次世界大戦以後、ポーランドで初めて行われた民主的選挙で、大統領に選ばれるのである。
共産党が協力して初の非共産党政府が立ち上がったことは、ソ連帝国下におけるひとつの企画的進展であった。このような状況下で、ルーマニアのチャウシェクス大統領は、ワルシャ条約機構加盟国の内政に、物理的圧力を加えるような干渉はしないことを表明した。そして、ポーランドにおける変革は、直ちにハンガリー、東ドイツ、チェコ共和国、スロバキア、ブルガリア、ルーマニアへと波及していった。
民主主義への移行過程において、ルーマニアを除くすべての国家が同じプロセスを辿った。それは市民の幅広い支持を受け、平和的な方法で変革がもたらされたことを意味する。このように、大衆の力の圧迫によって、執権共産政権は降参し、民主的移行に協力することで、党指導部は裁判や処罰を免れるのである。党における年配のリーダーの大半はすでに引退したが、共産党自体はそのまま存続し、マルクス・レーニン主義を放棄して新たな多党制民主体制に適応していった。
自由のための運動は、新聞やファックス、教会や劇場、作業場での集まり等を通じたフォーラム、ニュースなど、あらゆる手段を講じて情報を拡散して人々をつなぎ、共産党の一党独裁を覆そうと試みた。これらの運動は、根本的に共有する原則によって、改革を志向する共産主義者から自由至上主義者まで、様々な政治的スタンスを持つ人々で構成される幅広い連合低を形成していった。その共有された原則の中心には、永遠的真理や原則に根差した人間の尊厳と普遍的人権思想がある。チェコスロバキアの反体制連合である市民フォーラムのリーダーであり、最初の市民的プロセスによって選出されたバーツラフ・ハベル大統領は、これを「真実の生き様」と呼んだ。
*コリアン・ドリーム「道徳的権威と共産世界の没落」中から抜粋 |

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