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ヒョンジン・プレストン・ムン(文顕進)

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私の受け継いだ遺産

私の受け継いだ遺産

金日成主席との出会いの中で、父は公式的な礼儀に甘んじることはなかった。その代わりに、昔別れた兄弟に再び出会ったかのような固い抱擁を交わし、万寿台議事堂で行ったメッセージを想起させるように語りながら、核兵器開発の放棄、国際視祭団の入国を許可するよう促した。また、平和的統一のプロセスとして、離散家族の再会をはじめとする人道的交流の段階から一歩ずつ踏み出していくことを提案した。

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後日、父がプライベートの席で語られたことだが、父がそれまでしてきた多くの仕事の中で、この金日成主席との会談が最も大変だったそうだ。それは自分を殺害しようとまでした北朝鮮によって、自分の身の安全が脅かされたからではなかった。父が直面したのは、韓国の国や民に筆舌に尽くがたい苦痛を与えた人間をわだかまりなく抱擁するという挑戦だった。しかし父は、北朝鮮の扉を開くために自分個人の感情を消化するよう神から強いられたのを感じた。

全く違う価値観や世界観にもかかわらず、絶対的な確信と使命感によって、父は金日成主席の心を動かす道徳的権威を手に入れた。それは軍事力や経済的な誘引策では不可能だ。脱北者として初の大韓民国の国会議員になった趙明哲(チョ・ミョんチョル)議員に面会した時、北朝鮮で大臣級の位置にあった彼の父は、私の父と金日成主席が会談する場に同席していたという。趙議員が聞いた話によると、金主席は私の父に深い感動を覚え、心の門を開いたそうだ。また更にその後、金日成主席は参謀たちに「文牧師こそ北朝鮮の外で自分が信頼することのできる唯一の人物である」と語ったそうだ。私は他の証言を通して、この話を聞くことができた。

こうした一連の出来事は、当時成長の過渡期にあった私の経験となり、また私が受け継いだ父の遺産となった。父の人生、父に対する記憶、個人的に語ってくれた話、それらすべてが私の人生の中に沁み込んでいる。私は韓国人、そして韓国という国の運命と切り離すことのできない父の遺産を継承しなければならない責任を切実に感じてやまない。韓国が統一を果たし、歴史の運命を切り拓いた時、私の使命もまた果たされる。

*コリアン・ドリームの中から抜粋

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利他的で犠牲的な愛の力によってのみ平和が訪れる

彼ら自身が「国家の敵1号」指定した人物がモスクワに訪問したという報せは、ソ連の政府官僚らやメディアのみならず、韓国や民主主義陣営の国々にも衝撃的な出来事となった。彼らは父を政治的な観点から反共主義者とのみ意識しており、父の深い精神的哲学に関しては全く理解していなかった。しかし唯物論者であったゴルバチョフに会うことは、実は父の行動原則に完全に則ったものだった。父は日頃から、憎むべき恩讐までも包み込む、利他的で犠牲的な愛の力によってのみ平和が訪れると説いていた。まさにその愛の力によって、父は自分を批判するものや恩讐までも友としたのだ。そのような友情は愛の真理を土台とした時にのみ可能となる。真理こそが、一介の貧しい労働者から世界のトップリーダーに至るまで、相手を選ばす父が伝えようとしたものである。

1991年12月、父が北朝鮮入りして金日成主席と会見した時、世間はさらに驚いた。極と極で対峙する思想や父を殺害しようとしていた過去からして、この事件はまさに青天の霹靂だった。この出来事に対して、一部、ただ「大胆である」といったような表現がされていたが、それはその内幕をよく知らずに言う台詞だ。実際、父が無事に帰れるという保障はどこにもなかった。しかし祖国分断を解決するという父の意思は絶対的なものであり、神に誓った約束だった。そのため冷戦終息の折から、父は北朝鮮に説得を試みる機会を窺っていた。そしてこの時ついに自らの身の危険を顧みずに、迷うことなくその機会を摑んだのだった。

私が話しを交わした人たち、特にお年より世代は、私の父が南北関係の突破口を開いた先駆者であると言う人が多い。父は北朝鮮の万寿台議事堂で、指導者たちに対して終始断固とした威厳のある態度で2時間にわたる演説を行った。北朝鮮の未来の発展を願うなら、主体思想を捨てて神の存在を受け入れなければならないと、力強く訴えたのである。

これは外交的発言ではない。しかし父は、そうした変化によってのみ北朝鮮の指導者が国を救うとができるという自らの確信を堂々と語ったのだ。そのため父に同行した誰もが、二度と金日成主席に会うことはできないだろうと考えた。しかし大方の予想とは裏腹に、程なく金主席は咸興(ハムフン)にある自分の官邸に父を招待したのだった。1991年12月6日のことだった。

*コリアン・ドリームの中から抜粋

歴史的に重要な転換点

歴史的に重要な転換点

コロンビア大学で歴史学を専攻した私は、学部の卒業論文で1945年第二次世界大戦終戦から1950年の朝鮮戦争勃発までの朝鮮半島の状況について研究を行った。日本の敗北は朝鮮半島における殖民統治の終結という形で、朝鮮民族に独立国家建設への希望を与えたが、金日成はソ連と中国の支援を受け、1950年、武力による朝鮮半島の掌握を目論んだ。その結果、世界史におけるあらゆる分断がそうであるように、政治、イデオロギー、軍事、経済における過酷で凄絶な悲劇がもたらされた。私は1945年、解放の喜びと独立国家建設に対する希望が、左右のイデオロギー対立によって分断、そして戦争へと移り変わる一連の事件の展開経過を理解しようとした。

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私は大学入学以前の数年間、乗馬に専念し1988年のソウルオリンピックと、1992年のバルセロナオリンピックで、混合障害物種目の韓国代表として出場した。特にソウルオリンピックは、単なるスポーツ競技ということ以上に重要な意味を持つ大会だった。それは1976年以来、12年の歳月を経て、アメリカとソ連が共に出場したオリンピックだったからだ。それ以前、1980年のモスクワオリンピックではアメリカが出場を拒否した。すると1984年、ソ連とその同盟国もロサンゼルスオリンピックへの不参加を宣言した。こうして、スポーツを通して国家や理念の壁を越えて人類兄弟愛を具現化すべきオリンピックはその意味を失い、冷戦時代の衝突の場と化していた。

父はオリンピックを歴史的に重要な転換点と位置付けていた。12年越しに再び民主世界と共産世界を代表する国々が、共にスポーツ競技を行うようになったからだ。これは韓国の歴史、さらに世界史においても重要な歴史の1ページとなった。父は、オウルオリンピックが戦争の終息を告げる歴史的イベントとなり、向かうべき朝鮮半島の統一も、現実的に可能であると確信した。私は当時、太極旗(韓国の国旗)が描かれたユニフォームを着用しながら、その自負心と共に、歴史が変わり始めたという意識を持つようになった。

驚くべきことに、ソウルオリンピックの後にミハイル・ゴルバチョフソ連共産党書記長による改革(ペレストロイカ)、開放(グラスノスチ)政策は加速化し、その結果予想以上のスピードでソ連の解体と冷戦の終結が訪れた。

前述したように、父は共産主義者を憎んだのではなく、数百万の人の苦難と死を導いた、神の存在を否定する思想を憎んでいた。それゆえにソ連に変化が起こった時、無神論にとって代わることのできる、神を中心とした世界観が根付くことを強く熱望した。父は1990年4月、モスクワで国際会議を開き、その期間にゴルバチョフ大統領と会見する中で、唯物論を放棄し信仰の自由を保障するよう求めた。

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ソ連のメディアはこの出会いを重要なイシューとして取り上げた。モスクワニュースは「世界で最も影響力のある反共主義者であり、ソ連の一番の敵」であるという父に関する内容を詳細に報道し、今こそが和解のときであると論評した。その出会いの成果として、数十名のソ連の国家議員や官僚たちが交換訪問でアメリカを訪れ、民主社会の運営原理を学び、数千名のソ連の学生らもアメリカの文化、特にアメリカ式自由の基底となる原則について学習するようになった。

*コリアン・ドリームの中から抜粋
「南?北?どちらのコリアンですか?」

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私はアメリカの学校に通い、コロンビア大学で歴史を学んだ。私は歴史から多くの教訓を学び、近代世界に対する観点を理解するようになった。特にアメリカの建国を学び、新しい国をつくる基盤として、根本的原則と価値に、アメリカ建国の父たちが訴えたことの重要さを学んだ。私は、これらの原則がアメリカだけに当てはまるのではなく、普遍的なものだと悟った。それはすべての人類に当てはまることができ、どこにおいても人権と自由の保障の基盤になるものだ。これが、父が夢見ていた世界をつくる鍵だった。

こうした研究は私の観点を大いに豊かなものにした。私が今もコリアの後孫であるというのは否定できない事実なのだ。民族の歴史と運命に、自分の家族の歴史を通して結び付いている。アメリカに住むアジア人として、「どこの国の人ですか?」とアメリカ市民であるのに尋ねられる。躊躇なく「コリアン」と答える。自然に私は朝鮮人の、世界における業績に誇りを感じ、朝鮮人か金メダルや新記録をとれば喜びの声を上げる。

しかしアメリカに住む者として、故郷の痛ましい状況を頻繁に想起させられる。「コリアン」と答える私に対し、さらに「南?北?どちらのコリアンですか?」という質問が続く。彼らの立場から見れば、私の祖国はひとつではない。このような時、私はどのように答えればいいのか悩んでしまう。私は韓国で生まれたが、両親はいずれも北朝鮮出身である。では私の家族は異なったふたつの祖国を持っているというのだろうか。その度に私と同様に多くの韓国人は、自分が分断祖国の後裔であることを、骨身に沁みて痛感する。すべての韓国人は例外なくその事実から逃れることができない。

*コリアン・ドリームの中から抜粋
祖国の分断状況が朝鮮民族の未来を左右してはならない

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私は幼少時代、父の生き様を通して、祖国の分断状況が朝鮮民族の未来を左右してはならないということを学んだ。興南労働者刑務所から九死に一生を得て脱出した父は、足を骨折した監獄で弟子になった男性を自転車の乗せ、南へ向かった。釜山に到着してからは凡内谷(ポムネッコル)の山の斜面に泥と石で塀を積み上げ、米軍が捨てた団ボール紙で屋根を組んで小屋を建てた。私は父がその小屋の前で撮った、日焼けしたモノクロの写真を、大切に保管している。戦後の韓国で私の家族の歴史が始まった場所を忘れないためにだ。

ほかの避難民と同じように父の生活は貧しかったが、父の心の中は既に壮大な夢に溢れていた。分断された祖国を統一し、人類の平和に貢献するという朝鮮民族の使命を実現すると、自分自身と神の前に誓ったのだ。故郷への思いを通して、父は、創造主である神もまた、戦争や分断や憎悪のない、人類がひとつの家族のように生きる平和な世界を望んでいるという精神的な悟りを得た。

北朝鮮で悲惨な投獄生活を直接経験した父は、人倫に反する罪悪行為を正当化する共産主義思想こそが平和理想世界の建設における最大の障害になっていると確信した。共産主義が持っている問題の核心は、神の存在を否定することにある。神の存在を否定することは、魂の存在を否定することだ。魂の実体がないとすれば、人間の尊厳性や倫理原理、そして基本的人権と自由の根拠となる絶対的真理は、立つ足場を失ってしまう。それは人間を含めすべてのものを単なる物質に貶めることにつながっている。

共産主義は、人間の精神を物質作用の物産であると説明する。共産主義が人倫に反する罪悪行為を正当化できる理由がここにある。今日の国際社会において、共産主義はもはや敬遠された社会システムである。共産主義を固守している国家の大半で改革と開放政策による相当な変化が見られるというのに、北朝鮮の住民たちは未だ閉鎖的な共産党独裁体制の非人道的な状況下で生きている。

軍事力のみで共産主義に対抗することはできないと、父は理解していた。思想の過ちが明らかにされなければならなかった。そのため私の父は、共産主義思想の問題点を世界に知らせるため国際的な勝共運動を始めた。父は最高の反共運動家として知られているが、厳密に言えばこれは正確ではない。単純に共産主義に反対するのではなく、人権と自由が創造主である神から始まったとする原則に則った道徳的ビジョンを提示することで共産主義思想を敗北させたかったのだ。

父が推進していた勝共運動に参加していた青年メンバーたちは、韓国、日本、アメリカ内の大学キャンパスで、理論闘争を繰り広げながら、左翼グループの論理に対抗していった。これによって父と私たちの家族は、ソ連、北朝鮮、中国はもちろん、韓国、日本、アメリカの左翼グループの攻撃目標となった。アメリカに住んでいても南北の分断と、根底にある思想的闘争は、直接的に私の家族に影響を及ぼした。

*コリアン・ドリームの中から抜粋
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