海鷲よ甦れ

東海の浜に残りし飛行基地 「接敵できず」の文字に涙す *筆者並びに親族は、防衛省・自衛隊関係者ではありません

全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

イメージ 1

以下の集まりがあります。よろしければ、どうぞ。

---
「あの戦場体験を語り継ぐ老若の集い」

        戦場体験放映保存の会・ 戦場体験資料館

9月17日(木)正午開場 1時開演〜3時30分
                    日比谷公会堂 入場無料

あの未曾有の大戦に動員された旧日本軍兵士は789万人。戦没者310万人。
帰国できたのは310万人です。その後の記録は何処にもなく、当時の少年兵も80歳を超えました。今や健在者は40万人前後と推定されます。

「戦友よ、語ってから死のう」の思いを共有する戦友の皆様、日比谷で会いましょう。

 戦地の姿を伝える元兵士の体験談は間もなく消えてしまいます。
 これをビデオ・音声に撮り、あるいは手記を集めて、攻世代に遺すべきと「戦場体験放映保存」の運動を進めています。

 戦争の極地であった戦場が、ドラマや将軍、参謀、高級将校達の戦記物のみで伝わるのでは、真の戦場の姿を映し出すことは出来ません。名もなき庶民の声を残しておきたいのです。

今回の日比谷には、戦場体験を記録する活動に取り組む「孫」「子」世代が、西から東から集います。会社員や学生、映画監督、写真家、主婦など立場は様々。これが最後の集会です。是非参加して下さい。

とも
     戦友よ、語ってから死のう!


○日中戦争参加 95歳 兵士は弾が尽きても戦って死に、敵討ちと部落を   
         掃討した
○24時間召集 赤紙から一日での入営。職場、近隣、身辺すべて片付ける

○中国 人足にと苦力(クーリー)狩り、返してと泣き叫ぶ家族を追い払う

○初年兵仲間が自殺 泣きながら肉片を拾い集める

○ガダルカナルへ 米軍機240機に追われながら海岸に乗り上げる

○ニューギニア 半年で60キロの体重が36キロに

○レイテ沖海戦 駆逐艦が爆発、死体は手、指、顔が小さく白蝋のように

○レイテ島 泥田、こんな惨めな死に方は嫌だと言いながら皆死んでいった。

○ルソン島 行軍に倒れた水牛の生き血に命を救われる

○硫黄島 戦死者の臓物を被服に塗り付け死体のふり

○沖縄戦 足に迫撃砲弾、弾丸の雨と火炎放射器の下這いずり回る

○満蒙開拓義勇団 14才の志願、新天地に飛行機で迎えに来ると母を説得

○ソ連参戦 即席爆雷を抱いた特攻待機、戦車は一つ向こうの道を行った

○関東軍満州撤退 司令部、憲兵隊は、邦人を残し、8月20日内地上陸

○回天特攻 敗戦、混乱の特攻再開情報で111名が爆死する事故

○シベリア抑留 戦友は飯盒を握り冷たくなっていた

○遺骨収集 私がパンを分けなかった戦友の死が今も胸をえぐる

○昭和33年復員 看護婦、内戦の中国共産党軍・野戦病院へ徴用され13年


今年は若者も来るぞ

□「語らずに死ねるか!」        長尾英治監督

□「花と兵隊」 ビルマ未帰還兵に取材  松林要機監督

□主婦が記録するシベリア抑留      いしとびたま

□ミンダナオで戦死の父を探して     荻原光子

□戦争遺跡写真家            安島太佳由

□こども達が体験する戦争体験      フリースクール・
                    ドリームフイールド

連絡お問い合わせ
           戦場体験放映保存の会・戦場体験資料館
           電話03-3916-2664(火・木・土日祝)
           FAX 03-3916-2676
さる8月17日、長岡京の播翁、木村繁次郎様がおなくなりになっていたとのこと。享年90歳。

体調を崩された最近では、以前は活発に発信されていた木村繁次郎様からのメールを見ることもなかったのですが、どうされたか少し気になっていました。

突然の訃報に驚くととも、氏が生前活発にされていた活動を思い起こし、淋しく思います。

木村繁次郎様は陸軍航空兵出身で元下士官でしたが、終戦後はシベリアに抑留されて、大変なご苦労をなさいました。京都では、その体験を語る活動をずっと行い、またHPなども「男の居場所」といったコーナーを設けるなど、その年齢を感じさせないエネルギーと機知に富んだ方でした。

例えば、長岡京での講演会について、長岡京市民活動サポートセンターがブログで書いています。


その歯にきぬをきせない、舌鋒の鋭さでは、他の会員と衝突することもたまにありましたが、木村様のほうに道理があった場合ばかりであったと記憶しています。また、他の会員が衝突すると、喧嘩の仲裁みたいに、「まあまあ」とさとすようなことも。考え方は、どちらかといえば右寄りですが、小生のはなしには共感していただきました。

とにかく、この人は始終パソコンに向かっているのかなあ、と感じさせるほど、発信もはやく、そのボリュームの多さにも驚かされました。

海軍も陸軍も関係ない、惜しい人をなくしたもんです。

もと軍人でも、実際に野戦などにいった人がすくなくなり、じきに小生のような予科練出身者とか陸軍でも少年兵あがりだけになり、そのうちにそうしたひとたちもなくなっていくのでしょう。氏の貴重な体験談が、もう聞けないことは残念です。

氏のご冥福をお祈りします。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/5f/c5/aikokunohana1938/folder/1002545/img_1002545_33094834_0?20090825235315

本日は、お集まりいただきありがとうございます。只今、ご紹介のありましたXXであります。

公明党が、日本国憲法に違反した、いわゆる「違憲政党」であることは、皆さまご承知の通りであります。憲法や法令でさだめた要件をみたしていない以上、もはや公明党は政党の体をなしておらず、即刻解党すべきと考えております。

公明党の母体は、言うまでもなく創価学会ですが、これは一応東京都のほうに宗教法人としての届を出しております。しかしながら、その宗教法人としての要件については、おおいに疑義がある。そのあたりを現在徹底的に洗っておるわけでありまして、それについてはあとでいろいろ行動を起こそうとしております。ご承知のように、創価学会は日蓮正宗の信徒団体として出発し、その日蓮正宗からも絶縁されております。そして、日蓮正宗という母体を失い、お寺はないわけですので、通常私たちがおこなっているような、法事にお坊さんに来てもらって、お経をあげてもらうようなことも彼らはできないのであります。お葬式も、お寺ですることができない、そもそもご本尊の仏様がないのです。

そうした団体が堂々と仏教であるとか、宗教法人であるというのは、おかしいのです。それが一つ。

また、創価学会は、その政治組織として公明党をつくりました。60年安保の後、昭和39年ですが、「公明政治連盟」というのをつくり、それを「公明党」に改組しましたが、その創立者は池田大作であります。つまり、創価学会の会長になった男が公明党を創立したのです。

公明党は、今も昔も、創価学会員で構成されております。その資金も、一般のひとからの寄付もありますが、大方は創価学会から出ています。その創価学会は、一応宗教法人ですので、税金その他優遇されており、お金を集めやすい。その集めたお金が公明党の資金となって、人も創価学会員で活動している。これは、明らかに政教分離の憲法の考えに反してますよ。

(略)

ところで、創価学会、公明党がやってきたことで、大いに問題になったのが、言論弾圧事件です。昔、藤原弘達さんという評論家がいました。例の小汀利得さんらとテレビ番組をやっていた方です。

藤原弘達さんは、前から創価学会の問題点について調査されてきたのですが、昭和39年からは創価学会員の実証的調査を行いました。当然、創価学会の幹部たちからも聞いたりしているのです。その調査によって、元学会会員だった植村左内、隈田洋などが書いた創価学会批判の本が創価学会側の妨害で出版できなかったという事実を知ります。その後、藤原さん自身が、公明党や創価学会批判を書いたところ、創価学会からいろいろ妨害工作があった。そして、昭和44年には例の『創価学会を斬る』という出版妨害事件が起きます。

これには公明党委員長であった竹入義勝から依頼をうけた田中角栄元総理が、藤原さんに出版中止を求めてきています。そのころから、「自公共闘」があったのですね。(笑)

(略)

創価学会の盗聴事件は、日本版ウォーターゲート事件とでもいいましょうか、とにかく民主主義への挑戦ですね。彼らは、いまだに謝罪もしていない。まさにオレオレ詐欺の連中が罪の意識がないのと一緒です。盗聴が悪いことだと思っていないんですから。盗聴なんて、人権侵害もいいところですよ。
これは昭和45年に、共産党の宮本顕治委員長の家の電話が盗聴されていた事件で、創価学会の学生部の連中がやっている。でも、山崎正友という人物の単独犯行にされています。

最近でも、公明党の委員長までつとめた矢野絢也が、創価学会による言論弾圧、人権侵害について語っています。裁判所に提訴もしていますし、矢野絢也の手帳を創価学会が勝手にもちだしたことについても、最近はやりの「黒革の手帖」じゃないですが、似た名前で本を出しています。

矢野自身、創価学会の大幹部から公明党の委員長になったのですが、そういう人間すら都合が悪くなると、切り捨てて、今度は2億円創価学会に寄付しろとか、無理難題をいったり、脅迫したりする、これが創価学会=公明党なんです。

皆さん、今進めている運動を、一緒にやっていただく、あるいはご支援いただくことによって、日本の未来を少しでも明るくしようじゃありませんか。

(以下、略)

---

上記は、先日都内某所で行った勉強会でのお話です。だいたい、書き取りました。あー、しんど。

ちなみに、お話であった矢野絢也さんの去年6月の記者会見の様子がYouTubeに出ていました。以下に掲載します。



転載元転載元: 愛国の花−花ちゃんブログ

イメージ 1

軍歌「橘中佐」は、きわめて長大であるが、まことに臨場感あふれ、リアルに描かれている。それは、歌の作者が、生前の橘中佐と懇意で、よく知っていたということによるところが大きい。また、明治期の軍歌の一般的な特徴として、具体的な描写がされているということもある。

橘中佐は、名を橘周太といい、長崎県の出身。日露戦争、遼陽の戦いで首山堡の攻撃中に戦死。その時、陸軍歩兵第三四連隊第一大隊長で陸軍歩兵少佐であったが、死後特進して中佐。橘周太は以前は名古屋陸軍幼年学校の校長、その前は東宮武官などをしていて、いわば教育者のような人であり、人格円満にして教育熱心であり、薫陶を受けて戦死を悼む人多く、のちに銅像が建立された。橘中佐が大隊長を務めた歩兵第三四連隊は、通称「橘連隊」と称せられた。陸軍の橘中佐と海軍の広瀬中佐は、日露戦争での戦死後軍神とされ、大いに宣伝された。

この「橘中佐」の場合、彼我の陣営の様子、日本軍の総攻撃の命令、その後の戦闘、橘中佐が銃弾に倒れるまでの経緯と倒れてからの様子、救護する軍曹の活躍など、細かく描かれており、眼前にその光景が浮かぶようなのである。

この「橘中佐」が軍歌の中で好きだという人は多く、橘周太が東宮武官のときに直接教育した大正天皇がその一人であった。

橘中佐 

作詞:鍵谷 徳三郎 

作曲:安田 俊高  
 
(上)

一、 
遼陽城頭夜は闌(た)けて 
有明月(ありあけづき)の影すごく 
霧立ちこむる高梁の 
中なる塹壕声絶えて 
目醒め勝ちなる敵兵の 
胆驚かす秋の風 

二、 
わが精鋭の三軍を 
邀撃せんと健気にも 
思い定めて敵将が 
集めし兵は二十万 
防禦至らぬ隅もなく 
決戦すとぞ聞えたる 

三、 
時は八月末つ方 
わが籌略は定まりて 
総攻撃の命下り 
三軍の意気天を衝く 
敗残の将いかでかは 
正義に敵する勇あらん 

四、 
「敵の陣地の中堅ぞ 
まず首山堡を乗っ取れ」と 
三十日の夜深く 
前進命令忽ちに 
下る三十四聯隊 
橘大隊一線に 

五、 
漲る水を千仭の 
谷に決する勢か 
巌を砕く狂瀾の 
躍るに似たる大隊は 
彩雲たなびく明の空 
敵塁近く攻め寄せぬ 

六、 
斯くと覚りし敵塁の 
射注ぐ弾の烈しくて 
先鋒数多(あまた)斃るれば 
隊長怒髮天を衝き 
「予備隊続け」と太刀を振り 
獅子奮迅と馳せ登る 

七、 
剣戟摩して鉄火散り 
敵の一線まず敗る 
隊長咆吼躍進し 
卒先塹壕飛び越えて 
閃電敵に切り込めば 
続く決死の数百名 

八、 
敵頑強に防ぎしも 
遂に堡塁(とりで)を奪いとり 
万歳声裡日の御旗 
朝日に高くひるがえし 
刃を拭う暇もなく 
彼れ逆襲の鬨の声 

九、 
十字の砲火雨のごと 
よるべき地物更になき 
この山上に篠つけば 
一瞬変転ああ悲惨 
伏屍累々山を被い 
鮮血漾々(ようよう)壕に満つ 

十、 
折しも喉を打ちぬかれ 
倒れし少尉川村を 
隊長躬ら提(ひっさ)げて 
壕の小蔭に繃帯し 
再び向う修羅の道 
ああ神なるか鬼なるか 

十一、 
名刀関の兼光が 
鍔を砕きて弾丸は 
腕をけずりさらにまた 
つづいて打ちこむ四つの弾 
血煙さっと上れども 
隊長さらに驚かず 

十二、 
厳然として立ちどまり 
なおわが兵を励まして 
「雌雄を決する時なるぞ 
この地を敵に奪わるな 
とくうち払へこの敵」と 
天にも響く下知の声 

十三、 
衆をたのめる敵兵も 
雄たけび狂うわが兵に 
つきいりかねて色動き 
浮足立てし一刹那 
爆然敵の砲弾は 
裂けぬ頭上に雷のごと 

十四、 
辺りの兵にあびせつつ 
弾はあられとたばしれば 
打ち倒されし隊長は 
「無礼ぞ奴(うぬ)」と力こめ 
立たんとすれど口惜しや 
腰は破片に砕かれぬ 

十五、 
「隊長傷は浅からず 
暫しここに」と軍曹の 
壕に運びていたわるを 
「否みよ内田浅きぞ」と 
戎衣(じゅうい)をぬげば紅の 
血潮淋漓迸(ほとばし)る 

十六、 
中佐はさらに驚かで 
「隊長われはここにあり 
受けたる傷は深からず 
日本男子の名を思い 
命の限り防げよ」と 
部下を励ます声高し 

十七、 
寄せては返しまた寄する 
敵の新手を幾度か 
打ち返ししもいかにせん 
味方の残兵少きに 
中佐はさらに命ずらく 
「軍曹銃をとって立て」 

十八、 
軍曹やがて立ちもどり 
「辛くも敵は払えども 
防ぎ守らん兵なくて 
この地を占めん事難し 
後援きたるそれまで」と 
中佐を負いて下りけり 

十九、 
屍ふみ分け壕をとび 
刀を杖に岩をこえ 
ようやく下る折も折 
虚空を摩して一弾は 
またも中佐の背をぬきて 
内田の胸を破りけり


みられるように、十一番で「名刀関の兼光が 鍔を砕きて弾丸は 腕をけずりさらにまた つづいて打ちこむ四つの弾」と最初五発腕などに被弾したことが分かり、十四番ではまた炸裂した砲弾の破片が腰にあたっていた、十九番ではさらに一弾被弾し、 当たった弾丸が橘中佐の背を貫通して、橘中佐を背負っていた内田軍曹の胸を破ったとか、被弾した数や負傷した部位まで特定できる正確さである。

作詞者の鍵谷 徳三郎 は、橘周太が名古屋の幼年学校校長だったときに、文官教官であり、心底から橘周太に傾倒していたのである。その思いが、かくも長大、精緻な歌詞をつくらしめたような気がする。

この歌は、のちに静岡の陸軍歩兵第三四連隊の隊歌となった。





なお、上記の軍歌の虚実や、中国国歌が日本で出来た話、「慰安婦」問題など、今までブログに書いたり、最近考えたりしたことを、
「千葉県の戦争遺跡」http://www.shimousa.net/
に「資料室」というメニューを追加し、掲載しました

(写真は、「資料室」の表紙に使ったものです。ある神社を参拝したときの某海軍大尉)

イメージ 1

ブログ記事ではなく、自分のHPのご紹介です。

自分のHP「千葉県の戦争遺跡」に、「『首都防衛』の飛行場」として、柏陸軍飛行場と印旛陸軍飛行場の記事を掲載しました。

URLは、http://www.shimousa.net/  です。

印旛陸軍飛行場は草深(そうふけ)飛行場とも呼ばれていましたが、資料が自分の自宅周辺で手に入るものがほとんどなく、印西市に直接行くしかありませんでした。

印旛飛行場に駐屯していた陸軍飛行第二三戦隊の戦友会が、回想録のようなものを出してくれており、また逓信省の印旛地方航空機乗員養成所の元生徒有志の方の回想録もあり、助かりました。

また、森―CHANが印西市教育委員会との折衝やら、やってくれたので、印旛のほうは思ったよりスムーズにいったかもしれない。

あとは、松戸、藤ヶ谷、下志津飛行学校、八街。

できれば、海軍の木更津、茂原も。

(写真は、現在の印旛地方航空機乗員養成所 本館跡 〜開発中で椎の木が一本残るだけ)

.
mor*_ta*eo*s*u
mor*_ta*eo*s*u
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

ブログバナー

Yahoo!からのお知らせ

検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

いまならもらえる!ウィスパーうすさら
薄いしモレを防ぐ尿ケアパッド
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
いまならもらえる!ウィスパーWガード
薄いしモレを防ぐパンティライナー
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事