海鷲よ甦れ

東海の浜に残りし飛行基地 「接敵できず」の文字に涙す *筆者並びに親族は、防衛省・自衛隊関係者ではありません

仏の加護は我にあり

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佐倉市にある海隣寺

佐倉市の海隣寺という寺院は、高台の上、佐倉市役所に隣接する場所にある。その高台は、今の国立歴史民俗博物館のある佐倉城跡からも程近く、佐倉城跡からは堀端の道路から分岐する坂道を登っていくかたちになる。

<現在の海隣寺>
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この海隣寺は、千葉山海隣寺といい、阿弥陀如来を本尊とする時宗の寺。相模国藤沢(神奈川県)の無量光寺の末寺であった。

その名前のとおり、かつて下総国の守護から戦国大名になった千葉氏ゆかりの寺であった。海隣寺というからには、海の近くにあったはずとお思いの向きもあろうが、事実この寺も海沿いである幕張にかつては存在した。幕張(昔の馬加)の海上に浮かんでいた金色に輝く阿弥陀如来像(海上月越如来)が引きあげられ、その像を安置するために、千葉常胤により鎌倉時代前期に建立されたと伝えられている。

室町時代の千葉宗家は、足利持氏の永享の乱以降勢力が衰退し、重臣である原氏や円城寺氏らが実権をめぐって相争う状況となっていた。また、当時の関東の覇者を目指す古河公方足利成氏に対する立場によって、千葉家中は真っ二つに分かれて対立していた。千葉氏の庶流である馬加康胤は、足利成氏を支持、1455年(康正元年)、千葉氏の宿老、原胤房らと共に、1千余騎の兵で、千葉宗家の千葉介胤直を討つべく千葉城を急襲した。からくも千葉介胤直は、その子胤宣や弟胤賢とともに千葉城を脱出し、千田庄の志摩城や多古城に拠ったが、多古城にいた胤宣は、馬加康胤の攻撃を受けて自刃、また志摩城に拠った胤直、胤賢兄弟も原胤房に攻撃され、志摩城を脱出後、落ち延びた先で自刃した。こうして、鎌倉の有力御家人から大名として成長していた千葉宗家は、一旦滅んだ。

千葉宗家の滅んだあと、庶流である馬加康胤が千葉氏の事実上の棟梁になったが、将軍足利義政の御教書を戴いた千葉氏の流れをくむ美濃の東常縁らによって攻められた。
1455年(康正元年)11月、東常縁は国分、大須賀、相馬をはじめとする千葉氏一族を率いて、馬加城を攻め、馬加康胤、胤持父子は、馬加を逃れたが、追い詰められ、馬加康胤は自刃し、胤持も戦死したといわれる。

<幕張には今やハイテクのビルが建ち並ぶ>
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その後の千葉家当主は馬加康胤の子岩橋輔胤が継ぎ、千葉宗家は輔胤以降も、馬加系千葉氏が相続していき、居城も千葉城から本佐倉城へ移された。

一方、馬加城を東常縁らによって攻められた攻防戦で生き残った馬加氏の家臣は、郷侍か帰農して農民となった。馬加の城下は、1455年(康正元年)の町家からの失火による大火で城下が焼け、さらに同年11月の戦火によって住民が退去、また馬加氏が千葉宗家を継いだため、菩提寺である海隣寺が佐倉に移るなど、一時は約1,500軒あったとされる町家が四散した。

どういう訳か、千葉氏宗家を継いだ馬加氏の居城である、馬加城跡は、跡形も残っていない。それは近年の開発のせいだけでなく、1455年に落城してから東常縁らによって破却されたか、ずっと後の豊臣秀吉の後北条氏への攻撃によって破壊されたのではないかと思われる。また、鎌倉時代から戦国時代前期までは馬加にあった海隣寺の跡は、畑のなかに木が茂っているだけで、そうと言われなければ分からないような場所となっている。1455年(康正元年)の大火とその年11月の戦火で城下は焼けたが、城も寺も今では相当想像力を働かせないと偲ぶことができない。

<佐倉連隊の碑>
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千葉宗家が馬加氏系となって、佐倉に移ってきた海隣寺は、今より寺も大きく、境内も広かったに違いない。佐倉連隊が置かれた佐倉城は、もとは千葉氏一族の鹿島氏が築いた小城だったようだが、千葉親胤、千葉邦胤という戦国後期の当主の命令で、大幅に拡充されようとした。しかし、千葉氏の時代には完成せず、その後1610年(慶長15年)に、徳川家康の命を受けた土井利勝によって築城が再開され、ついに佐倉城が完成した。海隣寺も、馬加氏系千葉氏が馬加→本佐倉→佐倉と拠点をかえるつど移り、法燈を継いできたようで、結局佐倉城は千葉邦胤の命により拡充されつつあったものの、千葉氏が本格的に移る前に戦国大名としては滅んだために、千葉氏が居城として栄えることなく、寺のみが安住の地を得た形になった。

今の佐倉市役所の裏は、かつての陸軍墓地。その後陸軍墓地はいったん掘り起こされ、忠霊堂として遺骨が一括保管されていたが、1971年(昭和46年)市役所建設に伴い撤去され、かわって忠霊塔が建設された。その右側には、「顕彰碑」と大書した黒い一枚岩の碑がある。

なお、海隣寺自体にも日清戦争当時、捕虜収容所が置かれた。その他、市街地には妙隆寺、勝寿寺に日露戦争時の捕虜収容所、教安寺には捕虜収容所事務所が置かれていた。


<旧陸軍墓地>
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一度、この旧陸軍墓地と海隣寺参道にある「故陸軍少尉試補鈴木賢君之碑」を見に行ったことがある。千葉氏の歴代の墓もそのときに見た。海隣寺の住職は、親切な方で、丁寧に千葉氏歴代の墓のある場所を教えてくださった。

その教えてもらった道順でいくと、旧陸軍墓地のさらに裏手の古い墓地に、千葉氏当主歴代の墓塔があった。それは、五輪塔や宝篋印塔の墓であるが、時宗の教えに則って千葉昌胤(法阿弥)、千葉利胤(覚阿弥)、千葉親胤(眼阿弥)、千葉胤富(其阿弥)、千葉邦胤(法阿弥)、海隣寺住持(其阿弥)などの菩提を弔ったものであることが分かっている。この中世の墓塔群は、1975年(昭和50年)9月17日市指定史跡となった。

<「故陸軍少尉試補鈴木賢君之碑」>
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参考サイト:
古城の丘にたちて (森湖城) http://homepage2.nifty.com/mori-chan/

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