乳飲み子抱えた会計士、九段を行く

月岡公認会計士事務所の代表のブログです

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こんばんは、月岡です。
 
今日から娘は2学期です。娘はあまり食事が好きではなく、おしゃべりが中心であまり食べません(果物とお菓子は大好きなのですが)。本日もダラダラと緩慢に食事をしていたらしく遅刻をしたとのこと、困りますね。
 
さて、久しぶりにとても面白い本を読みました。とても気に入ったので、筆者の他の著作もアマゾンで購入して、今読んでいるところなのです。その本の題名は宮本常一著『忘れられた日本人』です。著者(1907-81)は民俗学ではとても有名な方らしいのですが、恥ずかしながら私は全く存じ上げませんでした。たまたま、アマゾンのお勧めの本の中に入っておりましたので、購入したら大当たりだったという本です。
 
著者は戦前・戦中・戦後と日本全国の辺境を歩きながら、その土地の老人の話を聞き、長い年月を生きた人間の歴史を具体的に描くことによって、貧困や重労働という環境であっても、たくましくまた朗らかに生きる日本人像を明らかにした著書です(1960年初版)。
 
もはや現代の地方ではまったく見られなくなったであろうという話が入っております。最初に村の寄りあいのことが書いてあります。対馬の方では村で取り決めを行う場合は、みんなが納得いくまで何日でも話し合うのだそうです。夜も昼も関係なく、話し合って、眠くなって言うことがなくなったら帰ってもよく、とにかくそれぞれが思い思いのことを言うということですが、ふつうは3日以内に話がつくそうです。著者の区有文書を借りたいう申し出に対しても、夜昼なく2日間話し合いが行われたと記載があります。
 
興味深い話がたくさん記載されていますが、最も面白いのが土佐源氏の章でしょう。これは舞台にもなっているようですね。土佐の山中の橋の下の小屋に住む盲目の乞食の話です。元はばくろうしていたものの身の上話です。自ら女と牛のことより他は何も知らない、という男の一生は、人間というものを深く考えさせます。
 
また、筆者が土佐寺川の原始林の中の細い一本道で、重度のハンセン病患者に出くわすくだりがあります。筆者が「どうしてここまで来たのだと尋ねると、しるべを頼っていくのだとのことです。「こういう業病で、人の歩くまともな道はあるけず、人里も通ることができないのでこうした山道ばかり歩いてきたのだ」と聞き取りにくいカスレ声で申します。老婆の話では、自分のような業病の者が四国には多くて、そういう者のみの通る山道があるとのことです。」ハンセン病に対する不理解が患者にもたらした悲劇のひとつなのでしょうが、胸が痛みます。
 
こうした明治・大正・昭和の日本の農村・漁村の風景と人の営みが見えてくる、とても面白い本でした。

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こんにちは、月岡です。
 
久しぶりに書こうと思います。
 
もうすぐ娘も幼稚園です。月日の経つのは早いものです。毎日幼稚園に行くのを心待ちにしています。昨日も「今日、どこ行くの? 幼稚園行くの?」と言って催促していました。
 
さて、先日読み終えた本がとても面白かったです。
 
渡辺京二氏の「逝きし世の面影」という本です。600ページもある大著ですが、とても面白かったのですぐに読み終えてしまいました。この本は江戸時代に確立した日本の江戸文明を、当時の日本を訪れた外国人の目を通して我々に再発見させるというものです。そこには明治時代を経て、すでに死滅した文明があります。多くの外国人が感嘆し、賛美し、現代の日本人も驚きと憧れと郷愁をもって見つめ直す文明がありました。この文明を維持することは、歴史の流れの中においては不可能だったのは明らかですが、今の日本(3万人超という自殺者という事実や未来に対する不安が覆いつくしている雰囲気)を見るときに、この間に流れた150年〜200年という間の変化が、日本人に必ずしも幸せをもたらすものではなかったという事実を認めないわけにはいきません。
 この本は、第14章までありますが、その中で江戸文明の特色を、外国人の目を通して、各章毎に説明しています。江戸時代というと封建的で暗黒なイメージもあるですが、その時代を通して醸成された文明は決して暗い隠滅としたものではありません。第2章では「陽気な人々」という題で、外国人が見た日本人は非常に社交的で、陽気、無邪気であったとしています。ちょっと長い文章ですが、こんなことが書いてあります。
1872(明治5)年から76年まで司法省顧問として在日したブスケは猟や散策の途中、「暑さ、飢え、疲れのあまり」農家に立ち寄って、接待を受けることがしばしばだったが、いつも一家中から歓待され、しかも「彼らにサービスの代価をとらせるのに苦労した」という。「この性質たるや素朴で、人づきが良く、無骨ではあるが親切であり、その中に民族の暖かい気持ちが流れている」。(中略、駕籠かきについて)「彼らはあまり欲もなく、いつも満足して喜んでさえおり、気分にむらが無く、幾分荒々しい外観は呈しているものの、確かに国民のなかで最も健全な人々を代表している。このような庶民階級に至るまで、行儀は申し分ない」。』
 このような記述が、簡素な生活スタイル、礼節、労働、身分制度、子供、女性、信仰、風景等についてなされています。
 もはや存在しないという意味において、ここで記述されている情景はファンタジーにも思えます。ファンタジーは初めから空想のお話ですが、確かに存在し、そして時代とともに消えていったことを思うと、一抹のさびしさとともに懐かしさも感じるのです。
 

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 こんばんは。月岡です。
 
 今朝、娘がゴミ出しに着いてきてくれました。娘と手をつなぎながらいくゴミ出しは、いつもと違って楽しい心弾むものでした。
 
 久しぶりに堀紘一氏の本を読みました。つい最近出版された「日本の成長戦略」です。前回の「世界連鎖恐慌の犯人」以来ですから1年ぶりくらいでしょうか。民主党があまりにふがいないせいか、この手の本が最近よく出版されています。それらの本の中でも、突拍子もない内容を多く含んでいて面白く読みました。もちろん長期的にも実現可能性が低い提言もありますし、個人的には賛同できない箇所もいくつもあります。しかし、日本の現状はもはや直視できないほどひどい状況ですから、本来なら議員も役人も当然国民自身も、20年、30年先を見据えた思い切った行動をとらなければなりません。それにも係らず、いまだお金をばら撒く話ばかりがなされ(10年以上に渡って目の前にお金をばら撒き続けたにも係らず、さしたる効果も無く)、具体的な行動と不退転の決意を伴った長期的な方向性・戦略が示されることがありません。若者はどんどん内向きになり、しらけきっています。世界も、もはや日本を無視する(ジャパン・パッシング)のではなく、日本自体のリスク(デフォルトリスク)に怯えています。こうした状況に、この本が少しでも光を当てることができるとしたら、素晴らしいと思いますし、今の日本の現状を甘く見ている方がその現実を理解するだけでも意味があることと思います。
 
 この本の中で、そうかもしれないと思った箇所です。
『サービス業に頼ってGDPを伸ばしていこうとする考え方にはそもそも無理がある。そうした国家モデルでやってきたアメリカでは、貧富の差がますます拡大し、治安も悪くなってきている。
サービス業には、牛丼屋でもコンビ二でも、人間をロボット代わりに時給いくらで使おうという気持ちが強すぎる。この点、製造業は、派遣切りの問題はあるにせよ、労働者の経験や創意工夫を大切にし、人間として扱う伝統がある。
いまやコンビ二もさすがに飽和状態になっている。またインターネットや通販が発達したことで、デパートやスーパーも苦戦している。たとえば、楽天やアマゾンが良い例である。商品を売るのに店舗はいらないし、人的こすとも少なくてすむ。消費者にとっても、自宅にいながらにして注文ができ、配送料も無料のケースがあるから、お得感がある。
こうなるとサービス業が雇用を生み出すという論理が崩れてしまう。』
 
筆者は、だからこそソフトとハードをセットにした高付加価値製造業で勝負すべきだとします。私には、この高付加価値製造業がどれほどの雇用を生み出すことになるのかわかりません。しかし、中国、ベトナム等の労働コストの低いメーカーと勝負ができ、結果として、地方の高校生が地元で就職できるような雇用を生み出すには、そうした複合技にかけるしかないのかもしれません。
 

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こんばんは。月岡です。
 
連日、猛暑ですので、私は外に出るのが嫌になってしまうのですが、こういう日こそプール日和ですね。娘は今日もプールで遊んだようです。以前は、顔を水につけられませんでしたが、最近は頭を全部に水に沈められるようになったと得意げに、少し照れながら話してくれました。娘の日々の成長はうれしいの一言です。その成長を見るとき、私自身の成長はどうだろうか、日々成長しているだろうか、娘に負けていないだろうか、娘を教育できる姿勢・生き方であろうか、と問う良い機会になっています。
 
この前、山田正弘氏の『新平等社会』という本を読みました。初版が2006年ですから、読まれた方もずいぶんいらっしゃるでしょう。その前に書かれた『希望格差社』が格差問題の火付け役となりましたが、この『新平等社会』は、それらの格差に関する分析と筆者の見解、処方箋を示しています。日本の現状を理解する上で、非常に面白い本だと思います。筆者の処方箋として(これがこの本の肝だと思うのですが)、生産性の低い職種の人に対する支援と、就職期・子育て期の支援、様々なライフコースにおける対応した社会保険制度をあげています。それらの多くが企業の活動に一定の制限を設けるか、国や自治体が負担するか、という誰かがお金を負担することがほとんどです。しかし、そうしたことが、現在の国家・社会の財政状態の中で、どこまで可能なのか、ということでしょう。これらを着実に実施した場合にかかる費用総額には検討もつきませんが、国家予算総額を上げるか(これはすべきでないと私は思います)、他の支出を減らすしかありません。これ以上赤字を増やさないとすれば、他の支出を減らすしかなく、そのしわ寄せを許容できるかどうかということです。
極端な考えですが、超有名な経営コンサルタントは生産性の低い職種の人に対して国家が税金を使って、職業訓練したところで、他のアジアのハングリーで勤勉で、安価な労働力にかなうはずも無く無駄である、むしろ世界に打って出る可能性のある有能な若者に国家のお金は使い、彼らがお金を稼ぎ、税金を納めて、それで初めて生産性の低い者を扶養するべきである、というニュアンスの意見が出されていました。こうした考えも、一方で当然考慮すべきでしょう。
 
この本の中で、面白いと思ったのが以下の箇所です。
『日本の福祉社会では、高齢期の生活リスクへの対応は相当十分になった一方、「子育てしながら生活するリスク」に対しては、ほとんど対応をしてこなかった。エスピーニ=アンデルセンによると、日本は、高齢者への社会的サービス給付を1とした場合、若者への給付比率が、先進国中最低の0.18となっている(1992年の比較。アイルランドは1を超え、北欧諸国は0.8-1.0レベルである)。それゆえ、若者は、男性の収入が高くなるまで結婚を延期するようになり、初婚年齢が上昇し、未婚率が高まる。特に親の収入が高い女性と収入が低い男性に未婚者が集中する。その結果、マクロ的には、少子化が進行し、将来の社会保障制度を揺るがすのである。つまり、現在の「子育て期に生活するリスク」を回避する手段は子供を産まないことである。離婚や夫の失業のリスクを回避する方策は、結婚をしないことである。エスピーニ=アンデルセンは、この事態を少子均衡化と呼んでいる。しかし、子供の数が少なくなれば、、現役の働き手が徐々に減少することにつながり、結果的に、将来の「高齢期に生活するリスク」を高めることになる。これは一時しのぎの対応で、若者にとってはリスクの先送りにすぎない。』としています。もはや男性が働き、女性は専業主婦で、子供がいるという家族主義では、現代の高度にグローバル化し、成熟した日本社会では十分に対応できなくなっています。シングルマザーを含め育児期の女性が働いて生活費をかせぐことが容易である社会を推進しなければ、社会の成長発展・維持が困難になっています。その体制をサポートする社会福祉のあり方の整備が、日本の喫緊の課題の一つでしょう。
 
 
 
 
 

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こんばんは。月岡です。
 
本日、近所のお寺で町の盆踊り大会をやっておりました。娘が浴衣に着替えるものですから、私も大学時代の浴衣を久しぶりに着ましたが、帯の結び方を忘れていて、時間がかかりました。娘は、私が歌う東京音頭に気持ちよく踊ったりもするのですが、本番の盆踊りでは、私自身が踊れないせいか、娘も踊らずに踊りの輪を遠くから眺めているだけでした。娘と一緒に踊れたら楽しいでしょうね。これは今後の課題の一つです。
 
さて先日、諏訪哲二氏の『自己チュー親子』という中公新書を読みました。題名からすると、あまり内容もなく軽薄な本をイメージするのですが、実際はかなり硬派な本です。とても面白い内容の本でした。この「自己チュー」について、前書きで説明しています。
 
『「私」は本来、独りでは生きられない。ほかの人たちに敬意や同情心を持たず、「私」を超えた普遍や絶対に対する畏れの気持ちを持たず、「私だけの私」「自分だけの自分」で生きようとすると、破壊的な「自己チュー」な人間ができあがる。』として、このような「私」を作り上げてきた時代的、文化的、社会的な背景に触れていきます。その説明には、なかなか説得力があって、首肯せざる得ません。その中で、ニートや引きこもり、秋葉原事件の加藤青年にも触れていきます。その文章の後半に、オンリーワンを尊ぶ教育の危険性についてこう言っています。
 
『彼ら(引きこもり)の悲劇は、誰もが無限の可能性を秘めている、という絵空事が本気で信じられてしまっていることであり、かつ、その「誰も」と彼らの内的自己とがぴったりと重なってしまっていることである。したがって、就職などの現実生活で「自己」が破綻すればするほど、より強く「自己」の可能性(無限性)が信じられていく構造となっている。まだ「本当の私」に出会っていない、として、さらに「自己」の奥の奥へと入っていくことになる。
(中略)
もちろん、彼らは働きたいのである。しかし、社会やまわりや他人に妥協した働き方はしたくない。そういうことは「私」の真実に対する裏切りだと思っている。彼らに「自己」に合った仕事が見つからないから苦しんでいる。
 そして、「自己」に合った仕事などあるはずないのである。そういう当たり前のことを、まず再確認しないといけない。これが最初の一歩である。仕事と「自己」とは同じ水平にはいない、ということである。』
 
この「自己」に対する絶対的な感覚が、彼らを生きづらくしているのは明らかなのですが、そうしたことを当然とする教育を受けていて、その価値観が漫画やテレビや歌などのまわりの環境にあふれているために、その価値観にどっぷりと浸ってしまい、逃れられないのですね。
子供は皆、身勝手で全能感を持っているものですが、学校やアルバイトなどの社会体験を通じて、こうした感覚が是正されていくのが通常でしょう。しかし、昨今の学校や子供は、個人同士の比較を嫌がりますし、親も子供が傷つくのを嫌がりますから、絶対的な「自己」が残されたまま大人になってしまうことが多いのでしょう。これは、準備の出来ていない子供をいきなり社会という荒波に投げ入れるようなものですから、その拒絶反応が「引きこもり」として強く出てしまうということもあるのだと思います。本当に子供のことを思うならば、人間の可能性が無限だと無責任に言うだけではなく、その限界についても自分自身で触れ感じることのできる機会を設けてあげることも必要なのでしょう。
 

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