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白井市富塚の西輪寺にある、「護国の英霊」という戦没者慰霊碑であるが、これは1955年(昭和30年)9月に建立されたものである。石碑の表には、12名のかたの戒名と俗名が刻まれているのは前から分かっていたが、二度目にきた時にその裏にまわってみると、位階勲等、軍隊での地位、戦死場所、年月日、遺族との続柄が、一人一人書かれていた。 陸軍兵長 昭和19年 4月26日 比島沖に於て輸送船を襲われ戦死 行年28才 陸軍上等兵 昭和19年 6月18日 第二陸軍病院に於て戦病死 行年23才 陸軍兵長 昭和19年 8月17日 ニューギニア方面に於て戦病死 行年30才 陸軍兵長 昭和19年 10月15日 支那湖南省●山県に於て戦病死 行年24才 海軍整備兵長 昭和20年4月14日 比島ピナッポ山北方に於て戦死 行年36才 陸軍兵長 昭和20年 5月13日 比島ミンドナオ島に於て戦死 行年23才 陸軍兵長 昭和20年 5月2日 沖縄本島内間方面に於て戦死 行年30才 海軍水兵長 昭和20年 7月12日 比島イザベラ方面に於て戦死 行年23才 陸軍兵長 昭和20年 8月30日 支那の中部方面に於て戦病死 行年24才 陸軍兵長 昭和20年 9月20日 パラオ島兵站病院に於て戦病死 行年30才 陸軍兵長 昭和20年 9月25日 支那安徽省鳳陽県石門にて戦死 行年22才 陸軍曹長 昭和20年 9月30日 支那新楽県新楽方面に於いて戦死 行年28才 (上記碑面には氏名なども当然書かれていたが、何かさわりがあるかと思い、あえて伏せた。また地名は刻まれていたままである) 俺もこんな見落としをするようになったかと思う反面、よくぞこの細い碑の裏に細かく彫っていてくれたとも思った。 やたら兵長が多いが、これはおそらく長い間野戦に出されていて、すんなり満期除隊とならず、部隊のもの皆が古兵となって、軒並み昇進させたのかもしれない。もっとも、死後特進しているだろうから、もとは上等兵だったのだろうが、それにしても古手が多かったものと見える。海軍整備兵長は36才だが、この人は後備兵か何かだったのかもしれぬ。 不思議なことに、終戦後の戦死者、戦病死者が四柱もある。1945年(昭和20年)8月30日と同年9月の戦死、戦病死である。これは、どうしたことか。有名な例では、小野田元少尉とともに、ルバング島にいた小塚金七元一等兵は、小野田元少尉らととも日本の敗戦を知らず、戦い続け、フィリッピン警察軍と交戦し、戦死した。そういう特殊な例はあるが、外地といえども8月下旬には日本の敗戦を各部隊は知らされていたはずである。 あるいは、その終戦直後に戦傷がもとでなくなったというのであろうか。もはや、分からないかもしれんと思うが、できればどういう事情か知りたい気がする。 |
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2009年05月19日
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