海鷲よ甦れ

東海の浜に残りし飛行基地 「接敵できず」の文字に涙す *筆者並びに親族は、防衛省・自衛隊関係者ではありません

全体表示

[ リスト ]

海軍に予科練の制度が出来たのは、1930年(昭和5年)で、それは横須賀海軍航空隊のなかであった。
よく若鷲の歌の中に「今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にゃ」という詞があるために、予科練発祥の地は霞ヶ浦と思っている人がいるが、そうではない。1930年(昭和5年)、海軍飛行予科練習生の制度が設けられ、横須賀海軍航空隊の一隅に開かれた「横須賀海軍航空隊予科練習部」が予科練の始まりであった。当時は、予科練といっても、甲種も丙種もない、乙種一本であったが、他に区別する必要もなかったので、乙種という言葉もなかった。予科練の制度が設けられたのは、近代戦における航空兵力の増強のために、飛行兵の養成が急務となったためである。

横須賀の貝山緑地には、「予科練誕生之地」の碑という碑や甲飛出身者が建てた碑もあるが、1937年(昭和12年)に横須賀海軍航空隊が建てた「海軍航空発祥之地」という碑があり、以下のように書かれている。

「明治四十五年始メテ海軍航空術研究委員会組織セラレ 十月地ヲ追濱ニトシ 
東西二百米南北六百米ノ地積ヲ劃シ 其ノ一隅ニ格納庫壱棟ヲ建設ス 即チ此ノ地ナリ
十一月二日海軍大尉河野三吉カーチス式水上機ヲ操縦シテ飛行ス同六日海軍大尉金子養三モ
亦ファルマン式水上機ヲ操縦シテ飛行ス 是実ニ帝國海軍飛行ノ嚆矢ナリ
今茲ニ碑ヲ当時ノ格納庫ノ跡ニ建テ以テ記念ト為スト言フ 
                       昭和十二年十一月二日  横須賀海軍航空隊」

イメージ 4

実は、横須賀は横須賀鎮守府のある海軍のメッカであるとともに、海軍航空発祥の地でもあった。1903年(明治36年)、ライト兄弟が動力飛行を成功させたが、その4年後の1907年(明治40年)には海軍軍令部の山本英輔海軍少佐は飛行機の将来性に注目した。その山本英輔海軍少佐の意見具申に動かされた斎藤実海軍大臣が、寺内正毅陸軍大臣とはかって1909年(明治42年)に創設したのが「臨時軍用気球研究会」。当初、航空機というと気球が第一に考えられたようである。飛行機の実際の飛行という意味では、陸軍は1909年(明治42年)12月にフランスから購入した、アンリ・ファルマン機で徳川好敏工兵大尉が、ドイツから購入したグラーデ機で日野大尉が、ともに代々木練兵場で初飛行に成功した。遅れをとった海軍は、艦船協力のための水上機にこだわっていたが、ようやく1911年(明治44年)に金子養三大尉をフランスに、翌1912年(明治45年)に河野三吉、山田忠治、中島知久平の三人の大尉をアメリカに派遣し、陸上機、水上機の操縦、整備を学ばせた。帰国に際して、金子大尉はモーリス・ファルマン式二機、河野大尉らはカーチス式二機の水上機を持ち帰った。

1912年(大正元年)11月2日河野大尉が横須賀追浜で持ち帰ったカーチス機で海軍としては初めての飛行を行った。同月6日には、金子大尉も飛んでいる。

水上機に着目した海軍は、すでに1912年(明治45年)6月26日に海軍航空術研究委員会を新設し、横須賀追浜に海軍水上飛行場を設置した。そして、1916年(大正5年)3月17日、海軍は海軍航空隊令を制定し、横須賀追浜の海軍航空術研究委員会を正式な海軍部隊とし、横須賀海軍航空隊が4月1日付けで誕生した。
この年からは、ファルマン式水上機は横須賀海軍工廠で製作可能となり、中島機関大尉、馬越中尉の共同設計、横須賀海軍工廠製作の複葉水上機が完成した。その中島知久平機関大尉は海軍を辞し、翌1917年(大正6年)6月に群馬県太田市に中島飛行機工場を設立、民間の立場から飛行機生産に乗り出した。

イメージ 1

一方、1916年(大正5年)イギリスに派遣され、航空母艦の発着艦訓練を視察した金子海軍少佐は、航空母艦、搭載機の準備を進言。陸軍も、1919年(大正8年)フランスからフォール大佐以下63名の航空術指導団を招き、指導を受けた。それは陸海軍双方に益するところ大であった。その際、金子少佐はフォール大佐の助言を受け、1920年(大正9年)霞ヶ浦に海軍初の陸上飛行場を選定した。金子少佐を含め、海軍が特に霞ヶ浦に目をつけたのは、霞ヶ浦の阿見が陸上機と水上機の両方の訓練が可能であることを認識していたからである。
1921年(大正10年)海軍はイギリスからセンビル大佐以下30名ほどの指導団を招き、霞ヶ浦と横須賀で水陸の飛行術を修得した。海軍は翌1922年(大正11年)、霞ヶ浦の阿見原に霞ヶ浦海軍航空隊を、霞ヶ浦湖畔には霞ヶ浦海軍航空隊水上班を開設した。

当時、飛行機の素材は全金属製でなく、木製の部分もあったが、ツェッペリン硬式飛行船、全ジュラルミン製のユンカース片持式低翼単葉機などが、ドイツで第一次大戦前に製造されて注目をあび、全金属製の飛行機の技術開発は世界的に進められた。海軍も東大で3年航空工学を学んだ和田操大尉を1922年(大正11年)5月ドイツに派遣、和田操大尉はドイツのロールバッハ技師に海軍の要望を伝え、ロールバッハ技師はドイツ国内で軍用機製作が禁止されていたにも関わらず、ドイツで部品を作り、デンマークで組み立てる方式で双発片持式高翼単葉式飛行艇を完成させた。この成果を元に和田大尉は帰国後、広工廠で九○式一号飛行艇(1930年に制式機として採用)を製作する。これは日本人の設計した最初の全金属機で、かつ海軍初の単葉機でもあった。

こうして横須賀、広島の海軍工廠で設計された海軍機が次々と国内生産され、艦上戦闘機も愛知、中島、三菱の各社で大正末から1927年(昭和2年)にかけて競争試作が命じられるなど、戦闘機や爆撃機の設計、試作が競争熱をもって行われた。こうして海軍航空は自立の道を進むことになる。

それでは、当時の飛行兵はどんな状況だったのだろうか。前述のように、横須賀と霞ヶ浦で飛行訓練が行われていた。海軍では飛行兵を養成する術科学校を持たなかったから、その養成自体、航空隊が担っていたわけだ。霞ヶ浦海軍航空隊には、横須賀海軍航空隊にあった予科練が、予科練習生の増員等の理由により、1939年(昭和14年)に霞ケ浦海軍航空隊に移転してくる。これが霞ケ浦海軍航空隊飛行予科練習部の始まりで、飛行予科練習部は、霞ケ浦海軍航空隊水上班の敷地を拡張し、翌年の1940年(昭和15年)に霞ケ浦海軍航空隊から独立し、土浦海軍航空隊が誕生した。
予科練が移転する以前の霞ヶ浦航空隊などにいた飛行兵は、予科練教育はなかった訳であるから、操縦講習などの術科講習員として教育を受けていたわけである。海軍の操縦術講習員制度は士官については、1912年(大正元年)から、下士官・兵については、1921年(大正9年)から発足している。元々海兵団で水兵としての訓練をうけて水兵であった者や機関兵だったものなども、そのなかにはいた。

下の写真は、1930年(昭和5年)頃の霞ヶ関海軍航空隊の飛行兵のものであるが、後の予科練などと違って、ジョンベラを着ている。また、同じジョンベラでも左側の袖章は二等水兵(1942年以降の上等水兵に相当)のもので、右側の二等飛行兵(1942年以降の上等飛行兵に相当)のものと異なる。

イメージ 2

写真に写っている二人は、友人なのだろう。穏やかな表情をしている。
上の写真の右側の人物と同じ人物であるが、下の飛行服を着たときの表情は、海軍によくいるタイプの顔立ちで、海軍飛行兵そのものである。

イメージ 3

(一番上の写真は戦艦三笠、二番目は霞ヶ関海軍航空隊の水上機:1930年前後の貴重なもの)

なお、霞ヶ関海軍航空隊には1929年(昭和4年)ドイツのツェッペリン飛行船が寄航、また1931年(昭和6年)にはリンドバーク夫妻が訪れており、その写真も小生保有しているが、長くなるのでこの辺とする。

この記事に

閉じる コメント(1)

顔アイコン

こんばんわ
拙著「テストパイロット」の主人公の森川勲さんは、大正13年志願、8期操縦練習生です。
よければ、ブログのぞいてみてください。

2010/11/15(月) 午前 0:15 testpilot 返信する

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事