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白井市富塚の西輪寺には、「護国の英霊」と刻まれているが、まだそれほど古くない戦没者慰霊碑がある。12名のかたの戒名と俗名が刻まれている。昔は純農村だったと思うが、20軒かそこらの小さな集落で、12名もの戦死者というのは、非常に多い人数である。西輪寺の檀家は、もともと7軒くらいだったのだから、7軒が母数なら1軒に2人くらいの勘定である。「護国の英霊」という石碑の文字が気に入らないが、亡くなった方はどんな思いで死んだのだろうか。 西輪寺は、急雨山圓乗院西輪寺という天台宗の寺。阿弥陀如来を本尊とするが、聖徳太子を祀っており、境内外に太子堂が二つある。 <白井市富塚の西輪寺> 開創は戦国時代に今の柏市藤ヶ谷を領したという相馬氏で、1593年(文禄2年)の創建という。その相馬氏は千葉氏の分流で、相馬御厨一帯の領主となった相馬師常の子孫、その本家は南北朝のころ東北へ、下総に残った相馬氏のなかでも本流は守谷城主となったが、柏市藤ヶ谷にも下総相馬の分流がいたとのことで、現在も相馬姓の家が散見される。その戦国末期の当主が藤ヶ谷から富塚まで勢力をのばしたらしく、それでこの西輪寺という天台宗の寺を建てたわけだ。 藤ヶ谷にも、登慶山如意輪寺持法院という寺があるが、これも天台宗。こちらは古く、1223年(貞応2年)に、相馬氏が観音堂を建てて観音像を安置したのがはじめという。なぜか、この寺は徳川将軍家と関係があったらしく、「三葉葵」の紋章が観音堂に見られる。 富塚の西輪寺の方は、やはり太子堂が目をひく。寺の境外にある太子堂は、少し離れた場所で、寺からみれば北側の台地下にある。 <西輪寺の太子堂> なぜ、二つもの太子堂があるのかは分からないが、太子信仰は守谷や印西にもあり、別に当地にあっても不思議ではない。 戦時中、この白井市富塚にも学校や寺に分宿する形で、陸軍歩兵一個中隊が駐屯していた。本土決戦に備えて、こういう田舎にも軍隊は入りこんでいた。松戸の千駄堀もそうである。ここでは、山林のなかでも台地下の水辺に近い場所に軍馬を二十頭ほど飼っていたそうだ。ほかに山砲隊もいた。 兵隊は貧しく、また街道に出てタバコ屋まで行くのも大変なので、近所の旧家の人がタバコの葉を紙に巻いてあげたそうだ。兵隊たちは、大変喜んだらしい。 傑作なのは、終戦のショックからか、終戦時にその中隊長が指揮刀を宿舎にしていた小学校に忘れていったこと。さすがに小学校に刀を置いておく訳にはいかず、近所の旧家が引き取り、さらにそこから郷土資料館に寄贈されたらしい。 こんな片田舎でも、戦争中はいろいろあった。 |
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2009年05月09日
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