海鷲よ甦れ

東海の浜に残りし飛行基地 「接敵できず」の文字に涙す *筆者並びに親族は、防衛省・自衛隊関係者ではありません

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柏陸軍飛行場周辺に掩体壕があるとの話は、前からあった。しかし、それは長い間確認されていなかった。戦後60年以上たち、柏に展開していた陸軍の各飛行戦隊など飛行場関連の軍人たちは、次々と鬼籍に入り、飛行場が戦後米軍に接収されて、返還後も飛行場跡地が開発されていくなかで、飛行場の関連施設遺構にかんする記憶も風化してしまった。

どういうわけか、旧柏ゴルフ倶楽部敷地内に掩体壕跡と伝えられる箇所があり、それはこんぶくろ池の公園予定地内である。現在、柏市が管理しており、立入りが禁止されている。

國學院大學の上山教授を代表とする「手賀の湖と台地の歴史を考える会」では、柏市の許可を得て、その場所を含めて巡見を行った。掩体壕といわれる、その位置を地図上に特定する、また周辺を調べてみる、終戦後1,2年の航空写真と見比べて、その場所が航空写真でどうなっているかを調べるなどの活動を後日行った。

その後、航空写真でもうつっている税関研修所の東側の道が、柏陸軍飛行場の東誘導路といわれる道であることが分かり、その道路沿いに3基、さらに国道16号線を越えた香取神社近くに3基の掩体壕があることが踏査・実見によって判明した。

それらは、別に新たに「発見」されたものではなく、従前は野馬土手と思われていたのである。それが、航空写真に写っている掩体壕と場所が一致すること、また形状が印旛陸軍飛行場の掩体壕や茨城県小美玉市の百里原海軍飛行場とも似通っていることから、野馬土手ではなく掩体壕であることが分かったのである。
但し、一番初めに同会が調査した旧柏ゴルフ倶楽部敷地内の掩体壕跡と伝えられるものが、結局何であったかは判明していない。

<柏陸軍飛行場の略図>

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旧柏ゴルフ倶楽部敷地内の掩体壕跡といわれるものは、東側の土手は高さもあり、掩体壕の一部と考えておかしくないが、南西側は崩れた形で、高さも1.5mほどと低い。

東側の土手も、北のぼさ藪になっている部分で切れており、直下は平坦地、さらに一段低くなる。南西側の土盛の傍、土盛で囲まれた平坦地に、大木があり、太平洋戦争中にはすでに当地に生えていた模様。

これらの土手などを柏市に所蔵されている記録では、掩体壕跡としている。

ただ、箱形の掩体壕としても、三方の土手ではなく、二方のみであるのは、不自然で、掩体壕ではなく、別の構築物であったと思われる。仮に掩体壕であったとすれば、未完成であったか、一方が破壊されたと考えられる。


<旧柏ゴルフ倶楽部敷地内の伝・掩体壕跡の東側土手>

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同会は、自然保護団体の案内で周辺を探索し、柏市正連寺の国道16号線の西側にあって、こんぶくろ池に近い資材置場横の藪化している場所で、馬蹄形の掩体壕跡が確認できた。

形は五角形の一辺がない形であり、土手はかなり高く、高い部分では3mほどありそうであった。東側は藪がすごく、見通しが利かず、土手の距離を図るのもレーザー距離計などでは歯がたたず、巻尺で測るしかないように思われた。西側の土手の上にのぼり、向こうをみると、土手が城の土塁のように切り立っていることが分かった。

後日、その場所を1947年(昭和22年)の米軍撮影の航空写真等で確認すると、確かに該当する掩体壕があり、その前の道が誘導路であることも分かった。さらに自然保護団体の話や会員の実見により、税関研修所脇の庭球場近くの山林に一つあることが分かった。

瓢箪から駒のような話で、伝聞から掩体壕跡といわれる土手を調べたあとで、こちらももしかしたら掩体壕かもしれないとしてまわった後のほうが、正真正銘の掩体壕であり、その場所を昔の航空写真と照合したところ、米軍が1947年に撮影した航空写真にうつっている掩体壕と一致し、芋づる式に誘導路沿いの別の掩体壕も見つかって行ったのである。

同会は前述のこんぶくろ池近くの資材置場横のものとあわせて、踏査したところ、両者の中間の位置に、半壊しているが、土手の高い掩体壕があることが分かり、税関研修所脇から国道16号線まで都合3つ掩体壕があることが判明した。そして、国道16号線の東側の香取神社周辺に3つの掩体壕があって、合計6基の掩体壕が柏にはあることになった。

<誘導路沿いの掩体壕の土手にのぼる>

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https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/8c/4d/jyo_takuya/folder/946233/img_946233_51016027_1?20090927101556

♪楊芽を吹くクリークで 泥にまみれた軍服を洗う姿の夢をみた お国の為とは言いながら

ほんとにほんとに御苦労ね


民主党に政権がかわって、国民の大多数は無駄なダム工事を中止する政府の方針を歓迎した。しかし、既得権益にまみれた自民党土建族は、ダムのような利権をなかなか手放そうとしない。

地元住民を補償金で懐柔し、いまやダムは金まみれ、肝心な工事はいっこうに進んでおらず、このまま進めると、さらに膨大な金が飛んでいく。全体で8千億円かかるとされ、既に半分くらいの金を使っている。ところが工事の進捗は3割くらいであろう。予定より大幅に遅れているから、もしも完成した暁には8千億どころか、1兆円を越えるかもしれない。その金の殆どが、国民にとっては無駄遣い。そして、どこに金が流れるかと言えば、自民党支持層の金城湯池である土建屋にである。そして、その金の財源は国民の税金および、首都圏の住民の水道料金などである。前にかいたように、あの八ッ場ダムは治水にも何も役に立たない、無駄な公共事業の代表なのだそうだ。

それを今まで金を既に使っているからと、無駄遣いの上塗りをしようという、大澤群馬県知事、自民党群馬県連は銃殺刑ものである。日本人なら、恥を知れ!!
お彼岸の中日に来て、どうのこうのなどという寝言は、嫌がらせ以外の何物でもない。

もちろん、住民の生活には十分配慮する必要はあり、以下日経より引用した文にもあるように、八ツ場ダム反対派議員も、そう言っている。

''住民の生活再建「国が責任を」 八ツ場ダム反対派議員''

 民主党が建設中止の方針を示している八ツ場ダム(群馬県)をめぐり、関係都県のダム建設反対派の議員でつくる「八ツ場ダムを考える1都5県議会議員の会」が12日、都内で役員会を開き、国が責任を持って地元住民の生活再建に取り組むよう新しい国土交通相に要望する方針を決めた。

 民主党は建設中止の際には地域振興など地元住民の生活再建事業を行うとしており、要望は建設中止を前提とした。

 役員会で群馬の関口茂樹県議は「都議選、衆院選で無駄な公共事業をなくすという民意が示された。地元住民に配慮した生活再建をしっかり行うことが、後世に大きな負担を残さない唯一の道だ」と述べた。〔共同〕(12日 23:01) 


しかし、今の長野原町のやっているのは、反対派住民が前原大臣と直接話をしにきたのを、職員が制止して会わせないようにしたり、星河なにがしとかいう女のダム推進派町会議員を一般の住民にみせかけて、推進派の言い分をあたかも推進派の意見が町全体の意見のように言わせたりしたり、姑息きわまりない。それを知っているはずのマスコミも、反対派についてあまり報道せず、町長らが言っていることを一方的に放送しているだけで、真相が伝えられない。

地元では八ッ場ダムのことを「福田ダム」といい、かつて総理をつとめた福田赳夫たちが、その利権のために推進役となって始めた公共事業だという。その後も、連綿として自民党土建族が、利権を守るために暗躍し、福田赳夫の息子の福田康夫も親子二代で頑張ってきた。だから、自民党にしてみれば、こんな金の成る木を簡単に捨ててはなるもんかというわけだ。

可愛そうなのは、民主党の前原。別に国土交通相になろうと思っていなかったんだろうが、めぐりあわせでそうなった。そして、公約を実現しようと、政治家として当然の動きをした途端、大きな抵抗勢力にぶち当たった。

しかし、民意は前原国交相の味方である。どこかの道楽息子が、先祖の遺産も持ち出して遊び呆けているなら、それをやめさせるのが身内のつとめである。例え、その道楽息子の子分たちや、不良仲間がどうこう言おうと関係ない。

八ッ場ダムといい、JALといい、自民党政権では臭いものにふたをされていたのが、一気に出てきたんで、大変だろうが。ほんとに御苦労ね。




転載元転載元: 中年ジェット

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八ッ場ダムのマスコミ報道は、どうもおかしい。住民の話として、町長や観光協会の会長らの談話か声明のようなものが出てくるが、納得感がない。

なんで、ダムをつくることに、そんなにこだわるのか。もともと、地元住民は反対だったのではないか、と思っていたら、やはり今でも反対している人は多いのだそうだ。ところが、そういう人たちは表に出てこない。あるいは出ないようにさせられている。出てくるのは、町長ほか一部住民のみ。

小生は、もちろん地元の人間ではないが、いまさらダム建設など、この時代にははやらない、効率的でないし、電力は今や殆ど別な手段で供給されているし、今回の場合は治水にも役立たないようだ。また飲み水としては、東京をはじめ首都圏は、利根川からとっている場合が多く、場所によっては地下水によってそれすら不要な地域もある。

ダム建設推進派の論拠としては、今まで莫大な金を投じたのだから、今後も莫大な金を投じなければ、今までの投資が無駄になるというのがあるが、実にナンセンスである。

以下は、八ッ場あしたの会のHP http://www.yamba-net.org/ からの引用である。

八ッ場ダム建設事業の事業費は4600億円(水源地域対策特別措置法事業と水源地域対策基金事業も含めると、約5900億円)とされているが、ダム事業を継続すれば、ダム完成までに事業費の大幅増額は必至である。増額要因としては、東京電力への多額の減電補償(吾妻川の大半を取水している5つの発電所への発電減少分の補償)が残されていること、貯水池予定地の周辺で地すべりの危険性がある場所が22箇所もあるため、大滝ダムや滝沢ダムの例に見るように、新たな地すべり対策費が膨れ上がる可能性がきわめて高いこと、関連事業の工事進捗率がまだ非常に低く、完成までにかなりの追加予算が必要となる可能性が高いことなどがある。


また、7割出来ているという工事進捗も、実際にはずっと低く、さらに今までと同じくらいの追加が必要なんだそうである。

そのつけはどこに回っていくかといえば、首都圏の住民である。殆ど実効性のないダムの高額な負担金を水道料金などにのせられて払うわけである。まったく、不合理も甚だしい。

地元住民は、父祖伝来の土地を水没させることなく、今後の生活をしていけばよい。既に引っ越したひとなどへの補償は、国が行うべきであるが、その負担がダム建設を継続する場合の負担より大きくなることなどあり得ない。

周囲の住民にとっては、経済的負担が増え、治水ではキャサリーン台風並みの台風が来たら何の役にも立たず、おまけにダム湖の地滑りの危険が増え、その対策費用にも多くの金を必要とするダムなど、無用の長物である。

小生民主党を支持する者でも何でもないが、今回の民主、社民、国民新党連立政権の判断は正しいと思う。異を唱えるのも、結構であるが、まやかしでない、明確な論拠を具体的な数字をあげて説明してもらわねば納得できない。というより、今までの彼らの行動をみていると、裏に自民党がいて、民主党の前原に嫌がらせ半分で、物を言っているように見られても仕方がない。

ダム建設推進派など、国民は支持しない。ちゃんと、反対派住民も表にでて発言できるようにすべきである。ダム建設推進派、反対派でずっと長い間対立し、両者の感情面では、いろいろしこりがあるのは、同情するが。マスコミもなぜ、今も大勢いるらしいダム反対派に取材しないのか、不思議である。

参考サイト:八ッ場あしたの会  http://www.yamba-net.org/
参考ブログ:中年ジェット (城たくや氏)

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ある神社の本殿をみていたとき、ふとこれは古代の高床式建物の名残ではないかと思った。

そういう説はあるらしい。高床式建物は東南アジアで住居として使われていたものが、稲作などと一緒に中国を経て日本に伝えられたようだ。高床式建物は、日本では、弥生時代に穀物を蓄えるための倉庫として用いられたというが、奈良の正倉院などもまさにその形である。

出雲大社や伊勢神宮なども、古代のそういう建築を色濃く今に伝えている。高床式の発展形が、神社建築様式のひとつである神明造とも言われる。神明造に限らず、どの神社もそんな感じである。

<伊勢神宮>
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しかし、一般庶民は平安時代くらいまで、縄文時代からの延長で竪穴式住居に住んでいたらしい。特に東国においては。

一方、西国は百済などの使節が来たりするため、じべたに直に座って生活しているのを見られるのは具合が悪いとおもったのか、はやくから住居も高床にシフトしていったとか。

神社は、近世においては柱や梁、欄間などに彫刻を彫ったり、豪華に装飾されたが、基本の姿は変わらない。鳥居を立てるのも、多少形が神社によってちがうだけで、基本は一緒である。
そのルーツは、東南アジアであろうことは、まず間違いないだろう。

<柏市塚崎の神明社>
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昔の国粋主義者などは、そういう説には当然反対で、日本古来と主張するだろうが、もともと日本にあったとか、日本でつくられたものはわずかである。
およそ独自と思っていた日本語からして、ウラル・アルタイ語系のなかのアルタイ諸語の一つで、満州人のしゃべる満州語や韓国語と近い言葉なのである。原始時代は、国の境もなかったから、今のロシア方面からどんどん日本列島に人が入ってきたので、言葉ではそういう痕跡があり、稲作などは中国の長江流域から入って来て、中国大陸からは朝鮮半島を経て、あるいは東シナ海を渡って直接、いろんな文化や生活の手段がもたらされたため、神社の建築になるような建物の様式もはいってきたのだろう。

ああ屠龍震天制空隊

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現在の自衛隊松戸駐屯地は、かつての逓信省中央航空機乗員養成所、のちの松戸陸軍飛行場の敷地一部を戦後自衛隊が利用したものである。

松戸陸軍飛行場は、終戦時には東西1.8km、南北1.4kmにおよび、西は現在の松飛台の住宅地、工業団地、さらに八柱霊園の一部まで、その飛行場の敷地であった。1940年(昭和15年)3月に民間の操縦士や整備員を養成する目的で設立された逓信省中央航空機乗員養成所の飛行場は、太平洋戦争の戦局悪化に伴い、「首都防衛」の必要性から、陸軍の飛行戦隊がこの飛行場に配備され、実質的に陸軍の飛行場となった。

陸軍第一○飛行師団の当時の師団長であった吉田喜八郎少将が、その隷下各戦隊に戦闘機四機をもって、無線機と酸素のみで武装を外した、B29への体当り専門の特攻隊を編成させたのは、1944年(昭和19年)11月7日であった。飛行第五三戦隊でも、児玉戦隊長により青木哲郎少尉以下四名が特攻隊員に選ばれた。

1942年(昭和17年)4月18日にドゥーリットル陸軍中佐率いる米軍陸軍航空隊B25爆撃機16機が東京、名古屋、神戸を目標とした昼間爆撃は、日本本土への初めて空襲であったが、軍に限らず民間にも大きなショックを与えた。それから2年半たって、防空体制は、防空施設の整備強化や1943年(昭和18年)6月の工場家屋の疎開を含めた防空法改正などを行い、徐々に整えられていった。しかし、「超空の要塞」B29への防空対策としては、高射砲も迎撃戦闘機も質量ともに不足しているのが現実であった。

当時、1万m以上の高高度を飛ぶB29に対し、せいぜい6千mの高度が飛行最適高度として飛ぶようにしか設計されていない日本の戦闘機が立ち向かうのは無理があり、実際1万m以上の高高度にまで上昇できた機はわずかであった。これは「予期したる戦果を挙げざりし主原因は我の科学技術の立ち遅れ」と吉田師団長をして嘆かしめた、日本とアメリカの飛行機の設計・生産に関する技術、能力の格差に起因するものであった。その格差を思えば、日本陸軍は相当無理をして米軍機空襲への邀撃を行っていたのである。

<震天制空隊の屠龍>
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機体の横に描かれているのは鏑矢

その特攻隊は、東久邇宮防衛総司令官によって、「震天制空隊」と命名された。名前はそうそうたるものであるが、第五三戦隊の屠龍からも、機体を軽くするため機銃や搭乗員を保護するための防弾板が取り払われた。

その丸腰になった機体には、

 帰らじと かねて思へば 梓弓 なき数に入る 名をとどむる         

という楠木正行の歌にちなんで、鏑矢が描かれた。楠木正行は言うまでもなく、楠木正成の子であり、父正成が湊川で戦死した後も、楠木家の惣領として南朝のために戦った。この歌は、四条畷に足利の大軍を迎え撃つべく正行出陣の折に詠んだ辞世の歌である。屠龍の機体に描かれた鏑矢は、歌に出てくる梓弓から足利の大軍に見立てられたB29の群れに向けて放たれ、生還を期せず迎え撃つとの決意を表しているのであろう。

ちなみに松戸の震天制空隊の屠龍に描かれた鏑矢は、赤と白の派手なものであったという。

しかし、何れにしても彼我の飛行機の能力の格差を埋める非常手段として、「体当り」による特攻が選択され、戦闘機から武装やパイロットの生命を守る防弾板を外し、脱出できるかどうか分からない「体当り」をさせたのであるから、これは乗員の生命を軽視した論外の策といわざるを得ない。その機たるや、損耗しても惜しくないような老朽機、要はポンコツであったのである。機体ごと、体当りする衝撃は、大変なもので、我々には想像もできない。ぶつかってから脱出することは、ほぼ不可能であるし、ぶつかる前に、乗っている機から脱出することも難しく、脱出できたとしてもパラシュートが無事に開くとは限らない。実際、体当りして生還できた人の方が少ない。

まして、技量未熟なパイロットも多かったのである。まだ操縦時間の少なく特別操縦見習士官や学徒出身者、少年飛行兵出身者、養成所出身の下士官などが殆どで、熟練したパイロットは少なかった。
技量未熟といえども、その志は想像もできないものであり、実際飛行第五三戦隊で特攻死した学徒出身の渡辺泰男少尉は現在の電機大を首席で卒業し、工兵として入隊後幹候となって航空兵科に転じたのだが、志操堅固な立派な人物だったらしい。東京荒川上空で、B29に体当り、一機を撃墜、自身の機はきりもみ状態になりながらも住宅地を避け、荒川に水中自爆した。

精神力のような優劣のつけ難いものはさておいて、彼我の科学技術力の差は、高高度戦の立ち遅れだけでなく、レーダーも日本側の夜間戦闘機には殆ど装備されておらず、その面でも日本側は遅れていた。米軍の空襲は夜間に行われることが多く、それに立ち向かう日本軍の戦闘機も夜間戦闘能力がなければならない。レーダーを備えていない日本陸軍の戦闘機は照空灯の明りが頼りで、照射目標を目視で接敵攻撃するというものであった。後に八木アンテナをつけた機上射撃用の電波兵器が試作され、屠龍2機に取り付けて実証実験したが、実用化に至らなかった。

これに関しては、以下のような証言がある(「続・陸軍航空の鎮魂」より、佐々利夫氏 [元陸軍飛行第五三戦隊付 大尉])。

「我が国では、夜戦用射撃管制装置の実用化にはほど遠く、20年の中頃やっと試作機・タキ二号が完成し、53戦隊の二式複戦2機の頭部を切断し重爆の機種のようにプラスチックの窓を取り付け、前方には八木アンテナを突き出した改装機に試作タキ二号機を搭載して実験を始めた。しかしながら期待どおりに作動せず、終戦までついに日の目を見ることができなかった。われわれは、最後まで、照空灯協力の原始的攻撃法によらざるを得なかった。従って、照空部隊の展開しない都市や、又展開しても天候不良のため照空灯の光芒が雲に妨げられる場合は攻撃が成立せず、敵機のじゅうりんに任せるほかなかった。」

非常手段に訴えた特攻隊の編成にも関わらず、B29を撃墜することは容易ではなく、B29の防御火器に阻まれ、また高高度性能に差があるあまり、接敵すらままならなかった。実際にB29に体当たりに成功しても、「超空の要塞」と呼ばれた堅牢なB29が墜落しないこともあり、B29の周りにP51などの戦闘機が護衛している場合には、武装をはずし丸腰になった震天制空隊ではなすすべがなかった。

こうして、震天制空隊は隊員の努力にかかわらず、期待された戦果をあげることができなかった。飛行第五三戦隊の震天制空隊は、1945年(昭和20年)4月まで6次にわたって編成され、11名の隊員のうち、8名が戦死した。

この屠龍震天制空隊の最後の隊員は、隊長であった青木哲郎少尉と青山俊明伍長で、1945年(昭和20年)4月末、突然青木少尉は解任され、朝鮮軍飛行師団司令部に配属になった。沖縄特攻要員と思われたが、結局特攻には行かずに終戦を迎えた。青山伍長(終戦時軍曹)は、藤ヶ谷飛行場に移り、最後まで戦ったが、戦死を免れた。二人とも、結果としてあの非合理な特攻で、B29に体当りにすることはなかった。 

生き残りの隊員のうち、青山伍長は後に自衛隊にはいったが、青木少尉は戦後関西に住み、伝統工芸品の製造販売を行ってきた。内地の留守宅に屠龍震天制空隊の写真を置いて行ったため、それは無事に現在まで残った。今、鎌ヶ谷市が発行している文書に多くの震天制空隊の写真が載っているが、多くは青木少尉の残したものである。

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