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現在の自衛隊松戸駐屯地は、かつての逓信省中央航空機乗員養成所、のちの松戸陸軍飛行場の敷地一部を戦後自衛隊が利用したものである。 松戸陸軍飛行場は、終戦時には東西1.8km、南北1.4kmにおよび、西は現在の松飛台の住宅地、工業団地、さらに八柱霊園の一部まで、その飛行場の敷地であった。1940年(昭和15年)3月に民間の操縦士や整備員を養成する目的で設立された逓信省中央航空機乗員養成所の飛行場は、太平洋戦争の戦局悪化に伴い、「首都防衛」の必要性から、陸軍の飛行戦隊がこの飛行場に配備され、実質的に陸軍の飛行場となった。 1942年(昭和17年)4月18日にドゥーリットル陸軍中佐率いる米軍陸軍航空隊B25爆撃機16機が東京、名古屋、神戸を目標とした昼間爆撃は、日本本土への初めて空襲であったが、軍に限らず民間にも大きなショックを与えた。それから2年半たって、防空体制は、防空施設の整備強化や1943年(昭和18年)6月の工場家屋の疎開を含めた防空法改正などを行い、徐々に整えられていった。しかし、「超空の要塞」B29への防空対策としては、高射砲も迎撃戦闘機も質量ともに不足しているのが現実であった。 当時、1万m以上の高高度を飛ぶB29に対し、せいぜい6千mの高度が飛行最適高度として飛ぶようにしか設計されていない日本の戦闘機が立ち向かうのは無理があり、実際1万m以上の高高度にまで上昇できた機はわずかであった。これは「予期したる戦果を挙げざりし主原因は我の科学技術の立ち遅れ」と吉田師団長をして嘆かしめた、日本とアメリカの飛行機の設計・生産に関する技術、能力の格差に起因するものであった。その格差を思えば、日本陸軍は相当無理をして米軍機空襲への邀撃を行っていたのである。 その丸腰になった機体には、 帰らじと かねて思へば 梓弓 なき数に入る 名をとどむる という楠木正行の歌にちなんで、鏑矢が描かれた。楠木正行は言うまでもなく、楠木正成の子であり、父正成が湊川で戦死した後も、楠木家の惣領として南朝のために戦った。この歌は、四条畷に足利の大軍を迎え撃つべく正行出陣の折に詠んだ辞世の歌である。屠龍の機体に描かれた鏑矢は、歌に出てくる梓弓から足利の大軍に見立てられたB29の群れに向けて放たれ、生還を期せず迎え撃つとの決意を表しているのであろう。 ちなみに松戸の震天制空隊の屠龍に描かれた鏑矢は、赤と白の派手なものであったという。 しかし、何れにしても彼我の飛行機の能力の格差を埋める非常手段として、「体当り」による特攻が選択され、戦闘機から武装やパイロットの生命を守る防弾板を外し、脱出できるかどうか分からない「体当り」をさせたのであるから、これは乗員の生命を軽視した論外の策といわざるを得ない。その機たるや、損耗しても惜しくないような老朽機、要はポンコツであったのである。機体ごと、体当りする衝撃は、大変なもので、我々には想像もできない。ぶつかってから脱出することは、ほぼ不可能であるし、ぶつかる前に、乗っている機から脱出することも難しく、脱出できたとしてもパラシュートが無事に開くとは限らない。実際、体当りして生還できた人の方が少ない。 まして、技量未熟なパイロットも多かったのである。まだ操縦時間の少なく特別操縦見習士官や学徒出身者、少年飛行兵出身者、養成所出身の下士官などが殆どで、熟練したパイロットは少なかった。 技量未熟といえども、その志は想像もできないものであり、実際飛行第五三戦隊で特攻死した学徒出身の渡辺泰男少尉は現在の電機大を首席で卒業し、工兵として入隊後幹候となって航空兵科に転じたのだが、志操堅固な立派な人物だったらしい。東京荒川上空で、B29に体当り、一機を撃墜、自身の機はきりもみ状態になりながらも住宅地を避け、荒川に水中自爆した。 精神力のような優劣のつけ難いものはさておいて、彼我の科学技術力の差は、高高度戦の立ち遅れだけでなく、レーダーも日本側の夜間戦闘機には殆ど装備されておらず、その面でも日本側は遅れていた。米軍の空襲は夜間に行われることが多く、それに立ち向かう日本軍の戦闘機も夜間戦闘能力がなければならない。レーダーを備えていない日本陸軍の戦闘機は照空灯の明りが頼りで、照射目標を目視で接敵攻撃するというものであった。後に八木アンテナをつけた機上射撃用の電波兵器が試作され、屠龍2機に取り付けて実証実験したが、実用化に至らなかった。 これに関しては、以下のような証言がある(「続・陸軍航空の鎮魂」より、佐々利夫氏 [元陸軍飛行第五三戦隊付 大尉])。 「我が国では、夜戦用射撃管制装置の実用化にはほど遠く、20年の中頃やっと試作機・タキ二号が完成し、53戦隊の二式複戦2機の頭部を切断し重爆の機種のようにプラスチックの窓を取り付け、前方には八木アンテナを突き出した改装機に試作タキ二号機を搭載して実験を始めた。しかしながら期待どおりに作動せず、終戦までついに日の目を見ることができなかった。われわれは、最後まで、照空灯協力の原始的攻撃法によらざるを得なかった。従って、照空部隊の展開しない都市や、又展開しても天候不良のため照空灯の光芒が雲に妨げられる場合は攻撃が成立せず、敵機のじゅうりんに任せるほかなかった。」 非常手段に訴えた特攻隊の編成にも関わらず、B29を撃墜することは容易ではなく、B29の防御火器に阻まれ、また高高度性能に差があるあまり、接敵すらままならなかった。実際にB29に体当たりに成功しても、「超空の要塞」と呼ばれた堅牢なB29が墜落しないこともあり、B29の周りにP51などの戦闘機が護衛している場合には、武装をはずし丸腰になった震天制空隊ではなすすべがなかった。 こうして、震天制空隊は隊員の努力にかかわらず、期待された戦果をあげることができなかった。飛行第五三戦隊の震天制空隊は、1945年(昭和20年)4月まで6次にわたって編成され、11名の隊員のうち、8名が戦死した。 生き残りの隊員のうち、青山伍長は後に自衛隊にはいったが、青木少尉は戦後関西に住み、伝統工芸品の製造販売を行ってきた。内地の留守宅に屠龍震天制空隊の写真を置いて行ったため、それは無事に現在まで残った。今、鎌ヶ谷市が発行している文書に多くの震天制空隊の写真が載っているが、多くは青木少尉の残したものである。
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こんにちは。
八柱霊園は開園時点が77ヘクタール、現在は105ヘクタールあるそうですから、増加分のうち旧飛行場部分は多いのでしょうね。
どのあたりまでが飛行場用地だったところかはわかりませんが。
2009/9/14(月) 午前 7:24 [ 伊 謄 ]
お写真の保存状態が宜しいですね。
_______________ポチ〜
2009/9/15(火) 午後 2:27
つい最近「戦後のこと、、、」、
私の「知人:ご高齢のご婦人」の「伯父上」は
不都合に際して「高松宮邸内」へ逃げ込んでいた、、、
と、私へ語られました。
そして、高松宮から【いつまでも居ていいよ】と
言われたそぅです。
その「伯父上」は、この挙動不審行動を繰り返されたとの、
ことでした。
【犯罪を犯しても罪にならないと法制化】された
「天皇皇室家」が
【一般人を利用して、如何様にも犯罪を犯せますね】。
首相や大統領を
「言論機関」も「一般人」も、大いに批判可能ですが
▲【天皇と天皇の地位】、皇室家に関しては、
なぜ【崇拝語使用】の、所謂【宜しいお話】しか、
報道出来ないのでしょ?
これが【健全な社会でしょぅか?】
抜本的な【国の土台】が替わらずして、
________________どこが【戦前と違うのでしょぅか?】
2009/9/15(火) 午後 2:31
Solomonさん、コメントありがとうございます。
八柱霊園は考えてみればとんでもなく広い、霊園ですね。
戦争中は飛行場の戦闘機を隠す掩体壕がつくられ、そのまえから広い霊園の部分はあったのですから。多分、松戸市も全容は把握していないと思います。霊園自体の管理は東京都ということもありますが。
なお、戦後霊園になった部分は、おっしゃる通り、ほとんどが飛行場だったものです。
2009/9/21(月) 午前 0:00
紫音さん、コメントありがとうございます。
写真のほうは、戦後発行された本からとりました。本当は出典を書かねばならないのでしょうが。こういう写真で生写真も持っていますが、昔は一種のブロマイドのようなものがあったようです。ある水上飛行機の写真を二枚もっています。
また、もうひとつの天皇家に関する件は、おっしゃる通りです。小生は天皇制は廃止すべきと考えています。
2009/9/21(月) 午前 0:09
東京大空襲の際、第五三戦隊の屠龍が、B29を攻撃したことにより、
助かった民間人は、いるのでしょうか。?
2009/11/12(木) 午前 1:25 [ DVD BD ]
DVD_BDさん、コメントありがとうございます。
屠龍が、B29やP51などの米軍機の空爆、機銃掃射から、どれだけ民間の人たちを守ることができたか、難しい問題です。震天制空隊の隊員たちも首都防衛のためと思って飛び立ったのですが、逆に撃ち落とされたり、戦果をあげられないまま空しく帰った機もあったのです。
彼らの気持ちは良く分かりますが、東京大空襲で下町は焼け野原になったのですから、残念ながら衆寡敵せずということになりました。
2009/11/17(火) 午後 9:53